静かな夜をさがして

左衛木りん

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第4章 群像

灰と緑

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居間に招き入れられると、静夜は何よりもまず老人に頭を下げ、謝罪の言葉を口にした。

「…あのときは大変失礼いたしました。あなたが俺の両親や郷の人たちの亡骸を埋葬し、その後も供養や手入れをしてくださっていることも知らず、お礼を述べに戻ることもできなくて…本当に申し訳ありませんでした」

長身の彼が腰を折って深々と背を屈める姿に老人は優しい瞳を向けた。

「謝らんでいい。私の方こそあのときはつい胸がいっぱいになってしまって、すまないことをしたと思っとったんだ。急にあんな話をされて、さぞ驚いただろう。君にもきっとやむにやまれぬ理由があったことはわかっとるよ。…すまんが、もっと近くで顔を見せてくれるかい?もう一度よく確かめたいんだ」

「はい」

静夜が少し頭を起こすと、老人は若々しいその頬に節くれだった皺深い手をそっと当てた。

「おお、おお…あの可愛らしくてちっちゃな赤ん坊がこんなにも大きくなったのか…。うん…お父様にそっくりだ。だが、お母様の優しい面影もある。…懐かしい」

老人は在りし日の両親と生まれたばかりの自分を憶えているのだ。そのとき静夜は老人の年経りたまぶたの奥に光が宿るのを見た気がした。

「…すまん、自己紹介がまだだったね。私は浅葱あさぎ。君の名は…今は…」

「…静夜といいます」

「静夜…そうか」

浅葱と名乗った老人は感慨深げに大きく何度もうなずいた。そして、彼の後ろに遠慮がちに控えて見守っている三人の原礎に目を移した。

「そちらの方々は、お友達かい?」

「旅の仲間です。縁あって一緒に行動しています。あの…今日は奥様と息子さんは…」

「菖蒲は昼間はほとんどの時間親しい友達の集まりに参加しとるんだ。息子も仕事に出とるし、何も心配しなくていいよ」

迦楼羅は包んで隠しているが、自分の顔を見ると菖蒲をまた怯えさせてしまうに違いないと気がかりだった静夜はひとまず安心感を得た。

浅葱は四人を食卓につかせ、茶を振る舞った。

「それで静夜くん、今日はどうしてここに?おまえさんが自分から来たということは、何か差し迫った事情か目的があるんじゃないのかい?」

迦楼羅の委細を尋ねるには煌狩りの実情と自分のその後の人生について話さないわけにいかないので、静夜は久遠たちに目配せで断ってから浅葱に向き直った。

「はい。実はあなたにどうしてもお伺いしたいことがありまして…ですがそのことをお伺いするには俺の過去に関して相当にお聞き苦しく、衝撃と恐怖を受けられるような事実をお話ししなくてはなりません。…それでもよろしいでしょうか」

「この歳まで生きるともう大抵のことでは驚かんよ。それに、何年か前からときどき小耳に挟んでおったからな。…煌狩りの最強の刺客、黒い大剣を持つ煌喰いの悪魔の噂を」

「…ご存じでしたか」

思わず言葉を漏らした静夜の隣では曜が無言のまま険しい表情を浮かべている。浅葱は続ける。

「私にとって、黒い大剣と聞いて迦楼羅と結びつけて考えないのは不可能だ。私はおまえさんに会ったあのとき、おまえさんが何らかの理由で煌狩りに取り込まれ、何か禍々しいことに利用されとるに違いないとしか思えなくて、それ以来ずっと心配でならんかった。だからおまえさんがまた来てくれるのをこうして待っとったんだよ。どうか包み隠さず全部話しておくれ。私の胸の中にだけしまっておくから」

「…わかりました」

そこで静夜は浅葱に原礎殺しとしての自分や、迦楼羅と明夜と煌狩り、永遠と黄泉と採煌装置、そして迦楼羅をこの世から消し去る目論見について話せる限りのことを話した。浅葱は真剣に耳を傾けていたが、さすがに動揺を隠せない様子だった。

「そうか…うすうす想像はしとったが、まさかおまえさんがあの男からそこまでの仕打ちを受けとったとは…」

浅葱は悲嘆も露わに深い溜め息をついた。

「…あのとき助けてやれなくて、本当にすまなかった…」

静夜は黙って首を振る。浅葱は気を取り直すように腕を組んだ。布にくるまれ食卓の縁に立てかけられている迦楼羅にちらりと目を走らせる。

「迦楼羅の破壊か…それはまた大層な難業だな…」

「迦楼羅の組成や製法について、何か聞いていませんか」

「端的に言って、我々人間の今の技術では迦楼羅の破壊はまず不可能だろう。実はあの事件以前におまえさんのお父様から聞いたことがあるんだ。先代、つまりおまえさんのお爺様やその前のひいお爺様も、迦楼羅によって将来もたらされるかもしれない災禍を憂えてひそかに破壊を試みたが、できなかったと。おまえさんがさっき言ったとおり、珠鉄の一流の職人や大森林の賢人でも駄目だったのなら…見込みは極めて薄いだろう」

「では、静夜の生家に保管されていた書物がどこかに散逸してる可能性は…?」

界が尋ねたが、浅葱の顔色はやはり冴えなかった。

「確かに書物は迦楼羅とともに保管されとったが、鎮火した焼け跡を確認した限りでは、静夜くんと迦楼羅ともども跡形もなく消えとった。明夜たちに完全に持ち去られたか、焼き尽くされたか…紙の束など、火をつけられればひとたまりもないからな…」

藁にもすがる思いで期待を寄せていた四人は手詰まりな重苦しい空気に包まれる。こうなればいよいよ危険な任務の実行に踏み切る決断が現実味を帯びてきて、とりわけ久遠の胸は暗澹たる思いに塞がれていった。

「あれからもう二十年以上経つ。あの地で手がかりを探すのは、まあ…こう言っては何だが、徒労だろうな」

実際に墓地に通い続け跡地や廃墟をその目で見ている浅葱の見解は至って妥当だ。久遠と界、曜の三人は判断を待つように静夜を不安な目でじっと見た。顎に手をやり難しい顔つきで考えていた静夜はさらに質問した。

「真鍮の砦が今どうなっているかはご存じですか?」

「おまえさんがいた煌狩りの本拠地だね。あそこは少し前に放棄され、今は廃墟となっておるらしい。噂では何やら事故があって心臓部が破壊されたとか…あれはおまえさんとその永遠さんという娘さんの仕業だったんだね」

静夜はうなずいた。

「採煌装置が破壊され、俺も姿を消したので維持することができなくなったのでしょう。人員はどこか別の拠点に移されて新たな設備の構築が進んでいると思われます」

「…あの兄妹がどうしてるか、心配だね」

「…うん」

界の言ったとおり、暁良と耶宵の所在、特に耶宵の安否は静夜が最も懸念している点のひとつだった。

「破壊され放棄されたとはいうものの、行商人によると建物は大部分がそのまま残っとるようだ。…おまえさん、もしかして気になってるのかい?」

久遠がおそるおそる静夜の表情を窺った。

「…静夜、どうする?」

「うん…仮に地下空間が崩壊して埋まってしまっているとしても、真鍮の砦は迦楼羅と採煌の研究の中枢だったし、俺も内部構造は知り尽くしている。放棄されて無人なら、まず最初に行って調べてみるべきだと思う」

「だが、まだ警備や管理者が残ってるかもしれん。行くなら十分に気をつけることだ」

「はい」

出発の時間と潜入の段取りを四人で話し合う間、すでに久遠の胸はどきどきと高鳴り始めていた。

(姉さんが囚われてた場所に行くのか…話に聞いてただけだから、まさか自分が現実にそこに行くなんて、なんか不思議な感じがする…)

浅葱の家を辞する間際、浅葱は少し砕けた親しげな表情で静夜に尋ねた。

「ところで静夜くん、墓参りにはもう行ったのかい?それともこの後行くのかい?」

「本当は行きたいのですが、今はまだやるべきことが多くて落ち着かないので、諸々の区切りがついたらそのときに行こうと思います。…浅葱さんにはまだしばらくご面倒をおかけすることになりますが…」

「墓の管理のことはおまえさんは心配しなくていいよ。しばらくとかいつまでと言わず私たちに任せておきなさい。それが唯一生き残った私たち一家が亡くなった人々にしてあげられるせめてもの弔いだから」

「…すみません。ありがとうございます」

「なあに、墓地の手入れは実は月命日に息子や友達と馬車に揺られてちょっとした小旅行気分で行っとるんだ。菖蒲を息子の嫁さんや孫や茶飲み友達に任せてな。不謹慎かもしれんが、それはそれで楽しく、生き甲斐にもなっとるんだよ。だからおまえさんは何も気にせんと、おまえさんのやるべきことを頑張りなさい。ご両親には私から伝えといてあげるからね」

いかにも好々爺というような気のいいその笑顔に静夜は心を解きほぐされ、自然にうなずきと微笑みを返した。

「浅葱さん、最後にひとつだけ教えていただきたいことがあるのですが」

「何だい?」

静夜が三人をちらりと見ると、彼らは静夜の気持ちを察して先に外に出ていった。

「何かな、教えて欲しいことって」

「…はい」

浅葱と二人だけになると、静夜は長らく自分の心の中にしまってあった問いをこのとき初めて口に出した。



その後四人が宿に入ったときにはすでに日が暮れていた。真鍮の砦に向けて出発するのは明日の昼と決めていたのであとは各自部屋で休むだけだった。

皆で夕食を済ませて久遠が部屋に戻ってくると、室内の床に折り畳まれた便箋が落ちていた。誰かが扉の隙間から滑り込ませたらしい。

(何だろう)

開いてみると綺麗な字で『中庭の花壇のところに来て欲しい』と書かれていた。ひと目で静夜の筆跡だとわかり、どきりとした。

(静夜、なんでわざわざこんなふうに…何の用事かな)

旅に出てから静夜とは二人だけでまともに会話をしていない。界と曜の手前、必要に応じて言葉を交わす程度でなるべく避けてきたので、妙に緊張して気が重かったが、さりとて知らんぷりもできないのでしかたなく部屋を出た。

中庭にやってくる。花壇の前、宵闇と建物の明かりの混じるところに、迦楼羅を背負った静夜がじっと立って久遠が現れるのを待っていた。彼はいつ何時も迦楼羅を身に帯びていた。

「…こんなとこに呼び出して、いったい何の用?」

気まずさと訝しさから、つい口調がつっけんどんになる。

「…久遠」

振り向いた静夜の顔に笑みはなかったが、かと言って待たされた苛立ちや焦りもなく、白い月のように凛と冷めて落ち着き払っている。二人きりで真正面から顔を合わせるのは久しぶりだ。

(…そんなふうに見られると、なんかふわふわする)

反射的に無関係な方角に視線を逃がした久遠に静夜は言った。

「突然すまない。でも、どうしても君に話したいことがあって」

「…何?」

「…俺の両親の…墓参りのことなんだが」

「お墓参り?」

久遠は思わず語尾をきつく跳ね上げ、眉根と頬を強く歪めた。

「それならさっきいつか諸々区切りがついてから行くって言ってたじゃないか。違った?」

静夜は少し躊躇ってから肯定と否定をともに示した。

「いや、そのとおりだ。それはそうなんだが…」

言いにくそうに言葉を濁す静夜の様子に久遠は眉を逆立てた。てっきり明日の行程や今後のことで相談があるものと想像していたのに、まさか今日のうちに結論の出た話題にまた立ち返るとは思っていなかったので、肩すかしの上不意打ちを食らったようで神経がざらりと毛羽立つ。

「…いったい何なのさ。早く言ってよ」

すると静夜は急かされて少し困ったような顔でようやく本題に入った。

「君に頼みがある。今はまだ行けないが、いつかすべて片がついたら、君に一緒に両親の墓参りに来てもらいたいんだ。…一番最初に」

「はあっ?」

久遠は呆気に取られ、声を裏返らせた。

「おまえの両親のお墓参りに、どうして僕が?そんなこといきなり言われても困るよ。僕じゃなきゃ駄目なの?」

「だから頼んでるんだ」

「ああ、そうか。わかったよ。僕は役立たずで戦力にならないから、代わりに全然関係ない付き添いとか手伝いとかさせる気なんだね」

「…関係ない?」

ここまで辛抱強く冷静に構えていた静夜の表情が初めてかすかにぴくっと震えた。

「僕なんかには荷が重い旅に連れてきたと思ったら、今度は旅の目的とは直接関係ない役割与えて…それで満足?静夜にとって僕ってどれだけ都合のいい存在なの?」

(駄目だ…こんなこと、絶対言っちゃいけない…!!)

「俺はけしてそんなつもりでは…」

ささくれてひりつく言葉の端々が、話す口と聞く耳の両方を仮借もなく苛む。しかし久遠は心の奥に膝を抱えるもうひとりの自分が意固地な牙を剥くのを抑えられず、なおも突っかかった。

「お墓参りに連れていくなら、僕よりあの場所に縁がある姉さんの方がふさわしくないか?だっておまえが真実を知ってお墓を見つけ、煌狩りを抜ける決意をしたのは元をたどれば姉さんとの出会いが始まりなんだから。僕なんかが行っても意味ないし」

「君を都合良く扱うつもりなどない。俺は本当はこの旅に君を連れてきたくはなかった…だが、それが…そうすべきだというのが永遠の考えだったから」

知らず知らずのうちに熱いもののにじみ始めた緑色の瞳がぎらぎらと燃え上がり、静夜を睨みつける。

「だったら断ればいいじゃないか。そんなに僕を連れてくるのが嫌だったのなら、姉さんがどう言おうと拒絶すればよかっただけの話じゃないか」

「嫌だったわけじゃない…そうじゃなくて、俺はただ…永遠の犠牲に報いるために、彼女の意思や判断を尊重したくて」

静夜の想いは常にひとつだった。永遠に償いをするのも、死に至る罰を受け入れたのもすべて、久遠に誇れる自分、久遠に一番側で笑いかけてもらえる自分になれる望みに賭けていたからなのだ。だが静夜は自分の気持ちを躊躇いなく伝える滑らかな舌を持ち合わせず、久遠は彼の秘めた覚悟と願いを理解しなかった。

「それで、罪滅ぼしのためにしかたなく僕を姉さんの代わりに連れてきた、って?馬鹿にするなよ!いくら役に立たないからって、僕はおまえの人形、持ち物じゃない!!」

たまらなくなって涙があふれ出し、久遠は顔面に両手を押し当て唇と肩を震わせた。生温かい滴が雨垂れのように手首を伝う。

「おまえのことがわからない…おまえはもう僕の知ってる静夜じゃない…!!」

そのとき静夜の灰色の瞳の奥で何かが音もなくひび割れた。

「…わからないのは俺も同じだ」

地を這うような低い声と赤の他人を見るような無表情に久遠ははっとする。

「以前の君は役立たずと揶揄され嘲笑われてもへこたれたりいじけたりはしていなかった。君らしく堂々と胸を張って明るく生きていた。…だが今の君はまるで別人だ。何が君をそんなふうに変えてしまったのかわからないが…君には失望した」

二人の間を結ぶ視線が一気に冷え込んだ。本心ではない言葉も、無為に過ごした時間も、もう取り戻せない。

「俺は君に求めすぎていたようだ。君がそういう気持ちなら、俺も理解してもらいたいとは思わない…もう話すことはない」

静夜はそれきり口を閉ざし、身体を返して歩き去る。

「…静夜…!!」

叫んでももう遅く、迦楼羅を背負った長身の後ろ姿は宵闇の帳に消えていく。

ひとりぼっちになった途端に後悔と孤独がどっと押し寄せ、引いていく波ですべてを失った。

(…ご両親のお墓参りの付き添いなんて大切な役目に選んでくれたのに…静夜は僕の母さんの墓に手を合わせてくれたのに…僕は…僕はなんてひどいことを…!!)

「…ごめん…ごめん、静夜…!!僕っ…本当は…!!」

ーー好き、好き、好き…おまえが好き…!!

ただそのひと言が言えなくて、暗闇の中に立ち尽くす。

(…もっと素直になりたい…もっと静夜の近くに、一緒にいたい…なのに…なんで僕、こんな言い方しかできないんだろう…)

「うっ…ううっ…あああ…!!」

自分で自分の肩を抱きしめ、幼子のようにむせび泣く。

ぬくもりを忘れた寂しい頬を、詮無い涙が後から後からこぼれ落ちていった。
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