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2巻
2-2
しおりを挟む「直接、失礼なことを言ってきたら、斬って捨てます」
「ダメですぅ。穏便にお願いしますよ」
ファウストもボソリと怖いことを言うので、すかさず訂正した。みなさん、仲良くしてぇ!
大勢の視線にさらされながら一年生の教室に到着すると、ファウストは膝をついてぼくと視線を合わせた。
「サリエル様、なるべくお待たせしないようにはいたしますが、もしも私のほうが授業の終了が遅くても、教室から出ずマルチェロとともにお過ごしください。ひとりで帰ろうとなさってはいけませんよ」
ファウストの忠告に、うなずく。そこで、ファウストは二年生なのに、一年生の教室までぼくを送ってくれたんだと気づいた。
「わかりました、おとなしく待っています。だからファウストも、遅くなっても慌てないように。ちゃんと最後まで授業を受けてくださいね」
「ありがたいお言葉。もしも予期せぬ事態が起きましたら、すぐにお知らせください。飛んでまいります」
教室に入ったぼくを見届けたファウストは、一礼して、その場を去った。
そのファウストの後ろ姿を、令嬢が扉から見送ってキャッキャ言っている。
「黒騎士様だわぁ、格好良いわね」
そうでしょう? ファウストは素敵だものねぇ。寡黙な騎士は格好良いのだ。ぼくは令嬢の気持ちが少しだけわかる気がする、むふん。
教室はすり鉢状になっていて、生徒が座るすべての席から教師と黒板が見られるようになっている。席は百席くらいあって、机も椅子も頑丈で上等そうだ。さすが貴族の子弟が集まる由緒ある名門校なだけあって、教室の柱ひとつとっても歴史を感じる。
マルチェロが席を探して階段を三段くらい登ったので、ぼくも彼について行く。
「サリエル・ドラベチカ」
するといきなり不躾に名前を呼ばれた。聞いたことのない声だ。
振り返ると、いかにも上級生といった体格のいい人たちが一年の教室に数人入ってきた。新一年生たちは落ち着きなくざわめきはじめる。
上級生っぽい彼らがまっすぐにぼくをめがけてやってきたので、マルチェロが前に出てかばってくれた。
「王族の名を随分居丈高に呼ばわるが、あなた方は何者だ? ファウストが離れたのを見計らってから教室に入ってくるような腰抜けの知人などいないが」
普段は温厚なマルチェロだが、言葉にトゲを感じる。だが上級生はそれに動じず言った。
「おまえに用はない。そっちのデブに用がある」
はあぁぁぁっ?? 今までぽっちゃりで濁していたのに、はっきりデブって言いやがりましたよぉ!?
カチンときた。ラーディンに怒って以来のオコです!!
「おい、おまえ。レオンハルト様との婚約を辞退しろっ」
ヤギのように後ろに伸びる太いツノを持つ上級生。襟が紫色だから最上級生だな。なかなかイケメンの上級生は、目を吊り上げて怒っていて迫力がある。
いえ、怒りたいのはぼくのほうですけどぉ? つか、ずいぶん唐突だね。
「貴様、自分がなにを言っているのかわかっているのか? サリー……サリエル様は王族だ。貴様のその振る舞いは不敬と見なされてもおかしくないぞ」
「この者は魔王様の血脈ではないのだから、王族ではない。知っているぞ、サキュバスの連れ子とかいう下級悪魔。本来、この由緒正しきロンディウヌス学園に足を踏み入れられるはずのない小物だ。ツノも生えていないじゃないか。貧相で醜いなぁ」
わあ、あからさまにぼくを見下しているね。ここまでの悪意をぼくにぶつけるのは、この頃はディエンヌくらいだったから、驚きと感嘆で二の句が継げません。
「なにも言い返せないということは、頭も弱いのだろう。とにかく、おまえはレオンハルト様に相応しくない」
ぼくを指さして上級生は言い切る。そして一転して、夢見るような顔をした。
「見たか、昨日の貴賓席にいらした、あの神々しいお姿を。あのように高貴で美麗で威厳に満ち満ちたお方のそばに、こんなどこもかしこもゆるんだ醜い豚がいるのは許しがたい。……あぁ、なぜレオンハルト様の周りの者はお諌めしないのだ? 私が仕えていたら、このような目が痛くなるような異物をそばに近づけさせやしないのに」
どうやらこの上級生は、綺麗なもの至上主義のようだね。美しいものしか認めない、そういう人が身内にいたからわかる。
綺麗なものが好き、それ自体はいいのだ。兄上が神々しいお姿なのもそうだし、ぼくも綺麗とかキラキラとか可愛いものが好きだからね。
でも、それ以外のものを頭ごなしに否定し中傷するのはいけません。そういう価値観がすべての人に当てはまるわけではないのだから。
もちろんぼくも悲しくなります。どこもかしこもゆるんだ醜い豚、か。思わずぼくは手でお腹をポヨンと揺さぶった。
「その勘違いもはなはだしい汚い口を閉じろ、バフォメット伯爵子息」
名乗っていないのにマルチェロが家名を言い当てたからか、彼は目をみはった。でも、ヤギのツノと似たツノを持つのはバフォメット家の特徴なのだ。将来ぼくらは兄上の仕事を手伝いたいので、魔王に連なる貴族やその特徴はすべて網羅している。兄上の配下になり得る者だからだ。
とはいえ、まずは名乗って挨拶するのが礼儀。あと、身分が上の者に下の者から話しかけてはいけません。
あ、エドガーを思い出しちゃうね。ぼくに早く声をかけろと、いつも怒っていたっけ。
ぼくは一応魔王の三男なので、この学園ではラーディンの次に格が高い令息ということになる。学園生活はなるべく無礼講でいくつもりだけど、仮にも魔王の三男だから、不躾に呼び捨てられるのはスルーできないな。別にぼくは良いけど、ドラベチカ家があなどられると王族の権威が揺らぐのでね。
ぼくがむすっとしていると、マルチェロが高潔ながらも鬼気迫る様子で続けた。
「レオンハルト様はこの方に膝をついて求婚したのだ。表面的なものしか見えていないおまえのような者が『私が仕えていたら』だと? 片腹痛い。傑物であるサリエル様と比べたら、おまえは羽虫だ」
「はぁ? この丸いのが傑物? なにを馬鹿なことを……レオンハルト様が学園に入学なさっていたら私がご学友になったはずなのだ。そうしたらこのような者は近寄らせず、レオンハルト様に相応しい御令嬢や、もしくは私が、婚約者になったはずだ」
「はんっ、話にならないな。レオンハルト様は顔や容姿などに惑わされないからこそ賢君なのだ。彼は従兄弟の私でも、役立たずならば斬って捨てる非情な男だぞ。おまえはきっと、レオンハルト様をぼーっと見ているだけの愚鈍な男なのだろう。三大公爵家後継たる私を軽んじるくらいだからな。あまつさえ次期魔王の婚約者に牙をむくとは……そのような輩がレオンハルト様に仕えるなど、できるわけがない!」
本当はぼくが怒らなければいけないのに、マルチェロが怒って全部言っちゃってる。口を挟む隙すらないよ。
「たとえサリエル様が婚約者でなくても、たとえレオンハルト様が学園に通っておられたとしても、おまえが友に選ばれることは決してなかったはずだ。わかったら、その勘違いを引っこめて我々の前に二度と現れるなっ」
勢いよく啖呵を切って、すっきりと決まりました。すごーい。格好良い、マルチェロぉ!!
しかし、バフォメット伯爵子息は呆然としたのもつかの間、全身をブルブルと震わせはじめた。
「くそっ、こんな大勢の前で辱められるとは、なんたる侮辱! こんなデブのせいでっ、こいつがいるせいでぇっ!!」
彼は怒りに任せて魔力を練り合わせると、ぼくに投げつけた。
すると、ぼくの宝石の防御魔法が発動――するまでもなく、ぼくの周りに綺麗な薄青のガラスのようなバリアが展開し、彼の魔法は弾かれた。
そしていつの間にか、バフォメット伯爵子息の前に、先ほど別れたはずのファウストがいた。
「レオンハルト様が寵愛なさっている婚約者を守る者が私たちふたりしかいないとでも思ったか? そう思うことこそ浅はかだ。バフォメット伯爵家は、子弟の教育を怠ったばかりに御家取り潰しになりそうだな。残念なことだ」
高身長のファウストがバフォメット伯爵子息を見下ろしてつぶやく。その言葉は彼に恐れを与えたようだ。
「ま、待て。聞いてくれ」
「私に言っても仕方がない。この顛末はすぐにレオンハルト様の耳に入るだろう。レオンハルト様の目はどこにでもあるのだと、皆も、肝に銘じることだ!!」
ファウストが言い切る前に、バフォメット伯爵子息の取り巻きたちが脱兎のごとく教室から逃げ出した。息巻いていたバフォメット伯爵子息を置き去りにして。
そしてバフォメット伯爵子息も顔面蒼白になって教室を出て行った。
「逃げたところで、事を起こしたことに変わりはない。処分を逃れられるわけがないのにな」
前髪の隙間からギラリとした切れ長の目が見えた。騎士様の迫力、すごーい!
「もう、サリーは。入学早々問題を起こすのだからぁ」
マルチェロは張りつめた空気をさらりと流して、爽やかに笑いかけてくる。え? これってぼくのせい? ま、いいか。
「マルチェロ、あのバリアすごかったね。綺麗なガラスみたいで、魔法をバンと弾いて、格好良かった!」
「あぁ、あれは私だけじゃないよ。サリーのすぐそばだけじゃなくて、あちこちに展開しただろう? ファウストが言ったように、レオが置いた影のおかげだろうね」
影とはいったい誰なのかと教室をぐるりと見やるが、みなさん顔を横に振る。
「はは、すぐにわかるようじゃ、影失格だよ」
「憶測です。いると思うが、誰かは知りませんから」
マルチェロの言葉に続いて、ファウストもうなずいた。え、憶測なの? じゃあ、いないかもしれないんじゃん。ま、いいか。知らなくていいことは世の中にはいろいろあるからね。
「ファウストもすごいね! ホントに飛んできた。でも、戻ってこさせちゃってごめんね」
「お気になさらず。あなたに怪我がなくて良かったです」
ファウストがぼくの手をニギニギするそばで、マルチェロがさらっと告げた。
「ファウスト、サリーが怪我をしたら、死、だよ。あとサリーの例の宝石の防御魔法が発動したら、我々は御役御免だからな」
「……そうなのか。いえ、大丈夫です。発動させませんから」
ファウストは抑揚のない声でそうつぶやくと、おもむろに教室から出て行った。
教室内はシーンと静まり返っている。なんかいろいろあって、みなさんもどっと疲れたような顔をしているけど……まだ授業ははじまっていませんよ。
気を取り直してぼくとマルチェロは今度こそ窓際の席に座る。けれど、今度は教室がざわざわソワソワしはじめて、全然落ち着かない。
あぁあ……今の一件で、ぼくの友達はマルチェロオンリーになった気がするな。
だって、兄上のこととか御家取り潰しとか聞いたら、怖くて近寄れないでしょ!?
もう、バフォメットくん、きらーい!!
★★★★★
入学初日から、なんでか上級生に絡まれてしまったけど、そのあとは特に大きな事件はなく、ぼくは平和な学園生活をエンジョイしていた。
……とは言うものの……
「研究機関の調査によると、私たちが住むこの大地はかつて隕石の飛来によって焼け野原と……」
歴史の先生が教科書片手にこの世界の成り立ちを教えてくれるのだが、それはいわゆる創世記に書かれている内容だ。魔族の子なら、幼少期に親に読み聞かせをしてもらうようなポピュラーな本だから、みなさん退屈して眠そうな目をしている。
特に瞬間記憶能力を持つぼくは、本で読んだものや人々の台詞などもすべて覚えているので、教科書をなぞられると本当に退屈なのだ。これから座学授業のすべての時間、今の同級生たちと同じような眠たげな目つきで先生をみつめることになりそう。
でも座学以外にも実習というものがあって、これが楽しみだったりする。
ぼくには魔力がほぼないので魔法の授業は落ちこぼれそうだけど、剣術はファウストに教えてもらったからなんとかなりそう。
ついぞ膝立ちで対峙するファウストの体勢を崩すことができなかったけど、騎士団の団長が、いつ騎士になってもいいと言っているファウストはプロフェッショナルだもの。ぼくは太刀打ちできなくて当然なのだ。でもその彼に教えてもらったというところが、キモなのです!
二年生になると、学園の裏にある森で魔獣を狩る授業があるから、そこでぼくの腕前を披露するつもりだ。むふーん。
そして剣術の他にも、淑女教育というものもある。男子は別にこの科目を受けなくてもいいのだけど、ぼくは次期魔王と目される兄上の婚約者なので、学校側から淑女教育を受けてくださいと指示があった。
いいですよぉ、ぼく、淑女教育は自信あります。ダンスやお茶会での礼儀作法、おもてなしの仕方、紅茶の淹れ方などなど、令嬢が学ぶものはひととおり身につけているからね。
ダンスの先生にも『軽やかな妖精がお花の上で舞っているようなステップですよぉ』と褒められたことがあるんだ。
ディエンヌのドレスビリビリ期に培った裁縫のスキルにより、刺繍もプロ級の腕前だしね。
魔法は駄目だけど、淑女教育の科目で無双するからトントンでチャラなのだ。
今日の淑女教育の授業はダンスだ。ぼくはもちぃと背筋をそらし、調子に乗って足先も伸ばす。
でも将来ぼくが兄上とダンスを踊るには、身長が圧倒的に足りないんだよね。ぼくの身長は今、兄上のウエストまでしかないからバランスが悪すぎる。だけどこればかりはどうにもならない……つか、ぼくはもっちりすら克服できないのだから、困っちゃうね。
本当なら兄上はもう社交界デビューの年なのだ。でもぼくはまだ兄上と上手に踊ることはできない。ダンスの相手をいっぱい待たせてしまうかもしれませんね。
早く大きくなりたーい! でも、ぼくは育ち盛りだから大丈夫。身長はまだ伸びます。ここ六年ばかり育ち盛りを主張してはいるが、まだ、たぶん、伸びる……はず!!
そして淑女教育の授業が終わると、令嬢が寄ってくるようになりました。
「刺繍のコツを教えていただきたいわぁ」
「あのダンスのターンは、どのようにすれば綺麗に見えますの?」
「うちの領でとれた美味しい紅茶を、今度召し上がっていただきたいわぁ」
などなど。バフォメット伯爵子息の一件で新しいお友達はできないかもって思っていたけれど、令嬢が気安く接してくれるのは嬉しい。
「サリー。御令嬢たちは、次期魔王妃の君と懇意にしたいんだからね」
などとマルチェロは水を差すけど、いいのぉ! 下心があっても、優しくしてくれる人は大事にしたいものなのですぅっ!
少し夢を見させてくださぁい!!
そんな生活を送りつつ六月になり、ついに入学式のときに頼んでいた絵が出来上がった。
縦三メートル、横二メートルの、とても大きな絵だ。桜の花びらが舞う中で、黒馬に乗ったぼくと兄上が優しい顔で微笑み合っている場面。
額装はハリハリトゲトゲした模様が黒と金でグネグネしていて、なにやらまがまがしくて豪華で派手なもの。だけど、それ込みで絵画は超大作になったのだ。
その絵はエントランスの階段横にババーンと飾られた。お客様の目に必ず留まるすっごく目立つ場所だから、ちょっとだけ恥ずかしいぃ……でも兄上は格好良いから、兄上だけは絶対に見てくださぁい。
壁に飾られた絵を見ながら、ぼくは絵師さんに御礼を言う。
「こんなに素敵に描いてくださって、ありがとうございました。でも、兄上の相手がもっと可愛らしいお姫様だったら、もっともっと綺麗な絵になったのでしょうね」
兄上は言うに及ばず美男子で麗しい。でも、付け合わせのぼくがこんななので、絵師さんは可憐な少女を隣に並べたかったのではないかと思ってしまったのだ。
でも絵師さんはゆっくりとかぶりを振った。
「とんでもありません。レオンハルト様のあの表情を引き出すことができるのは、サリエル様だけです。サリエル様とレオンハルト様が仲睦まじく並んだからこそ、ここまでの力作ができたのでございますよ」
お世辞でも嬉しくて、照れてしまう。
兄上がぼくを見て、この絵のように穏やかで優しい顔でいつも笑ってくれるなら、それ以上の喜びはないよね。なら、まぁいいか。
そして夕方になって、兄上が屋敷に帰ってきた。
「あぁ、立派な絵ができたな」
絵を見てそう言ってくれたのが嬉しくて、ぼくは兄上の腰にぽよんと思いっきり抱きついた。
「おかえりなさいませぇ、兄上っ!」
「ははっ、元気だな、サリュ。昨日も可愛かったが、今日も可愛いとは何事だぁ」
兄上はぼくの体を抱き上げ、支えるように手を回すと、ぼくを見下ろして笑いかけた。
『ぎゃぁぁぁ、これは、駅弁の体位ぃぃぃ!?』
あぁ、インナーがエロ知識を叫んで失神してしまった。もうっ! 兄上にはそういう気はまるでないというのに……はしたなくて、すみませぇん。
「サリュ……あの絵のように、私にいつも春風のような可愛らしい笑みを見せておくれ」
そう言って、兄上はぼくのおでこにおでこを当てて、グリグリする。至近距離で美形が過ぎる顔でそんなことを言われたら、インナーじゃなくてもドキドキしてしまうよ。
兄上の長い藍色の髪が、ぼくの頬をさらりとくすぐる。まつ毛も長いから、瞬きをする音が聞こえてきそうだ。それくらい近いんですぅ! 顔がのぼせて目がグルグルになりそう。
でも兄上が望むから、ぼくはエヘッと笑った。兄上にも笑ってほしいのだ。
そんなふうに、ゆるやかで、温かで、ちょっとこそばゆい日々が過ぎていく。
……いつまでも、こんな日が続いたらいいのだけどねぇ。
★★★★★
三月三日は、ぼくの誕生日。サリエルは十三歳になりました。ヒューヒュー。
魔国には雪が降ったり一気に冷え込んだりする冬はないけど、肌寒くなる時期はある。もうすぐ暖かくなる時期だから昼間は温かい日も増えてきたけど、夜はまだコートくらい着ないと寒いね。
だけどぼくはもっちりだから、厚着をすると着ぶくれしてさらに丸くなる。むぅぅ……
そんなぼくはというと、今兄上とともに魔王城の庭園広場中央にある噴水の前にいます。
三角屋根の塔がいっぱい建ち並ぶ魔王城は夜になるとランプがいっぱい灯されて、ライトアップしている。そして噴水の周りにもいっぱいのランプが設置されていて、色のついた水が出ると噴水の周りの石畳まで色づいて、とても綺麗だった。
ただでさえ着ぶくれするというのに、白いファーの襟飾りのせいで短い首が埋もれて丸みに磨きがかかっているぼくは、噴水の前にあるベンチに兄上と並んで座っていた。
兄上は、黒い衣装に黒マントというスマートな出で立ちだ。なにを着ても兄上は格好良くて、うらやましいなぁ。兄上も噴水もとても美しいから、ぼくはあちこちに視線を移して、ほぅっと感嘆のため息を漏らした。
「綺麗ですねぇ。いつまでも見ていられますねぇ」
この噴水は、兄上がぼくと一緒に噴水を見たいからと作ったものなんだって。お遊びのために噴水を作るなんて、驚いてしまうね。
ぼくも、パズルを作ったときはみなさん喜んでくれたけど、兄上に負けないくらい大きなものを作らないといけないな。……今は、考えつきませんけど。
とにかくぼくは、キラキラの水の粒をおとなしく見守っていた。だって、はしゃいで水の妖精さんの邪魔をしたら……また噴水が壊れてしまうかもしれませんからね!
以前に行った街のときみたいに、兄上の作った噴水を水ブシャーにするわけにはいきません。
「この噴水ができた初日に来たときは、大勢の人がいてデートなどできなかったからな。いつかサリュと、こうしてゆっくり噴水デートをしてみたかったのだ」
兄上は優しい顔つきで、ぼくにそう言った。
デ、デート……!?
そうか、これはデートなんだよね。その言葉の響きに、ぼくはドッキドキであるぅ!
今日は誕生日だから、屋敷では御馳走をお腹いっぱい食べた。今日だけは、インナーもダイエットって言わないから、ケーキもいっぱい食べちゃったぁ。
お誕生日プレゼントには、兄上は色とりどりの糸のセットをくれた。百色もあるし、どの色もとても素敵で、飽きずに何時間でも見ていられるくらいなのだ。学園の淑女教育で刺繍を作る授業があって、それがきっかけで刺繍にハマっているんだけど、兄上はそのことを知っていたみたい。
「今度私にも、なにか作ってくれると嬉しいな」
兄上がそう言ってくれたので、素人芸ながら兄上になにか差し上げよう、なんて考えた。手作りのものを贈るときって、それを考えるだけでなんだか胸の奥がくすぐったくなるね。
それだけでも嬉しかったのに。兄上とふたりきりでこうして幻想的な景色の中でデートだなんて、夢のようだ。
まぁ、厳密にはふたりきりではない。兄上は魔国の重要人物なので、護衛は離れたところながらあちこちにいるし、ミケージャもエリンもいる。
雰囲気ですよ。この世界にふたりきり、という恋人フィルターです。
こここ、恋人……は言いすぎましたかね? いえ、ぼくは婚約者だからいいのだ!
「すごーいですね、兄上。木の向こうのほうまでライトアップしたのですか?」
噴水の向こうにある公園の木々、さらにその向こう側もオレンジ色に染まっていた。夜だからライトアップが映えるなぁ、なんて考えたのだけど……
「いや? ライトアップはこの周辺だけだ」
「え、そうなのですか? でも、あちらのほうが明るいですよ?」
「……火事かもしれないな」
兄上はそうつぶやくと、そばにいた警護のひとりに様子を見に行くよう指示を出した。
でもぼくはなんだかとっても嫌な予感がして、兄上に言った。
「兄上、ぼくらも行きましょう」
「いや、大丈夫だろう。火事だとしても使用人が対処する」
「でも、あの方角にはディエンヌの屋敷があるのです。ぼくはとても不安です」
「……っ、せっかくのサリュとのデートだったというのにっ」
兄上は、オコです。プンスカです。でも美麗な顔でプンスカは、逆に可愛いです。
「申し訳ありません、兄上」
「いいや、許さぬ。では、これからは空中ランデブーだ」
兄上はマントを外してエリンに渡すと、大きな羽を背中から出した。片羽が兄上の身長と同じくらいの大きさの、コウモリみたいな翼だ。兄上が羽を出すのを最後に見たのはぼくが五歳くらいのときだけど、そのときよりもすっごく大きく立派になった。
兄上はぼくを両手で抱きかかえると、翼を羽ばたかせ空を飛んだ。冷たい空気が頬に当たる。
「寒くないか?」
「平気です」
「なにもなかったら、デート続行だからな」
「はい。ありがとうございます!」
ぼくは兄上にしがみついて、キュッと頬に頬をつけた。風は冷たいけど、ぼくのもっちりほっぺをつけていれば温かいでしょう?
デートに水を差されて兄上はさっきまでオコだったけど、今はなんだか楽しそうに空を飛んでいる。機嫌が直って良かったです。
噴水のあった広場から、兄上とぼくはディエンヌが住む後宮に向かって飛んでいる。林の向こうに見えた明るい光が迫ってきて……ぼくは落胆してしまった。
……あぁ、なにもなければいいと思っていたのに……
ディエンヌが住む屋敷が燃えていたのだ。やはり悪い予感というのは当たってしまうものだね。
二階建ての洋館の飾り窓から炎のオレンジ色が瞬いて、火の粉が夜の空を赤く染めている。
外に避難しているディエンヌは、その光景を見ながらなぜか高笑いしていた。
「おーっほっほっ、命が消えゆく炎の、なんて美しいことかしらぁ?」
うわっ、性格がゆがんでいるのは知っていたけど、命が消えゆく炎なんて、すっごく不吉なワード。それを楽しそうに言う彼女の心もちが本当に理解できない。
ぼくと兄上は上空を飛びながらディエンヌの大きな独り言を聞いた。そしてぼくは兄上に、屋敷の周りを飛ぶよう頼んだ。
「ディエンヌの話しぶりだと、逃げ遅れている人がいるのかもしれません。あぁぁ、兄上、あそこ!! あそこに人影が見えます!!」
最悪の想像が当たらなければいいと思いながらも屋敷の中を観察していると、人影が見えた。でもその人影は、なぜか炎のほうへ走っているようだ。
滑空していた兄上は屋敷の裏にある草原に降りると、ぼくを地面に降ろした。
「兄上、あの人を助けてくれますか?」
「あぁ。だが……ここにサリュをひとりで置いていくのは気掛かりだ」
「大丈夫です。おとなしくここにいます。兄上にもらった宝石も持っておりますよ」
安心させるように、ぼくはコートの襟につけた赤い宝石を指で撫でる。だから、お願い。早くあの人を助けてあげて。そんな気持ちで兄上をみつめた。
「すぐに戻る。ここを動くな」
そう言って、兄上は炎が燃え盛る屋敷の中に、水魔法をまといながら飛んで行った。
兄上もどうかご無事で。ぼくは手をプヨと組み合わせて、神様に祈った。
この世界の神様は、大地に根づく精霊だったり、古びた建物だったり、名もない神や女神という曖昧なものだったり、天使だったり、ときには魔王だったりする。でもなんでもいい、誰でもいいから、兄上と屋敷の中にいるあの人を、どうかお守りください。
力のないぼくは、一生懸命祈ることしかできなかった。
そのとき、ぼくの宝石から警報音がブビーと鳴った。
辺りを見回すと、ゆっくりした足取りでディエンヌがこちらにやってきた。
「あらぁ、サリエルぅ。どうしてこんなところにひとりでいるのかしらぁ?」
どうしてってディエンヌは、ぼくらが上空を飛んでいたのを見てここに来たのだろうに。と心の中でツッコむが、それをこの高飛車な妹に言う気はない。だって絶対三倍返しにされるもん。
「火事が見えたから駆けつけたんだ。ディエンヌ、君は魔力があるのだから消火活動をしなきゃダメだろう?」
「うるさいわねぇ。お説教とか聞かないわよ。でもちょうどいいわぁ。火事に巻きこまれて、あんたも死んじゃえばぁ?」
そう言って、彼女は火の玉をぼくに向かって投げつけた。しかし宝石の防御結界が発動してぼくの前にバリアが現れ、火の玉は弾かれる。
あわわ、燃えカスが草原に落ちて、草が燃えちゃった。
「こんなことをしている場合じゃないだろう! 逃げ遅れた人を屋敷の中でみつけたんだ。今、兄上が救助している。屋敷の主人として使用人の安否を確認するべきだ」
「はぁっ? なに、余計なことをしてくれてんのよっ! ホント、いつも私の邪魔ばかりするんだから! 大体あんたは存在自体が邪魔なのよ。お母様もいつも言っていたわ、あんたを身ごもらなければ、どこへだって行けた。私はもっと自由だった。誰の子かわからないあんたさえいなければ、魔王妃として迎えられたかもしれないのに、ってね」
すっごい言いがかりで、ぼくの眉間がムニュムニュ動いた。
「ぼくを身ごもったのは、ぼくのせいではないでしょ。それに魔王様には正妻のマーシャ義母上がすでにいたのだから、魔王妃になるだなんて普通に考えて無理です」
「知らないわよ、お母様が毎日そう言っていたの。ぶつぶつと、ウザいんだから。つか、あんたも相当ウザいのよっ」
そう言って、彼女はまた火の玉を投げてきた。八つ当たりにもほどがある。
でもそれは水の渦で弾かれた。ぼくを守ってくれたのは……レオンハルト兄上だぁぁ!!
兄上は片腕で救出した女性を抱えていた。額に十センチくらいのツノがある薄茶の髪色の女性は、いわゆるメイド服ではなく、簡素ながら上品な紺色のドレスを身につけている。
息はあるようだがぐったりとしている女性を、兄上は優しく地面に横たえた。
「ディエンヌ。詳しいことはあとでじっくり聞かせてもらうが、これ以上サリュに手を出すなら、今ここで消し炭にしてやるが?」
兄上にギンと睨まれ、ディエンヌは不機嫌そうに腕を組んだ。赤色の眉を怒りでぴくぴくさせているけど、怒りたいのはこちらのほうです。火事なんて大それたことを起こしてぇ!
ふたりの睨み合いがエキサイトしはじめたとき、女性が目を覚ました。
「あぁ……お屋敷に、ディエンヌ様が、まだ取り残されていて……」
「大丈夫だ。ディエンヌはとっくに避難している」
そうして兄上は、視線だけでディエンヌのほうを見るよう促す。女性はディエンヌを見るなり、とても驚いた顔つきになった。
しかしそんな女性を、ディエンヌは笑いつつ、睨みつけた。
「メイドに指示して、私が取り残されたって言わせたのよ。真に受けるなんてバカみたい」
「え? わざと火の中へ行かせたのですか!? なんでそんなこと……」
二の句を継げない女性に代わって、ぼくがディエンヌにたずねた。
「いつもいつも、うるさいからよっ! この家庭教師、あれやっちゃダメ、これやっちゃダメって。家で礼儀作法とかしてられないわぁ。よくできてますって公爵家に言ってくれればいいのに、嘘はダメとか頭固いのよ。私の思うとおりに動かないのなら、いらないじゃなぁい?」
家庭教師ということは、この女性はルーフェン公爵家が派遣してきた御目付け役ということ?
いやいや、家庭教師はそれが仕事でしょ。嘘やズルはダメに決まっている。
待て待て、じゃあさっき余計なことをして邪魔だとか言っていたのは、まさか家庭教師を火の中で殺して、排除しようとしたから? 彼女を救助したのが余計なことってこと?
……妹よ、マジですか?
ぼくもディエンヌから数々の殺意を向けられたけど、身内以外の他人を殺そうなんてシャレにならんよ。いや、ぼくに対してもシャレにはならんけどぉ……
「私は魔王の娘よ。私が言ったことをなんでも聞かないといけないの。いえ、言わなくてもそうするべきよ!」
その言葉を聞いて、家庭教師の女性は再び気を失ってしまった。
妹のあんまりな言い草に、ぼくも気を失いそうだ。なんて理不尽で傲慢なのだろう。基本のほほんなぼくも、さすがに閉口しました。
家庭教師に代わって苦言を呈したのは、兄上だった。
「魔王の娘だから、公の場に出すにはしっかりとマナーを身につけなければならないのだ。おまえの母親がおまえに教育を施さなかったから、彼女が代わりに教えたというのに、彼女に敬意も払えないとはな……」
「なによ、レオンハルトお兄様は、私の母親が下級悪魔だからマナーをわかってないって言いたいわけ?」
「そう思われたくなければ、しっかりとした淑女になるべきだろう。顔ばっかり綺麗でも、勉学もマナーもダメなら、魔王の娘と名乗らせられないぞ」
すでに公務を引き受けている兄上は、兄妹たちに隙のない立ち振る舞いを求めたいのだ。だって、他国の誰かと諍いにでもなったら国際問題に、そして最悪戦争に発展する可能性があるからね。
それを魔王家の一員が引き起こしたら大問題なのだ。公の場でディエンヌがやりたい放題したり、無知で会話が成り立たなかったりしたら、魔王家の名に泥を塗ることになる。ディエンヌは早くそれに気づかなければならない。
「なんでお兄様はそんなことをおっしゃるの? 私たちは魔族なのだから、心のままに生きていいのよ。お母様も、魔王の娘は一番偉いのだから、したいことだけすればいいって言ってたわ」
ディエンヌはヒステリックにわめく。さすがの兄上もかなり苛立った様子を見せた。
「毛虫風情が、私に歯向かうのか? いい加減にしろっ!!」
兄上は手の中に雷を作り出すと、ディエンヌに投げつけた。その電撃が妹の足元に落ちて、彼女は身をすくめる。
「大体おまえが今ここでぎゃあぎゃあわめいていられるのは、サリュの恩情のおかげだ。そうでなければおまえなど、母親ともどもとっくに消し炭にしている。魔王の娘だ? そんなことは魔王の娘として成すべきことをなしてから言え!」
「お兄様はサリエルのことばっかり褒めて……私だって魔王の……」
「まだ言うかっ!!」
ディエンヌの言葉をさえぎって、兄上は再び雷を投げつけた。今度は彼女の肩に当たり、ディエンヌは感電してその場に倒れてしまった。ひぇぇぇ、問答無用ですねっ。
「ったく、魔国の中枢であるドラベチカの者が、心のままに生きられるわけがねぇだろう、国が滅ぶわ!! 魔王の娘だからこそ勉強しろって言っているのに、話は通じないわ、同じ話を繰り返すわ、頭の悪い小娘め!」
「どうして勉学やマナーを学ばなければならないのか、その根本のところがわかってないのでしょうか? でも、家庭教師に習っているのだから、知らないは通じませんよね?」
兄上の言葉に、ぼくは疑問を呈するが……
「我が儘で、身勝手で、脳みそがないだけだ」
兄上はそう吐き捨てた。苦笑するしかない。すみません、妹がまたやらかしてぇ。
ディエンヌが兄上の話を呑みこめないのは、家庭教師の教えを右から左に聞き流しているからなのだろう。とにかく、彼女は心のままに行動して、火事という大罪を起こしてしまった。
ディエンヌにぐちぐち言われた憤りをぶつけるように、兄上は手をスッと天にかざし、頭上に魔力を練り上げる。そして後宮の敷地にある池の水を、魔力で根こそぎこちらに持ってくると、屋敷の上から、ばっしゃーんとぶっかけた。
警備の者や駆けつけた魔王城の職員が、屋敷の火を水魔法でちまちま消火していたが、兄上のその魔法ひとつで、屋敷は一気に鎮火したのだった。
うわぁ、ダイナミックで大きな大きな魔法ですねぇ。すっごーい!!
そして、狼獣人であるエリンが噴水広場からものすごい勢いで駆けつけて、服の背中部分がビリビリになった兄上にマントを着せ掛けた。
他の従者も駆けつけてきて、後始末に奔走している。
「屋敷に医者を手配しろ。それから後宮の管理者であるマーシャ母上にこの件を知らせてくれ。あとディエンヌは、どこかの独房にでも放りこんでおけ!」
怒りがおさまらない様子ながらも、兄上は部下に的確に指示を出し、家庭教師を横抱きにして立ち上がった。そして倒れたディエンヌを冷たく一瞥する。
「この者は、サリュとは血が繋がっていないな。賢明さがまるでない」
「でも、母上は同じですけど」
ぼくは首を傾げる。母親が同じなのだから、血は繋がっているはずでしょ?
すると兄上は、少し気まずそうな表情を浮かべた。
「聡明なサリュと似たところがない妹だな、という意味だよ。コレは毛虫、サリュは青くてぷっくりしたイモムシ。それほど違うな」
「イモムシですかぁ? それはなんだか嬉しくありませんねぇ」
口をとがらせてそう文句を言うと、兄上はクスクス笑った。
でもまぁ、ぼくもディエンヌの思考回路はまるで理解できないし、兄妹なのに見かけも中身もまるで違うから、確かにそのとおりだね。うむ。
でも兄上が言いたかったことは、それとは少し違うような気がした。
いやそれよりも、家庭教師を早く医者に診てもらわなきゃ。そこは深く掘り下げず、ぼくらは救出した彼女を急いで兄上の屋敷の客室に運びこんだ。
そこで手配した医者に診せたところ、容態は芳しくないらしい。
体のやけどや気道熱傷、煙を吸いこんだことによる全身の症状は、治癒魔法で治すことができる。
しかし、彼女はディエンヌ……教え子に殺されそうになったという心の傷で、衰弱してしまったのだ。生きる気力を失ってしまったみたい。
だから傷は癒えているのに、彼女は目を覚ます気配がなかった。
彼女は公爵家から遣わされた家庭教師なので、兄上は事件のことを公爵家にただちに知らせた。
そうしたら、日が昇る前にマルチェロが屋敷にやってきた。
知らせたのが深夜だったこともあり、見舞いに来るとしても夜が明けてからだと思っていたので、マルチェロが客室に顔を出したときはぼくも驚いてしまった。
マルチェロは悲しげに彼女を見下ろす。
「……彼女は、私の家庭教師でもあったんだよ。それで、容態は?」
正直に容態がよくないと伝えると、彼は床に膝をついてしまった。
「マリエラ……どうして、こんな目に……」
いつも柔らかく笑っているマルチェロが、悄然と肩を落とす場面をはじめて見た。あまりにも痛々しくて、ぼくは椅子を彼のそばに持って行って、座るように勧めた。
「ありがとう、サリエル」
「いいえ。ディエンヌがまたやらかしてしまって、止められなくて、すみません」
「君が謝ることじゃない。それに、君が火事に一番に気づいて彼女を助けたと聞いている」
「助けたのは、兄上ですけど」
「……みつけたのは君なのだろう? もしサリエルがみつけてくれなかったら、彼女が助かることは難しかっただろう。彼女は、ディエンヌに傷つけられたのだって?」
マルチェロがたずねる。言わないほうがいいかもと思ったが、彼の視線があまりにも鋭くて、すべてを説明することにした。
「ディエンヌは彼女にマナーを厳しく教わっていたようなのですが、それが嫌だったみたいで、私の思うとおりに動かないのならいらない、と。火事を起こし、メイドにディエンヌがまだ中に残っていると伝えさせて、彼女が火の中へ行くように仕向けたそうです」
「なるほど。ディエンヌのやりそうなことだな」
椅子の背にもたれて、マルチェロはゆるいため息をつく。
「彼女は素晴らしい教師なんだよ。身分は低いが貴族のマナーをしっかりと身につけていてね。頭も良いし、ほがらかで、笑顔が華やかで……。子供はみんな天使なの、が口癖だった」
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「君に出会う前の私はやさぐれていてね、自分以上に頭が良い者も力の強い者もいないと思う、高慢な子供だったよ。そんな私のことも天使だと言い、可愛がってくれて、いけないところは厳しく叱ってくれた。完全に悪に染まった人間などいない、というのが持論だった。魔族のくせにね?」
「それでは、ディエンヌの仕打ちに相当ショックを受けたのでしょうね……」
天使だと思っていた教え子に殺意を向けられるなんて、衝撃以外の何物でもないだろう。彼女はディエンヌの本性を理解していなかったのだ。
「まさか殺意を向けるような子供がいるとは思わなかったのだろう。でもそれがショックで目を覚まさないなんて、甘い人で困ってしまうね?」
マルチェロはそうつぶやくと、ぼくと兄上に向き直った。
「彼女を助けていただき、ありがとうございました。ルーフェン公爵家を代表して御礼を申し上げます。彼女は私が見ていますので、レオもサリエルももう休んでください」
彼がそう言ってくれたので、ぼくと兄上はお言葉に甘えて、その場を任せることにした。医者がそばについているので、容態が変わってもすぐに対処してくれる。
兄上はぼくを部屋の前まで送ってくれた。ぼくが部屋に入ろうとしたとき、兄上は軽くかがんでぼくを呼び止めた。
「サリュ、いろいろあって疲れただろう? 今日はゆっくりおやすみ。お誕生日おめでとう」
そう言って額にチュッとおやすみの挨拶をしてから、自室に引き上げていった。
ぼくはエリンと一緒に部屋に入り、寝る支度を整えてベッドに入る。
ひとりになって静かな寝室で目を閉じたのだが、いつも寝る時間をとうに過ぎているというのに、神経が昂っていて眠れなかった。うとうとしても、あの屋敷を覆うオレンジの光が眼裏によみがえって、ハッとしてしまうのだ。
楽しくて、心が温まって、兄上とドキドキしながら過ごした最高のお誕生日だったはずなのに、ディエンヌのせいでバッドなお誕生日になってしまった。
彼女はぼくの誕生日を狙って火事を起こしたのかもしれないな。お誕生日パーティーが騒動でおじゃんになればいい、とか。そういう地味な嫌がらせをする傾向があるもの。ムッキィ!
それに、もし家庭教師――マリエラが亡くなったりしたら、本当に最悪のお誕生日になってしまう。そんな悲しいお誕生日にしたくない。
そんなことを思いながらも、ちょっとうつらうつらする。ハッと目が覚めると窓の外がほんのり明るくなりはじめたところだった。朝の五時くらいかな?
ぼくはいてもたってもいられなくなり、コロリーンとベッドから出た。ちょっと恥ずかしいが着替える時間も惜しくて、白い寝間着のまま足音を立てずに客室へ向かった。
客室の扉をちょっと開ける。朝だからか、医者もマルチェロも椅子に座ったまま目を閉じていた。
ベッドに横になっていたマリエラは青い顔ながら静かに寝ている。だけどなんとなく、今にも消えてなくなりそう。
焦ったぼくは、寝台に近寄ると彼女の手を握った。
「大地の精霊さん。彼女に力を貸してください。生きる気力を分けてください」
兄上は以前、ぼくが大地の精霊と仲良しだって言っていた。ぼく自身にそういう感覚はないけど、大地を手でポンポン叩いてお願いすると、ぼくが想像したとおりの植物が生えるので、そうなのかもしれないってぼんやり思っている。
でももし本当に、ぼくと大地の精霊が仲良しなのだとしたら、助けてほしい。
大地の精霊は生命を司ると言われている。この地上のあらゆる生命と繋がっていて、おおらかに、その生物の営みを見守っているのだ。
神話みたいだけど、学園の授業でも出てくる有名な話。
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