転生魔女のウィッシュリスト

左衛木りん

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やりたいこと1 猫に触る

1ー5 死闘はワルツのように

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ルシンダの母、レジーヌ・オルフェルネスは錬金魔術師としては平均的だったが、二人の娘に対しては非常に教育熱心で支配的だった。ルシンダが物心つくかつかないかという頃に同じく錬金魔術師だった夫が不慮の事故で死んだため、遺された二人の娘たちだけが心の支えだったであろうことは想像に難くない。

二人の姉妹は幼くして潜在的能力を開花させ、孤独な母の期待に応えるかのように、両親を遥かに凌ぐ天才的な錬金魔術師へとぐんぐんと成長した。姉妹の評判はたちまち国中の錬金魔術師の間に広まったが、その半分は彼女たちの才能、そして半分はその若さと美貌についてだった。独身で遊び盛りの青年というものは、ことその手の話題には耳ざとい。かくして麗しの錬金魔術師姉妹の存在は同業の錬金魔術師たちから王侯貴族、そして一般市民層へと知られるに至り、母娘の暮らす王国西方の僻地ロンデムーレの錬金魔術工房にはこれを聞きつけた男性たちがモンスターと遭遇する危険も厭わずどっと押し寄せた。音に聞こえるその美しさをひと目拝もうと興味本位で訪れる者が多数だったが、中には花束や贈り物を携え、姉妹のいずれかに真剣な交際や求婚を申し込もうとする猛者も大勢いた。

しかし、教育熱心な母親の例に漏れず、レジーヌにとって愛娘たちが得体の知れない異性と接触するなどということは論外で、家や工房の敷地内に無断で侵入した上二人の娘に言い寄ってくる男たちにレジーヌは大いに苛立っていた。頼れる夫を亡くした今、自分にとって生きる希望は二人の娘しかいないと固く信じていたので、その娘たちをたぶらかし自分から奪い取ろうとする男たちに我慢がならなかったのだろう。家の周りをうろつく者は野良猫よろしく追い払い、ポストに詰め込まれた恋文はその場で破り捨て、果敢な訪問を試みる者には炎や氷の矢を容赦なく投げつけて引導を渡した。その後、長女が十七歳で不幸な死を遂げると、ただひとり手許に遺された下の娘だけは失うまいとますます頑迷になり、ルシンダの教育や家の周りの監視に躍起になった。

やがてルシンダが成長し十七歳を迎えた頃、母娘の前に二人の貴公子が現れた。二人はエスターブリッジ侯爵とベルンシュタット侯爵の跡取り息子で、ともに十八歳の血気盛んな若者だったが、上流階級の令息特有の自意識やわがままさと、同い年の幼なじみという関係性からか、事あるごとに張り合ってはしょっちゅう問題を起こしていた。学業や剣技の腕前は言うまでもなく、懇意にしている貴族や高価な買い物、果ては何人の女と付き合っただの娼館でこんな経験をしただのというあけすけな話に至るまで、あらゆることで日々競い合っていた。そんな二人が辺境の地に暮らす謎めいた深窓の魔女の噂に関心を抱かないはずがない。二人は互いに出し抜かれまいと従者や用心棒を引き連れてロンデムーレに急行し、何の因果か、オルフェルネス家の緑の垣根の外で呆然と肩を並べて魔女の部屋の窓を見上げることになった。

かくして二人の貴公子はーーいや、この二人の貴公子も、他の若者たちと同じようにルシンダにひと目惚れしたわけだが、それだけならルシンダの印象にこれほど強く残るはずもない。この二人は他の若者たちと同類に見えてその実彼らとは一線を画し、少なからず特殊な結末を迎えるのである。

ルシンダに対し熱烈な求愛を始めた二人は当然の如くレジーヌの攻撃対象となった。これまでレジーヌに警告された男たちは皆尻尾を巻いて逃げ出す腰抜けばかりだったが、この二人は筋金入りのルシンダの崇拝者であり、同時に相手にとっての最大の恋敵だった。レジーヌの激しい牽制と警告に遭い、ライバルたちが次々と脱落する中、この二人の貴公子は恋した娘を我が物にするためなら母親などなんのその、垣根の向こうから着飾った容姿を見せつけたり、従者にモンスターに似せて作らせた特大の人形相手に自らの剣技を披露したり、自作の気障な歌を歌ったりしてレジーヌの神経を逆撫でし、ルシンダや弟子たちを困惑させた。そして夜になると家の周りの森の中に野宿して居座り、燈の灯るルシンダの部屋の窓を眺めてその様子を観察するなど無礼で過激な上、挙げ句の果てには相手を蹴落として諦めさせようとくだらない喧嘩まで始めた。ここで魔女の堪忍袋の緒が切れた。もうこれ以上は看過できぬ、と怒り心頭に発したレジーヌはついに禁断の術に手を染め、二人に猫に変身する呪いをかけた。この呪いは二人から人間の姿形を完全に奪い、一生猫の身体で生きることしかできなくする極めて強力な術だった。猫がレジーヌの毛嫌いする動物だった点に若干の私情がにじんではいたものの、その決断が母の忍耐と容赦のまさに裏返しであったことは、それまでずっと母の様子を見つめていたルシンダには十分に理解ができた。

二人の貴公子の心身にもこの報復は堪えた。エスターブリッジ卿は白猫の、ベルンシュタット卿は黒猫の姿に変えられてしまい、プロポーズや喧嘩はおろか、人間として当たり前の会話や活動すらままならなくなった。そして遅まきながらこのとき初めて自分たちが少々やりすぎたことに気づき、後悔と反省の念に襲われた。そこは育ちの良い貴族の令息、良心の最後のひと欠片が静かに作用して二人は争いをやめ、しゅんとしておとなしくそれぞれの領地に引き揚げていった。レジーヌが怒りのあまりとうとう禁呪を行使したとの噂が広まると他の有象無象たちも恐れをなして蜘蛛の子を散らすように退散し、ようやくロンデムーレに平穏が訪れたのだった。

ルシンダや弟子たちはひとまず胸を撫で下ろしたが、レジーヌはというと、もともと錬金魔術師として突出した器ではなかった上に使った呪いの術があまりに強力だったため反動で魔力と体力を著しく消耗し、しばらく休養を余儀なくされていた。彼女の代わりが務まるのはルシンダの他に誰がいよう。ルシンダはひと息つく暇もなく工房の指揮を執り、弟子たちの助けを借りてレジーヌの代理を見事に、いや、レジーヌ以上の仕事を完璧にこなしてみせ、その能力を改めて証明した。

しかしそんな忙しい日々の中、ルシンダの心の内にはだんだんと靄が立ち込め、彼女は晴れ晴れとしない気分に陥ることが多くなった。原因は呪いにかけられたあの二人の貴公子の存在だった。手が空いたときやふとした瞬間に彼らは今頃どうしているだろう、自分に関わったせいで人生が暗転して絶望のどん底にいるのではないか、と考えて無性に落ち着かないのである。それは例えば掃除をさぼって汚れ散らかっている部屋を見て見ぬふりしているような、あるいは向こうの方で人が落とし物をしたのが見えたのに何もせず通り過ぎてしまったような。ルシンダ自身は彼らには何の感情もなく、むしろいなくなってくれてもっけの幸いだったが、さりとて無視するのも忍びなく、忘れ去ることは不可能で、心を決めた彼女は母には秘密で一番信頼できる弟子を両侯爵領と王都に遣わせてそれとなく様子を探らせた。結果は、彼女が概ね予想していたとおりだった。

鬼の居ぬ間に洗濯、という表現は正しくないかもしれないが、報告を受けて二人の貴公子の行く末を憂えたルシンダは一計を案じ、母が自室にこもって休んでいる隙にこっそり母がかけた呪いの仕組みを調べ、その効果を打ち消す上位の強力な魔法を込めた二つのペンダントを夜なべして作り上げた。これを肌身離さず身につけていれば二人は人間の身体を取り戻すことができる。ルシンダはそれを例の弟子に託し、今後は馬鹿な振る舞いや悪目立ちはせず真面目に暮らすこと、そして自分たちには二度と関わらないことという伝言を添えて彼を送り出した。深夜ひそかに発つ彼を見送ったときの心のすっきりしたことーー自分のやれることはやった。あとは彼らの受け止め方と生き方次第。これでこの話は一件落着ーーのはずだったのだが…。

(…お母さんがあのドラ息子たちにかけた呪い、完全に解けてないじゃない…!!)

あれから二百年もの月日が経った今、ロバに跨って揺られながら、ルシンダはひそかに歯噛みしている。すっかり錬金魔術師としてのプライドを傷つけられた気分なのだ。しかしあまりイライラしているとその感情がロバに伝わってしまうだけでなく、綱を引いているテリーザにまで気取られ怪しまれるかもしれないので、精一杯表情には出さず無関心を装っていた。

(てっきりあのペンダントの効果で二人は普通の人間に戻ったと思ってた…なのに、なんで今のこの時代にまだ呪いが続いてるのよ…)

ルシンダは特別に乗せてもらった荷物運搬用のロバの鞍上からそうとはわからない程度に背を伸ばしてそうっと前方の様子を窺う。目当てのカナンとエリオは隊列の少し先の方、小隊長サリオンの馬の後ろを守るように並んで歩いている。今は昼間なので当然その姿は人間だ。王都への帰路に帯同して二日目、森や岩場の点在する丘陵地帯を貫く街道の上。ここまでは特に変わった出来事もなく、結局昨日の朝以来ルシンダは二人と一度も接触できていなかった。

(納得できないわ…あの解呪のペンダントはメギオクラフトとして完全な品だった。今でも、何度思い返しても自信があるもの。ただあの後すぐにそれどころじゃない大事件が起きたから、ペンダントの効果を確かめたくても確かめられなかったのはしかたのないことだけど)

事実あの二人は人間に戻って元どおりの暮らしを送ったのかもしれないし、実はそうではなかったのかもしれない。現に今のカナンとエリオはあのペンダントと思しき品を身につけていながら依然時折猫に変身してしまうという。こうなると考えられるのは母の呪いの術の構成に不確定要素を残す瑕疵があった、もしくは母がそれを意図的に仕込んだ可能性だが、その場合あのペンダントは完全であるがゆえにかえって不完全、というか不十分な代物ということになり、この現実が職業人としてのルシンダにとって最も手痛い一撃なのであった。

(もしそうなら私はお母さんの呪いの穴を見抜けなかった上に、善人ぶって自己満足に浸ってただけのただの間抜けってことか…)

抱えきれないほどの疑念と不甲斐なさに悶々とし、つい癖で唇をもごもごさせながら眺めていると、話しながらカナンがエリオを突っつき、エリオがそれを振り払って、と、二人は何やら仲が良さそうに絡んでいる。人生に障るほどの呪いもなんのその、と言わんばかりのほのぼのとして気楽な雰囲気が、胸のもやもやに拍車をかける。

(ご先祖様の二人は喧嘩ばっかしてたけどなあ。それに多分、顔も…はっきりとは憶えてないけど、あんまり似てない気がする。二百年も経つといろんな人の血が入って変わってくるものなのかしら)

現代の二人が過去の二人より美形であるのには違いないが、だからといってルシンダの心はまったくなびかない。彼女が愛でたいと思うのは猫としての二人なのだ。カナンにはからかわれて何かと腹が立つがあのもちもちの触り心地は忘れようにも忘れられないし、まだ触ったことのないエリオの方はなおさら触りたくてしかたがない。その点でも二人に近づきたくて目を爛々と光らせているルシンダだった。

(それにしても仲の良いお二人ですこと…)

カナンとエリオはさっきからずっと雑談に花を咲かせている。というより、カナンが一方的にエリオにちょっかいを出し、彼の反応を見て楽しんでいるらしい。エリオの方はというと、カナンのちょっかいに対しときどき怒った素振りを見せつつも慣れた調子であしらい、最後は鬱陶しそうに突き放して溜め息をついている。おそらくこれが幼少期から変わらない二人の日常なのだろう。そんな二人にちょうどあの若いラウルが後ろから駆け寄って話しかけたので、これは何か興味深い話が聞けそうだ、とルシンダはさらに聞き耳を立てた。

「ねえねえカナン先輩、エリオ先輩!今もみんなと話してたんですけど、お二人は王都に帰って休暇をもらったらどうするんですか?何か、予定とかあるんですか?」

すると鮮やかな反応速度でカナンが答えた。

「予定?そうだな、まずはサロンに顔を出して、それから服を新調してカフェ・ル・シーニュでスフレを食べて、夜になったらジゼルとマリエッタとロザリーンに会いに行く」

「えっ!?」

(…は?)

ラウルが素っ頓狂な声を上げ、同時にルシンダも眉をひそめる。

「今の、女の子の名前ですよね!?カナン先輩、三人も彼女がいるんですか!?それって三股じゃ…」

すかさずエリオが鋭く割って入る。

「恋人じゃない。高級娼婦だ」

(あっ、そういうこと…)

故郷の僻地をほとんど出たことがなかったルシンダはいわゆる大人の遊びや夜の世界というものを知らないが、なんとなくの想像はできた。あまり積極的に知りたくはないけれども。

「僕の女神たちのことちゃんと憶えてくれてたんだな、エリィ」

「頼んでもないのにおまえが自分から自慢げにひけらかしてくるからだろ!」

「自慢なんてしてないよ。ただ純粋に君にも彼女たちの美しさを伝えたいだけで」

からかっているのかそうでないのかわからない巧みな笑みで覗き込んでくるカナンの瞳を遠ざけるように、エリオはぷいとそっぽを向いてしまう。二人のやりとりにラウルは口をあんぐりとさせていたが、たちまち表情をころっと変えてカナンを輝くような尊敬のまなざしで見上げた。

「三人もの綺麗なお姉さんとおなじみだなんて、すごいです、カナン先輩!僕も先輩を見習って、綺麗なお姉さんたちに認められる立派な大人の男になってみせますっ」

「うむ。頑張りたまえ、少年」

「そういう点は見習わなくていい!」

の軽さから予想してはいたが、カナンの遊び人としての一面にはやはり呆れてしまう。それに年下には兄貴風を吹かせるくせに先輩の前では弟キャラを発動するラウルにも微妙にカチンとくる。そうでなくとも昔から人付き合いが苦手で住んでいた世界も狭いものだから、人間性や人間関係の情報処理が追いつかず、見ている分には楽しい反面、脳内が忙しい。ルシンダは神経の昂りから思わず溜め息をついた。

(ほんとは知らない人たちに囲まれて揉まれるよりひとりで本読んだり研究したりしてる方が好きなんだけど…家の工房が懐かしいなあ)

「どうかしたの、ルース?」

「…い、いえ!なんでもないです」

溜め息に気づいて声をかけたテリーザにルシンダは慌てて笑顔を作ったが、その間にも三人のおしゃべりは続いているのでまったく気が抜けなかった。

「エリオ先輩は帰ったら何するんですか?もしかしてカナン先輩と一緒にお姉さんに会いに行ったりとか?」

ラウルがのほほんとした口調でそう尋ねた途端なぜか周囲の者が聴覚をピリッと尖らせたような感じが空気を伝わってきたが、エリオは至って冷静に答えた。

「馬鹿言え。俺がこいつの趣味に付き合うわけないだろう。女遊びなんて冗談じゃない。たとえ休暇中でも俺は忙しいんだ」

「え!忙しいって、侯爵領に帰るとか、鍛錬とか勉強とかですか?せっかくのお休みなのにもったいない…」

「違う、違うぞ少年!」

突然横槍を入れてきたのはもちろんカナンだ。

「エリィにはリリアナ王女というこの上なく高貴な婚約者がいるんだ。いずれ王室に婿入りする身だから、女は嫌いだって言って品位を保ち貞操を守ってるんだよ。おまえ、知らないのか?」

「あ…!そういえばそうでしたね!」

なんと、エリオは王女と婚約しているというのだ。女に興味なさそうな顔をしておいて、いったいどんな狡猾な手段を使ってプリンセスの心を射止めたのだろう。カナンならともかく、エリオの雰囲気からしてそんなふうには見えないのだが。

(知らない女には絶対近づきたくないって言ってたのに…いや、もしかして政略結婚ってやつなのかな)

当の本人は公の事実に対してなぜか顔を少し赤らめ、腹を立てているようだった。

「…そ、そういうことを大声で言うな!!王女殿下に失礼だろう!!第一、俺は別に婿入りするからという理由で自分を律してるわけじゃ…!」

「じゃあ、なんで夜遊びしないの?」

「…んですか?」

「それは…!だから、俺は忙しいんだってさっきから言ってるじゃないか!」

『へえ~?』

露骨にニヤニヤとした視線を両側から浴びせられ、逃げ場すら見つからないエリオは後方からでもわかるほど肩を怒らせてずんずんと行軍を続ける。

(そうそう、うちの工房の弟子の男の子たちも、仕事が終わった後毎日のように同じレベルのくだらない話してたな…女はおしゃべりでうるさい、なんて陰で言って、私より年上のくせして…あいつひとりを除いて)

他の弟子たちとは一線を画する唯一のその者のことを思い出し、ルシンダは死の強烈な一撃が身に食い込むのを錯覚した。知らず、唇が固くねじ曲がった。

(それにしても、二人はなんで騎士になったんだろう。二人とも生活や将来には不自由しない家柄のはずなのに、わざわざ体力的にきつくて命の危険もある職務に就くなんて)

テリーザは二人には意思と能力と適性があると言っていたし、二人自身も猫の身体は偵察に向いていると明言してはいた。だが本当にそれだけだろうか。結局わからないことだらけーールシンダが過去と現在のごちゃ混ぜの思考に引きずり込まれ、ぼんやりと没入しかけたときだった。突然隊列にざわざわざわっ、と異様な気配が走り、同時にガチャガチャ、キイキイ、と耳障りな音が風に乗って流れる。誰かがすぐさま大声を上げた。

「みんな、気をつけろ!!敵襲だ!!」

(敵!?)

『!!』

カナンが、エリオが、そしてラウルやジョシュたちが緊張感も露わに次々と剣を抜いて身構える。ルシンダは命の危機に落ち着きを失くしておどおどと足踏みをしているロバの首をとんとんと叩き、大丈夫大丈夫、と小声で言い聞かせながら、素早く迎撃の陣形へと展開する騎士たちの動きに目を走らせた。騎兵たちが第一陣を蹄に引っかけようと最前線に躍り出、最高指揮官である隊長の騎馬や荷馬を徒歩の騎士たちが取り囲んでいるが、その中でカナンとエリオは相変わらずすらりと軽装ながら誰よりも自信ありげに前に出てきている。と、テリーザが右手に剣を、左手にロバの手綱を固く握りしめて振り向いた。

「大丈夫。あなたは私が守るから、このままじっとしてて」

「はい」

(私は平気なんだけど、このロバさんが怖がって暴れないかの方が心配…)

生前は薬草採集や鉱山巡回の道中の魔物退治など朝飯前だった。とはいえ当代のこの世界にどんな異形のモノや強敵が跋扈しているのかまったく予想がつかない。油断は禁物ーーその言葉をルシンダが胸に刻んだまさにその瞬間、岩陰から何かが飛び出した。エルフを小柄かつ醜悪にしたような容姿、無骨でぼろぼろの装備、そして何より人を小馬鹿にしたようなその動き。ルシンダも思わず安心するほど見慣れたおなじみのモンスター、ゴブリンだ。その数、およそ数十。

「おいでなすった!!」

カナンの明るい声が響く中、騎士団とゴブリン一党は両者雪崩れ込むように戦闘に突入した。棍棒やシャムシールを振りかざして襲いかかるゴブリンたちを主戦力である騎兵が馬上から薙ぎ払い、倒れた者はそのまま馬が容赦なく踏みつけ、運良く騎兵の包囲網をくぐり抜けた強者はカナンたちが当たるを幸い斬り捨てて始末する。錬金魔術師とは違う人間たちの戦い方、目の前で繰り広げられる壮絶な光景に、ルシンダはロバの鞍の上で目を見張っていた。

ゴブリンが旅人や行商のキャラバンを襲う目的は殺戮そのものではなく、人間の盗賊と同じで金品や食糧を奪うことと相場が決まっている。しかし襲われる方は大切な財産や食べ物を渡す気などないし、うっかり深傷を負ったり最悪の場合殺されたりしてはたまったものではない。つまり両者とも、殺す気はなくとも互いに殺し合うほどの気迫でぶつかる宿命なのだ。その中にあってカナンは剣のワルツを披露するかのように華麗に、エリオは表情ひとつ変えず淡々と優雅にゴブリンを仕留めている。剣術の技量もさることながら二人は実に美しく強力な剣を所持していて、一兵卒なのに他の騎士たちより飛び抜けているようだ。経験豊富なルシンダの目には一見しただけでも騎士たちの持つ剣がすべてメギオクラフトであることは明らかだが、その中でもカナンとエリオの剣は何か次元の異なる別格の品のようだった。

(この様子だと私が手を出す必要はなさそうだな…)

ルシンダは内心ちらりとそうつぶやき、鞍上でわずかに浮かしていた腰をそっと落ち着けた。しかしゴブリンをあらかた退治したと見えた頃、今度はサリオンが叫んだ。

「皆、油断するな!まだ来るぞ!!」

サリオンは新手の敵の接近を感知していた。騎士たちがハッと顔を上げたときにはすでに先ほどよりもさらに多くの、雲霞の如きゴブリンの大軍が蝟集してきていた。動揺が走り、皆の顔色がみるみる変わった。

(人間が第一陣のゴブリンに気を取られている間により数の多い第二陣を接近させる作戦ね。ゴブリンは数で勝負な分頭が悪いから、相手には確実に知能と統率能力の高い首領がいる。今ここで仕留めておかないと後々犠牲者が増えてしまうわ)

確信したルシンダは意識を改め、いつでも魔法を発動できるよう手に魔力を込めながら周りに注意を払う。カナンたちはゴブリンの増援部隊に対し再び応戦したが、メギオクラフトの剣を持ってはいてもやはりそこは人間の肉体、ここにきて長旅の疲労が現れたか、ほとんどの者は動作にキレがなく身体が重たげだ。さらに悪いことにゴブリンの援軍は圧倒的な人数で向かってくる。形勢逆転とまでは言わずとも、今は確実に人間側が押され始めていた。

カナンが目の前に立ち塞がってきたゴブリンを薙ぎ倒してエリオに駆け寄った。

「このままじゃ埒が明かない。あれを使って一掃しよう、エリィ」

死に際に倒れかかってきたゴブリンの汚い身体を蹴り飛ばしたエリオは、それを聞いて血相を変え怒鳴った。

「正気か、おまえ!?あれはもう遠征でほぼ限界なんだ。今使ったら王都に戻るまで二度と使えなくなるぞ!」

「でもあと一回は使える。温存しても仲間が死んだら後悔するだけだろ?」

「っ…!」

カナンはこうして大義の名のもとでときどき無茶をするのだ。そして大抵の場合その妥当性からエリオは拒否できない。今度も彼は懸念をぐっと堪えてカナンの提案を飲んだ。

「わかった…だが明日以降どうなっても全部おまえの責任だからな!!」

「そうこなくっちゃ」

意見が一致すると、二人は固くうなずき、背中合わせになってそれぞれの剣を構え直した。混沌とした戦場の中心のその地点にだけ、息を詰めたような静淑が突如として生じる。

(何?二人はいったい何を…)

ただならぬ予感に、ルシンダも思わずこくんと喉を鳴らして彼らを見つめていた。
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