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1巻
1-2
しかしなんの因果か、今はそのゲームの世界の住人になってしまった。それが一番ミステリー。
ところで私は、屋敷の隅っこで隠れるようにして生きているのだが、このまま蟄居していられるなら、ラスボス王子の従者にならずに済むのではないかと考えている。ネロディアス王子に会わなければ従者のなりようもなく、ゲームに巻きこまれることはないからな。
それに、書庫で暮らすのは大歓迎だ。いや、ちゃんとノワールの子供部屋はあるし、三食出る良い暮らしだよ。むしろ三食昼寝付きで読書三昧だ。つまり文句なしなので、ラスボスにみつからないよう、このまま屋敷の奥に隠れていたいということ。
引きこもりと言うなかれ、私は両親の命令で奥にいるのだからね、たまたま利害が一致しているだけである。
というわけで、死亡回避するべく、まずはできる限り屋敷の奥でひっそり暮らすことを目標にした。とても地味な作戦だが、みつからないことが肝要だ。
篠として客観的に見たとき、この生活の中で子供のノワールに足りないものは、親の愛情くらいなものだ。今の両親は私をいないものとして扱い、養っているけど放置しているからな。
しかし私には篠の記憶があり、前世では親に愛情をかけてもらった。私の両親は前世の両親だけでいい。
まぁ、アラサーの篠には、三百年もの長きにわたって脈々と受け継いできた公爵家を途絶えさせられない、という公爵家の体面とやらが少しはわかるんだ。でもそれでネグレクトは駄目だし、全然擁護はできない。
だけどそういう大人の事情はさて置いて、折檻や飯抜きさえなければ、大人の記憶を持つ私は悠々自適気分で暮らしていけるということだ。
ただ手も足もまだまだ小さく働くのは難しいので、もう少し育てていただければありがたいです。
穏便に、ゲームが終了する十八歳まで屋敷の奥で生活させてもらえたら、とっとと町に降りてひとりで生活しますので、お構いなく。という心情であった。
「あ、ひとりで暮らすなら料理もできたほうがいいな」
そう思い、私は読み終わった魔術書を棚に戻し、料理本を手に取るのだった。
★★★★★
粉雪がパラパラと降りかかる寒い日。
私は女装して馬車に乗りこみ、王宮へ向かっていた。
外で雪が降りしきっていても、温かい部屋でぬくぬくと暮らしていた深窓のご令息だったというのに、いきなり外の冷気を浴びる事態になり、頬が引きつっている。
「どうしてこうなった?」
ラスボス王子に会わないよう、屋敷の奥でひっそり暮らすことが私の目標であった。なのに、そんな私がなぜラスボス王子のテリトリーである王宮に向かっているのかというと……話は一時間前にさかのぼる。
一時間前、私は子供部屋にて読書をしていた。暖炉に火があり、ぬくぬくである。
そこに、久しぶりに父上が姿を現し、開口一番言ったのだ。
「ノワール、急いでこのドレスを着るのだっ」
あまりにも脈絡がなく面食らったが、父上にはちゃんと理由があった。
父上が言うには、今日は第二王子のご学友候補を選ぶためのお茶会が王宮で開かれていて、そこに王子と同い年のアベーチェが招かれたらしい。ネロディアス様はあまり体調がよろしくなかったようで、顔を青くしていた。そんな王子に、アベーチェが自慢げに言ったそうだ。
「ぼくが具合が悪いときは、兄上が治してくれるのです」
父上はすぐにアベーチェの口を手でふさぎ、兄上のことを口にしてはいけないと注意した。しかし第二王子はしっかり聞いていて、目を光らせた。
「我も、その者にこの具合の悪さを治してもらいたい。公爵、頼む」
第二王子のみならず陛下にもお願いされた父上は、私の出自を隠すのを条件にして依頼を引き受けた……ということらしい。
「王宮では誰の目があるかわからないから、念のため女装をしておくのだ。おまえは公爵家の遠縁の娘という態だ」
公爵家に黒髪で魔力のない息子がいると知られてはならない。それで父上は私に紺色のドレスを持ってきたというわけ。
口答えを許さない雰囲気に満ち満ちた父上の高圧的な態度が、私は苦手だ。なので、おとなしくドレスに袖を通したよ。しかし中身アラサーリーマンの篠はドン引きである。
モーラが姿見を見せてくれたのだが、彼女が上手に着つけてくれたからか、鏡の中にはまぁまぁ可愛らしい少女がいた。
普段の私は黒髪ロングで、なにやらホラーチックな日本人形の様相だ。横長の目つきに、生気のない黒い瞳。モブゆえか、小さな口に主張のない鼻で、自分の顔ながら、簡素で陰気で不気味だと思っていた。
だがモーラのブラッシングにより、いつもより髪が艶やかになって……まがまがしさが薄れた日本人形くらいにはなったかな。
横髪は胸の前に垂らし、腰まで伸びていた後ろ髪はウエスト辺りで綺麗に切りそろえられた。耳の上辺りから頭頂部にかけて結わえて、髪飾りでとめている。前髪は目の上辺りで自然に横わけにしてある。前髪ぱっつんだと日本人形まっしぐらだから、それでいいです。
慌てて調達したらしいドレスは、胸の前にフリルがあって、袖はふわりとしたフレアー型、濃紺の落ち着いた色合いだ。スカート丈は膝下十センチ、この国では雪が積もっている日のほうが多いので、女性は裾を引きずるようなスカートははかない。スカートの下にパニエというボリュームを出すものをつけると、腰回りが温かく、スカートもふわりと広がる。
そして足には厚地のタイツをはいて、編み上げのロングブーツを着用するのが定番だ。
ドレスの上には白い毛皮のケープを羽織り、前をリボンで留める。
しかし六歳だから体が成長しきっていなくて、男の子なのに、ドレスを着ても違和感がないのが悲しい。自分の顔にあまり興味がなかったから、そのときはじめて自分の顔を鏡でじっくり見たが、造作がちょっと女子っぽいかな?
目は吊り気味で細めだから愛くるしい系の女子ではないけど、白い肌にぽつりと浮かぶ右目の下の泣き黒子が目を引く。あ、まつ毛も長いな。それで女子っぽく見えるのかもしれない。
そんな経緯があって、私は女装をして、ラスボス王子のところへ向かっている最中なのだった。
あぁ、できれば一生関わりたくなかったのに、まさかアベーチェが余計なことを言うとはね。しかし家長の命令は絶対。働ける年齢になるまでは養ってもらうため、ラスボス王子のもとに向かわなければならない。
それにアベーチェを見ていると、魔力過多は相当気持ち悪そうだから、私を殺すだろうラスボス王子とはいえ放っておくのは可哀想だね。
特に王子に遺恨があるわけではないのだ。あれはゲーム上の話で、現状私が王子になにかをされたわけではないから。しかし殺される未来は遠慮したいので、チュッと吸ってサッと帰ろうと思っている。
馬車の車窓から通りがかりに見える一面真っ白な雪景色の美しさに目を奪われた。横に長くて大きい王宮の外観にも圧倒される。
私がこの異世界に転生して、屋敷の奥から出るのははじめてのことだった。本から知識は得ていたが写真などはなく、ストラーレン王国の町や人々や王宮の様子などは想像の域を出ない。なので、目に映る風景はどれも新鮮だ。
けれど、行く先は私を殺すラスボス王子のもとだから、心が浮き立つことはない。
馬車が止まり、一足先に降りた私が降車する父上を待っていると、ドーンという大きな物音が鳴り、少し離れたところで火柱が空に向かって上がった。
「お茶会が催されている場所の方角だ。アベーチェが従者とともにそこに残っているのだ。早く行くぞ」
父上にうながされ、私はお茶会会場を目指す。しかし、父上は雪道を歩くことに慣れているのだろうが、外出を許されなかった私は雪に足を取られてしまう。石畳はある程度除雪されているのだが、ブーツが滑りそうで怖い。
そうしてギクシャク歩いていると、半泣きのアベーチェが駆け寄ってきた。
「父上ぇ、大変です。お茶会が終わるところだったのにぃ、王子がどっかーーんしちゃったのぉ」
そう父上に報告するアベーチェだったが、私をみつけて目が真ん丸になった。
「あ、あ……」
兄上と言いたいのだろうが、それは内緒なので、口の前に人差し指を当てた。女装中に兄上呼びはご遠慮いただきたい。
アベーチェは手で口をおさえる。可愛い仕草で、私は思わずほっこりした。
とはいえ、緊急事態だ。私たちは急いで外から回り、お茶会会場のある部屋の庭へ向かった。
庭の真ん中に火柱が立っていて、その中心に人がいた。
普通なら、人が火だるまになっているのかと慌てるのだろうが、私はこういう場面を何度もゲーム上で見ている。
小さいけれど、間違いない。金の髪と白地の盛装が炎越しにオレンジ色に光っている。炎の起こす熱風に、豊かな髪が揺らめいていた。口をへの字に引き結び、子供でも威厳を保ち胸を張り、炎の中でするどい目つきをしている。
炎の中に立っているのは、ラスボス王子こと、ストラーレン王国の第二王子ネロディアスだった。
王宮の庭に火柱が上がり、大人たちが右往左往する中、私は迷わず彼に近寄って行った。
彼を取り巻く魔力は、湧出する噴水のように間断なく噴きあがっている。とてもではないが、小さな体では抱えきれない莫大な魔力量だと、ひと目でわかった。
「危ないからこっちへ来るな。怪我をするぞ」
自分のほうこそつらく、どうにもならないのだろうに、王子は私の身を心配して声をかけてきた。ゲームでは冷酷無慈悲なラスボス王子だったのに、優しいじゃないか。
とはいえ彼が来るなと手を振ると、手のひらに乗っていた炎が私を目がけて飛んでくる。そこは配慮してもらいたいところだ。令嬢(仮)の顔に傷がつくだろうが。
でも私は魔法を相殺できるので、大丈夫。炎のかたまりは私の体に到達する前に、砂がこぼれるかのようにさらさらと崩れた。
苦しいのか、王子が炎の中で呻き、頭を抱えてもがいている。目を見開いて、はぁはぁと苦しそうな息をつく。どうやら魔力暴走になりかけているようだ。
アベーチェは、ちょっと体の外に魔力があふれるだけでも、頭痛がすると言って私のところへやってくる。魔力過多はそれほどつらいものらしい。
アベーチェ以上に魔力があふれている今の状態でなにもしなければ、さぞかし苦しいことだろう。
ゲームでは、ネロディアス王子は幼い頃に魔力暴走を起こし、数人死者を出した。それからは、ストラーレン王国一の魔力量の多さで本来なら敬われるべきところ、人殺しだと恐れられ忌避されてしまう。結果、自分を顧みない者たちをすべて焼き払いたいと憎悪を燃やす、悪の王子になるのだ。逆ハーレムルートで、王子が聖女にそのようなことを語っていた。
今目の前で起きているコレが、数人の死者を出すという魔力暴走事件かもしれない。
だが私は、これを止められるぞ。
苦しむ王子が雄叫びを上げると、火柱が膨れ上がって大きくなった。彼がいる庭は熱風が吹き荒れ、私の長い黒髪やスカートを揺らす。庭には雪が積もっていたはずだが、とけてしまったのか白い景色はまったくなく茶色い地面がむき出しになっている。かろうじて常緑樹が庭の周りを緑で彩っていた。ま、ブーツが滑らず、歩きやすいのは良いことだ。
というか、お茶会は室内で行われていたはずだが、こうして王子がひとりで庭にいるということは、おそらく被害を出さないよう配慮して庭に逃れてきたのだろう。賢明な判断だな。
だったら王子の気遣いを無にしないよう、この場をおさめないとね。無論、死者も出さない。
「来るなと、言っているのだっ」
王子はそう言うけど、構わずに歩を進める。でも炎のかたまりが飛んでくるのは、大丈夫だとわかっていても怖いので、手で払いのけさせてもらう。
私が手を振ると、魔法が弾かれるビィィィンという音が辺りに響いた。弾かれた彼の魔法は分解し、私の手の先で霧散する。
分解した魔法の粉が私の周囲に渦巻く。王子の魔法の質が良いからか、それらは虹色の残滓となって私の周りを輝かせた。
自分のあずかり知らぬところではあるが、まぁ、綺麗は綺麗だ。
王子のすぐそばにやってきた私は、ためらうことなく火柱の中へ手を突っこんだ。魔法を無効化しているから熱くはない。そして王子の手を握ると、私は警戒されないよう、王子に微笑みながら言った。
「御機嫌よう、王子。御無礼いたします、ゆっくりお休みください」
そう言っているうちから、王子の魔力を吸い上げた。
魔法ではないので、私は普通にしていても魔力が周りにあれば吸ってしまう。意識して吸うというのは、ジュースをストローで飲むように、あえて吸引する感じだ。
すると、ドゥゥゥゥルルンッ、というなにやら軽快な音が聞こえた……ような気がした。あれだよ、ゲームで武器を買うと、たまったお金が減っていく、あのときの効果音のやつ。もしかして、王子のマジックポイント消費音なのかな?
火柱は魔力を吸いこむごとに徐々に小さくなっていき、王子の魔力をある程度吸い取ったところで、私は王子の手を離す。でも王子は気を失って倒れそうになったので、私はぐったりした王子を慌てて抱きとめた。地面に倒れたら、白いお衣装が泥だらけになってしまう。
王族のキラキラ衣装など、私は弁償できないからなっ。
その頃には辺りはすっかり元の静寂が戻っていて、父上が駆け寄ってきた。
「どうなった? 王子は無事なのか?」
気絶する王子を私から引き取って、父上は聞いてくる。王子の心配しかしないのが、父上という感じです。思わず、苦笑。というか、冷笑。
そんな冷めた気持ちで、私は父上の腕の中にいる王子を見やる。
彼は子供だけど、しっかりラスボス王子であった。
あれだけの炎を体にまとわせても、怪我ひとつない。それは多大な魔法を行使しても、己になんのダメージも及ぼさないほどの魔力がある証だった。
魔法を発動する者は、無意識に体を魔力でコーティングするらしい。だから、手の上に炎を出しても、氷の槍を素手で握っても、痛くも痒くもないのだ。そう、魔法書に書いてあった。
しかし制御不能の魔法は、別。己の身を焼くこともある。
だけど王子は無傷で、麗しのかんばせも健在だった。さすがだな。
目を閉じていてもその目元は凛々しく、まつ毛は長い。スッと通った鼻筋、桜色の唇。ゲームで一番美貌の男、聖女を差し置いて美しい男なだけある。
「魔力を吸い取っただけです。膨大な魔力を短時間で吸引したので、体がついていけずに眠っているのでしょう。でも、魔力が回復すれば目を覚ましますよ。アベーチェもそうなので、大丈夫だと思います」
「そうなのか?」
父上はアベーチェに尋ね、彼はうなずく。
「兄上に癒されると、気持ちが良くなってお昼寝します。目覚めはすっきりさっぱりです」
ここら辺は誰にも聞かれないように、こっそり親子で話していた。
「それよりも兄上、とってもきれいでしたぁ、炎のオレンジが兄上の白いはだにはんしゃして、キラキラでぇ、兄上は目がギンッでぇ、黒い髪がバサバサァでぇ」
アベーチェの言うキラキラは、あの虹色に光ったやつだと思う。
「そうだね、私が魔法を構築する回路に触れると砂粒以下の大きさに分解してしまうわけだが、そのときあんなに綺麗な反応が出るなんてね。私もはじめて見たよ」
魔法というものは分子レベルの魔法陣のようなものが寄り集まってできるというイメージだ。その魔法陣のようなもののことを、本では回路と表している。
私の魔法無効化は、その回路をバラバラにしてしまう感じ。
前世的に言えば、遺伝子の塩基配列を壊す感じ。わかりにくいかな? まぁ、意識してやっているのではないので、憶測だけどね。
すると、父上はまた驚愕した。
「なに? 魔法を相殺したのははじめてだったのか? 王子が危ないではないか」
……父上は安定に、私を心配することはないのだった。いいです、いつものことなので。
「いえ、魔法の相殺自体は何度か経験があります。あんなふうに光ったのがはじめてだということで……母上の魔法の暴発で水をかぶりそうになったことがありますが、相殺してもそのときはこんなふうにはならなかったのですよ」
「兄上、それは母上の嫌がらせでは……」
ぼそりと言うアベーチェの口を手で塞ぐ父上だった。
あ、やっぱりそうだった? 母上は滅多に奥には来ないが、姿を見せるときは私に嫌味を言ってくることが多い。あの母上の魔法の暴発が、わざとだとか嫌がらせだとかとは思わなかったけれど、なにかしら私に難癖をつけたかったのかもなぁとは思っていたよ。
それよりも、とにもかくにも王子の魔力暴走はおさえたわけなので、早々に引き上げたかった。
『騒動をおさめた、あの謎の少女は誰だ?』と騒然とするお茶会会場で、気を失った王子を従者に預けた父上は、私とアベーチェをソソッと馬車に乗せ、王宮をあとにした。
よっぽど黒髪の私が公爵家の者だと知られたくないのだね。
まぁ、それはいい。王子が目覚める前に退却できれば、私はそれでいいのだ。
★★★★★
思いがけず王宮へ行った日以降、私は、昼間は暖炉の前で縫物やパン作りをし、午後は本を読むという、いつもの日常を過ごしていた。
縫物はモーラが貴族のたしなみだと言うから習ったが、それは令嬢限定なのではないかな?
しかし私は成人したら屋敷を出る身。腕が良ければ仕立屋で仕事をもらえるかもしれないから、とりあえず身につけられるものはなんでもやってみるスタンスだ。
そんな静謐で穏やかな時が流れ、王宮での出来事を夢のように感じはじめていた、ある日のこと……
新しい青紫色のドレスを持った父上が、またまた子供部屋に現れた。このシチュエーションは二度目。こうして私の静謐は打ち破られたのである。
「ノワール、婚約が決まったぞ。このドレスを着て王宮へ行くのだ」
開口一番そう言う父上をいぶかしんだことは許してほしい。さっぱり意味がわからなかったのだ。なぜなら私は、この屋敷から外へ出てはならない身なのだから。
さらに、私の婚約が決まったとして、なぜ男の私がドレスを着る?
黒髪を三角巾で覆い白いエプロンを身につけている私は、パン作りの最中だった。ひとまとまりになったパン生地を銀色のボウルにビッタンビッタンぶつけながら父上を見やる。
私は奥からは出られないが、モーラが部屋に材料を持ってきてくれるからパン作りができる。生地を練って成形までしたら、モーラが厨房へ持っていき、焼いてもらうのだ。
これも独り立ちに向けての準備のひとつだ。
本を読んで独学でパン作りをマスターした私は、成人したらパン屋になりたいと本気で思いはじめている。前世の私は会社員だったが、将来なにになりたいかと子供のときに聞かれたら、パン屋さんと答えていた。前世では競争が激しくて、とても店を持つような甲斐性も腕もなかったが、この世界でなら小さなお店を持つことくらいできそうじゃないか? 甘いかな。
あぁ、甘いといえば、ケーキ屋も捨てがたい。なにせ前世は色とりどりの美味しいケーキがあったからね。それを再現できたら売れると思うのだ。やっぱり甘いかな。
だがパン屋は一旦置いておいて、私は大事なことを父上に尋ねずにはいられなかった。
「父上、私は公爵子息であることを隠して十八歳まで屋敷の奥深く、ひっそり暮らさなければならないはずなのですが。なにゆえ婚約なのですか?」
「……第二王子のネロディアス様が、おまえと婚約したいと言っているのだ。王家の命令には逆らえまい。それに王家との婚約は公爵家のためになる、とてもありがたい御申し出だ。断るなど、愚の骨頂っ」
私の嫌味をさらりと流し、動じることもなく、父上はドレスをビラビラ振り回しながら言い切った。公爵家第一主義の父上は、そのような答えを出したようだ。
私はパン生地の入ったボウルに濡れ布巾をかけ、暖炉のそばに置く。一次発酵である。そして三角巾とエプロンを外してモーラに渡し、父上に向き合った。
ここは正念場だ。
身に余る光栄である王族との婚約……だが、断る!
冷静に心を落ち着かせながら、私は父上との舌戦に挑んだ。
「なぜネロディアス様が私などに?」
「先日の件で、おまえを見初めたそうだ」
父上もドレスをモーラに渡し、私とともに食卓の椅子に腰かける。子供部屋に客人など来ないので、座って話ができるのは食事用のテーブルしかない。
というか、やっぱりラスボス王子に目をつけられてしまったか。死亡ルートしか見えない。
「それは、私のことを女性だと勘違いしているのでは? あのとき私はドレスを着ていましたから、女の子だと思って婚約を申しこんだのではないでしょうか」
「それは確認してないが、陛下は公爵家の第一子が男性のノワールだと知っている。届け出に嘘はつけぬからな」
「陛下はご存じでも、ネロディアス様が私を女性と思いこんでいたらどうするのですか? それを黙って婚約を進めたら、王家を騙したことになりますよっ」
ちょっと強めに言ってみた。なんとしても婚約話など断らなければならない。ラスボス王子に関わりたくなくて、こちらも必死である。
背筋を伸ばすが、六歳児ゆえチョンと椅子に座る私に、大の大人である父上は説得モードで身を乗り出した。私がごねると思っていなかったようだな。
「ノワール、王家と婚約ということは公爵家にとって良い話なのだ。なんの取柄もないおまえが公爵家に貢献できる最後の機会だぞ。喜んでお受けするべきことだ」
なぜに、ほぼほぼ放置されている私が喜んで公爵家に貢献すると思うのだろうか。公爵家に生まれたら公爵家のために尽力するものだと、父上は普通に思っているようだ。
ゲームのノワールだったら、不遇を強いる公爵家に恥をかかそうとして、婚約話を盛大にぶっ壊すと思う。
……ふむ、それも一案だな。しかし私はそれほど好戦的ではないし、公爵家を敵に回したら読書三昧の日々に終止符が打たれるかもしれない。それは私の思うところではないのだ。
でも婚約はしたくない。ラスボス王子に近寄って、若死にしたくもない。
「第二王子はお世継ぎを望まれないのですか? あれほどの魔力量を誇る王子が子孫を残さないのは、国の損失になるのではありませんか?」
畳みかけるように、父上に訴える。婚約したくないという感情論だったら、家長の一喝で本決まりさせられるが、正論を述べる六歳の私に父上もたじたじだ。
そうだ。今、六歳の仮面をかぶることに意味はない。アラサー篠の処世術で、なんとしても、父上を丸めこまなければならないのだっ!
「そこは王家の問題でわかりかねるが……この国では同性婚が認められている。貴族が男性の側室を囲うことは珍しいことではない。それにお世継ぎは側室を迎えればよいのだ」
確かにこの国では同性婚も一夫多妻多夫も認められている。収入に応じて妻子の人数に制限はあり、養えないのに妻や夫を増やしてはならない、というのはあるが。
この国は雪に閉ざされ、外出もままならないことが多い。ゆえに、家の中での生活が重要視され、家族の人数が多いと幸せも多いと認識されている。
この国の国史大系にはそのようなことが書かれてあった。
ゲームの中に、逆ハーレムルートというものがある。逆ハーレム、いわゆる女性主人公が男性の攻略キャラ全員と仲良くなるものなのだけど、それは全員と結婚する展開なのだと思う。
ゲームでは、その結末までは描かれていなかったけど、たぶんそう。
そしてこの国ではそれが可能だ。エロっ。
いや、エロゲーではなかったよ。妹がやっていた全年齢向けの乙女ゲームだから。
なんて、いたいけな六歳男児の中で思うアラサーおっさんであった。痛いね。
「貴族の婚約というものは、家同士の契約だ。王子と婚約することで、おまえは王家と公爵家の橋渡し役の任を帯びるのだ。また、王子が国王となった暁には国母となり、公爵家を優遇する。そのように動け」
つまり、黙って公爵家の役に立てということだな? 乱暴な話である。
しかし父上のこの様子では、同性の婚約者はイヤ、は通じなさそうだ。
「私の立場はどうなるのですか? 王子の婚約者である黒髪の私が公爵子息だと、知られたくないのでしょう?」
今度は私を衆目にさらしたくないだろう、という方向で攻めてみた。
「そこは悩ましいところだ。しかし公爵家を継ぐ男子だからダメなのだ。嫁ぐ身である女子としてなら、魔力が少なく髪色が少しばかり違っていても注視されないだろう」
ジト目になるのが自分でわかった。まだ子供だからいいが、女装がいつまでも通用すると思わないでもらいたい。ガタイのいい男が女装していたら、それこそ公爵家の恥になりますよ。
なんならゲームのスチルでは、ノワールはラスボス王子より背が高かった。ラスボス王子の後ろに、鼻と口しか描かれていない簡素な顔の、背の高いやつが常に控えていたぞ。顔の全容が描かれたのは、終盤のバトルシーンだけだったけどね。
とはいえ説得は難航を極めている。婚約が決まったと言って部屋に入ってきたのだ。もう約定を交わしちゃったのかもしれない。
これは、王子のほうから手を引くように仕向けなければならないかな。
父上は公爵家の益になることに貪欲だ。この家を自分の代で潰さないよう必死なのだ。
「婚約話を進めるのは、王子が私のことを女性だと勘違いしていないか、そこを確認してからにしてもらえませんか」
少しでも先延ばししたい、あわよくば性別誤認で今回の話はなかったことに……という展開に持っていきたかった。
とその時、部屋の扉がノックされ、執事が顔を出した。
「旦那様、ネロディアス殿下がお見えです。婚約者であるノワール様にお会いしたいと……」
ラスボス王子、きたーーーーっ!?
私はなるべく王子から離れたいのに、なんで王子から来ちゃうんだよぉ……
あぁ、ゲームの強制力という名の大いなる気配をひしひしと感じる。死亡ルート確定案件だ。
ライトノベルでよくそういう展開があった。
いやいや、しかしゲームではラスボス王子の従者だった。婚約者ではない。まだワンチャン死亡回避の可能性はある。婚約者ならもしかしたら……いやいや、無理だな。だって冷酷無慈悲なラスボス王子なのだ、従者だろうが婚約者だろうが殺すときは殺すよ。
やっぱりムリゲーだ。
「ちょうどいいから、おまえが王子の誤解を解け」
私は父上に手を引っ張られ、部屋から連れ出されてしまった。おそらく応接室に向かっているのだろう。長い廊下を歩きながら、私は父上に「善処します」と答えた。
今の私は力のない子供だ。扶養年齢のうちは父上という権力には逆らえない。雨風をしのげて、温かい食事を食べ、知識を蓄えられる環境を与えられている。この楽園は手放せないっ!
しかし十八で死ぬのも嫌なので、そこからの脱出を図りつつ、現状維持を目指すのだ。
そして私たちは、本棟の応接室の前に来た。
執事が、おそらくモーラから手渡された黒のジャケットを私に着せ掛け、服装や髪型をサッと整えた。一国の王子に会うのだから、身だしなみは大切だ。
そうしてから、執事は応接室の扉を開ける。まず目に入るのは、大きくて凝った装飾のなされた暖炉だ。室内の広い空間がしっかりと暖められている。
王族を通すのだから、ここは屋敷の中で一番上等なサロンなのだろう。一枚絵のように庭の雪景色が望める大きなガラス窓がある。雪が多いストラーレン王国では珍しく、今日は晴れているので、明るい日差しが室内に射しこんでいた。
その窓から外を眺めている、小さな後ろ姿。
鮮やかなゴールドの髪色を見て、ドキリと胸が高鳴る。恋などという甘いものではなく、刺された腹が渋るような、死に直結したドキリだ。
王子は金糸で縁取りと刺繍をした白地の膝丈ジャケットに、黒のロングブーツ姿。たっぷりした波打つ髪が肩を覆っている。
後ろで手を組んで庭を見ていたが、私たちが入ってきたことに気づいて、こちらをゆっくり振り向いた。アベーチェと同じ年なので、五歳。ゆえに、頬にはまだ幼い丸みがある。しかしぱっちりした目元から厳しい視線が放たれて、口は引き結んでいる。
五歳ながらも堂々として厳かな、まごうことなきラスボス王子がそこにいた。
「セベスティエン公爵、とつぜんの来訪で申し訳ない。陛下から婚約の話がととのったと聞き、はやくあいさつしたくなったのだ」
柔和な微笑みをたたえた王子は、頭を下げる父上に挨拶をした。
「それはありがたい御言葉。ノワールも喜んでおります。公爵家はいつでも殿下を歓迎いたしますよ。さぁ、ソファのほうへどうぞ」
王子は上座にあるひとり掛けの椅子に座る。横にある複数人かけられるソファに、父上、私の順で腰かけた。
というわけで、婚約を回避するべく王子の説得、開始である。
振る舞われた紅茶をひと口飲み、王子は私に告げた。
「ノワール、とつぜんの話で驚いたであろうが、こころよく受け入れてくれて嬉しかったぞ」
いきなり名前を呼ばれ、私は息を呑んだ。
夢の中では名前を呼ばれなかった。いや、私の名前など知らないような感じだった。従者の命など取るに足らないという様子で、息を吸うような手軽さで私を殺したではないか。
とは思ったが、まだ五歳の王子には知る由もないことだな。
しかしながら、婚約をこころよく受けた覚えはない。視線を下に落としたまま、私は口を開いた。
「恐れながら、殿下。先日は無礼にもお手に勝手に触れましたこと、お詫び申し上げます」
婚約のことには触れず、まずは魔力暴走していた王子の手を握った件について謝罪した。緊急事態ではあったが、許可もなく王族の手に触れたのはいけないことなのだ。
ところで私は、屋敷の隅っこで隠れるようにして生きているのだが、このまま蟄居していられるなら、ラスボス王子の従者にならずに済むのではないかと考えている。ネロディアス王子に会わなければ従者のなりようもなく、ゲームに巻きこまれることはないからな。
それに、書庫で暮らすのは大歓迎だ。いや、ちゃんとノワールの子供部屋はあるし、三食出る良い暮らしだよ。むしろ三食昼寝付きで読書三昧だ。つまり文句なしなので、ラスボスにみつからないよう、このまま屋敷の奥に隠れていたいということ。
引きこもりと言うなかれ、私は両親の命令で奥にいるのだからね、たまたま利害が一致しているだけである。
というわけで、死亡回避するべく、まずはできる限り屋敷の奥でひっそり暮らすことを目標にした。とても地味な作戦だが、みつからないことが肝要だ。
篠として客観的に見たとき、この生活の中で子供のノワールに足りないものは、親の愛情くらいなものだ。今の両親は私をいないものとして扱い、養っているけど放置しているからな。
しかし私には篠の記憶があり、前世では親に愛情をかけてもらった。私の両親は前世の両親だけでいい。
まぁ、アラサーの篠には、三百年もの長きにわたって脈々と受け継いできた公爵家を途絶えさせられない、という公爵家の体面とやらが少しはわかるんだ。でもそれでネグレクトは駄目だし、全然擁護はできない。
だけどそういう大人の事情はさて置いて、折檻や飯抜きさえなければ、大人の記憶を持つ私は悠々自適気分で暮らしていけるということだ。
ただ手も足もまだまだ小さく働くのは難しいので、もう少し育てていただければありがたいです。
穏便に、ゲームが終了する十八歳まで屋敷の奥で生活させてもらえたら、とっとと町に降りてひとりで生活しますので、お構いなく。という心情であった。
「あ、ひとりで暮らすなら料理もできたほうがいいな」
そう思い、私は読み終わった魔術書を棚に戻し、料理本を手に取るのだった。
★★★★★
粉雪がパラパラと降りかかる寒い日。
私は女装して馬車に乗りこみ、王宮へ向かっていた。
外で雪が降りしきっていても、温かい部屋でぬくぬくと暮らしていた深窓のご令息だったというのに、いきなり外の冷気を浴びる事態になり、頬が引きつっている。
「どうしてこうなった?」
ラスボス王子に会わないよう、屋敷の奥でひっそり暮らすことが私の目標であった。なのに、そんな私がなぜラスボス王子のテリトリーである王宮に向かっているのかというと……話は一時間前にさかのぼる。
一時間前、私は子供部屋にて読書をしていた。暖炉に火があり、ぬくぬくである。
そこに、久しぶりに父上が姿を現し、開口一番言ったのだ。
「ノワール、急いでこのドレスを着るのだっ」
あまりにも脈絡がなく面食らったが、父上にはちゃんと理由があった。
父上が言うには、今日は第二王子のご学友候補を選ぶためのお茶会が王宮で開かれていて、そこに王子と同い年のアベーチェが招かれたらしい。ネロディアス様はあまり体調がよろしくなかったようで、顔を青くしていた。そんな王子に、アベーチェが自慢げに言ったそうだ。
「ぼくが具合が悪いときは、兄上が治してくれるのです」
父上はすぐにアベーチェの口を手でふさぎ、兄上のことを口にしてはいけないと注意した。しかし第二王子はしっかり聞いていて、目を光らせた。
「我も、その者にこの具合の悪さを治してもらいたい。公爵、頼む」
第二王子のみならず陛下にもお願いされた父上は、私の出自を隠すのを条件にして依頼を引き受けた……ということらしい。
「王宮では誰の目があるかわからないから、念のため女装をしておくのだ。おまえは公爵家の遠縁の娘という態だ」
公爵家に黒髪で魔力のない息子がいると知られてはならない。それで父上は私に紺色のドレスを持ってきたというわけ。
口答えを許さない雰囲気に満ち満ちた父上の高圧的な態度が、私は苦手だ。なので、おとなしくドレスに袖を通したよ。しかし中身アラサーリーマンの篠はドン引きである。
モーラが姿見を見せてくれたのだが、彼女が上手に着つけてくれたからか、鏡の中にはまぁまぁ可愛らしい少女がいた。
普段の私は黒髪ロングで、なにやらホラーチックな日本人形の様相だ。横長の目つきに、生気のない黒い瞳。モブゆえか、小さな口に主張のない鼻で、自分の顔ながら、簡素で陰気で不気味だと思っていた。
だがモーラのブラッシングにより、いつもより髪が艶やかになって……まがまがしさが薄れた日本人形くらいにはなったかな。
横髪は胸の前に垂らし、腰まで伸びていた後ろ髪はウエスト辺りで綺麗に切りそろえられた。耳の上辺りから頭頂部にかけて結わえて、髪飾りでとめている。前髪は目の上辺りで自然に横わけにしてある。前髪ぱっつんだと日本人形まっしぐらだから、それでいいです。
慌てて調達したらしいドレスは、胸の前にフリルがあって、袖はふわりとしたフレアー型、濃紺の落ち着いた色合いだ。スカート丈は膝下十センチ、この国では雪が積もっている日のほうが多いので、女性は裾を引きずるようなスカートははかない。スカートの下にパニエというボリュームを出すものをつけると、腰回りが温かく、スカートもふわりと広がる。
そして足には厚地のタイツをはいて、編み上げのロングブーツを着用するのが定番だ。
ドレスの上には白い毛皮のケープを羽織り、前をリボンで留める。
しかし六歳だから体が成長しきっていなくて、男の子なのに、ドレスを着ても違和感がないのが悲しい。自分の顔にあまり興味がなかったから、そのときはじめて自分の顔を鏡でじっくり見たが、造作がちょっと女子っぽいかな?
目は吊り気味で細めだから愛くるしい系の女子ではないけど、白い肌にぽつりと浮かぶ右目の下の泣き黒子が目を引く。あ、まつ毛も長いな。それで女子っぽく見えるのかもしれない。
そんな経緯があって、私は女装をして、ラスボス王子のところへ向かっている最中なのだった。
あぁ、できれば一生関わりたくなかったのに、まさかアベーチェが余計なことを言うとはね。しかし家長の命令は絶対。働ける年齢になるまでは養ってもらうため、ラスボス王子のもとに向かわなければならない。
それにアベーチェを見ていると、魔力過多は相当気持ち悪そうだから、私を殺すだろうラスボス王子とはいえ放っておくのは可哀想だね。
特に王子に遺恨があるわけではないのだ。あれはゲーム上の話で、現状私が王子になにかをされたわけではないから。しかし殺される未来は遠慮したいので、チュッと吸ってサッと帰ろうと思っている。
馬車の車窓から通りがかりに見える一面真っ白な雪景色の美しさに目を奪われた。横に長くて大きい王宮の外観にも圧倒される。
私がこの異世界に転生して、屋敷の奥から出るのははじめてのことだった。本から知識は得ていたが写真などはなく、ストラーレン王国の町や人々や王宮の様子などは想像の域を出ない。なので、目に映る風景はどれも新鮮だ。
けれど、行く先は私を殺すラスボス王子のもとだから、心が浮き立つことはない。
馬車が止まり、一足先に降りた私が降車する父上を待っていると、ドーンという大きな物音が鳴り、少し離れたところで火柱が空に向かって上がった。
「お茶会が催されている場所の方角だ。アベーチェが従者とともにそこに残っているのだ。早く行くぞ」
父上にうながされ、私はお茶会会場を目指す。しかし、父上は雪道を歩くことに慣れているのだろうが、外出を許されなかった私は雪に足を取られてしまう。石畳はある程度除雪されているのだが、ブーツが滑りそうで怖い。
そうしてギクシャク歩いていると、半泣きのアベーチェが駆け寄ってきた。
「父上ぇ、大変です。お茶会が終わるところだったのにぃ、王子がどっかーーんしちゃったのぉ」
そう父上に報告するアベーチェだったが、私をみつけて目が真ん丸になった。
「あ、あ……」
兄上と言いたいのだろうが、それは内緒なので、口の前に人差し指を当てた。女装中に兄上呼びはご遠慮いただきたい。
アベーチェは手で口をおさえる。可愛い仕草で、私は思わずほっこりした。
とはいえ、緊急事態だ。私たちは急いで外から回り、お茶会会場のある部屋の庭へ向かった。
庭の真ん中に火柱が立っていて、その中心に人がいた。
普通なら、人が火だるまになっているのかと慌てるのだろうが、私はこういう場面を何度もゲーム上で見ている。
小さいけれど、間違いない。金の髪と白地の盛装が炎越しにオレンジ色に光っている。炎の起こす熱風に、豊かな髪が揺らめいていた。口をへの字に引き結び、子供でも威厳を保ち胸を張り、炎の中でするどい目つきをしている。
炎の中に立っているのは、ラスボス王子こと、ストラーレン王国の第二王子ネロディアスだった。
王宮の庭に火柱が上がり、大人たちが右往左往する中、私は迷わず彼に近寄って行った。
彼を取り巻く魔力は、湧出する噴水のように間断なく噴きあがっている。とてもではないが、小さな体では抱えきれない莫大な魔力量だと、ひと目でわかった。
「危ないからこっちへ来るな。怪我をするぞ」
自分のほうこそつらく、どうにもならないのだろうに、王子は私の身を心配して声をかけてきた。ゲームでは冷酷無慈悲なラスボス王子だったのに、優しいじゃないか。
とはいえ彼が来るなと手を振ると、手のひらに乗っていた炎が私を目がけて飛んでくる。そこは配慮してもらいたいところだ。令嬢(仮)の顔に傷がつくだろうが。
でも私は魔法を相殺できるので、大丈夫。炎のかたまりは私の体に到達する前に、砂がこぼれるかのようにさらさらと崩れた。
苦しいのか、王子が炎の中で呻き、頭を抱えてもがいている。目を見開いて、はぁはぁと苦しそうな息をつく。どうやら魔力暴走になりかけているようだ。
アベーチェは、ちょっと体の外に魔力があふれるだけでも、頭痛がすると言って私のところへやってくる。魔力過多はそれほどつらいものらしい。
アベーチェ以上に魔力があふれている今の状態でなにもしなければ、さぞかし苦しいことだろう。
ゲームでは、ネロディアス王子は幼い頃に魔力暴走を起こし、数人死者を出した。それからは、ストラーレン王国一の魔力量の多さで本来なら敬われるべきところ、人殺しだと恐れられ忌避されてしまう。結果、自分を顧みない者たちをすべて焼き払いたいと憎悪を燃やす、悪の王子になるのだ。逆ハーレムルートで、王子が聖女にそのようなことを語っていた。
今目の前で起きているコレが、数人の死者を出すという魔力暴走事件かもしれない。
だが私は、これを止められるぞ。
苦しむ王子が雄叫びを上げると、火柱が膨れ上がって大きくなった。彼がいる庭は熱風が吹き荒れ、私の長い黒髪やスカートを揺らす。庭には雪が積もっていたはずだが、とけてしまったのか白い景色はまったくなく茶色い地面がむき出しになっている。かろうじて常緑樹が庭の周りを緑で彩っていた。ま、ブーツが滑らず、歩きやすいのは良いことだ。
というか、お茶会は室内で行われていたはずだが、こうして王子がひとりで庭にいるということは、おそらく被害を出さないよう配慮して庭に逃れてきたのだろう。賢明な判断だな。
だったら王子の気遣いを無にしないよう、この場をおさめないとね。無論、死者も出さない。
「来るなと、言っているのだっ」
王子はそう言うけど、構わずに歩を進める。でも炎のかたまりが飛んでくるのは、大丈夫だとわかっていても怖いので、手で払いのけさせてもらう。
私が手を振ると、魔法が弾かれるビィィィンという音が辺りに響いた。弾かれた彼の魔法は分解し、私の手の先で霧散する。
分解した魔法の粉が私の周囲に渦巻く。王子の魔法の質が良いからか、それらは虹色の残滓となって私の周りを輝かせた。
自分のあずかり知らぬところではあるが、まぁ、綺麗は綺麗だ。
王子のすぐそばにやってきた私は、ためらうことなく火柱の中へ手を突っこんだ。魔法を無効化しているから熱くはない。そして王子の手を握ると、私は警戒されないよう、王子に微笑みながら言った。
「御機嫌よう、王子。御無礼いたします、ゆっくりお休みください」
そう言っているうちから、王子の魔力を吸い上げた。
魔法ではないので、私は普通にしていても魔力が周りにあれば吸ってしまう。意識して吸うというのは、ジュースをストローで飲むように、あえて吸引する感じだ。
すると、ドゥゥゥゥルルンッ、というなにやら軽快な音が聞こえた……ような気がした。あれだよ、ゲームで武器を買うと、たまったお金が減っていく、あのときの効果音のやつ。もしかして、王子のマジックポイント消費音なのかな?
火柱は魔力を吸いこむごとに徐々に小さくなっていき、王子の魔力をある程度吸い取ったところで、私は王子の手を離す。でも王子は気を失って倒れそうになったので、私はぐったりした王子を慌てて抱きとめた。地面に倒れたら、白いお衣装が泥だらけになってしまう。
王族のキラキラ衣装など、私は弁償できないからなっ。
その頃には辺りはすっかり元の静寂が戻っていて、父上が駆け寄ってきた。
「どうなった? 王子は無事なのか?」
気絶する王子を私から引き取って、父上は聞いてくる。王子の心配しかしないのが、父上という感じです。思わず、苦笑。というか、冷笑。
そんな冷めた気持ちで、私は父上の腕の中にいる王子を見やる。
彼は子供だけど、しっかりラスボス王子であった。
あれだけの炎を体にまとわせても、怪我ひとつない。それは多大な魔法を行使しても、己になんのダメージも及ぼさないほどの魔力がある証だった。
魔法を発動する者は、無意識に体を魔力でコーティングするらしい。だから、手の上に炎を出しても、氷の槍を素手で握っても、痛くも痒くもないのだ。そう、魔法書に書いてあった。
しかし制御不能の魔法は、別。己の身を焼くこともある。
だけど王子は無傷で、麗しのかんばせも健在だった。さすがだな。
目を閉じていてもその目元は凛々しく、まつ毛は長い。スッと通った鼻筋、桜色の唇。ゲームで一番美貌の男、聖女を差し置いて美しい男なだけある。
「魔力を吸い取っただけです。膨大な魔力を短時間で吸引したので、体がついていけずに眠っているのでしょう。でも、魔力が回復すれば目を覚ましますよ。アベーチェもそうなので、大丈夫だと思います」
「そうなのか?」
父上はアベーチェに尋ね、彼はうなずく。
「兄上に癒されると、気持ちが良くなってお昼寝します。目覚めはすっきりさっぱりです」
ここら辺は誰にも聞かれないように、こっそり親子で話していた。
「それよりも兄上、とってもきれいでしたぁ、炎のオレンジが兄上の白いはだにはんしゃして、キラキラでぇ、兄上は目がギンッでぇ、黒い髪がバサバサァでぇ」
アベーチェの言うキラキラは、あの虹色に光ったやつだと思う。
「そうだね、私が魔法を構築する回路に触れると砂粒以下の大きさに分解してしまうわけだが、そのときあんなに綺麗な反応が出るなんてね。私もはじめて見たよ」
魔法というものは分子レベルの魔法陣のようなものが寄り集まってできるというイメージだ。その魔法陣のようなもののことを、本では回路と表している。
私の魔法無効化は、その回路をバラバラにしてしまう感じ。
前世的に言えば、遺伝子の塩基配列を壊す感じ。わかりにくいかな? まぁ、意識してやっているのではないので、憶測だけどね。
すると、父上はまた驚愕した。
「なに? 魔法を相殺したのははじめてだったのか? 王子が危ないではないか」
……父上は安定に、私を心配することはないのだった。いいです、いつものことなので。
「いえ、魔法の相殺自体は何度か経験があります。あんなふうに光ったのがはじめてだということで……母上の魔法の暴発で水をかぶりそうになったことがありますが、相殺してもそのときはこんなふうにはならなかったのですよ」
「兄上、それは母上の嫌がらせでは……」
ぼそりと言うアベーチェの口を手で塞ぐ父上だった。
あ、やっぱりそうだった? 母上は滅多に奥には来ないが、姿を見せるときは私に嫌味を言ってくることが多い。あの母上の魔法の暴発が、わざとだとか嫌がらせだとかとは思わなかったけれど、なにかしら私に難癖をつけたかったのかもなぁとは思っていたよ。
それよりも、とにもかくにも王子の魔力暴走はおさえたわけなので、早々に引き上げたかった。
『騒動をおさめた、あの謎の少女は誰だ?』と騒然とするお茶会会場で、気を失った王子を従者に預けた父上は、私とアベーチェをソソッと馬車に乗せ、王宮をあとにした。
よっぽど黒髪の私が公爵家の者だと知られたくないのだね。
まぁ、それはいい。王子が目覚める前に退却できれば、私はそれでいいのだ。
★★★★★
思いがけず王宮へ行った日以降、私は、昼間は暖炉の前で縫物やパン作りをし、午後は本を読むという、いつもの日常を過ごしていた。
縫物はモーラが貴族のたしなみだと言うから習ったが、それは令嬢限定なのではないかな?
しかし私は成人したら屋敷を出る身。腕が良ければ仕立屋で仕事をもらえるかもしれないから、とりあえず身につけられるものはなんでもやってみるスタンスだ。
そんな静謐で穏やかな時が流れ、王宮での出来事を夢のように感じはじめていた、ある日のこと……
新しい青紫色のドレスを持った父上が、またまた子供部屋に現れた。このシチュエーションは二度目。こうして私の静謐は打ち破られたのである。
「ノワール、婚約が決まったぞ。このドレスを着て王宮へ行くのだ」
開口一番そう言う父上をいぶかしんだことは許してほしい。さっぱり意味がわからなかったのだ。なぜなら私は、この屋敷から外へ出てはならない身なのだから。
さらに、私の婚約が決まったとして、なぜ男の私がドレスを着る?
黒髪を三角巾で覆い白いエプロンを身につけている私は、パン作りの最中だった。ひとまとまりになったパン生地を銀色のボウルにビッタンビッタンぶつけながら父上を見やる。
私は奥からは出られないが、モーラが部屋に材料を持ってきてくれるからパン作りができる。生地を練って成形までしたら、モーラが厨房へ持っていき、焼いてもらうのだ。
これも独り立ちに向けての準備のひとつだ。
本を読んで独学でパン作りをマスターした私は、成人したらパン屋になりたいと本気で思いはじめている。前世の私は会社員だったが、将来なにになりたいかと子供のときに聞かれたら、パン屋さんと答えていた。前世では競争が激しくて、とても店を持つような甲斐性も腕もなかったが、この世界でなら小さなお店を持つことくらいできそうじゃないか? 甘いかな。
あぁ、甘いといえば、ケーキ屋も捨てがたい。なにせ前世は色とりどりの美味しいケーキがあったからね。それを再現できたら売れると思うのだ。やっぱり甘いかな。
だがパン屋は一旦置いておいて、私は大事なことを父上に尋ねずにはいられなかった。
「父上、私は公爵子息であることを隠して十八歳まで屋敷の奥深く、ひっそり暮らさなければならないはずなのですが。なにゆえ婚約なのですか?」
「……第二王子のネロディアス様が、おまえと婚約したいと言っているのだ。王家の命令には逆らえまい。それに王家との婚約は公爵家のためになる、とてもありがたい御申し出だ。断るなど、愚の骨頂っ」
私の嫌味をさらりと流し、動じることもなく、父上はドレスをビラビラ振り回しながら言い切った。公爵家第一主義の父上は、そのような答えを出したようだ。
私はパン生地の入ったボウルに濡れ布巾をかけ、暖炉のそばに置く。一次発酵である。そして三角巾とエプロンを外してモーラに渡し、父上に向き合った。
ここは正念場だ。
身に余る光栄である王族との婚約……だが、断る!
冷静に心を落ち着かせながら、私は父上との舌戦に挑んだ。
「なぜネロディアス様が私などに?」
「先日の件で、おまえを見初めたそうだ」
父上もドレスをモーラに渡し、私とともに食卓の椅子に腰かける。子供部屋に客人など来ないので、座って話ができるのは食事用のテーブルしかない。
というか、やっぱりラスボス王子に目をつけられてしまったか。死亡ルートしか見えない。
「それは、私のことを女性だと勘違いしているのでは? あのとき私はドレスを着ていましたから、女の子だと思って婚約を申しこんだのではないでしょうか」
「それは確認してないが、陛下は公爵家の第一子が男性のノワールだと知っている。届け出に嘘はつけぬからな」
「陛下はご存じでも、ネロディアス様が私を女性と思いこんでいたらどうするのですか? それを黙って婚約を進めたら、王家を騙したことになりますよっ」
ちょっと強めに言ってみた。なんとしても婚約話など断らなければならない。ラスボス王子に関わりたくなくて、こちらも必死である。
背筋を伸ばすが、六歳児ゆえチョンと椅子に座る私に、大の大人である父上は説得モードで身を乗り出した。私がごねると思っていなかったようだな。
「ノワール、王家と婚約ということは公爵家にとって良い話なのだ。なんの取柄もないおまえが公爵家に貢献できる最後の機会だぞ。喜んでお受けするべきことだ」
なぜに、ほぼほぼ放置されている私が喜んで公爵家に貢献すると思うのだろうか。公爵家に生まれたら公爵家のために尽力するものだと、父上は普通に思っているようだ。
ゲームのノワールだったら、不遇を強いる公爵家に恥をかかそうとして、婚約話を盛大にぶっ壊すと思う。
……ふむ、それも一案だな。しかし私はそれほど好戦的ではないし、公爵家を敵に回したら読書三昧の日々に終止符が打たれるかもしれない。それは私の思うところではないのだ。
でも婚約はしたくない。ラスボス王子に近寄って、若死にしたくもない。
「第二王子はお世継ぎを望まれないのですか? あれほどの魔力量を誇る王子が子孫を残さないのは、国の損失になるのではありませんか?」
畳みかけるように、父上に訴える。婚約したくないという感情論だったら、家長の一喝で本決まりさせられるが、正論を述べる六歳の私に父上もたじたじだ。
そうだ。今、六歳の仮面をかぶることに意味はない。アラサー篠の処世術で、なんとしても、父上を丸めこまなければならないのだっ!
「そこは王家の問題でわかりかねるが……この国では同性婚が認められている。貴族が男性の側室を囲うことは珍しいことではない。それにお世継ぎは側室を迎えればよいのだ」
確かにこの国では同性婚も一夫多妻多夫も認められている。収入に応じて妻子の人数に制限はあり、養えないのに妻や夫を増やしてはならない、というのはあるが。
この国は雪に閉ざされ、外出もままならないことが多い。ゆえに、家の中での生活が重要視され、家族の人数が多いと幸せも多いと認識されている。
この国の国史大系にはそのようなことが書かれてあった。
ゲームの中に、逆ハーレムルートというものがある。逆ハーレム、いわゆる女性主人公が男性の攻略キャラ全員と仲良くなるものなのだけど、それは全員と結婚する展開なのだと思う。
ゲームでは、その結末までは描かれていなかったけど、たぶんそう。
そしてこの国ではそれが可能だ。エロっ。
いや、エロゲーではなかったよ。妹がやっていた全年齢向けの乙女ゲームだから。
なんて、いたいけな六歳男児の中で思うアラサーおっさんであった。痛いね。
「貴族の婚約というものは、家同士の契約だ。王子と婚約することで、おまえは王家と公爵家の橋渡し役の任を帯びるのだ。また、王子が国王となった暁には国母となり、公爵家を優遇する。そのように動け」
つまり、黙って公爵家の役に立てということだな? 乱暴な話である。
しかし父上のこの様子では、同性の婚約者はイヤ、は通じなさそうだ。
「私の立場はどうなるのですか? 王子の婚約者である黒髪の私が公爵子息だと、知られたくないのでしょう?」
今度は私を衆目にさらしたくないだろう、という方向で攻めてみた。
「そこは悩ましいところだ。しかし公爵家を継ぐ男子だからダメなのだ。嫁ぐ身である女子としてなら、魔力が少なく髪色が少しばかり違っていても注視されないだろう」
ジト目になるのが自分でわかった。まだ子供だからいいが、女装がいつまでも通用すると思わないでもらいたい。ガタイのいい男が女装していたら、それこそ公爵家の恥になりますよ。
なんならゲームのスチルでは、ノワールはラスボス王子より背が高かった。ラスボス王子の後ろに、鼻と口しか描かれていない簡素な顔の、背の高いやつが常に控えていたぞ。顔の全容が描かれたのは、終盤のバトルシーンだけだったけどね。
とはいえ説得は難航を極めている。婚約が決まったと言って部屋に入ってきたのだ。もう約定を交わしちゃったのかもしれない。
これは、王子のほうから手を引くように仕向けなければならないかな。
父上は公爵家の益になることに貪欲だ。この家を自分の代で潰さないよう必死なのだ。
「婚約話を進めるのは、王子が私のことを女性だと勘違いしていないか、そこを確認してからにしてもらえませんか」
少しでも先延ばししたい、あわよくば性別誤認で今回の話はなかったことに……という展開に持っていきたかった。
とその時、部屋の扉がノックされ、執事が顔を出した。
「旦那様、ネロディアス殿下がお見えです。婚約者であるノワール様にお会いしたいと……」
ラスボス王子、きたーーーーっ!?
私はなるべく王子から離れたいのに、なんで王子から来ちゃうんだよぉ……
あぁ、ゲームの強制力という名の大いなる気配をひしひしと感じる。死亡ルート確定案件だ。
ライトノベルでよくそういう展開があった。
いやいや、しかしゲームではラスボス王子の従者だった。婚約者ではない。まだワンチャン死亡回避の可能性はある。婚約者ならもしかしたら……いやいや、無理だな。だって冷酷無慈悲なラスボス王子なのだ、従者だろうが婚約者だろうが殺すときは殺すよ。
やっぱりムリゲーだ。
「ちょうどいいから、おまえが王子の誤解を解け」
私は父上に手を引っ張られ、部屋から連れ出されてしまった。おそらく応接室に向かっているのだろう。長い廊下を歩きながら、私は父上に「善処します」と答えた。
今の私は力のない子供だ。扶養年齢のうちは父上という権力には逆らえない。雨風をしのげて、温かい食事を食べ、知識を蓄えられる環境を与えられている。この楽園は手放せないっ!
しかし十八で死ぬのも嫌なので、そこからの脱出を図りつつ、現状維持を目指すのだ。
そして私たちは、本棟の応接室の前に来た。
執事が、おそらくモーラから手渡された黒のジャケットを私に着せ掛け、服装や髪型をサッと整えた。一国の王子に会うのだから、身だしなみは大切だ。
そうしてから、執事は応接室の扉を開ける。まず目に入るのは、大きくて凝った装飾のなされた暖炉だ。室内の広い空間がしっかりと暖められている。
王族を通すのだから、ここは屋敷の中で一番上等なサロンなのだろう。一枚絵のように庭の雪景色が望める大きなガラス窓がある。雪が多いストラーレン王国では珍しく、今日は晴れているので、明るい日差しが室内に射しこんでいた。
その窓から外を眺めている、小さな後ろ姿。
鮮やかなゴールドの髪色を見て、ドキリと胸が高鳴る。恋などという甘いものではなく、刺された腹が渋るような、死に直結したドキリだ。
王子は金糸で縁取りと刺繍をした白地の膝丈ジャケットに、黒のロングブーツ姿。たっぷりした波打つ髪が肩を覆っている。
後ろで手を組んで庭を見ていたが、私たちが入ってきたことに気づいて、こちらをゆっくり振り向いた。アベーチェと同じ年なので、五歳。ゆえに、頬にはまだ幼い丸みがある。しかしぱっちりした目元から厳しい視線が放たれて、口は引き結んでいる。
五歳ながらも堂々として厳かな、まごうことなきラスボス王子がそこにいた。
「セベスティエン公爵、とつぜんの来訪で申し訳ない。陛下から婚約の話がととのったと聞き、はやくあいさつしたくなったのだ」
柔和な微笑みをたたえた王子は、頭を下げる父上に挨拶をした。
「それはありがたい御言葉。ノワールも喜んでおります。公爵家はいつでも殿下を歓迎いたしますよ。さぁ、ソファのほうへどうぞ」
王子は上座にあるひとり掛けの椅子に座る。横にある複数人かけられるソファに、父上、私の順で腰かけた。
というわけで、婚約を回避するべく王子の説得、開始である。
振る舞われた紅茶をひと口飲み、王子は私に告げた。
「ノワール、とつぜんの話で驚いたであろうが、こころよく受け入れてくれて嬉しかったぞ」
いきなり名前を呼ばれ、私は息を呑んだ。
夢の中では名前を呼ばれなかった。いや、私の名前など知らないような感じだった。従者の命など取るに足らないという様子で、息を吸うような手軽さで私を殺したではないか。
とは思ったが、まだ五歳の王子には知る由もないことだな。
しかしながら、婚約をこころよく受けた覚えはない。視線を下に落としたまま、私は口を開いた。
「恐れながら、殿下。先日は無礼にもお手に勝手に触れましたこと、お詫び申し上げます」
婚約のことには触れず、まずは魔力暴走していた王子の手を握った件について謝罪した。緊急事態ではあったが、許可もなく王族の手に触れたのはいけないことなのだ。
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婚約者ユリウスから断罪をされたアリステルは、ボロボロになった状態で廃教会で命を終えた……はずだった。
目覚めた時はユリウスと婚約したばかりの頃で、それならばとアリステルは自らユリウスと距離を置くことに決める。だが、なぜかユリウスはアリステルに構うようになり……
巻き戻りから人生をやり直す悪役令息の物語。
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