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2巻
2-3
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だから大地の精霊が本当にいるなら、ちょっとでいいから彼女に生きる気持ちを芽生えさせてあげてほしい。お願いっ!!
そんなふうに祈った。
「サリー、今なにをしていたんだ? なんか赤く光っていたぞ」
一生懸命お祈りしていたから、マルチェロが起きたことに気づかなかった。ぼくは目を開けて、マルチェロのほうを見やる。
「お祈りをしていました。ん? 光っていた? なにが?」
首を傾げると、マルチェロはかすかに笑った。でもすぐに目を見開いて椅子から立ち上がり、慌てて駆け寄ってきた。
「マリエラ! 気が付いたか!? 大丈夫か!?」
彼女に視線を移す。いつの間にか彼女が目を開け、綺麗な緑の瞳が見えていた。
「……マルチェロ、私……力になれなかった、みたい」
まだ声はか細いが、彼女はマルチェロにそう告げた。
「なに言っているんだ。いいんだよ、マリエラが生きているだけでいいんだ。前にいた学校に戻ろう。そこで子供たちがマリエラの帰りを待っている」
医者もマルチェロの声で起きて、彼女のもとに駆け寄る。
「山を越えたようです。もう大丈夫でしょう」
そう診断してくれて、ぼくはホッとした。
あぁぁあ、良かったぁ!! 彼女は一命を取りとめたのだ。大地の精霊さん、ありがとうっ!!
「良かったね、マルチェロぉ。彼女は大事な先生なのでしょう?」
「あぁ、そうなんだ。ありがとう。ありがとう、サリー」
マルチェロが涙声で何度もお礼を言う。マリエラは彼にとってよっぽど恩のある先生なのだろう。
ぼくはいつも守られてばかりだから、彼の恩人を助けられたことが本当に嬉しかった。ぼくも少しは恩を返したいのだからね。
ま、彼女を助けたのは実質兄上で、ぼくはお祈りしただけだけれど。
今回、ディエンヌの悪事を阻止することはできなかった。でもマリエラが目を覚ましてくれたので、最悪の事態はなんとか回避できたし、ひとまず安堵する。
というか、そろそろぼくの尻拭いの限度は超えていると思うんだ。これ以上ディエンヌのやらかしがエスカレートしたら、ぼくは心労で自慢の赤い髪が抜けてハゲてしまいそうだよっ!
「でもマルチェロ、これを理由にディエンヌとの婚約は破棄できると思いますよ」
そう、この気のいい友人は、ディエンヌの婚約者なのだ。ぼくはそれが嫌で、なんとか婚約をなかったことにしたいと常々思っていた。
ルーフェン公爵家としても、派遣した家庭教師をないがしろにする者を嫁として迎えたくはないだろうし、ここまでの騒動を起こしたのだから、娘に甘い魔王も婚約破棄を許すと思ったのだ。
「それは……生ぬるいよ、サリー」
しかし、ぼくの提案は却下された。
こちらを振り返ったマルチェロは、マリエラが目を覚まして安心したからか、いつもの爽やかな笑顔になっている。
でもぼくはこのときその笑顔を、はじめて怖いと思った。
★★★★★
ディエンヌメラメラ事件から一週間後の朝。
目覚めて、いつものようにコロリーンとしてベッドを降り、洗面所で身支度を開始する。そのあとプヨプヨとクローゼットの前へ進み、兄上から贈られた白い寝間着を脱いで家着に着替えた。
今日は来客があるので、襟がぴらぴらした白いシャツに濃い緑のジャケットとズボンを合わせた、ちょっと上等な衣装をチョイスしてみた。
身だしなみを整えたら、窓を開けて新鮮な空気を吸うのがぼくの日課である。
でも、屋敷から見えないくらい遠い位置にディエンヌの屋敷があるというのに、焦げた臭いが風に乗ってきたものだから、早々に窓を閉めた。
まったく爽やかな気分にはならないし、清々しい朝の目覚めが台無しだ。
火事のあとって、なにかが燃えた匂いではなく、眉間の辺りがモヤモヤするような、吐き気をもよおすような不快な臭いがいつまでも残るんだよね。火事からだいぶ経つのに、まだその臭いが辺りに濃く漂っていた。
ディエンヌの屋敷は全焼を免れたが、後宮全体に鼻をつく臭いが漂うことから、取り壊しが決まった。屋敷が解体されれば、臭いも後味の悪さもいずれなくなるだろう。
では、ディエンヌメラメラ事件のその後をお話ししよう。
まずマリエラだけど、意識が戻ったとはいえ重傷だったので、傷が完全に癒えるまでは公爵家で養生することになり、マルチェロが連れて帰った。今にも命の火が消えそうだったマリエラは、現在は気力を取り戻し、復職に向けてがんばっているということだ。良かったね。
屋敷を取り壊したあとディエンヌはどこで暮らすのかというと……ディエンヌが学園に入学するまでひと月ないということで、四月になったら学園の寮に入ることが決まった。
えぇぇ、大丈夫かなぁ? 学園で大惨事が起きないことを祈るばかりである。
でも寮には礼儀作法を厳しく指導する教師が常駐しているらしいので、魔王城の後宮で野放し状態でいるより目は行き届くみたいだよ。学園の先生、どうかよろしくお願いします。
では四月まではどうするのかというと、マーシャ義母上が面倒を見ています。
ディエンヌが焼け出された直後、兄上は『独房に突っこんでおけ』なんて言ったけど、女の子を牢屋にいれるのは良くないとマーシャ義母上が待ったをかけた。で、後宮の総括をするマーシャ義母上がディエンヌを一時的に保護することになったのだ。その流れで、彼女が四月に入寮するまで、自分が徹底的に礼儀作法を身につけさせる、と息巻いていた。
そして今日、そのマーシャ義母上がこの屋敷にやってくるというわけなのだった。
約束の時間通りにマーシャ義母上はやってきて、ぼくはお日様燦燦サンルームのサロンに案内した。ぼくとマーシャ義母上は、向かい合ってソファに腰かける。
「サリエル、あなたは幼い頃から礼儀に関してはなんの問題もなかったわ。今も、学園の淑女教育で良い成績をおさめていると聞いています。レオンハルトの婚約者として、申し分ない出来ですよ。でもあの子はどうして……ああなのかしら?」
空色の髪をピシリと結い上げ、一分の隙も無く高潔なマーシャ義母上だが、ほぅとやるせないため息をついて愚痴をこぼした。
マーシャ義母上の備考欄には『嫁には礼儀正しさを求める』とある。そのように礼儀に厳しい御仁だからこそなのか、ディエンヌの躾には手を焼いている様子だ。
ぼくは申し訳ない思いでいっぱいで、太ももに置いた手をなんとなくモミモミしてしまう。
「あの子は、男性の使用人との距離が近いのよ。令嬢としてはしたないわ。ラーディンは彼女と適切な距離を取っていますけど、ディエンヌと顔を合わせると体が重くなるって言うのよ。どうやらあの子、男性の生気を吸っているみたいなの」
それは、サキュバス的なやつでしょうか?
ぼくとディエンヌの母はサキュバスだ。サキュバスは淫魔で、性交渉して生気を奪い、それを糧とする種族である。つまりディエンヌにもそういう性質があるのだろう。でもぼくは未熟なので、その感覚はいまだにわからない。
「本の知識ですが、サキュバスは実際の性交渉で生気を分けてもらう、というのが一般的です。でもディエンヌは性交渉をしなくても男性から生気を奪える、そういうことなのでしょうか?」
「ディエンヌは一般のサキュバスより魔力が多いから、そういうこともできるみたいね。だからラーディンの生気を今度吸ったら消し炭よ! って、脅しておきましたわ」
可愛らしく笑うけど……マーシャ義母上がテヘッとしても怖いだけです。
「それから『魔王の娘なら殿方に自分を安売りしてはいけません。自分から殿方に触れる行為は禁止します』と命じたの。でもラーディンに触れずにあの子の生気を吸えるのだから、抑止効果はないかもしれないわねぇ」
そうして「困ったわぁ」と頬に手を当てた。
でもぼくは『さすがです』と胸の内で拍手喝采だ。だって、ディエンヌと渡り合っているのが、もうすごいでしょ。
「この前もね、あの子、お茶会のマナーを教えているときに私のお茶に毒を仕込んだのよ」
……は? な、なにをやらかしているのです、ディエンヌぅ?? 魔王妃様になんてことをっ!!
ぼくが口をまぁるく開けワナワナしていると、マーシャ義母上はにっこり笑った。
「あら、大丈夫よ、サリエル。私はこうしてピンピンしていますからね。あなたも、たまに標的にされていたのでしょう? 私もちゃんと対処できてよ」
そうして紅茶をひと口飲み「あぁ、サリエルの淹れてくれたお茶は美味しいわねぇ」とつぶやいた。恐れ入ります。
「その紅茶は、そのまま彼女にぶっかけてやったわ。そうしたらあの子『なにすんだババァ』なんて叫ぶのよぉ。あぁ、怖い、怖い」
まったく怖がる様子もなく、マーシャ義母上は話を続ける。
「だからね『魔王の娘がこれぐらいのことで取り乱すなんて、いただけないわね。もっとどっしり構えて、目で威圧して、視線で殺すくらいのことはしないとねぇ……』って助言して、魔力で床にひれ伏させてやったわ。こうやるのよっていうお手本よ。だって、ババァなんて言われたら、さすがの魔王妃もキレちゃうでしょ? お仕置きは即座にしませんとね」
口角を綺麗に上げてにっこりするマーシャ義母上は、魔王妃としての迫力満点だ。
「それに紅茶の淹れ方もなっていなかったわ。色も変わっていたし、臭いもあからさまだったし。毒を入れるにしてももう少し工夫しませんとね。だから『こんなひと目で美味しくないとわかる紅茶には、手を付けられませんわぁ』って言ったら、あの子唇を噛んでこちらを睨んできたのよぉ。全然、反省できていないじゃなぁい? だから、泣いて謝るまで魔力の圧をかけてぺしゃんこにしてやったわ。あの子『こんなことなら、あの家庭教師のほうがマシだったわぁ』なんて泣きべそかいていたけれど、家に火をつける前にそのことがわかっていたら良かったのにねぇ」
……あ、これ愚痴じゃなかったみたい。戦勝報告会だね?
ディエンヌがマーシャ義母上の屋敷に行くと知ったときは、マーシャ義母上の身を案じたのだけれど、ツノなし魔力なしのぼくが心配することではなかったね。
マーシャ義母上はルーフェン公爵家の血筋だから魔力は相応に備わっているし、肝も据わっている。さすが、レオンハルト兄上の御母上だ。
結局、火事の原因はディエンヌの炎魔法だと特定された。駆けつけて消火活動した魔王城の職員がなかなか火を消せなかったのは、ディエンヌの魔力のほうが強かったからだ。
ディエンヌは魔王に、わざとではなく魔法の訓練中の事故だと訴えた。
しかし魔王は『たとえ訓練中の事故だとしても、後宮の屋敷を燃やし、公爵家の客人を害したことは看過できない』とし、さらに『ディエンヌに新しい屋敷を与えることはない』と告げた。
娘に甘い魔王も、この件はさすがに笑って流せなかったようだ。
長期休暇などで学園から魔王城に戻ることがあってもディエンヌの部屋はなく、城の客室などに泊まる形になるらしい。自業自得だが、屋敷を構えていたディエンヌにとって屋敷の没収は、精神的、プライド的にかなりの痛手だった。
さらに罰として、魔力や魔法を封じる魔道具を身につけることも命じられた。金の輪っかのアンクレットで、一見では魔封じとはわからない。でもディエンヌよりも魔力がはるかに高いレオンハルト兄上のお手製魔道具だから、彼女には外すことも壊すこともできないし、魔封じの効果もエグいらしい。
だが、これでぼくも、もう彼女の魔法攻撃は受けないで済みそうだな。良かったぁぁ!!
「ひどいわっ、お父様ぁぁ!! 私なにも悪いことしていないのにぃ……」
「すまぬ、ディエンヌ。しかしルーフェン公爵家を立てなければならぬから、お咎めなしというわけにはいかないのだ」
綺麗なものが大好きな魔王は、見目麗しいひとり娘のディエンヌに弱いけど、今回ばかりはディエンヌの『お父様ぁ』攻撃は通じないようだった。
それでもまだ甘いような気がするけれど、公爵家はそれで納得したみたい。マルチェロはかなり怒っていたように見えたからどことなく違和感があるけど……
まぁそんな感じで、今回のディエンヌメラメラ事件は終了した。
学園に入寮するまでに、マーシャ義母上がどれだけディエンヌを調教できるか。
それによっては、ぼくも少しは気楽に学園生活を送れると思う。でも、まぁ、きっと……ディエンヌは学園でやりたい放題するのでしょうね。だって、ディエンヌだもの。
ちなみに、このような有様なので、『ディエンヌが素晴らしい学力を身につけて学園に行かなくても良くなり、ゲームの主人公が害されることはなくなる』なんて展開にはならず、ぼくのディエンヌ入学阻止の目論みは粉々に砕け散ったのだった。がっかり。
でも彼女の魔法が封じられたから、主人公もぼくも、命の危機の可能性は低くなったのではないかな?
とにかく、これから出会うゲーム主人公の命を守るため、ぼくは引き続き、学園でもディエンヌの尻拭いをがんばりますっ!!
★★★★★
三月中旬のある日。
学園は春休みで、ぼくは屋敷でのんびりしていた。兄上は魔王城に出仕しているし、休みの間にしておく課題も初日に終了してしまって……いわゆる、暇だった。
なので、兄上に誕生日プレゼントとしていただいたカラフルな糸のセットを使い、刺繍をすることにした。もちろん兄上へのプレゼントとしてだ。
刺繍は裁縫の先生に及第点をいただいているので、兄上が普段使いしても恥ずかしくないものを贈れるはずだ。むふーん。
でもはじめての手作りの贈り物だから、無難にワンポイントのハンカチにしようと思う。どんな絵柄にしようかな? あぁ、春だからサクラーにしようかな?
そろそろ、またサクラーが咲く。ピンクの花びらがいっぱいになって、ひらひらと舞い散る様子が圧巻でとても綺麗で、昨年はとても感動した。
インナーは『桜と言ったら花見、桜の木の下で酒を呑むのだ、ガハハ』なんて言うけど、大人になったら兄上やお友達と一緒に花見をするのもいいかもしれないね。
そして初夏に実がなったサクランボもとっても美味しかった。甘くて、すっぱくて、みずみずしくて、ももんもとはまた別の味わいだ。
マルチェロが家に遊びに来たときサクランボのパイと実をお土産に持たせたのだけど、それを食べたマリーベルが『これも栽培するわ』と息巻いて、現在苗づくり中なのだとか。
どうなることやら。でも、これもまぁいつものことだね。
『サリエル。大事なお話があります』
そんなことに思いを馳せていると、突然インナーがぼくの口を使って言った。
ぼくは裁縫セットをそっと机の上に置いて、ベッドに正座をする。インナーと話をするときは寝台の上が多いからなんとなくそうした。というか、インナーが改まって話をするときは、碌なことがないんだよなぁ、と眉間をムニョムニョしながら思う。
それに、インナーがぼくを『サリエル』と呼んだのは、はじめてのような気がする。
インナーはこれまでぼくのことを、別人格だけど同一人物みたいな風に捉えていた。インナーでありながらぼくでもある、みたいな。
なのに改まってぼくを名前で呼んだことに、なんか嫌な予感を覚えた。
『実は先日、衝撃的な事実に気づいちゃったんだ。私、魂の器を間違えたみたい』
テヘッと、インナーが笑うと同時に、ぼくは、はあぁぁぁっ!? と心の中で叫んだ。
「魂の器ってぼくのことですか? ま、間違えて、ぼくに入っちゃったってこと?」
『そうそう。サリエルは頭いいから、話が早くて助かるぅ』
語尾を不自然に上げて、インナーは軽く言うけど……それってすっごくダメなやつなのでは?
「ま、ま、間違えたら、どうなるのですか?」
『うーん、別にどうにもならないけど、私がここから去るだけよ』
「というか先ほどから私とか言っていますけど、インナーは女の子、だったのですか?」
『そう。野口こずえ、享年二十三歳。アニメショップに行く途中で交通事故死しちゃった』
またもや、インナーはテヘッと笑う。
でもぼくは、繰り出される情報量にタジタジだ。
だけど野口こずえの個人情報はまったく脳内に入ってこなかった。普段なら、インナーの考えることは伝わってくるのに……
『やぁだぁ、乙女の個人情報をさらけ出すわけないでしょ。恥ずかしいじゃーん』
「去るって、いなくなっちゃうの? いつ?」
インナーは一瞬黙って、「今」と言った。すごく真剣な口調だったから、ぼくは焦ってしまう。
「い、いま? いつ? 気づいたのはいつ? どうして? なんでぇ?」
『気づいたのは、サリエルがロンディウヌス学園にはじめて行ったとき。ここが『ロンディウヌス学園、どんな悪魔と恋しちゃう?』の舞台だって気づいたときね。そこで、私が野口こずえだって思い出して、前世で死んで転生してきたってわかった……というか、わからされたって感じかなぁ』
インナーが説明したのは、こういうことだった。
こずえの魂は、転生するべき器が自分を迎える準備が整うまで漂うはずだった。生まれ出でるときほどの大きな衝撃を器が受けたときに、そこに入る……はずだった。
しかしその前に、ぼくが大きな衝撃を受けてしまう。六歳のときの落馬事件のことだ。
それで引っ張られるように、スポンと、ぼくの中に入ってしまった……ということらしい。
「いやいや、待って? 君はずっと、それこそ落馬のときより前からぼくの中にいたよね? インナーの世界のパソコンとかシジミの味噌汁とか知っていたし、リスも可愛いリスを知っていたし、スズメも小さいスズメだし、カタツムリも噛まないの……」
『それは私の記憶じゃない。たぶん、サリエルの魂に刻まれた記憶なんじゃない?』
そんな……あれは、ぼく本来の記憶なの?
ならぼくも、もしかしたらインナーと同じ転生者?
そして、インナーはぼくのインナーじゃないの!?
『そう。君のインナーじゃないの』
インナーはぼくの心を読んで、しっかりと否定した。
「でも、ここにいてもいいじゃん。それとも、ぼくが嫌になって出て行くの?」
『バカねぇ。サリエルのこと嫌になるわけないでしょ。そうじゃなくて。自分の本当の器があるってさっき言ったけど、もうすぐその器の準備が整うのよ』
ぼくは、なんとか彼女を引きとめようとする。けれど、こずえは今までのインナーよりもしっかりと自分の意見を持ち目的地をみつけたようで、ぼくの言葉で揺らぐことはなかった。
『サリエルは私の器じゃないから、なんだか頭がシャッキリしなくて、自分が何者なのかもよくわからなかった。でも、それもおしまい。私は、本当の私に生まれ変わることができるの。だから、お祝いしてね』
「ま、待って」
どうすればいいのかわからなかったけれど、彼女の魂が抜けないように、まぁるい手で胸をおさえつける。
『ダイエット、しなくてもいいみたいだけど、節制は大事よ。私に言われなくても食べすぎちゃダメだからね』
でもインナーはそう言って、ぼくの中から消えた。……消えた。
「ああああああぁぁぁっ!!」
ぼくは叫んだ。なんでかわからないけど、叫ばずにいられなかった。
そして窓を開け放って庭に飛び出し、とにかく走った。
「サリエル様っ!!」
エリンがぼくの叫びに気づいて追ってきたけど。今はなにも言えない。
六歳からずっと一緒にいたじゃないか。ぼくは彼女で、彼女はぼくだったじゃないか。兄上にときめいていたのに、兄上の婚約者のぼくから離れちゃったら、見れなくなっちゃうよ。
ももんも食べたいって、インナーが言ったんじゃないか。サクラーも見たいって言ったじゃないか。桜の木の下でお酒を呑むんじゃなかったの?
どこに行っちゃったの? どこに……
どこをどう走ったかもわからなかったけど、ぼくはいつの間にかももんもの木の下にいた。
ぼくは、うねうねと絡み合うももんもの幹に抱きついて、泣いた。
「サリエル様……」
「こないでぇ、エリン。しばらく、ひとりにしてくださいぃぃ」
エリンはぼくを心配して追いかけてきてくれたけど。今はひとりになりたかった。
それからぼくは、インナーと一緒に作ったももんもの木の下で、いっぱい泣いた。
ぼくの中からインナーがいなくなったのをはっきり感じて、涙があとからあとからあふれる。頬もびちょぐちゃだ。
ももんもの木を抱きしめて、ぼくは先ほどのことを思い返す。
ぼくにとっては悲しいことだけど、インナーは『お祝いして』とぼくに言った。だからインナーにとっては本来の居場所に戻れることが喜びなのだ。
……ぼくと一緒にいるよりも、喜ばしいことなのだ。
そりゃあ、そうだよ。ぼくの心の中に押しこめられているよりも、インナーはインナーとして生きていけるほうが自由なんだから。
きっと新鮮な空気を胸いっぱいに吸いこんで、オギャアーって第一声を放つ、のかな?
そして新しい人生を歩めるようになるんだ。
だとするなら、お祝いしなきゃいけないね。
でも、寂しいし、心細いよ。ずっとそばにいてくれた君がいないと。
インナーは口が悪いからいっぱい喧嘩をしたし、インナーの気持ちが理解できないこともいっぱいあったし、インナーが悲しくなったらぼくも悲しくなった。ダイエットは口うるさかった。でもインナーが注意してくれたから、ぼくは今ぽっちゃりでも健康を保てているのかもしれない。
良いことも、悪いことも、楽しいことも、悲しいことも共有して、いっぱい泣いたり笑ったりしたね。インナーは、ぼくをずっと見守ってくれた。それが嬉しかった。
あぁ、ぼくは……大事な人を失ってしまったのだ。
「サリュ……」
ふいに、低くて耳に心地よい声が聞こえた。兄上だ。
兄上はまだ魔王城でお仕事中のはずなのに……どうして?
声のほうを見ると、兄上と、申し訳なさそうな顔のエリンがいた。
「サリエル様、申し訳ありません。ひとりにしてとご命令なさいましたが、あまりにもお辛そうだったので、レオンハルト様をお呼びしてしまいました」
エリンもぼくの大事な人。ひとりにしてって言ったけど、心配して兄上を呼んでくれたことは怒れない。
でも、こんなびちょぐちゃな顔を兄上には見られたくありませんでしたぁ……!!
「エリン、あとは私が」
その言葉でエリンが下がると、ぼくはももんもから離れて兄上の腰に抱きついた。
「どうしたのだ? そんなに泣いて。このようなことははじめてだから、エリンがびっくりしてしまったぞ」
ぼくは幼い頃からあまり泣かなかったからな。ギャン泣きしたのは、カタツムリに噛まれて以来かな……そう思うと、カタツムリごときでギャン泣きした過去の自分が恥ずかしい。
「大事なお友達が、いなくなってしまったのです」
「なに? 婚約破棄虎視眈々勢の誰かが、一抜けしたのか?」
「……そちらの方々ではないのです。そこは、今までどおりです」
一瞬嬉しそうだった兄上は、「そうか」と落胆する。なんか、まぎらわしくてすみません。
兄上はぼくをそっと抱き寄せて、婚約したときに設置したふたり掛けの籐の椅子にぼくを座らせ、自分も横に座った。肩を抱いて寄り添ってくれるから、ぼくは頬を兄上の胸の辺りに押しつける。まだ少し涙が出ちゃう。クスン。
「その大事なお友達というのに私は心当たりがないが、誰かと文通でもしていたのか?」
インナーのことは話せないので……っていうか、心の中に別の誰かがいたとか言ったら頭がおかしくなったとか思われそうだし、お医者さんを呼ばれちゃいそうだから言わない。
だから、兄上の話に乗っかった。
「そのようなものです。詳しくは申せませんが、ぼくを支えてくれた人、と言いましょうか」
インナーのことを説明するのは難しかった。思い返せば……なにかを助けてもらった、というようなことはなかったかも。終始ツッコミ要員だったような気がする。あと、ダイエット監視員。
まぁ、これからはじまるらしいゲームのことはいっぱい教えてもらったけど。あとは兄上格好良いって、勝手にぼくの胸までドキドキさせた。
ん? やっぱりあまり役には立っていないな。まぁ、そうは言っても大事な人です。
「でも。もう、お話しできないのです」
「そうか。もしかして、サリュが魔王の息子だと知ってしまったからかな? 身分が違うからという理由で離れてしまう人はいるものだよ。その人がいなくなって今は寂しいかもしれないが、エリンがサリュを心配したように、サリュのことを大事に想っている者は周りに大勢いる。その人たちに目を向けてみたらどうかな?」
ド正論です、兄上。でもそれが、なかなかできないものなのだ。
でも、兄上の言うことは大事なことだ。兄上は仕事を放り投げて駆けつけてくれたのだから。そんな、ぼくを大事にする兄上のことを、ぼくもみつめていきたい。
はっ、仕事を放り投げてはいけないね。でも、その気持ちが嬉しいのだ。
……そう思ったら、なんだか兄上に体をくっつけていることが恥ずかしくなってきちゃった。恥ずかしいというか、ドキドキ?
な、なんで!? インナーはもうぼくの中にいないのに。優しくぼくに寄り添ってくれる兄上に、ぼぼぼ、ぼくはときめいている……!?
でもこれはインナーのドキドキではない。ということは……ぼくが兄上のことを……すすす、好きになっているってことぉ!?
あわわ、インナーがいなくなってしまって悲しんでいたというのに、インナーがいなくなったことでこの気持ちに気づかされて、胸がドキドキ、びっくりドッキリで脳みそパニックだぁ。
でもぼくは、兄上のことを本当に好きになってもいいのかな?
今までぼくは、兄上から婚約破棄されることばかりを考えていた。見た目もぽっちゃりで、ツノなし魔力なし、魔族として良いところなしの落ちこぼれだし。いずれ兄上が魔王になるというのなら、お世継ぎのことも考えなければならないし。
兄上が真に愛する人をみつけたら身を引こうと、ぼくは覚悟していた。
だからぼくが兄上を心の底から愛してしまうなんてことは考えもしなかった。
なのに、この胸の高鳴りのまま兄上のことを好きになって、愛する人をみつけた兄上に婚約破棄されてしまったら!?
「ぼく、婚約していなくても兄上とお仕事します」
突然そんなことを話し出したぼくに、兄上は首を傾げる。
このももんもの木の下で、ぼくは兄上との婚約を了承した。でもそこには、兄上と一緒に仕事をするという約束の意味もあった。だからまず、そこは変わらないことを言い置いたのだ。
「この場所で婚約の申し出を受けたとき、ぼくはまだ子供でした。恋とかそういうのは今もまだよくわからないけれど、でも今よりも当時はその意識が薄かったのです」
ぼくは寄りかかっていた兄上から身を起こし、居住まいを正す。
「でも……もし、もしも、ぼくが兄上のことを本気で好きになったら、兄上は本当に結婚を考えてくれるのですか?」
兄上の顔が怖くて見られない。ポヨンとした太ももを見ながら手をもじもじさせる。
「ぼくは兄上のことを好きになってもいいですか? その、恋愛的な意味で。ぼくには美しい容姿も膨大な魔力も立派な御ツノもないのです。だから自信がありません。兄上のことを好きになったあとで、やっぱり無理って言われたら……困ります」
困るっていうか、立ち直れない。だったら最初から好きにならないほうがいいもん。
「無理だなんて、言うわけがない」
「でも兄上は、ぼくではない人をこれから好きになるかもしれません」
「あり得ない」
きっぱりと、兄上はそう答えた。
ぼくは、そうなのですかぁ? とつぶやいて、思い切って顔を上げる。
するとそこには、柔らかく目を細めてこちらをみつめる兄上がいた。
「婚約をしたとき、サリュは七歳だった。それから少しだけ大人になった今のサリュにも、しっかりと言っておこう。私はサリュを愛しているよ。ちゃんと恋愛的な意味で、愛している」
「こ、こんなぽっちゃりな、ぼくをぉぉぉ?」
驚きのあまりグワッと目を見開くと、兄上は口をへの字にしてしまった。
「失礼な。私の愛するサリュは、とても優しくて、思いやりがあって友達想いで健気で可憐で、この世にひとつしかない私の宝物だ」
「このような、もっちりぽっちゃり我が儘ボディでも、ですか?」
兄上の顔を覗きこむ。しっかりみつめて兄上の真意を見極めます。嘘は許しませんよぉ?
「もっちりは大人になったら、しゅーーーーってなるよ」
「それは、希望的観測というやつでは?」
兄上からは、なんだかはぐらかしの匂いを感じます。
ジッとみつめると、兄上はふふふと笑うだけだった。いやいや、もっと科学的根拠を示していただきたい。ぼくが納得する、もっちり脱出の技を教えてもらいたいのだけどぉ……
でも兄上は笑うばかりで、それ以上のことは教えてくれなかった。
「本当に大丈夫なのですか? 本当に恋しちゃいますよ? がっつり好きになっちゃいますよ!?」
挑むようにたずねると、急に兄上の顔が寄ってきて、ギョッとした。
「唇にキスしてもいいくらい、好きになってくれるか?」
色っぽくまつ毛をゆっくり瞬かせて、甘い声音で囁く兄上に、ぼくの心臓がキューッ!! となる。
そりゃ、そうなるでしょ。これは反則です。恋愛初心者に、ひどい仕打ちですっ。
「まだっ! まだですけどぉ……いずれ、きっと、そうなります。たぶん」
「ふふ、楽しみにしているよ、サリュ」
そうしていつもの挨拶をするように、兄上はぼくの額にチュッとキスした。この流れでチュッは心臓に悪いです、兄上ぇ……
「でも、サリュはずるいな。自分が愛されている状態じゃないと恋に踏み切れないなんて」
「確かに、そうですね……普通はふられるのを覚悟して、一大決心で告白するのですよね」
「まぁ私にはズルくてもいいよ。それでサリュが私を意識する一歩になるならね。でもね、恋はしようと思ってするものじゃないんだ。できればサリュには本当に私を好きになってもらいたい。だから意識して好きになろうとしないでほしいな」
「でも、いろいろお待たせしてしまっているような気がして……」
「いつまでだって待てるよ。それに元々、私とサリュは年が五つ離れている。心の成熟が私と同じ速度ではないと、ちゃんと理解しているよ」
兄上はぼくの肩に再び腕を回しキュッと抱きしめると、目と目を合わせてそう告げた。
「だから、サリュが私を誰にも渡したくないと思うくらいに好きになって、私のことを寝ても覚めても考えるくらいに好きになったら。そのときはそっと私に教えてくれないか?」
「……はい」
たった二文字の返事をするだけなのに、なんだか心臓がギュインギュインしますっ!!
だってだって、もう兄上を誰にも渡したくないくらいには、好きなんだもん。これからはじまるゲームの主人公に、渡したくないと思ってるもん。主人公と兄上を会わせないように、画策しようとしてるもん。対策を練ったもん……インナーと一緒に。
ということは、これはインナーが残した置き土産なんだな? インナーは、ぼくが兄上とうまくいくことを願ってくれたのかなぁ。
まぁダイエットも、兄上の隣に並ぶのに相応しいようにって、ガミガミぐちぐち言ってくれた。だったらインナーのためにも、ぼくは兄上を主人公から死守し、主人公もディエンヌから死守しなきゃ、だね。
「離れてしまったお友達は残念だけれど、私はサリュのそばにいるよ。ずっと、ずーっと、いるからね」
そう言って、兄上はぼくに手を差し出す。そしてぼくはその手をしっかり握った。
インナーの代わりは誰にもできない。けれど、ぼくには兄上がいる。エリンも、ぼくを大事にしてくれるお友達もいる。
だから、お祝いしてと言ったインナーに、心の中で答えた。
――おめでとう。そして、さよなら、インナー。
兄上と手を繋いで、ぼくは森を後にする。
ちょっと振り返ると、ももんもの枝が揺れている。ありがとうと手を振っているように見えた。
★★★★★
四月一日の朝。もっちりぽっちゃり我が儘ボディのままで兄上への初恋を意識するぼく、サリエル・ドラベチカに思春期が到来しましたぁぁ!
いつものようにベッドをコロリーンと転がって降り、身支度を整えたら窓を開ける。ディエンヌの屋敷が撤去されたことで、不快な臭いもなし。メガラスがギャースと鳴いて魔王城の周りを飛ぶ、平和な魔国の朝を新鮮な気持ちで迎えた。
だけど、ぼくの心の中にはもうインナーはいない。彼女のいない朝にはまだ慣れなくて、それだけで以前とは違う朝だった。……ずっと性別不詳だったインナーを彼女と呼ぶのも慣れないな。
そして以前と違うことがもうひとつある。
誕生日が過ぎた頃にいつもやってくるあいつが、今年は来ません!!
あいつというのはもちろん、スズメガズスのことですよっ!
ということは、もしかして清らかな魂の持ち主はぼくじゃなくてインナーだったのかもしれないね。あの口の悪さを思い出すと、とても清らかだったとは思えないけど。
でもやっぱり、ぼくはちゃんと魔族だったのだ。魔王の三男はどす黒い心の持ち主であると証明されたようなものです。あぁ、良かった、良かった。
そんなふうに気持ちを上げてみるけれど、やっぱりまだ寂しくて、ちょっと心に悲しい風が吹き抜けた。しんみり。
でも、いつまでもくよくよしていられない。今日は本来、学園は休みだけど、ぼくは真っ白い制服に身を包んで学園に行かないといけないのだ。だって今日は、新入生の入学式だから!
弟のシュナイツ、お友達のマリーベルとエドガーがとうとう学園にやってくる。楽しみにして、待ちに待っていた日だ。ついでに、ディエンヌも……
入学式に魔王が顔を出すはずはないし、魔王城に渦巻く魔力に耐えられず転居した母上が、生徒たちの未熟な魔力が渦巻く学園に来られるわけもない。
そうなるとディエンヌの血縁はぼくだけ。ディエンヌの父兄として、ぼくは入学式に参列するべきなのでしょう。たとえ、ぼくの命をなんでか狙い続ける悪辣な妹であろうと。丸鶏のあんたが兄と知られたくないから顔出さないで――とか言ってきそうだけどね。
準備ができたので屋敷のエントランスから外に出ると、いつものようにファウストが迎えに来てくれていた。
ファウストは今、黒髪を後ろに結わえ、重たかった前髪を上げている。馬車の扉の前に立つ彼は、ギンとした目力の強い目元や太い男らしい眉があらわになり、背筋が伸びた凛々しい若侍のようで、とても格好良いんだ。
そしてぼくらは馬車で学園に向かい、校門の前にある馬車の停車所で降りる。
するとそこには、真新しい白い制服に身を包み、少し大人になったマリーベルとシュナイツ、エドガーがいた。それにマルチェロも待っている。
「パンちゃん、お久しぶりですわぁ。あぁ、このむっちり触感、パンちゃんは変わらないわね」
マリーベルがぼくにムギュッと抱きつく。それはいつものことなのだけど、ワタワタしてしまう。だって思春期到来なのだからね。子供のときから知っているとはいえ、見目麗しくなった令嬢に抱きつかれたら、慌てちゃうよ。
「マリーベル、公爵令嬢の身で殿方に抱きつくなんて、はしたないぞ」
やんわりはんなり、兄のマルチェロが注意する。それにマリーベルは、はぁいと気のない返事をしてぼくから離れた。
ほっ。では、改めまして……
「マリーベル、シュナイツ、エドガー。ご入学おめでとうございます!」
ぼくはかしこまって三人に祝辞を述べ、両手を広げて彼らを迎え入れた。
「ようこそ、ロンディウヌス学園へ!」
別にロンディウヌス学園はぼくの持ち物ではないけれど、なんとなく再現してみたかったのだ。インナーが脳内映像で見せてくれたゲームのオープニングで、攻略対象者たちが勢ぞろいして主人公を迎える場面を。まぁ、もっちりプヨプヨが『ようこそ』って言っている時点で、再現度はかなり低いけどね。いいの、雰囲気ってやつなのっ!!
「サリエル兄上、お久しぶりでございますぅ! 本当に、本っ当に、会いたかったですぅっ!! あぁ、このもっちり触感。最高ですぅ……」
しかし、ぼくの挨拶をマルッと無視して、シュナイツがマリーベルのようにムギュッと抱きついてきた。奇しくもマリーベルと同じようなセリフである。婚約者になると似てくるのかな。
「もう、早く声をかけてくださいよ。サリエル様は相変わらずのんびりしていますね」
眼鏡を中指で押し上げつつ言うエドガーも、相変わらずのツンで真面目さんなのだった。
「あぁ、ズルいぃ。シュナイツ、抱きつきすぎよ」
マリーベルはぼくの右腕に腕をからめて、シュナイツはぼくの左手と手を繋ぐ。
「あぁあ、サリーの隣にいられた最高の時間が、一年で終了してしまった……」
そしてマルチェロは肩をすくめてつぶやき、ファウストは無言でうなずく。
なんだか一年前の子供会が戻ってきたみたいだね。今から学園生活が楽しみだ。
みなさんと挨拶を済ませ、ぼくとマルチェロとファウストは講堂の中にある高位貴族専用のブースに移動した。
そこでマルチェロに、御両親を紹介された。マルチェロの父君、ルーフェン公爵とは初対面。兄上を伴わずに高位貴族の方と対面するのははじめてなので、緊張しちゃった。
公爵はマルチェロのお兄さんと言っても差し支えないくらいに若々しく、マルチェロをひと回り大きくしたような、大柄なマルチェロだった。体格差があるだけで、顔はすっごく似ていたよ。気品のある貴族というたたずまいは特にね。
マルチェロの母君は昨年の入学式にいたけど、公爵は参列していなかったと記憶している。ルーフェン兄妹の誕生日会にお呼ばれしたときも会えなかったので、お忙しい方なのかとマルチェロにたずねると……
「娘の行事にはたまに顔を出すね。私の行事には来なくていいと言ってあるから」
ということでした。思春期男子あるあるかもね。
ちなみにディエンヌだけど、一応、入学式の前に声は……かけたよ。そしたら案の定キッと眉を吊り上げて噛みついてきました。
「白色レグホーンのあんたが兄とか、恥ずかしいから、そばに寄らないでっ」
「白色レグホーン?」
「知らないのぉ? ニワトリの種類の名前よ。白色、丸鶏、赤いトサカ、オスがなんの価値もないところとか、あんたにピッタリじゃなぁい。とにかく、その醜い顔と体で私に話しかけないでちょうだいっ」
ビシッと言い放たれて、ぼくはその場に立ち尽くす。悪口の語彙が増えていて、そのことに兄は驚嘆したよ。
確か六年前のお披露目会のときは、つぶれたゆで卵と言われたのだ。白色レグホーンは卵を産むのに特化したニワトリだが、調べないと出てこない言葉だろうから、すっごい勉強したんじゃないかな。きっとマーシャ義母上の指導のたまものだなっ。さすがです!
しかし白色レグホーンも、オスがいなければ数が増えないのだから、卵を産めなくてもなんの価値もないは言い過ぎだと思う。オスの白色レグホーンに失礼だ。
ってことで、ディエンヌのことはとりあえずそんな感じ。あとは言われたとおりに放置して、入学式は無事に終了したのだった。
★★★★★
翌日。今日は学園の始業式、シュナイツたちは今日から学園生活開始だね。ぼくは昨年、初日から上級生に絡まれて大変な目にあったから、今年は穏便に平和にはじまるといいな。
馬車が学園のロータリーにつきファウストとともに降りると、そこには昨日と同じくお友達のみなさんが待っていた。いつものようにマリーベルがぼくの右腕に腕をからめ、左手はシュナイツが握って、背後にファウストとマルチェロとエドガーが並ぶ。
ゲームの攻略対象が居並ぶそうそうたるメンバーで校舎までの道を歩くけど、子供会で過ごしたときと変わらない配置だから、ちょっと笑ってしまった。
「なぁに? パンちゃん」
笑いをこぼしたぼくに、マリーベルが問いかける。
一年会わないうちに、彼女はすっかり大きくなって、ぼくより頭ひとつ分身長が高くなった。ぼくだって、身長少し伸びたのにぃ……
ミルクティー色の髪を縦ロールに巻いて、明るくてたくましい悪役令嬢チックな容姿だ。でもエメラルドの瞳に桜色の唇で柔らかく微笑む姿は、まるで妖精さんのように愛らしい。ちょっと見ない間に公爵令嬢の気品と美貌が磨かれて、ピカピカに輝いているようだった。
他のみなさんにも視線を移していく。
ファウストは前から大きかったけど、男性陣はみなさんぼくより頭ひとつ、いやふたつ分ほど大きくなっているなぁ。
シュナイツは子供の頃女の子のように可愛いかったけれど、今は背が高くて胸板もしっかりしていて、ピンクの長い髪を垂らしていても女の子には間違えられないくらいにたくましくなった。
マルチェロは相変わらず美しいが、美少年ではなく美男子、いえ、美青年だ。所作はスマートだし、細身ながらも体格はしっかりしている。顔もちっさいし、手足長ーい!
ファウストはキリリとした目元が鋭利で貫禄たっぷりの騎士のよう。
エドガーは勉強ばかりしているはずなのに身長も体重もベストバランスになって、理知的な好青年の容貌に……って、ちょっと待ったぁぁぁ!?
大変だっ、ぼくだけ取り残されている。
成長が。成長がぁぁっ!!
そんなふうに祈った。
「サリー、今なにをしていたんだ? なんか赤く光っていたぞ」
一生懸命お祈りしていたから、マルチェロが起きたことに気づかなかった。ぼくは目を開けて、マルチェロのほうを見やる。
「お祈りをしていました。ん? 光っていた? なにが?」
首を傾げると、マルチェロはかすかに笑った。でもすぐに目を見開いて椅子から立ち上がり、慌てて駆け寄ってきた。
「マリエラ! 気が付いたか!? 大丈夫か!?」
彼女に視線を移す。いつの間にか彼女が目を開け、綺麗な緑の瞳が見えていた。
「……マルチェロ、私……力になれなかった、みたい」
まだ声はか細いが、彼女はマルチェロにそう告げた。
「なに言っているんだ。いいんだよ、マリエラが生きているだけでいいんだ。前にいた学校に戻ろう。そこで子供たちがマリエラの帰りを待っている」
医者もマルチェロの声で起きて、彼女のもとに駆け寄る。
「山を越えたようです。もう大丈夫でしょう」
そう診断してくれて、ぼくはホッとした。
あぁぁあ、良かったぁ!! 彼女は一命を取りとめたのだ。大地の精霊さん、ありがとうっ!!
「良かったね、マルチェロぉ。彼女は大事な先生なのでしょう?」
「あぁ、そうなんだ。ありがとう。ありがとう、サリー」
マルチェロが涙声で何度もお礼を言う。マリエラは彼にとってよっぽど恩のある先生なのだろう。
ぼくはいつも守られてばかりだから、彼の恩人を助けられたことが本当に嬉しかった。ぼくも少しは恩を返したいのだからね。
ま、彼女を助けたのは実質兄上で、ぼくはお祈りしただけだけれど。
今回、ディエンヌの悪事を阻止することはできなかった。でもマリエラが目を覚ましてくれたので、最悪の事態はなんとか回避できたし、ひとまず安堵する。
というか、そろそろぼくの尻拭いの限度は超えていると思うんだ。これ以上ディエンヌのやらかしがエスカレートしたら、ぼくは心労で自慢の赤い髪が抜けてハゲてしまいそうだよっ!
「でもマルチェロ、これを理由にディエンヌとの婚約は破棄できると思いますよ」
そう、この気のいい友人は、ディエンヌの婚約者なのだ。ぼくはそれが嫌で、なんとか婚約をなかったことにしたいと常々思っていた。
ルーフェン公爵家としても、派遣した家庭教師をないがしろにする者を嫁として迎えたくはないだろうし、ここまでの騒動を起こしたのだから、娘に甘い魔王も婚約破棄を許すと思ったのだ。
「それは……生ぬるいよ、サリー」
しかし、ぼくの提案は却下された。
こちらを振り返ったマルチェロは、マリエラが目を覚まして安心したからか、いつもの爽やかな笑顔になっている。
でもぼくはこのときその笑顔を、はじめて怖いと思った。
★★★★★
ディエンヌメラメラ事件から一週間後の朝。
目覚めて、いつものようにコロリーンとしてベッドを降り、洗面所で身支度を開始する。そのあとプヨプヨとクローゼットの前へ進み、兄上から贈られた白い寝間着を脱いで家着に着替えた。
今日は来客があるので、襟がぴらぴらした白いシャツに濃い緑のジャケットとズボンを合わせた、ちょっと上等な衣装をチョイスしてみた。
身だしなみを整えたら、窓を開けて新鮮な空気を吸うのがぼくの日課である。
でも、屋敷から見えないくらい遠い位置にディエンヌの屋敷があるというのに、焦げた臭いが風に乗ってきたものだから、早々に窓を閉めた。
まったく爽やかな気分にはならないし、清々しい朝の目覚めが台無しだ。
火事のあとって、なにかが燃えた匂いではなく、眉間の辺りがモヤモヤするような、吐き気をもよおすような不快な臭いがいつまでも残るんだよね。火事からだいぶ経つのに、まだその臭いが辺りに濃く漂っていた。
ディエンヌの屋敷は全焼を免れたが、後宮全体に鼻をつく臭いが漂うことから、取り壊しが決まった。屋敷が解体されれば、臭いも後味の悪さもいずれなくなるだろう。
では、ディエンヌメラメラ事件のその後をお話ししよう。
まずマリエラだけど、意識が戻ったとはいえ重傷だったので、傷が完全に癒えるまでは公爵家で養生することになり、マルチェロが連れて帰った。今にも命の火が消えそうだったマリエラは、現在は気力を取り戻し、復職に向けてがんばっているということだ。良かったね。
屋敷を取り壊したあとディエンヌはどこで暮らすのかというと……ディエンヌが学園に入学するまでひと月ないということで、四月になったら学園の寮に入ることが決まった。
えぇぇ、大丈夫かなぁ? 学園で大惨事が起きないことを祈るばかりである。
でも寮には礼儀作法を厳しく指導する教師が常駐しているらしいので、魔王城の後宮で野放し状態でいるより目は行き届くみたいだよ。学園の先生、どうかよろしくお願いします。
では四月まではどうするのかというと、マーシャ義母上が面倒を見ています。
ディエンヌが焼け出された直後、兄上は『独房に突っこんでおけ』なんて言ったけど、女の子を牢屋にいれるのは良くないとマーシャ義母上が待ったをかけた。で、後宮の総括をするマーシャ義母上がディエンヌを一時的に保護することになったのだ。その流れで、彼女が四月に入寮するまで、自分が徹底的に礼儀作法を身につけさせる、と息巻いていた。
そして今日、そのマーシャ義母上がこの屋敷にやってくるというわけなのだった。
約束の時間通りにマーシャ義母上はやってきて、ぼくはお日様燦燦サンルームのサロンに案内した。ぼくとマーシャ義母上は、向かい合ってソファに腰かける。
「サリエル、あなたは幼い頃から礼儀に関してはなんの問題もなかったわ。今も、学園の淑女教育で良い成績をおさめていると聞いています。レオンハルトの婚約者として、申し分ない出来ですよ。でもあの子はどうして……ああなのかしら?」
空色の髪をピシリと結い上げ、一分の隙も無く高潔なマーシャ義母上だが、ほぅとやるせないため息をついて愚痴をこぼした。
マーシャ義母上の備考欄には『嫁には礼儀正しさを求める』とある。そのように礼儀に厳しい御仁だからこそなのか、ディエンヌの躾には手を焼いている様子だ。
ぼくは申し訳ない思いでいっぱいで、太ももに置いた手をなんとなくモミモミしてしまう。
「あの子は、男性の使用人との距離が近いのよ。令嬢としてはしたないわ。ラーディンは彼女と適切な距離を取っていますけど、ディエンヌと顔を合わせると体が重くなるって言うのよ。どうやらあの子、男性の生気を吸っているみたいなの」
それは、サキュバス的なやつでしょうか?
ぼくとディエンヌの母はサキュバスだ。サキュバスは淫魔で、性交渉して生気を奪い、それを糧とする種族である。つまりディエンヌにもそういう性質があるのだろう。でもぼくは未熟なので、その感覚はいまだにわからない。
「本の知識ですが、サキュバスは実際の性交渉で生気を分けてもらう、というのが一般的です。でもディエンヌは性交渉をしなくても男性から生気を奪える、そういうことなのでしょうか?」
「ディエンヌは一般のサキュバスより魔力が多いから、そういうこともできるみたいね。だからラーディンの生気を今度吸ったら消し炭よ! って、脅しておきましたわ」
可愛らしく笑うけど……マーシャ義母上がテヘッとしても怖いだけです。
「それから『魔王の娘なら殿方に自分を安売りしてはいけません。自分から殿方に触れる行為は禁止します』と命じたの。でもラーディンに触れずにあの子の生気を吸えるのだから、抑止効果はないかもしれないわねぇ」
そうして「困ったわぁ」と頬に手を当てた。
でもぼくは『さすがです』と胸の内で拍手喝采だ。だって、ディエンヌと渡り合っているのが、もうすごいでしょ。
「この前もね、あの子、お茶会のマナーを教えているときに私のお茶に毒を仕込んだのよ」
……は? な、なにをやらかしているのです、ディエンヌぅ?? 魔王妃様になんてことをっ!!
ぼくが口をまぁるく開けワナワナしていると、マーシャ義母上はにっこり笑った。
「あら、大丈夫よ、サリエル。私はこうしてピンピンしていますからね。あなたも、たまに標的にされていたのでしょう? 私もちゃんと対処できてよ」
そうして紅茶をひと口飲み「あぁ、サリエルの淹れてくれたお茶は美味しいわねぇ」とつぶやいた。恐れ入ります。
「その紅茶は、そのまま彼女にぶっかけてやったわ。そうしたらあの子『なにすんだババァ』なんて叫ぶのよぉ。あぁ、怖い、怖い」
まったく怖がる様子もなく、マーシャ義母上は話を続ける。
「だからね『魔王の娘がこれぐらいのことで取り乱すなんて、いただけないわね。もっとどっしり構えて、目で威圧して、視線で殺すくらいのことはしないとねぇ……』って助言して、魔力で床にひれ伏させてやったわ。こうやるのよっていうお手本よ。だって、ババァなんて言われたら、さすがの魔王妃もキレちゃうでしょ? お仕置きは即座にしませんとね」
口角を綺麗に上げてにっこりするマーシャ義母上は、魔王妃としての迫力満点だ。
「それに紅茶の淹れ方もなっていなかったわ。色も変わっていたし、臭いもあからさまだったし。毒を入れるにしてももう少し工夫しませんとね。だから『こんなひと目で美味しくないとわかる紅茶には、手を付けられませんわぁ』って言ったら、あの子唇を噛んでこちらを睨んできたのよぉ。全然、反省できていないじゃなぁい? だから、泣いて謝るまで魔力の圧をかけてぺしゃんこにしてやったわ。あの子『こんなことなら、あの家庭教師のほうがマシだったわぁ』なんて泣きべそかいていたけれど、家に火をつける前にそのことがわかっていたら良かったのにねぇ」
……あ、これ愚痴じゃなかったみたい。戦勝報告会だね?
ディエンヌがマーシャ義母上の屋敷に行くと知ったときは、マーシャ義母上の身を案じたのだけれど、ツノなし魔力なしのぼくが心配することではなかったね。
マーシャ義母上はルーフェン公爵家の血筋だから魔力は相応に備わっているし、肝も据わっている。さすが、レオンハルト兄上の御母上だ。
結局、火事の原因はディエンヌの炎魔法だと特定された。駆けつけて消火活動した魔王城の職員がなかなか火を消せなかったのは、ディエンヌの魔力のほうが強かったからだ。
ディエンヌは魔王に、わざとではなく魔法の訓練中の事故だと訴えた。
しかし魔王は『たとえ訓練中の事故だとしても、後宮の屋敷を燃やし、公爵家の客人を害したことは看過できない』とし、さらに『ディエンヌに新しい屋敷を与えることはない』と告げた。
娘に甘い魔王も、この件はさすがに笑って流せなかったようだ。
長期休暇などで学園から魔王城に戻ることがあってもディエンヌの部屋はなく、城の客室などに泊まる形になるらしい。自業自得だが、屋敷を構えていたディエンヌにとって屋敷の没収は、精神的、プライド的にかなりの痛手だった。
さらに罰として、魔力や魔法を封じる魔道具を身につけることも命じられた。金の輪っかのアンクレットで、一見では魔封じとはわからない。でもディエンヌよりも魔力がはるかに高いレオンハルト兄上のお手製魔道具だから、彼女には外すことも壊すこともできないし、魔封じの効果もエグいらしい。
だが、これでぼくも、もう彼女の魔法攻撃は受けないで済みそうだな。良かったぁぁ!!
「ひどいわっ、お父様ぁぁ!! 私なにも悪いことしていないのにぃ……」
「すまぬ、ディエンヌ。しかしルーフェン公爵家を立てなければならぬから、お咎めなしというわけにはいかないのだ」
綺麗なものが大好きな魔王は、見目麗しいひとり娘のディエンヌに弱いけど、今回ばかりはディエンヌの『お父様ぁ』攻撃は通じないようだった。
それでもまだ甘いような気がするけれど、公爵家はそれで納得したみたい。マルチェロはかなり怒っていたように見えたからどことなく違和感があるけど……
まぁそんな感じで、今回のディエンヌメラメラ事件は終了した。
学園に入寮するまでに、マーシャ義母上がどれだけディエンヌを調教できるか。
それによっては、ぼくも少しは気楽に学園生活を送れると思う。でも、まぁ、きっと……ディエンヌは学園でやりたい放題するのでしょうね。だって、ディエンヌだもの。
ちなみに、このような有様なので、『ディエンヌが素晴らしい学力を身につけて学園に行かなくても良くなり、ゲームの主人公が害されることはなくなる』なんて展開にはならず、ぼくのディエンヌ入学阻止の目論みは粉々に砕け散ったのだった。がっかり。
でも彼女の魔法が封じられたから、主人公もぼくも、命の危機の可能性は低くなったのではないかな?
とにかく、これから出会うゲーム主人公の命を守るため、ぼくは引き続き、学園でもディエンヌの尻拭いをがんばりますっ!!
★★★★★
三月中旬のある日。
学園は春休みで、ぼくは屋敷でのんびりしていた。兄上は魔王城に出仕しているし、休みの間にしておく課題も初日に終了してしまって……いわゆる、暇だった。
なので、兄上に誕生日プレゼントとしていただいたカラフルな糸のセットを使い、刺繍をすることにした。もちろん兄上へのプレゼントとしてだ。
刺繍は裁縫の先生に及第点をいただいているので、兄上が普段使いしても恥ずかしくないものを贈れるはずだ。むふーん。
でもはじめての手作りの贈り物だから、無難にワンポイントのハンカチにしようと思う。どんな絵柄にしようかな? あぁ、春だからサクラーにしようかな?
そろそろ、またサクラーが咲く。ピンクの花びらがいっぱいになって、ひらひらと舞い散る様子が圧巻でとても綺麗で、昨年はとても感動した。
インナーは『桜と言ったら花見、桜の木の下で酒を呑むのだ、ガハハ』なんて言うけど、大人になったら兄上やお友達と一緒に花見をするのもいいかもしれないね。
そして初夏に実がなったサクランボもとっても美味しかった。甘くて、すっぱくて、みずみずしくて、ももんもとはまた別の味わいだ。
マルチェロが家に遊びに来たときサクランボのパイと実をお土産に持たせたのだけど、それを食べたマリーベルが『これも栽培するわ』と息巻いて、現在苗づくり中なのだとか。
どうなることやら。でも、これもまぁいつものことだね。
『サリエル。大事なお話があります』
そんなことに思いを馳せていると、突然インナーがぼくの口を使って言った。
ぼくは裁縫セットをそっと机の上に置いて、ベッドに正座をする。インナーと話をするときは寝台の上が多いからなんとなくそうした。というか、インナーが改まって話をするときは、碌なことがないんだよなぁ、と眉間をムニョムニョしながら思う。
それに、インナーがぼくを『サリエル』と呼んだのは、はじめてのような気がする。
インナーはこれまでぼくのことを、別人格だけど同一人物みたいな風に捉えていた。インナーでありながらぼくでもある、みたいな。
なのに改まってぼくを名前で呼んだことに、なんか嫌な予感を覚えた。
『実は先日、衝撃的な事実に気づいちゃったんだ。私、魂の器を間違えたみたい』
テヘッと、インナーが笑うと同時に、ぼくは、はあぁぁぁっ!? と心の中で叫んだ。
「魂の器ってぼくのことですか? ま、間違えて、ぼくに入っちゃったってこと?」
『そうそう。サリエルは頭いいから、話が早くて助かるぅ』
語尾を不自然に上げて、インナーは軽く言うけど……それってすっごくダメなやつなのでは?
「ま、ま、間違えたら、どうなるのですか?」
『うーん、別にどうにもならないけど、私がここから去るだけよ』
「というか先ほどから私とか言っていますけど、インナーは女の子、だったのですか?」
『そう。野口こずえ、享年二十三歳。アニメショップに行く途中で交通事故死しちゃった』
またもや、インナーはテヘッと笑う。
でもぼくは、繰り出される情報量にタジタジだ。
だけど野口こずえの個人情報はまったく脳内に入ってこなかった。普段なら、インナーの考えることは伝わってくるのに……
『やぁだぁ、乙女の個人情報をさらけ出すわけないでしょ。恥ずかしいじゃーん』
「去るって、いなくなっちゃうの? いつ?」
インナーは一瞬黙って、「今」と言った。すごく真剣な口調だったから、ぼくは焦ってしまう。
「い、いま? いつ? 気づいたのはいつ? どうして? なんでぇ?」
『気づいたのは、サリエルがロンディウヌス学園にはじめて行ったとき。ここが『ロンディウヌス学園、どんな悪魔と恋しちゃう?』の舞台だって気づいたときね。そこで、私が野口こずえだって思い出して、前世で死んで転生してきたってわかった……というか、わからされたって感じかなぁ』
インナーが説明したのは、こういうことだった。
こずえの魂は、転生するべき器が自分を迎える準備が整うまで漂うはずだった。生まれ出でるときほどの大きな衝撃を器が受けたときに、そこに入る……はずだった。
しかしその前に、ぼくが大きな衝撃を受けてしまう。六歳のときの落馬事件のことだ。
それで引っ張られるように、スポンと、ぼくの中に入ってしまった……ということらしい。
「いやいや、待って? 君はずっと、それこそ落馬のときより前からぼくの中にいたよね? インナーの世界のパソコンとかシジミの味噌汁とか知っていたし、リスも可愛いリスを知っていたし、スズメも小さいスズメだし、カタツムリも噛まないの……」
『それは私の記憶じゃない。たぶん、サリエルの魂に刻まれた記憶なんじゃない?』
そんな……あれは、ぼく本来の記憶なの?
ならぼくも、もしかしたらインナーと同じ転生者?
そして、インナーはぼくのインナーじゃないの!?
『そう。君のインナーじゃないの』
インナーはぼくの心を読んで、しっかりと否定した。
「でも、ここにいてもいいじゃん。それとも、ぼくが嫌になって出て行くの?」
『バカねぇ。サリエルのこと嫌になるわけないでしょ。そうじゃなくて。自分の本当の器があるってさっき言ったけど、もうすぐその器の準備が整うのよ』
ぼくは、なんとか彼女を引きとめようとする。けれど、こずえは今までのインナーよりもしっかりと自分の意見を持ち目的地をみつけたようで、ぼくの言葉で揺らぐことはなかった。
『サリエルは私の器じゃないから、なんだか頭がシャッキリしなくて、自分が何者なのかもよくわからなかった。でも、それもおしまい。私は、本当の私に生まれ変わることができるの。だから、お祝いしてね』
「ま、待って」
どうすればいいのかわからなかったけれど、彼女の魂が抜けないように、まぁるい手で胸をおさえつける。
『ダイエット、しなくてもいいみたいだけど、節制は大事よ。私に言われなくても食べすぎちゃダメだからね』
でもインナーはそう言って、ぼくの中から消えた。……消えた。
「ああああああぁぁぁっ!!」
ぼくは叫んだ。なんでかわからないけど、叫ばずにいられなかった。
そして窓を開け放って庭に飛び出し、とにかく走った。
「サリエル様っ!!」
エリンがぼくの叫びに気づいて追ってきたけど。今はなにも言えない。
六歳からずっと一緒にいたじゃないか。ぼくは彼女で、彼女はぼくだったじゃないか。兄上にときめいていたのに、兄上の婚約者のぼくから離れちゃったら、見れなくなっちゃうよ。
ももんも食べたいって、インナーが言ったんじゃないか。サクラーも見たいって言ったじゃないか。桜の木の下でお酒を呑むんじゃなかったの?
どこに行っちゃったの? どこに……
どこをどう走ったかもわからなかったけど、ぼくはいつの間にかももんもの木の下にいた。
ぼくは、うねうねと絡み合うももんもの幹に抱きついて、泣いた。
「サリエル様……」
「こないでぇ、エリン。しばらく、ひとりにしてくださいぃぃ」
エリンはぼくを心配して追いかけてきてくれたけど。今はひとりになりたかった。
それからぼくは、インナーと一緒に作ったももんもの木の下で、いっぱい泣いた。
ぼくの中からインナーがいなくなったのをはっきり感じて、涙があとからあとからあふれる。頬もびちょぐちゃだ。
ももんもの木を抱きしめて、ぼくは先ほどのことを思い返す。
ぼくにとっては悲しいことだけど、インナーは『お祝いして』とぼくに言った。だからインナーにとっては本来の居場所に戻れることが喜びなのだ。
……ぼくと一緒にいるよりも、喜ばしいことなのだ。
そりゃあ、そうだよ。ぼくの心の中に押しこめられているよりも、インナーはインナーとして生きていけるほうが自由なんだから。
きっと新鮮な空気を胸いっぱいに吸いこんで、オギャアーって第一声を放つ、のかな?
そして新しい人生を歩めるようになるんだ。
だとするなら、お祝いしなきゃいけないね。
でも、寂しいし、心細いよ。ずっとそばにいてくれた君がいないと。
インナーは口が悪いからいっぱい喧嘩をしたし、インナーの気持ちが理解できないこともいっぱいあったし、インナーが悲しくなったらぼくも悲しくなった。ダイエットは口うるさかった。でもインナーが注意してくれたから、ぼくは今ぽっちゃりでも健康を保てているのかもしれない。
良いことも、悪いことも、楽しいことも、悲しいことも共有して、いっぱい泣いたり笑ったりしたね。インナーは、ぼくをずっと見守ってくれた。それが嬉しかった。
あぁ、ぼくは……大事な人を失ってしまったのだ。
「サリュ……」
ふいに、低くて耳に心地よい声が聞こえた。兄上だ。
兄上はまだ魔王城でお仕事中のはずなのに……どうして?
声のほうを見ると、兄上と、申し訳なさそうな顔のエリンがいた。
「サリエル様、申し訳ありません。ひとりにしてとご命令なさいましたが、あまりにもお辛そうだったので、レオンハルト様をお呼びしてしまいました」
エリンもぼくの大事な人。ひとりにしてって言ったけど、心配して兄上を呼んでくれたことは怒れない。
でも、こんなびちょぐちゃな顔を兄上には見られたくありませんでしたぁ……!!
「エリン、あとは私が」
その言葉でエリンが下がると、ぼくはももんもから離れて兄上の腰に抱きついた。
「どうしたのだ? そんなに泣いて。このようなことははじめてだから、エリンがびっくりしてしまったぞ」
ぼくは幼い頃からあまり泣かなかったからな。ギャン泣きしたのは、カタツムリに噛まれて以来かな……そう思うと、カタツムリごときでギャン泣きした過去の自分が恥ずかしい。
「大事なお友達が、いなくなってしまったのです」
「なに? 婚約破棄虎視眈々勢の誰かが、一抜けしたのか?」
「……そちらの方々ではないのです。そこは、今までどおりです」
一瞬嬉しそうだった兄上は、「そうか」と落胆する。なんか、まぎらわしくてすみません。
兄上はぼくをそっと抱き寄せて、婚約したときに設置したふたり掛けの籐の椅子にぼくを座らせ、自分も横に座った。肩を抱いて寄り添ってくれるから、ぼくは頬を兄上の胸の辺りに押しつける。まだ少し涙が出ちゃう。クスン。
「その大事なお友達というのに私は心当たりがないが、誰かと文通でもしていたのか?」
インナーのことは話せないので……っていうか、心の中に別の誰かがいたとか言ったら頭がおかしくなったとか思われそうだし、お医者さんを呼ばれちゃいそうだから言わない。
だから、兄上の話に乗っかった。
「そのようなものです。詳しくは申せませんが、ぼくを支えてくれた人、と言いましょうか」
インナーのことを説明するのは難しかった。思い返せば……なにかを助けてもらった、というようなことはなかったかも。終始ツッコミ要員だったような気がする。あと、ダイエット監視員。
まぁ、これからはじまるらしいゲームのことはいっぱい教えてもらったけど。あとは兄上格好良いって、勝手にぼくの胸までドキドキさせた。
ん? やっぱりあまり役には立っていないな。まぁ、そうは言っても大事な人です。
「でも。もう、お話しできないのです」
「そうか。もしかして、サリュが魔王の息子だと知ってしまったからかな? 身分が違うからという理由で離れてしまう人はいるものだよ。その人がいなくなって今は寂しいかもしれないが、エリンがサリュを心配したように、サリュのことを大事に想っている者は周りに大勢いる。その人たちに目を向けてみたらどうかな?」
ド正論です、兄上。でもそれが、なかなかできないものなのだ。
でも、兄上の言うことは大事なことだ。兄上は仕事を放り投げて駆けつけてくれたのだから。そんな、ぼくを大事にする兄上のことを、ぼくもみつめていきたい。
はっ、仕事を放り投げてはいけないね。でも、その気持ちが嬉しいのだ。
……そう思ったら、なんだか兄上に体をくっつけていることが恥ずかしくなってきちゃった。恥ずかしいというか、ドキドキ?
な、なんで!? インナーはもうぼくの中にいないのに。優しくぼくに寄り添ってくれる兄上に、ぼぼぼ、ぼくはときめいている……!?
でもこれはインナーのドキドキではない。ということは……ぼくが兄上のことを……すすす、好きになっているってことぉ!?
あわわ、インナーがいなくなってしまって悲しんでいたというのに、インナーがいなくなったことでこの気持ちに気づかされて、胸がドキドキ、びっくりドッキリで脳みそパニックだぁ。
でもぼくは、兄上のことを本当に好きになってもいいのかな?
今までぼくは、兄上から婚約破棄されることばかりを考えていた。見た目もぽっちゃりで、ツノなし魔力なし、魔族として良いところなしの落ちこぼれだし。いずれ兄上が魔王になるというのなら、お世継ぎのことも考えなければならないし。
兄上が真に愛する人をみつけたら身を引こうと、ぼくは覚悟していた。
だからぼくが兄上を心の底から愛してしまうなんてことは考えもしなかった。
なのに、この胸の高鳴りのまま兄上のことを好きになって、愛する人をみつけた兄上に婚約破棄されてしまったら!?
「ぼく、婚約していなくても兄上とお仕事します」
突然そんなことを話し出したぼくに、兄上は首を傾げる。
このももんもの木の下で、ぼくは兄上との婚約を了承した。でもそこには、兄上と一緒に仕事をするという約束の意味もあった。だからまず、そこは変わらないことを言い置いたのだ。
「この場所で婚約の申し出を受けたとき、ぼくはまだ子供でした。恋とかそういうのは今もまだよくわからないけれど、でも今よりも当時はその意識が薄かったのです」
ぼくは寄りかかっていた兄上から身を起こし、居住まいを正す。
「でも……もし、もしも、ぼくが兄上のことを本気で好きになったら、兄上は本当に結婚を考えてくれるのですか?」
兄上の顔が怖くて見られない。ポヨンとした太ももを見ながら手をもじもじさせる。
「ぼくは兄上のことを好きになってもいいですか? その、恋愛的な意味で。ぼくには美しい容姿も膨大な魔力も立派な御ツノもないのです。だから自信がありません。兄上のことを好きになったあとで、やっぱり無理って言われたら……困ります」
困るっていうか、立ち直れない。だったら最初から好きにならないほうがいいもん。
「無理だなんて、言うわけがない」
「でも兄上は、ぼくではない人をこれから好きになるかもしれません」
「あり得ない」
きっぱりと、兄上はそう答えた。
ぼくは、そうなのですかぁ? とつぶやいて、思い切って顔を上げる。
するとそこには、柔らかく目を細めてこちらをみつめる兄上がいた。
「婚約をしたとき、サリュは七歳だった。それから少しだけ大人になった今のサリュにも、しっかりと言っておこう。私はサリュを愛しているよ。ちゃんと恋愛的な意味で、愛している」
「こ、こんなぽっちゃりな、ぼくをぉぉぉ?」
驚きのあまりグワッと目を見開くと、兄上は口をへの字にしてしまった。
「失礼な。私の愛するサリュは、とても優しくて、思いやりがあって友達想いで健気で可憐で、この世にひとつしかない私の宝物だ」
「このような、もっちりぽっちゃり我が儘ボディでも、ですか?」
兄上の顔を覗きこむ。しっかりみつめて兄上の真意を見極めます。嘘は許しませんよぉ?
「もっちりは大人になったら、しゅーーーーってなるよ」
「それは、希望的観測というやつでは?」
兄上からは、なんだかはぐらかしの匂いを感じます。
ジッとみつめると、兄上はふふふと笑うだけだった。いやいや、もっと科学的根拠を示していただきたい。ぼくが納得する、もっちり脱出の技を教えてもらいたいのだけどぉ……
でも兄上は笑うばかりで、それ以上のことは教えてくれなかった。
「本当に大丈夫なのですか? 本当に恋しちゃいますよ? がっつり好きになっちゃいますよ!?」
挑むようにたずねると、急に兄上の顔が寄ってきて、ギョッとした。
「唇にキスしてもいいくらい、好きになってくれるか?」
色っぽくまつ毛をゆっくり瞬かせて、甘い声音で囁く兄上に、ぼくの心臓がキューッ!! となる。
そりゃ、そうなるでしょ。これは反則です。恋愛初心者に、ひどい仕打ちですっ。
「まだっ! まだですけどぉ……いずれ、きっと、そうなります。たぶん」
「ふふ、楽しみにしているよ、サリュ」
そうしていつもの挨拶をするように、兄上はぼくの額にチュッとキスした。この流れでチュッは心臓に悪いです、兄上ぇ……
「でも、サリュはずるいな。自分が愛されている状態じゃないと恋に踏み切れないなんて」
「確かに、そうですね……普通はふられるのを覚悟して、一大決心で告白するのですよね」
「まぁ私にはズルくてもいいよ。それでサリュが私を意識する一歩になるならね。でもね、恋はしようと思ってするものじゃないんだ。できればサリュには本当に私を好きになってもらいたい。だから意識して好きになろうとしないでほしいな」
「でも、いろいろお待たせしてしまっているような気がして……」
「いつまでだって待てるよ。それに元々、私とサリュは年が五つ離れている。心の成熟が私と同じ速度ではないと、ちゃんと理解しているよ」
兄上はぼくの肩に再び腕を回しキュッと抱きしめると、目と目を合わせてそう告げた。
「だから、サリュが私を誰にも渡したくないと思うくらいに好きになって、私のことを寝ても覚めても考えるくらいに好きになったら。そのときはそっと私に教えてくれないか?」
「……はい」
たった二文字の返事をするだけなのに、なんだか心臓がギュインギュインしますっ!!
だってだって、もう兄上を誰にも渡したくないくらいには、好きなんだもん。これからはじまるゲームの主人公に、渡したくないと思ってるもん。主人公と兄上を会わせないように、画策しようとしてるもん。対策を練ったもん……インナーと一緒に。
ということは、これはインナーが残した置き土産なんだな? インナーは、ぼくが兄上とうまくいくことを願ってくれたのかなぁ。
まぁダイエットも、兄上の隣に並ぶのに相応しいようにって、ガミガミぐちぐち言ってくれた。だったらインナーのためにも、ぼくは兄上を主人公から死守し、主人公もディエンヌから死守しなきゃ、だね。
「離れてしまったお友達は残念だけれど、私はサリュのそばにいるよ。ずっと、ずーっと、いるからね」
そう言って、兄上はぼくに手を差し出す。そしてぼくはその手をしっかり握った。
インナーの代わりは誰にもできない。けれど、ぼくには兄上がいる。エリンも、ぼくを大事にしてくれるお友達もいる。
だから、お祝いしてと言ったインナーに、心の中で答えた。
――おめでとう。そして、さよなら、インナー。
兄上と手を繋いで、ぼくは森を後にする。
ちょっと振り返ると、ももんもの枝が揺れている。ありがとうと手を振っているように見えた。
★★★★★
四月一日の朝。もっちりぽっちゃり我が儘ボディのままで兄上への初恋を意識するぼく、サリエル・ドラベチカに思春期が到来しましたぁぁ!
いつものようにベッドをコロリーンと転がって降り、身支度を整えたら窓を開ける。ディエンヌの屋敷が撤去されたことで、不快な臭いもなし。メガラスがギャースと鳴いて魔王城の周りを飛ぶ、平和な魔国の朝を新鮮な気持ちで迎えた。
だけど、ぼくの心の中にはもうインナーはいない。彼女のいない朝にはまだ慣れなくて、それだけで以前とは違う朝だった。……ずっと性別不詳だったインナーを彼女と呼ぶのも慣れないな。
そして以前と違うことがもうひとつある。
誕生日が過ぎた頃にいつもやってくるあいつが、今年は来ません!!
あいつというのはもちろん、スズメガズスのことですよっ!
ということは、もしかして清らかな魂の持ち主はぼくじゃなくてインナーだったのかもしれないね。あの口の悪さを思い出すと、とても清らかだったとは思えないけど。
でもやっぱり、ぼくはちゃんと魔族だったのだ。魔王の三男はどす黒い心の持ち主であると証明されたようなものです。あぁ、良かった、良かった。
そんなふうに気持ちを上げてみるけれど、やっぱりまだ寂しくて、ちょっと心に悲しい風が吹き抜けた。しんみり。
でも、いつまでもくよくよしていられない。今日は本来、学園は休みだけど、ぼくは真っ白い制服に身を包んで学園に行かないといけないのだ。だって今日は、新入生の入学式だから!
弟のシュナイツ、お友達のマリーベルとエドガーがとうとう学園にやってくる。楽しみにして、待ちに待っていた日だ。ついでに、ディエンヌも……
入学式に魔王が顔を出すはずはないし、魔王城に渦巻く魔力に耐えられず転居した母上が、生徒たちの未熟な魔力が渦巻く学園に来られるわけもない。
そうなるとディエンヌの血縁はぼくだけ。ディエンヌの父兄として、ぼくは入学式に参列するべきなのでしょう。たとえ、ぼくの命をなんでか狙い続ける悪辣な妹であろうと。丸鶏のあんたが兄と知られたくないから顔出さないで――とか言ってきそうだけどね。
準備ができたので屋敷のエントランスから外に出ると、いつものようにファウストが迎えに来てくれていた。
ファウストは今、黒髪を後ろに結わえ、重たかった前髪を上げている。馬車の扉の前に立つ彼は、ギンとした目力の強い目元や太い男らしい眉があらわになり、背筋が伸びた凛々しい若侍のようで、とても格好良いんだ。
そしてぼくらは馬車で学園に向かい、校門の前にある馬車の停車所で降りる。
するとそこには、真新しい白い制服に身を包み、少し大人になったマリーベルとシュナイツ、エドガーがいた。それにマルチェロも待っている。
「パンちゃん、お久しぶりですわぁ。あぁ、このむっちり触感、パンちゃんは変わらないわね」
マリーベルがぼくにムギュッと抱きつく。それはいつものことなのだけど、ワタワタしてしまう。だって思春期到来なのだからね。子供のときから知っているとはいえ、見目麗しくなった令嬢に抱きつかれたら、慌てちゃうよ。
「マリーベル、公爵令嬢の身で殿方に抱きつくなんて、はしたないぞ」
やんわりはんなり、兄のマルチェロが注意する。それにマリーベルは、はぁいと気のない返事をしてぼくから離れた。
ほっ。では、改めまして……
「マリーベル、シュナイツ、エドガー。ご入学おめでとうございます!」
ぼくはかしこまって三人に祝辞を述べ、両手を広げて彼らを迎え入れた。
「ようこそ、ロンディウヌス学園へ!」
別にロンディウヌス学園はぼくの持ち物ではないけれど、なんとなく再現してみたかったのだ。インナーが脳内映像で見せてくれたゲームのオープニングで、攻略対象者たちが勢ぞろいして主人公を迎える場面を。まぁ、もっちりプヨプヨが『ようこそ』って言っている時点で、再現度はかなり低いけどね。いいの、雰囲気ってやつなのっ!!
「サリエル兄上、お久しぶりでございますぅ! 本当に、本っ当に、会いたかったですぅっ!! あぁ、このもっちり触感。最高ですぅ……」
しかし、ぼくの挨拶をマルッと無視して、シュナイツがマリーベルのようにムギュッと抱きついてきた。奇しくもマリーベルと同じようなセリフである。婚約者になると似てくるのかな。
「もう、早く声をかけてくださいよ。サリエル様は相変わらずのんびりしていますね」
眼鏡を中指で押し上げつつ言うエドガーも、相変わらずのツンで真面目さんなのだった。
「あぁ、ズルいぃ。シュナイツ、抱きつきすぎよ」
マリーベルはぼくの右腕に腕をからめて、シュナイツはぼくの左手と手を繋ぐ。
「あぁあ、サリーの隣にいられた最高の時間が、一年で終了してしまった……」
そしてマルチェロは肩をすくめてつぶやき、ファウストは無言でうなずく。
なんだか一年前の子供会が戻ってきたみたいだね。今から学園生活が楽しみだ。
みなさんと挨拶を済ませ、ぼくとマルチェロとファウストは講堂の中にある高位貴族専用のブースに移動した。
そこでマルチェロに、御両親を紹介された。マルチェロの父君、ルーフェン公爵とは初対面。兄上を伴わずに高位貴族の方と対面するのははじめてなので、緊張しちゃった。
公爵はマルチェロのお兄さんと言っても差し支えないくらいに若々しく、マルチェロをひと回り大きくしたような、大柄なマルチェロだった。体格差があるだけで、顔はすっごく似ていたよ。気品のある貴族というたたずまいは特にね。
マルチェロの母君は昨年の入学式にいたけど、公爵は参列していなかったと記憶している。ルーフェン兄妹の誕生日会にお呼ばれしたときも会えなかったので、お忙しい方なのかとマルチェロにたずねると……
「娘の行事にはたまに顔を出すね。私の行事には来なくていいと言ってあるから」
ということでした。思春期男子あるあるかもね。
ちなみにディエンヌだけど、一応、入学式の前に声は……かけたよ。そしたら案の定キッと眉を吊り上げて噛みついてきました。
「白色レグホーンのあんたが兄とか、恥ずかしいから、そばに寄らないでっ」
「白色レグホーン?」
「知らないのぉ? ニワトリの種類の名前よ。白色、丸鶏、赤いトサカ、オスがなんの価値もないところとか、あんたにピッタリじゃなぁい。とにかく、その醜い顔と体で私に話しかけないでちょうだいっ」
ビシッと言い放たれて、ぼくはその場に立ち尽くす。悪口の語彙が増えていて、そのことに兄は驚嘆したよ。
確か六年前のお披露目会のときは、つぶれたゆで卵と言われたのだ。白色レグホーンは卵を産むのに特化したニワトリだが、調べないと出てこない言葉だろうから、すっごい勉強したんじゃないかな。きっとマーシャ義母上の指導のたまものだなっ。さすがです!
しかし白色レグホーンも、オスがいなければ数が増えないのだから、卵を産めなくてもなんの価値もないは言い過ぎだと思う。オスの白色レグホーンに失礼だ。
ってことで、ディエンヌのことはとりあえずそんな感じ。あとは言われたとおりに放置して、入学式は無事に終了したのだった。
★★★★★
翌日。今日は学園の始業式、シュナイツたちは今日から学園生活開始だね。ぼくは昨年、初日から上級生に絡まれて大変な目にあったから、今年は穏便に平和にはじまるといいな。
馬車が学園のロータリーにつきファウストとともに降りると、そこには昨日と同じくお友達のみなさんが待っていた。いつものようにマリーベルがぼくの右腕に腕をからめ、左手はシュナイツが握って、背後にファウストとマルチェロとエドガーが並ぶ。
ゲームの攻略対象が居並ぶそうそうたるメンバーで校舎までの道を歩くけど、子供会で過ごしたときと変わらない配置だから、ちょっと笑ってしまった。
「なぁに? パンちゃん」
笑いをこぼしたぼくに、マリーベルが問いかける。
一年会わないうちに、彼女はすっかり大きくなって、ぼくより頭ひとつ分身長が高くなった。ぼくだって、身長少し伸びたのにぃ……
ミルクティー色の髪を縦ロールに巻いて、明るくてたくましい悪役令嬢チックな容姿だ。でもエメラルドの瞳に桜色の唇で柔らかく微笑む姿は、まるで妖精さんのように愛らしい。ちょっと見ない間に公爵令嬢の気品と美貌が磨かれて、ピカピカに輝いているようだった。
他のみなさんにも視線を移していく。
ファウストは前から大きかったけど、男性陣はみなさんぼくより頭ひとつ、いやふたつ分ほど大きくなっているなぁ。
シュナイツは子供の頃女の子のように可愛いかったけれど、今は背が高くて胸板もしっかりしていて、ピンクの長い髪を垂らしていても女の子には間違えられないくらいにたくましくなった。
マルチェロは相変わらず美しいが、美少年ではなく美男子、いえ、美青年だ。所作はスマートだし、細身ながらも体格はしっかりしている。顔もちっさいし、手足長ーい!
ファウストはキリリとした目元が鋭利で貫禄たっぷりの騎士のよう。
エドガーは勉強ばかりしているはずなのに身長も体重もベストバランスになって、理知的な好青年の容貌に……って、ちょっと待ったぁぁぁ!?
大変だっ、ぼくだけ取り残されている。
成長が。成長がぁぁっ!!
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