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第4章 群像
怨火の来歴
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力強く大きな翼を持つ二羽の銀嘴鷲は四人が徒歩で苦労して踏破した道のりを瞬く間に通過し、大森林に到着した。
開け放された大門の前の広場には見張り番からの銀嘴鷲の接近の報告を聞きつけた原礎たちがすでに大勢詰めかけていて、上空を見上げながら二羽の鷲が着陸するのを今か今かと待ち受けていた。そしてとうとう鷲が開けた草地に降り立ち、乗っていた者たちが順に降りてきて、その中に永遠の姿を見つけると皆歓声を上げて我先にと駆け寄った。
「お帰りなさい、永遠!」
「永遠ちゃん、よく無事で…!」
「早く早く!永遠姉様のご帰還よ!」
「永遠姉様、永遠姉様ーっ!!ちょっと、どいてよっ」
「みんな、ただいま。心配かけてすまなかったね」
当代きっての偉材であり、すべての同胞たちの尊敬と人気を集める永遠は早速熱烈な出迎えを受けている。ただ氷雨の族の大多数は界を囲んで旅の疲れをねぎらっている。久遠のところにも同じ瑞葉の同胞が数人やってきて優しい声をかけてくれたが、優秀で期待の大きい永遠と界の比較にはならなかった。そのうち思い出したようにさらに数人が近づいて話しかけてくれた。
「久遠、静夜さん、永遠を連れて帰ってきてくれてありがとう。本当にお疲れ様」
「二人とも、慣れない旅で大変だっただろう。どうかゆっくり休んでおくれ」
「うん。…ありがとう」
久遠はぎこちない笑顔を返し、それからもう一羽の鷲の側に立っている静夜の様子をそっと窺った。彼は同胞たちに取り囲まれて半ばもみくちゃにされている永遠を安心したような穏やかなまなざしで見つめていて、久遠の胸はちくりと針で刺されたようだった。雲居の社で二羽の鷲に分乗するとき静夜は迷わず永遠を後ろに乗せてしっかりと自分につかまらせ、先ほど降りるときもふらついて転ばないよう甲斐甲斐しく抱き下ろすなど、明らかに永遠を気遣っている。そうせずにいられない彼の心情も理解はできたが、彼の頭の中は姉への心配と贖罪の気持ちでいっぱいなのだと思うと複雑な気分だった。
(今の静夜が守りたいのは僕じゃなくて姉さんなんだ…)
二人が距離を保ったまま再会の喜びの熱が冷めるのを待っていると、皆から少し遅れて彼方と麗が姿を現した。二人はまず永遠に話しかけて二言三言言葉を交わしてから久遠と静夜のところにやってきた。彼方の表情は彼らしく控えめながら、瞳の奥はやはり嬉しそうだ。
「お帰り、久遠、静夜くん。待っていたよ」
「ほんと、物騒な人間たちの噂があって心配してたのよ…でもよかった。二人も、永遠ちゃんも界ちゃんも無事で」
「…う、うん…」
久遠はどきりとして隣の静夜の反応を気にしたが、静夜は黙って小さく会釈しただけだった。この両人も他の皆もまだ静夜の過去や正体を知らない。もしそれらの事実が周知されたら静夜がどんな目に遭うか、久遠は不安でしかたがなかった。
彼方と麗は二人の間に漂うよそよそしい空気に少し不思議そうに顔を見合わせたが、彼方はすぐに気を取り直し、目尻を下げて久遠に微笑みかけた。
「すっかり見違えたよ、久遠。旅先ではずいぶん頑張ったそうじゃないか。君なら必ずやれると私は信じていたよ」
「ありがと、彼兄」
「うん。ところで静夜くん、君の方はどうだい?記憶は…何か手がかりは見つかったかい?」
「はい。記憶は…戻りました…」
「まあ!本当?それはよかったじゃない!」
「それで、実はそのことで宇内様に大切なお話があるんですが…その…」
自分からそう言い出したものの、いざとなるとどうしたいのかわからなくなり、静夜が言葉を濁した挙句とうとう押し黙ったところに永遠が界と一緒に戻ってきた。
「すまない、お待たせ。では、行こうか」
「行くって、どこへ?」
「琥珀の館に決まってるだろう。宇内様が首を長くしてお待ちだそうだ。もちろん久遠と界もな」
「でも…俺は…」
大森林の土を踏む資格はないーー怪訝そうに首を傾げる彼方と麗の視線を避けて静夜はうつむく。そんな彼を界が思うところのある意味ありげな目でしきりにもじもじしながら見つめている。
そんな一同の中で永遠だけは終始堂々と振る舞い、発言するのだった。
「今更何言ってる、君が来なくてどうするんだ。私がついてるから大丈夫。ほら、行くぞ」
「…あ、ああ」
遠慮は無用、とばかりに先に歩き出す永遠に、静夜は断りきれずについていく。その後に久遠と界、彼方と麗が続いた。
(姉さんは特別な存在だから、結局みんな姉さんの導くところに連れていかれちゃうんだな)
前を歩く静夜の後ろ姿を眺めながら久遠はそう考えた。
その静夜の背中には、大きな白い布でぐるぐる巻きに隠された迦楼羅が背負われていた。
琥珀の館の最奥部のテラスでは宇内がひとり凛然と立ち、彼らの来訪を待ち設けていた。
「よく無事で戻った、永遠。…だがその様子だと、ずいぶんと苦難と心労を重ねたようだな」
「はい…ですがこれまでで最も得るものの多い旅でした」
それから宇内は久遠と静夜と界に順にねぎらいの言葉をかけた。
「久遠、おまえが無事で戻ったこともまた私にとって永遠の帰還と同じくらいに喜ばしい。おまえが人間のために立派に役割を果たしたことはすでに報告を受けている。よく頑張った。成長したな、久遠よ」
「ありがとうございます」
そう言えばエヴェリーネやダートンで出会った人たちはどうしてるかな、と久遠はふと思い出した。ついこの間の出来事なのに、もう何年も前のことのように感じられた。
「静夜殿。久遠を助け、永遠を見つける手伝いをしてくれたことに深くお礼を申し上げる。…聞けば記憶を取り戻したとのこと。後ほど荷物を解いて落ち着いたら、ぜひ詳しく話して聞かせていただきたい」
「…はい」
後ほどと言わず今すぐここで土下座をし、全部洗いざらい告白して懺悔しようかと思ったとき、宇内が界の方にすっと視線を移したので、静夜はとっさに身体を固くこわばらせて声を喉の奥に押し込めた。界に対して宇内は、けして咎めるような調子ではないが少なからず疑問を込めて問いかけた。
「界よ、おまえはまだ旅の途上だったのでは?なぜ三人と一緒に帰ってきたのだ?何か、旅を続けるのに不都合な事態が発生したのか?」
「宇内様…それは…」
界が狼狽し答えあぐねていると、永遠が彼の前に出て彼の代わりに発言した。
「宇内様、界に旅を途中で切り上げさせて帰郷させたのはこの私です。…そのことも含め、今日はこの数か月の間に私が見聞きし、また身をもって接した重大な出来事について宇内様にご報告し、ぜひともご判断とご助言をいただきたく、急ぎ帰郷した所存です」
宇内は何かしら予感していたかのように鷹揚にうなずいた。
「…わかった。話を聞こう」
「はい」
そこで永遠と静夜は二人の出会いから別れまでの例の長い話を、要点を押さえながら代わる代わる説明した。さらに静夜は布に包んで隠していた迦楼羅を出して宇内と彼方と麗に見せ、塵ひとつなく掃き清められた大理石の床についに膝をついて深々と頭を下げた。
「…本当に申し訳ありませんでした。この命は宇内様にお預けします。どんな罰も、喜んでお受けいたします」
「…」
宇内はしばし沈黙した。彼方と麗は驚愕と戦慄に青ざめ、一方で静夜の生い立ちと境遇に対する悲痛と同情を禁じ得ず、心に激しく葛藤しながら彼を見つめていた。
そのとき永遠が静夜に歩み寄り、優しく腕を回して彼を抱き起こした。
「宇内様、確かに静夜は重い罪を犯しましたが、情状酌量の余地はあると私は思います。この問題について今責められるべきは静夜ではありません。真の首謀者は我々の同胞なのです。償いや罰というなら、今後の戦いや真相究明のために尽力してもらうことこそが誠の償いです。迦楼羅を自由自在に扱えるのも、煌狩りの内情に通じるのも静夜をおいて他にいないのですから。どうかこの私に免じて、今しばらく彼に猶予をお与えください」
「…償い、か…」
宇内は低い声でうなずき、かすかに溜め息をついた。
「永遠の言うとおりかもしれぬ。我々は多くの同胞を失い、その悲しみは尽きることはないが、静夜殿も操られ利用され、さらには両親や故郷を奪われた、ある意味で犠牲者のひとりだ。…当面君への処分は事態が終息し次第追ってということにする。彼方よ、この話を後で十二礎の礎主に伝え、一般の者には他言せぬように」
「…承知いたしました」
「ありがとうございます、宇内様」
「…ありがとうございます」
永遠と静夜はそれぞれ恭しく頭を下げた。それから永遠は召使いを呼んで広い卓と紙とペンを運ばせ、静夜と二人で失われた図面の復元作業に取りかかった。大部分は永遠が描き、静夜がときどき指摘や補足をする。
「姉さん、少し休んだ方がいいよ。…だいぶ疲れてる」
「私なら大丈夫」
目も上げず、熱心にペンを走らせる姉の使命感に燃える横顔に、久遠は何も言えず、ただその身体を案じるばかりだった。
やがて描き上げられた複雑で摩訶不思議な数枚の線描の図面を宇内が手に取って真剣な目つきで吟味する。永遠が言った。
「今は滅びた古い文明が生み出した、不滅の煌気の炎で動き続ける溶鉱炉の設計図です。静夜が地下書庫から持ってきてくれた本の中にはこれに似た機構の設計図やさまざまな技術に関する記述を載せた書物が他にも何冊かありました。黄泉はこれらの知識を悪用して各地に鍛冶場や兵站を築き、自らの版図を広げようとしていると思われます。こんなものをなぜ明夜や黄泉が持っていたのか、黄泉の真の目的は何なのか…」
霜の降りた宇内の眉がぴくりと反応する。
「宇内様、黄泉とはいったい何者なのですか?禁じられているはずの炎の礎の族が、なぜ大森林の目を逃れて人間たちの中に存在しているのですか?」
永遠がじっと宇内を見つめるとその場にいる全員の視線が一斉に宇内の顔に集中した。
宇内は重々しく口を開いた。
「私はこれらの図面を知っている。…これらはすべて、昔この大森林の書庫から盗まれたものだ」
「えっ…!?」
この返答は若い四人にとって意外なものだったが、彼方と麗にはそうではないようだ。二人は唇を噛んで深い思索に沈んでいる。永遠がさらに尋ねる。
「どういうことですか、宇内様」
「とうとうあのことを話すときが来たか…」
宇内は時機の到来を受け入れるかのようにゆっくりと息を吐き、語り始めた。
「若者たちのほとんどは知らないことだ。…今から百年ほど前、ここ大森林にひとりの青年がやってきた。彼は人間だったが、生まれながらに特別な才能があり、将来を見込まれて原礎となるべく招かれたのだ」
「人間が…原礎になる?」
「そうだ。静夜殿のように人間でありながら普通の人間にはない特殊な資質や能力を持つ者を見出し、教育する仕組みだ。彼らは大森林で修行を積み、後天的に煌源を宿して原礎に等しい存在となる。その者たちは人礎と呼ばれた」
目を丸くして驚きの声を漏らす四人に、彼方が厳かな声色で言った。
「今では実施されていないが、当時はまだそういう制度があったんだ。…類稀な能力を秘めた人間を脅威の種子として原礎の監視下に置くという意味合いがあったことも否定はできない」
「…今日初めて知りました」
界が童顔を白くこわばらせてつぶやいた。宇内は続けた。
「黄泉は…人間としての名は黄泉ではなかったが…確かに非常に賢く才能があり、厳しい修行にも耐えてついに珠鉄の煌源を手にしたが、ひとつ問題があった。彼は性格は真面目で使命感や責任感も人並外れて強かったが、その反面融通が利かず、視野や考えが偏りがちで自らの内にこもりやすく、同胞たちとたびたび意見が衝突することがあった。恒久的に消えない炎を燃やして便利な道具や建材を作り、人間の生活をもっと富ましめることができたらいいとまで言った。黄泉はもともと貧しく痩せた土地に生まれ、食べるのに困らない豊穣と何不自由のない充足に強い憧れを抱いていた。だからこそ自ら人礎となりその現状を変えたいと思ったのかもしれぬ。にもかかわらず、いざ原礎に混じって力を発揮しようとすると他の者たちは見守りや手助け以上のことをしようとしない。それゆえ、緩やかな発展を旨とし、積極的、能動的に星や礎に働きかけない我々に不平不満を募らせていったのだ」
「その考えは今の煌狩りにそのまま受け継がれています。幼い頃から俺が受けてきた教えとまったく同じです」
「黄泉の陰謀の根源には自身の困窮の実体験があったのですね」
因果関係が符合して静夜と永遠はともにうなずいたが、久遠はとても納得できなかった。
「でも、だからって仮にも同胞である原礎を殺すなんて…もっと豊かになりたいなら、ただ単に自分の煌気を際限なく使って自分の支配する自分だけの理想郷を築けばいいのに。よほどの理由がない限り、普通そんな異常なやり方は思いつきませんよ」
「いや…黄泉にはそこまでの理由があったのかもしれない」
「えっ?」
顎を引いて一度言葉を切った宇内を、若い四人が興味に駆られた目でじっと見つめる。宇内の考えていることを敏感に察した麗が思わずといった様子でそっと口を挟んだ。
「宇内様…そのことは…」
「構わぬ。年長者なら誰でも知っていることだし、今となっては彼らにはすべてを包み隠さず伝えなくては」
麗は申し訳なさそうに巨体を縮め口をつぐむ。一方、彼方は色白な顔をますます青白くしてただ立っている。
「黄泉は心に暗い熾火を絶えず燻らせながらもその後数十年の間は表向きは辛抱強く修行に励んでいた。そんな日々の中、黄泉はひとりの女性と知り合い、やがて恋仲になった…名前は、静流・ユリディア・遥。私の娘だ」
「えっ…宇内様の、お嬢様と…?」
「でも、宇内様にお子様はいらっしゃらないと…」
「口を慎め、界!!」
永遠が雷鳴のように鋭く一喝すると界は震え上がり、痛烈な自己嫌悪にたちまち顔を紅潮させた。だが宇内本人はただ右手を上げただけでまったく表情を動かさなかった。
「気にせずともよい。長らく私自身が周囲にそう言っているのだから」
「…も、申し訳ありません…」
恐れ入ってかしこまる界に泰然とうなずくと宇内は話を続けた。
「その頃すでに私は黄泉の言動に不信と疑いを抱き、大森林の秩序と平穏に暗雲が立ち込めるのを感じていた。遥は静流の族の天分でもある生来の優しさで病みつつある黄泉の心をなんとか癒そうと尽くしたが、彼の魂の根本を清めることはかなわなかった」
静夜は人知れず固く拳を握りしめた。永遠との出会いで目を醒まし、紙一重のところで闇の深淵から光の当たる世界へ逃れることのできた自分は幸運だと思えたのだ。
「黄泉と遥の間柄を私はしばらくの間慎重に静観した。清めることはできずとも精神の均衡を保つことはできるかもしれないと思ったからだ。危険因子を孕み、問題を先延ばしにしながら、それでも大森林はまだ一応の平和に憩うていた。ところがあるとき事態が急変した。遥が黄泉の子を腹に宿していることがわかったのだ」
「…!!」
四人は絶句した。
「私は二人を無理にでも別れさせなかったことを後悔したが、もう手遅れだった。黄泉はさらに遥を半ば強引に、半ば騙して“誓いの繭”に連れていき、夫婦の契りを結ぼうとした。そうすることで自分の将来の足固めをしようとしたのだろう。森の番人が二人の様子がおかしいことに気づいて力ずくで阻止したのでそれは避けられたが…」
「…誓いの繭とは何でしょうか」
静夜の質問に、隣に立っている麗と彼方が答えた。
「“薄暮の森”の中心にある大きな繭のことよ。結婚したい男女や固い絆で結ばれた親友、義きょうだいなど、特別な契りや誓いを交わしたい二人が中に入って星に祈りを捧げる神聖な場所なの」
「二人の祈りを星が聞き届け、認めると、その二人には星から二人にふさわしい贈り物が授けられる。…ただ現在は封印されていて、四十年間開かれていない」
「もし黄泉が番人を退けて遥を繭に連れて入ることができたとしても、星は二人を夫婦とは認めなかっただろう。何人も星の炯眼を欺くことはできないから。…誓いの繭での変事の報告を受けた私はもうこれ以上黙認することはできず、ついに決断を下し、黄泉に遥と煌源を返し普通の人間に戻って二度と原礎と関わらぬよう命じた。そうすれば命だけは取らない、と。…遥の気持ちと腹の子を守りたいという愚かな親心からだった」
「愚かではありません。ごくごく自然な感情です。…遥さんは宇内様の大切なお嬢様であり、皆から愛される方でしたから」
彼方の言葉に、宇内はわずかながら心を安らげたように小さく相槌を打ったが、その声は依然沈んでいた。
「だが黄泉は私の勧告を聞き入れず、書庫から何冊もの古い貴重な書物を盗み出し、無理矢理遥を連れて出奔しようとした。私の忍耐は限度を超えた。私は追跡部隊を送り、二人が大森林を出る前に遥をまず無事保護し、黄泉も捕らえようとしたが、黄泉は穢れた忌まわしい炎を撒き散らして猛烈に抵抗した。黄泉はひそかに珠鉄の煌源を捨て、禁じられた炎の礎に心酔し、手を染めてしまっていたのだ。そして今から四十年前のその日、大森林の歴史上唯一の惨劇が起きた。反撃と防衛に当たった数多くの同胞たちが殺され、また大怪我を負った。…この戦いでおまえたちの母親の刹那も命を落としたのだ」
「え…!?」
久遠のみならず、沈着冷静な永遠さえもが愕然として顔色を失くした。静夜と界も強い驚きを隠せない。
「でも…母さんは魔獣の襲撃から大森林を守るために戦って死んだって、ずっと…!!」
「それは若い世代を禁じられた炎の礎から遠ざけるために書き換えられた記録と偽られた口伝だ。真実を偽ってでも黄泉の存在を歴史から消したい…事実を曲げ若者の耳目から隠すことは黄泉の悪行と同じくらい重い罪だったかもしれぬ。ただそのときはそうしなければならないほど、同胞たちの悲しみと傷は深かったのだ」
「…それでお父様は何も話してくださらなかったのですね」
赦されざる凶行、そしてそれにより奪われた妻であり母である刹那の命。家族より自由を選んだものと思っていた父の本当の胸の内を初めて垣間見た気がして、双子は揺れ動く瞳と瞳を見合わせた。
「それで、黄泉はその後どうなったのですか?」
「遥を奪還されたとわかると黄泉は遥を諦め、追撃を振り切って遁走し、行方をくらました。黄泉が炎の礎の誘惑に堕ち、多くの同胞の血が流されたという一報に触れた遥は悲嘆のあまり赤ん坊を流産し、生きる希望を失って断崖から身を投げ自ら命を絶った」
もう誰も、何も言えず、ただ歯を食いしばってうなだれたり空を仰いで溜め息をついたりするばかりだった。当時のことを知る麗はハンカチを取り出してそっと目許を押さえていた。
「黄泉がその後どうなったかというと、ここ北大陸から他の大陸に渡ったという噂もあったが真相は定かではない。ともかく黄泉はそれから二十年近くの間我々の目を逃れてどこかに潜伏し、盗んだ書物から知識を蓄え技術を磨きながら営々と策をめぐらせていたに違いない。そして静夜殿が生まれた頃、鬱屈した不平と野心を秘めた明夜を籠絡して計画に引き入れ、実働部隊の煌狩りを組織させたと思われる。もしあのとき我々が草の根を分けてでも黄泉を捜し出し、捕らえることができていれば…」
宇内は沈黙の中に深い息を吐き出した。
「黄泉の真の目的はおそらく、人間を原礎の支配から解放してより豊かにするという大義名分を掲げて人間の騒擾を煽り、それを隠れ蓑にして、遥を取り上げ同胞の列から自分を排除した我々に対する遺恨を晴らすことだ。我々があのとき黄泉を捕らえ損ね、野放しにしたせいで、今この時代に静夜殿たち無辜の人間の若者を災いと因縁の渦に巻き込んだ…ある意味、より罪を問われるべきなのは我々原礎の方かもしれぬ」
「ですが黄泉も元は人間です…この問題は原礎だけのものでも人間だけのものでもなく、すべての人々が受け止め、自らの心に照らし合わせて考えるべきものだと俺は思います」
「黄泉は私の森羅聖煌を大量に溶鉱炉に持ち帰って動力としているだけでなく、迦楼羅の複製を量産して原礎殺しを加速させるため、明夜とともに静夜と迦楼羅を追っています。黄泉の計画を阻止するためにすべきことは山ほどありますが、まずは迦楼羅を破壊しなければ」
「静夜くんと迦楼羅は、言わば運命共同体…迦楼羅がこの世からなくなれば、静夜くんも利用され狙われる運命から解放されるというわけか…」
顎に手をやってつぶやく彼方に永遠は確信を込めてうなずいた。
「大森林にいる限り、静夜と迦楼羅は当面安全でしょう。ですがいつ何時勘づかれるかわかりませんし、迦楼羅をここに留め置くことは根本的な解決にはなりません。溶鉱炉の設計図のような古代知識の書物がここの書庫にあったのなら、迦楼羅に関する書物ももしかしたら秘蔵されてるかも…一刻も早く、書庫に行って…探さない、と…」
永遠は急に声を途切れさせたかと思うとふらっと身体を揺らした。そしてそのまま木が切り倒されるように崩れ落ちかけたところを久遠が間一髪抱き止めて支えた。
「…!!…姉さん…!!」
永遠は真っ白な顔で、固く瞑目し、ぐったりとして動かない。すぐさま静夜がその顔を覗き込んで様子を確かめた。
「気を失ってる。とっくに体力の限界だったのに、まだ無理をしたから…」
心配そうに永遠を見つめる静夜の顔を久遠が固い表情で別の角度から見つめた。そこに彼方が歩み寄って言った。
「すぐに治療させよう。私が案内する。静夜くん、頼む」
「はい」
静夜は永遠を仔猫のように軽々と抱き上げた。彼方が静夜の先に立って歩き出し、久遠が慌てて追いかけ、宇内と界と麗も後に続く。久遠は自分がエヴェリーネでの初仕事の後疲れ果てて昏睡し、静夜に同じように運ばれたことを思い出していた。
(…静夜、憶えてくれてるかな…あのときのこと)
今はそんな思い出に浸っている場合ではないし、静夜の性格なら思い出しはしてもあえて今口にはしないだろう。それでも静夜が自分を一顧だにせず姉にかかりきりなので、ぽっかりと穴の空いたような寂しさが一気に胸に押し寄せた。
開け放された大門の前の広場には見張り番からの銀嘴鷲の接近の報告を聞きつけた原礎たちがすでに大勢詰めかけていて、上空を見上げながら二羽の鷲が着陸するのを今か今かと待ち受けていた。そしてとうとう鷲が開けた草地に降り立ち、乗っていた者たちが順に降りてきて、その中に永遠の姿を見つけると皆歓声を上げて我先にと駆け寄った。
「お帰りなさい、永遠!」
「永遠ちゃん、よく無事で…!」
「早く早く!永遠姉様のご帰還よ!」
「永遠姉様、永遠姉様ーっ!!ちょっと、どいてよっ」
「みんな、ただいま。心配かけてすまなかったね」
当代きっての偉材であり、すべての同胞たちの尊敬と人気を集める永遠は早速熱烈な出迎えを受けている。ただ氷雨の族の大多数は界を囲んで旅の疲れをねぎらっている。久遠のところにも同じ瑞葉の同胞が数人やってきて優しい声をかけてくれたが、優秀で期待の大きい永遠と界の比較にはならなかった。そのうち思い出したようにさらに数人が近づいて話しかけてくれた。
「久遠、静夜さん、永遠を連れて帰ってきてくれてありがとう。本当にお疲れ様」
「二人とも、慣れない旅で大変だっただろう。どうかゆっくり休んでおくれ」
「うん。…ありがとう」
久遠はぎこちない笑顔を返し、それからもう一羽の鷲の側に立っている静夜の様子をそっと窺った。彼は同胞たちに取り囲まれて半ばもみくちゃにされている永遠を安心したような穏やかなまなざしで見つめていて、久遠の胸はちくりと針で刺されたようだった。雲居の社で二羽の鷲に分乗するとき静夜は迷わず永遠を後ろに乗せてしっかりと自分につかまらせ、先ほど降りるときもふらついて転ばないよう甲斐甲斐しく抱き下ろすなど、明らかに永遠を気遣っている。そうせずにいられない彼の心情も理解はできたが、彼の頭の中は姉への心配と贖罪の気持ちでいっぱいなのだと思うと複雑な気分だった。
(今の静夜が守りたいのは僕じゃなくて姉さんなんだ…)
二人が距離を保ったまま再会の喜びの熱が冷めるのを待っていると、皆から少し遅れて彼方と麗が姿を現した。二人はまず永遠に話しかけて二言三言言葉を交わしてから久遠と静夜のところにやってきた。彼方の表情は彼らしく控えめながら、瞳の奥はやはり嬉しそうだ。
「お帰り、久遠、静夜くん。待っていたよ」
「ほんと、物騒な人間たちの噂があって心配してたのよ…でもよかった。二人も、永遠ちゃんも界ちゃんも無事で」
「…う、うん…」
久遠はどきりとして隣の静夜の反応を気にしたが、静夜は黙って小さく会釈しただけだった。この両人も他の皆もまだ静夜の過去や正体を知らない。もしそれらの事実が周知されたら静夜がどんな目に遭うか、久遠は不安でしかたがなかった。
彼方と麗は二人の間に漂うよそよそしい空気に少し不思議そうに顔を見合わせたが、彼方はすぐに気を取り直し、目尻を下げて久遠に微笑みかけた。
「すっかり見違えたよ、久遠。旅先ではずいぶん頑張ったそうじゃないか。君なら必ずやれると私は信じていたよ」
「ありがと、彼兄」
「うん。ところで静夜くん、君の方はどうだい?記憶は…何か手がかりは見つかったかい?」
「はい。記憶は…戻りました…」
「まあ!本当?それはよかったじゃない!」
「それで、実はそのことで宇内様に大切なお話があるんですが…その…」
自分からそう言い出したものの、いざとなるとどうしたいのかわからなくなり、静夜が言葉を濁した挙句とうとう押し黙ったところに永遠が界と一緒に戻ってきた。
「すまない、お待たせ。では、行こうか」
「行くって、どこへ?」
「琥珀の館に決まってるだろう。宇内様が首を長くしてお待ちだそうだ。もちろん久遠と界もな」
「でも…俺は…」
大森林の土を踏む資格はないーー怪訝そうに首を傾げる彼方と麗の視線を避けて静夜はうつむく。そんな彼を界が思うところのある意味ありげな目でしきりにもじもじしながら見つめている。
そんな一同の中で永遠だけは終始堂々と振る舞い、発言するのだった。
「今更何言ってる、君が来なくてどうするんだ。私がついてるから大丈夫。ほら、行くぞ」
「…あ、ああ」
遠慮は無用、とばかりに先に歩き出す永遠に、静夜は断りきれずについていく。その後に久遠と界、彼方と麗が続いた。
(姉さんは特別な存在だから、結局みんな姉さんの導くところに連れていかれちゃうんだな)
前を歩く静夜の後ろ姿を眺めながら久遠はそう考えた。
その静夜の背中には、大きな白い布でぐるぐる巻きに隠された迦楼羅が背負われていた。
琥珀の館の最奥部のテラスでは宇内がひとり凛然と立ち、彼らの来訪を待ち設けていた。
「よく無事で戻った、永遠。…だがその様子だと、ずいぶんと苦難と心労を重ねたようだな」
「はい…ですがこれまでで最も得るものの多い旅でした」
それから宇内は久遠と静夜と界に順にねぎらいの言葉をかけた。
「久遠、おまえが無事で戻ったこともまた私にとって永遠の帰還と同じくらいに喜ばしい。おまえが人間のために立派に役割を果たしたことはすでに報告を受けている。よく頑張った。成長したな、久遠よ」
「ありがとうございます」
そう言えばエヴェリーネやダートンで出会った人たちはどうしてるかな、と久遠はふと思い出した。ついこの間の出来事なのに、もう何年も前のことのように感じられた。
「静夜殿。久遠を助け、永遠を見つける手伝いをしてくれたことに深くお礼を申し上げる。…聞けば記憶を取り戻したとのこと。後ほど荷物を解いて落ち着いたら、ぜひ詳しく話して聞かせていただきたい」
「…はい」
後ほどと言わず今すぐここで土下座をし、全部洗いざらい告白して懺悔しようかと思ったとき、宇内が界の方にすっと視線を移したので、静夜はとっさに身体を固くこわばらせて声を喉の奥に押し込めた。界に対して宇内は、けして咎めるような調子ではないが少なからず疑問を込めて問いかけた。
「界よ、おまえはまだ旅の途上だったのでは?なぜ三人と一緒に帰ってきたのだ?何か、旅を続けるのに不都合な事態が発生したのか?」
「宇内様…それは…」
界が狼狽し答えあぐねていると、永遠が彼の前に出て彼の代わりに発言した。
「宇内様、界に旅を途中で切り上げさせて帰郷させたのはこの私です。…そのことも含め、今日はこの数か月の間に私が見聞きし、また身をもって接した重大な出来事について宇内様にご報告し、ぜひともご判断とご助言をいただきたく、急ぎ帰郷した所存です」
宇内は何かしら予感していたかのように鷹揚にうなずいた。
「…わかった。話を聞こう」
「はい」
そこで永遠と静夜は二人の出会いから別れまでの例の長い話を、要点を押さえながら代わる代わる説明した。さらに静夜は布に包んで隠していた迦楼羅を出して宇内と彼方と麗に見せ、塵ひとつなく掃き清められた大理石の床についに膝をついて深々と頭を下げた。
「…本当に申し訳ありませんでした。この命は宇内様にお預けします。どんな罰も、喜んでお受けいたします」
「…」
宇内はしばし沈黙した。彼方と麗は驚愕と戦慄に青ざめ、一方で静夜の生い立ちと境遇に対する悲痛と同情を禁じ得ず、心に激しく葛藤しながら彼を見つめていた。
そのとき永遠が静夜に歩み寄り、優しく腕を回して彼を抱き起こした。
「宇内様、確かに静夜は重い罪を犯しましたが、情状酌量の余地はあると私は思います。この問題について今責められるべきは静夜ではありません。真の首謀者は我々の同胞なのです。償いや罰というなら、今後の戦いや真相究明のために尽力してもらうことこそが誠の償いです。迦楼羅を自由自在に扱えるのも、煌狩りの内情に通じるのも静夜をおいて他にいないのですから。どうかこの私に免じて、今しばらく彼に猶予をお与えください」
「…償い、か…」
宇内は低い声でうなずき、かすかに溜め息をついた。
「永遠の言うとおりかもしれぬ。我々は多くの同胞を失い、その悲しみは尽きることはないが、静夜殿も操られ利用され、さらには両親や故郷を奪われた、ある意味で犠牲者のひとりだ。…当面君への処分は事態が終息し次第追ってということにする。彼方よ、この話を後で十二礎の礎主に伝え、一般の者には他言せぬように」
「…承知いたしました」
「ありがとうございます、宇内様」
「…ありがとうございます」
永遠と静夜はそれぞれ恭しく頭を下げた。それから永遠は召使いを呼んで広い卓と紙とペンを運ばせ、静夜と二人で失われた図面の復元作業に取りかかった。大部分は永遠が描き、静夜がときどき指摘や補足をする。
「姉さん、少し休んだ方がいいよ。…だいぶ疲れてる」
「私なら大丈夫」
目も上げず、熱心にペンを走らせる姉の使命感に燃える横顔に、久遠は何も言えず、ただその身体を案じるばかりだった。
やがて描き上げられた複雑で摩訶不思議な数枚の線描の図面を宇内が手に取って真剣な目つきで吟味する。永遠が言った。
「今は滅びた古い文明が生み出した、不滅の煌気の炎で動き続ける溶鉱炉の設計図です。静夜が地下書庫から持ってきてくれた本の中にはこれに似た機構の設計図やさまざまな技術に関する記述を載せた書物が他にも何冊かありました。黄泉はこれらの知識を悪用して各地に鍛冶場や兵站を築き、自らの版図を広げようとしていると思われます。こんなものをなぜ明夜や黄泉が持っていたのか、黄泉の真の目的は何なのか…」
霜の降りた宇内の眉がぴくりと反応する。
「宇内様、黄泉とはいったい何者なのですか?禁じられているはずの炎の礎の族が、なぜ大森林の目を逃れて人間たちの中に存在しているのですか?」
永遠がじっと宇内を見つめるとその場にいる全員の視線が一斉に宇内の顔に集中した。
宇内は重々しく口を開いた。
「私はこれらの図面を知っている。…これらはすべて、昔この大森林の書庫から盗まれたものだ」
「えっ…!?」
この返答は若い四人にとって意外なものだったが、彼方と麗にはそうではないようだ。二人は唇を噛んで深い思索に沈んでいる。永遠がさらに尋ねる。
「どういうことですか、宇内様」
「とうとうあのことを話すときが来たか…」
宇内は時機の到来を受け入れるかのようにゆっくりと息を吐き、語り始めた。
「若者たちのほとんどは知らないことだ。…今から百年ほど前、ここ大森林にひとりの青年がやってきた。彼は人間だったが、生まれながらに特別な才能があり、将来を見込まれて原礎となるべく招かれたのだ」
「人間が…原礎になる?」
「そうだ。静夜殿のように人間でありながら普通の人間にはない特殊な資質や能力を持つ者を見出し、教育する仕組みだ。彼らは大森林で修行を積み、後天的に煌源を宿して原礎に等しい存在となる。その者たちは人礎と呼ばれた」
目を丸くして驚きの声を漏らす四人に、彼方が厳かな声色で言った。
「今では実施されていないが、当時はまだそういう制度があったんだ。…類稀な能力を秘めた人間を脅威の種子として原礎の監視下に置くという意味合いがあったことも否定はできない」
「…今日初めて知りました」
界が童顔を白くこわばらせてつぶやいた。宇内は続けた。
「黄泉は…人間としての名は黄泉ではなかったが…確かに非常に賢く才能があり、厳しい修行にも耐えてついに珠鉄の煌源を手にしたが、ひとつ問題があった。彼は性格は真面目で使命感や責任感も人並外れて強かったが、その反面融通が利かず、視野や考えが偏りがちで自らの内にこもりやすく、同胞たちとたびたび意見が衝突することがあった。恒久的に消えない炎を燃やして便利な道具や建材を作り、人間の生活をもっと富ましめることができたらいいとまで言った。黄泉はもともと貧しく痩せた土地に生まれ、食べるのに困らない豊穣と何不自由のない充足に強い憧れを抱いていた。だからこそ自ら人礎となりその現状を変えたいと思ったのかもしれぬ。にもかかわらず、いざ原礎に混じって力を発揮しようとすると他の者たちは見守りや手助け以上のことをしようとしない。それゆえ、緩やかな発展を旨とし、積極的、能動的に星や礎に働きかけない我々に不平不満を募らせていったのだ」
「その考えは今の煌狩りにそのまま受け継がれています。幼い頃から俺が受けてきた教えとまったく同じです」
「黄泉の陰謀の根源には自身の困窮の実体験があったのですね」
因果関係が符合して静夜と永遠はともにうなずいたが、久遠はとても納得できなかった。
「でも、だからって仮にも同胞である原礎を殺すなんて…もっと豊かになりたいなら、ただ単に自分の煌気を際限なく使って自分の支配する自分だけの理想郷を築けばいいのに。よほどの理由がない限り、普通そんな異常なやり方は思いつきませんよ」
「いや…黄泉にはそこまでの理由があったのかもしれない」
「えっ?」
顎を引いて一度言葉を切った宇内を、若い四人が興味に駆られた目でじっと見つめる。宇内の考えていることを敏感に察した麗が思わずといった様子でそっと口を挟んだ。
「宇内様…そのことは…」
「構わぬ。年長者なら誰でも知っていることだし、今となっては彼らにはすべてを包み隠さず伝えなくては」
麗は申し訳なさそうに巨体を縮め口をつぐむ。一方、彼方は色白な顔をますます青白くしてただ立っている。
「黄泉は心に暗い熾火を絶えず燻らせながらもその後数十年の間は表向きは辛抱強く修行に励んでいた。そんな日々の中、黄泉はひとりの女性と知り合い、やがて恋仲になった…名前は、静流・ユリディア・遥。私の娘だ」
「えっ…宇内様の、お嬢様と…?」
「でも、宇内様にお子様はいらっしゃらないと…」
「口を慎め、界!!」
永遠が雷鳴のように鋭く一喝すると界は震え上がり、痛烈な自己嫌悪にたちまち顔を紅潮させた。だが宇内本人はただ右手を上げただけでまったく表情を動かさなかった。
「気にせずともよい。長らく私自身が周囲にそう言っているのだから」
「…も、申し訳ありません…」
恐れ入ってかしこまる界に泰然とうなずくと宇内は話を続けた。
「その頃すでに私は黄泉の言動に不信と疑いを抱き、大森林の秩序と平穏に暗雲が立ち込めるのを感じていた。遥は静流の族の天分でもある生来の優しさで病みつつある黄泉の心をなんとか癒そうと尽くしたが、彼の魂の根本を清めることはかなわなかった」
静夜は人知れず固く拳を握りしめた。永遠との出会いで目を醒まし、紙一重のところで闇の深淵から光の当たる世界へ逃れることのできた自分は幸運だと思えたのだ。
「黄泉と遥の間柄を私はしばらくの間慎重に静観した。清めることはできずとも精神の均衡を保つことはできるかもしれないと思ったからだ。危険因子を孕み、問題を先延ばしにしながら、それでも大森林はまだ一応の平和に憩うていた。ところがあるとき事態が急変した。遥が黄泉の子を腹に宿していることがわかったのだ」
「…!!」
四人は絶句した。
「私は二人を無理にでも別れさせなかったことを後悔したが、もう手遅れだった。黄泉はさらに遥を半ば強引に、半ば騙して“誓いの繭”に連れていき、夫婦の契りを結ぼうとした。そうすることで自分の将来の足固めをしようとしたのだろう。森の番人が二人の様子がおかしいことに気づいて力ずくで阻止したのでそれは避けられたが…」
「…誓いの繭とは何でしょうか」
静夜の質問に、隣に立っている麗と彼方が答えた。
「“薄暮の森”の中心にある大きな繭のことよ。結婚したい男女や固い絆で結ばれた親友、義きょうだいなど、特別な契りや誓いを交わしたい二人が中に入って星に祈りを捧げる神聖な場所なの」
「二人の祈りを星が聞き届け、認めると、その二人には星から二人にふさわしい贈り物が授けられる。…ただ現在は封印されていて、四十年間開かれていない」
「もし黄泉が番人を退けて遥を繭に連れて入ることができたとしても、星は二人を夫婦とは認めなかっただろう。何人も星の炯眼を欺くことはできないから。…誓いの繭での変事の報告を受けた私はもうこれ以上黙認することはできず、ついに決断を下し、黄泉に遥と煌源を返し普通の人間に戻って二度と原礎と関わらぬよう命じた。そうすれば命だけは取らない、と。…遥の気持ちと腹の子を守りたいという愚かな親心からだった」
「愚かではありません。ごくごく自然な感情です。…遥さんは宇内様の大切なお嬢様であり、皆から愛される方でしたから」
彼方の言葉に、宇内はわずかながら心を安らげたように小さく相槌を打ったが、その声は依然沈んでいた。
「だが黄泉は私の勧告を聞き入れず、書庫から何冊もの古い貴重な書物を盗み出し、無理矢理遥を連れて出奔しようとした。私の忍耐は限度を超えた。私は追跡部隊を送り、二人が大森林を出る前に遥をまず無事保護し、黄泉も捕らえようとしたが、黄泉は穢れた忌まわしい炎を撒き散らして猛烈に抵抗した。黄泉はひそかに珠鉄の煌源を捨て、禁じられた炎の礎に心酔し、手を染めてしまっていたのだ。そして今から四十年前のその日、大森林の歴史上唯一の惨劇が起きた。反撃と防衛に当たった数多くの同胞たちが殺され、また大怪我を負った。…この戦いでおまえたちの母親の刹那も命を落としたのだ」
「え…!?」
久遠のみならず、沈着冷静な永遠さえもが愕然として顔色を失くした。静夜と界も強い驚きを隠せない。
「でも…母さんは魔獣の襲撃から大森林を守るために戦って死んだって、ずっと…!!」
「それは若い世代を禁じられた炎の礎から遠ざけるために書き換えられた記録と偽られた口伝だ。真実を偽ってでも黄泉の存在を歴史から消したい…事実を曲げ若者の耳目から隠すことは黄泉の悪行と同じくらい重い罪だったかもしれぬ。ただそのときはそうしなければならないほど、同胞たちの悲しみと傷は深かったのだ」
「…それでお父様は何も話してくださらなかったのですね」
赦されざる凶行、そしてそれにより奪われた妻であり母である刹那の命。家族より自由を選んだものと思っていた父の本当の胸の内を初めて垣間見た気がして、双子は揺れ動く瞳と瞳を見合わせた。
「それで、黄泉はその後どうなったのですか?」
「遥を奪還されたとわかると黄泉は遥を諦め、追撃を振り切って遁走し、行方をくらました。黄泉が炎の礎の誘惑に堕ち、多くの同胞の血が流されたという一報に触れた遥は悲嘆のあまり赤ん坊を流産し、生きる希望を失って断崖から身を投げ自ら命を絶った」
もう誰も、何も言えず、ただ歯を食いしばってうなだれたり空を仰いで溜め息をついたりするばかりだった。当時のことを知る麗はハンカチを取り出してそっと目許を押さえていた。
「黄泉がその後どうなったかというと、ここ北大陸から他の大陸に渡ったという噂もあったが真相は定かではない。ともかく黄泉はそれから二十年近くの間我々の目を逃れてどこかに潜伏し、盗んだ書物から知識を蓄え技術を磨きながら営々と策をめぐらせていたに違いない。そして静夜殿が生まれた頃、鬱屈した不平と野心を秘めた明夜を籠絡して計画に引き入れ、実働部隊の煌狩りを組織させたと思われる。もしあのとき我々が草の根を分けてでも黄泉を捜し出し、捕らえることができていれば…」
宇内は沈黙の中に深い息を吐き出した。
「黄泉の真の目的はおそらく、人間を原礎の支配から解放してより豊かにするという大義名分を掲げて人間の騒擾を煽り、それを隠れ蓑にして、遥を取り上げ同胞の列から自分を排除した我々に対する遺恨を晴らすことだ。我々があのとき黄泉を捕らえ損ね、野放しにしたせいで、今この時代に静夜殿たち無辜の人間の若者を災いと因縁の渦に巻き込んだ…ある意味、より罪を問われるべきなのは我々原礎の方かもしれぬ」
「ですが黄泉も元は人間です…この問題は原礎だけのものでも人間だけのものでもなく、すべての人々が受け止め、自らの心に照らし合わせて考えるべきものだと俺は思います」
「黄泉は私の森羅聖煌を大量に溶鉱炉に持ち帰って動力としているだけでなく、迦楼羅の複製を量産して原礎殺しを加速させるため、明夜とともに静夜と迦楼羅を追っています。黄泉の計画を阻止するためにすべきことは山ほどありますが、まずは迦楼羅を破壊しなければ」
「静夜くんと迦楼羅は、言わば運命共同体…迦楼羅がこの世からなくなれば、静夜くんも利用され狙われる運命から解放されるというわけか…」
顎に手をやってつぶやく彼方に永遠は確信を込めてうなずいた。
「大森林にいる限り、静夜と迦楼羅は当面安全でしょう。ですがいつ何時勘づかれるかわかりませんし、迦楼羅をここに留め置くことは根本的な解決にはなりません。溶鉱炉の設計図のような古代知識の書物がここの書庫にあったのなら、迦楼羅に関する書物ももしかしたら秘蔵されてるかも…一刻も早く、書庫に行って…探さない、と…」
永遠は急に声を途切れさせたかと思うとふらっと身体を揺らした。そしてそのまま木が切り倒されるように崩れ落ちかけたところを久遠が間一髪抱き止めて支えた。
「…!!…姉さん…!!」
永遠は真っ白な顔で、固く瞑目し、ぐったりとして動かない。すぐさま静夜がその顔を覗き込んで様子を確かめた。
「気を失ってる。とっくに体力の限界だったのに、まだ無理をしたから…」
心配そうに永遠を見つめる静夜の顔を久遠が固い表情で別の角度から見つめた。そこに彼方が歩み寄って言った。
「すぐに治療させよう。私が案内する。静夜くん、頼む」
「はい」
静夜は永遠を仔猫のように軽々と抱き上げた。彼方が静夜の先に立って歩き出し、久遠が慌てて追いかけ、宇内と界と麗も後に続く。久遠は自分がエヴェリーネでの初仕事の後疲れ果てて昏睡し、静夜に同じように運ばれたことを思い出していた。
(…静夜、憶えてくれてるかな…あのときのこと)
今はそんな思い出に浸っている場合ではないし、静夜の性格なら思い出しはしてもあえて今口にはしないだろう。それでも静夜が自分を一顧だにせず姉にかかりきりなので、ぽっかりと穴の空いたような寂しさが一気に胸に押し寄せた。
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