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花時雨5
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「失礼します。講師の稲葉と申します」
「あら、どうも! 私宮下といいます。 ついさっき、稲葉先生のお話聞いてたんです!」
ぱっと顔を明るくさせる宮下と名乗る女性は紫色のアイシャドウに無数の皺を作りながら笑っていた。一方、正面にいた由里は、やっと助っ人がきたとほっとした顔。声だけだとわからなかったが、疲労の色が浮かんでいた。当然だろう。むしろ、二時間もよく耐えたなと感心しながら宮下へと顔を向ける。
「去年受験を失敗して、浪人を決めている息子がいるんです。ですが、いまいちテストの点数が伸びない。これは、依然通っていた他予備校の講師の質が悪かったせいだと考えているのです。ですから、今回はこのような講師選別の失敗をしないためにF予備校を中心に他校も訪問させていただいているんです」
宮下は熱心に語る。こんな親を見ているときは、自分は真逆の環境でむしろよかったのかもしれないとほんの少しだけ思う。
「それぞれの予備校に特色もありますし、講師の相性もありますからね」
櫂は宮下の熱い思いを受け止めた風を見せて頷く。
「本人はとても努力しているんです。何時間も机にかじりついているんです。なのに、勉強のやり方が悪いのかどうもうまくいかなくて。でも、前の先生は地道に続けていけば大丈夫だと。机に向かっている時間がそのまま点数につながるっていうんです。確かにそうかもしれませんが、それほどの効果は見えず、空回りばかりしているような印象で……」
「なるほど。講師にも色々な学びの方針がありますからね。僕の場合は、基本的に本人のやる気をいかに引き出すかに重点を置いています。医大を目指す学生たちの志は非常に高い。一生懸命勉強します。ですが、その思いと勉強しなければ。覚えなければ。という強迫観念で、雁字搦めになってしまっている。故に、頭が硬くなりすぎて、学びが吸収できない、覚えられないという悪循環に陥っている場合が非常に多く見受けられます。ですから、硬くなっている地盤を耕し柔らかくすることが僕ら講師の仕事だと思っています。雨が降れば、すっと地面に沁み込んでいくような」
そんな調子で話していけば、由里が地ならししていておいてくれたせいか「なるほど」と目をキラリと輝かせていた。あと少し。すんなり引き下がってくれそうな手応えと、自分に丸の評価がつけられているのを感じながら最後の一押しをする。
「ですから、きっと宮下さんの息子さんのようなやる気があるような人は、いくらでも伸びしろがあると思っています。F予備校は、それぞれのお子さんのタイプに合わせて柔軟に対応しています。授業後には、個別の質問時間も設けて対応しています。僕はその時間を特に大事にしていて、とことん生徒と向き合っていきたいと考えています。なので、もし息子さんがこちらに通う機会が生まれれば、僕も最大限に寄り添い力になりたいと思います」
すらすら口からあふれてきた言葉は、決して建前ではなく本音だ。講師という仕事にここまで熱い思いがあったのだと、話しながら気付く。自分自身のことなのに、不思議な感覚に戸惑っていると、横にいた由里と目が合う。透き通った茶色い瞳が意外にも、少し見直したとでも言っているように微笑んでいた。笑うとアイラインが消えて、まるで別人のように優しげな顔。更に丸い頬にできた笑窪が雰囲気をガラリと変える役目を果たしていた。思わず釘付けになる。由里に張り付いていた櫂の視線を引き剥がすように宮下の嬉しそうな声が遮っていた。
「稲葉先生の熱意、素敵です! ぜひ、稲葉先生にお願いすることに決めました」
「ありがとうございます」
櫂が礼をいうと、宮下は満面の笑みを由里に向けた。
「そして、高梨さんのような素敵な事務員さんもいらっしゃって。何もかもお任せできます。後日、息子とともに入会手続きに来ますのでよろしくお願いしますね」
「はい、お待ちしております」
由里は頷き柔和に笑い綺麗なお辞儀をしていた。慌てて櫂も頭を下げていた。
「お二人とも、ありがとうございました」
宮下は今にも踊りだしそうなくらい軽い足取りで、応接室を出ると神崎には見向きもせず櫂と由里にペコリと頭を下げ、ドアの外へと消えていった。
パタンと閉まり切ったドアを確認すると、ずっとおなしくしていた神崎が豪快に笑っていた。
「いやぁ、二人とも素晴らしい! 由里ちゃんの手腕と稲葉先生の最後をきゅっと締める力。二人の熱い力説! やはり、私の見立ては正しかった。君たちはいいコンビになるな!」
「寝ぼけたことは寝た後言ってください」
先ほどのまでの花のような笑顔はどこへやら。すっとまた切れ味のいい言葉で切り返す由里。よくもまあ器用に豹変できるものだと呆れてしまう。苦笑しながら、櫂は室長の前に用意された自分の席に戻る。彼女の人間性に関しては懐疑的な部分は多い。だが、確かに彼女とは仕事では信頼できそうだと思いながら、堅苦しかったジャケットを脱ぎ鞄に詰め込んだ。疲れを取り払うために鞄の中のチョコを一つ取り出して口の中に放り込む。
壁時計を見れば、時刻は十九時半を過ぎたところ。この時間なら、家に帰ってレポートに取り掛かれば日を跨ぐ前に終われるなと算段していると、由里が「じゃあ、私お先に失礼します」という声が聞こえてきた。
「あぁ、そうか。すまないね、遅くなってしまって。お疲れさま」
神崎の声が返ってきたときには、由里はすでにドアを半分押しているところだった。随分焦っているな、と思いながらその背中を見送ろうとしたところで、彼女の手と足が止まっていた。急に止まった背中を怪訝に思い、櫂も鞄を持って由里の背中に追いつき、半開きのドアの隙間から外を覗くと、宮下を送り出した数分前は、降っていなかった雨が滝のようにざーっと音を立てていた。高梨の行く手を阻むように降り注ぐ。
今更、天気予報が当たったか。真っ暗になった空から落ちている雨から、由里に視線を滑らせると焦りと完全に困っている横顔があった。
由里は雨を忌々しそうに睨むと、意を決したような鋭い顔つきになっていた。その眼を見ればすぐにわかった。滝の中に身を投げ出そうとしている。
自分は人の厄介ごとやプライベートには深く関わらない主義。今やろうとしていることは、意に反する。ちらりと一日邪魔者扱いだったビニール傘に目を向ける。残業させた理由は、お前にもあるよなと言われているようだった。全身でため息を付くと芯は吐き出されていく。形の崩れた信念は完全に雨に流されていく。櫂は、傘を手に取り、白い背中に声をかけた。
「行こう」
「え?」
「こんな雨の中いくら走っていったとしても、酷いことになる。この傘持って行っていいよって、いいたいところだけど、俺もさすがにこの中はきつい。一緒に入ってくことにはなるけど、急いでるんだろ? 着替える時間ももったいないくらい」
応接室の反対側に女子更衣室がある。そこで通常着替えを行うのだが、今の由里の出で立ちは上着を脱いだだけでスカートは制服のまま。学食で履いていたジーンズはそこにはなかった。全身から早く帰りたいと訴えている。だが、瞳は定まらない天秤に右往左往していた。
迷いはあったようだが、背に腹は代えられないと思い至ったようだ。揺れていた視線が定まりまっすぐ見返してくる。
それを了承と受け取って、櫂は傘を開いた。
由里が開いた傘の下に入るのを確認して、滝のような雨の中に二人は飛び込んだ。
濡れていく傘は、邪魔者の汚名を返上するようにパチパチと雨を弾いていった。
「あら、どうも! 私宮下といいます。 ついさっき、稲葉先生のお話聞いてたんです!」
ぱっと顔を明るくさせる宮下と名乗る女性は紫色のアイシャドウに無数の皺を作りながら笑っていた。一方、正面にいた由里は、やっと助っ人がきたとほっとした顔。声だけだとわからなかったが、疲労の色が浮かんでいた。当然だろう。むしろ、二時間もよく耐えたなと感心しながら宮下へと顔を向ける。
「去年受験を失敗して、浪人を決めている息子がいるんです。ですが、いまいちテストの点数が伸びない。これは、依然通っていた他予備校の講師の質が悪かったせいだと考えているのです。ですから、今回はこのような講師選別の失敗をしないためにF予備校を中心に他校も訪問させていただいているんです」
宮下は熱心に語る。こんな親を見ているときは、自分は真逆の環境でむしろよかったのかもしれないとほんの少しだけ思う。
「それぞれの予備校に特色もありますし、講師の相性もありますからね」
櫂は宮下の熱い思いを受け止めた風を見せて頷く。
「本人はとても努力しているんです。何時間も机にかじりついているんです。なのに、勉強のやり方が悪いのかどうもうまくいかなくて。でも、前の先生は地道に続けていけば大丈夫だと。机に向かっている時間がそのまま点数につながるっていうんです。確かにそうかもしれませんが、それほどの効果は見えず、空回りばかりしているような印象で……」
「なるほど。講師にも色々な学びの方針がありますからね。僕の場合は、基本的に本人のやる気をいかに引き出すかに重点を置いています。医大を目指す学生たちの志は非常に高い。一生懸命勉強します。ですが、その思いと勉強しなければ。覚えなければ。という強迫観念で、雁字搦めになってしまっている。故に、頭が硬くなりすぎて、学びが吸収できない、覚えられないという悪循環に陥っている場合が非常に多く見受けられます。ですから、硬くなっている地盤を耕し柔らかくすることが僕ら講師の仕事だと思っています。雨が降れば、すっと地面に沁み込んでいくような」
そんな調子で話していけば、由里が地ならししていておいてくれたせいか「なるほど」と目をキラリと輝かせていた。あと少し。すんなり引き下がってくれそうな手応えと、自分に丸の評価がつけられているのを感じながら最後の一押しをする。
「ですから、きっと宮下さんの息子さんのようなやる気があるような人は、いくらでも伸びしろがあると思っています。F予備校は、それぞれのお子さんのタイプに合わせて柔軟に対応しています。授業後には、個別の質問時間も設けて対応しています。僕はその時間を特に大事にしていて、とことん生徒と向き合っていきたいと考えています。なので、もし息子さんがこちらに通う機会が生まれれば、僕も最大限に寄り添い力になりたいと思います」
すらすら口からあふれてきた言葉は、決して建前ではなく本音だ。講師という仕事にここまで熱い思いがあったのだと、話しながら気付く。自分自身のことなのに、不思議な感覚に戸惑っていると、横にいた由里と目が合う。透き通った茶色い瞳が意外にも、少し見直したとでも言っているように微笑んでいた。笑うとアイラインが消えて、まるで別人のように優しげな顔。更に丸い頬にできた笑窪が雰囲気をガラリと変える役目を果たしていた。思わず釘付けになる。由里に張り付いていた櫂の視線を引き剥がすように宮下の嬉しそうな声が遮っていた。
「稲葉先生の熱意、素敵です! ぜひ、稲葉先生にお願いすることに決めました」
「ありがとうございます」
櫂が礼をいうと、宮下は満面の笑みを由里に向けた。
「そして、高梨さんのような素敵な事務員さんもいらっしゃって。何もかもお任せできます。後日、息子とともに入会手続きに来ますのでよろしくお願いしますね」
「はい、お待ちしております」
由里は頷き柔和に笑い綺麗なお辞儀をしていた。慌てて櫂も頭を下げていた。
「お二人とも、ありがとうございました」
宮下は今にも踊りだしそうなくらい軽い足取りで、応接室を出ると神崎には見向きもせず櫂と由里にペコリと頭を下げ、ドアの外へと消えていった。
パタンと閉まり切ったドアを確認すると、ずっとおなしくしていた神崎が豪快に笑っていた。
「いやぁ、二人とも素晴らしい! 由里ちゃんの手腕と稲葉先生の最後をきゅっと締める力。二人の熱い力説! やはり、私の見立ては正しかった。君たちはいいコンビになるな!」
「寝ぼけたことは寝た後言ってください」
先ほどのまでの花のような笑顔はどこへやら。すっとまた切れ味のいい言葉で切り返す由里。よくもまあ器用に豹変できるものだと呆れてしまう。苦笑しながら、櫂は室長の前に用意された自分の席に戻る。彼女の人間性に関しては懐疑的な部分は多い。だが、確かに彼女とは仕事では信頼できそうだと思いながら、堅苦しかったジャケットを脱ぎ鞄に詰め込んだ。疲れを取り払うために鞄の中のチョコを一つ取り出して口の中に放り込む。
壁時計を見れば、時刻は十九時半を過ぎたところ。この時間なら、家に帰ってレポートに取り掛かれば日を跨ぐ前に終われるなと算段していると、由里が「じゃあ、私お先に失礼します」という声が聞こえてきた。
「あぁ、そうか。すまないね、遅くなってしまって。お疲れさま」
神崎の声が返ってきたときには、由里はすでにドアを半分押しているところだった。随分焦っているな、と思いながらその背中を見送ろうとしたところで、彼女の手と足が止まっていた。急に止まった背中を怪訝に思い、櫂も鞄を持って由里の背中に追いつき、半開きのドアの隙間から外を覗くと、宮下を送り出した数分前は、降っていなかった雨が滝のようにざーっと音を立てていた。高梨の行く手を阻むように降り注ぐ。
今更、天気予報が当たったか。真っ暗になった空から落ちている雨から、由里に視線を滑らせると焦りと完全に困っている横顔があった。
由里は雨を忌々しそうに睨むと、意を決したような鋭い顔つきになっていた。その眼を見ればすぐにわかった。滝の中に身を投げ出そうとしている。
自分は人の厄介ごとやプライベートには深く関わらない主義。今やろうとしていることは、意に反する。ちらりと一日邪魔者扱いだったビニール傘に目を向ける。残業させた理由は、お前にもあるよなと言われているようだった。全身でため息を付くと芯は吐き出されていく。形の崩れた信念は完全に雨に流されていく。櫂は、傘を手に取り、白い背中に声をかけた。
「行こう」
「え?」
「こんな雨の中いくら走っていったとしても、酷いことになる。この傘持って行っていいよって、いいたいところだけど、俺もさすがにこの中はきつい。一緒に入ってくことにはなるけど、急いでるんだろ? 着替える時間ももったいないくらい」
応接室の反対側に女子更衣室がある。そこで通常着替えを行うのだが、今の由里の出で立ちは上着を脱いだだけでスカートは制服のまま。学食で履いていたジーンズはそこにはなかった。全身から早く帰りたいと訴えている。だが、瞳は定まらない天秤に右往左往していた。
迷いはあったようだが、背に腹は代えられないと思い至ったようだ。揺れていた視線が定まりまっすぐ見返してくる。
それを了承と受け取って、櫂は傘を開いた。
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