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夕立
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長引いた梅雨が明けたのは七月の授業最終日。
宏樹に「コーヒーを奢る」と珍しくそんな誘いを受けて、二人で食堂へと来ていた。そんなこと言いだすのは、初めてのことだ。櫂は大いに警戒心の鎧を身にまとっていた。奢られたコーヒーを手に椅子へ座るなり、いつものおちゃらけた顔はなく、これまで見せたことのない優等生の雰囲気を醸し出していた。急にどうしたんだ? 櫂はブラックコーヒーを啜り苦みを感じながら、出方を待っていると、これもまた今まで聞いたことがない自分を気遣うような声が飛んできた。
「この忙しい中、バイトに勉学。櫂は、両立してよくやってるよな」
突然、歯の浮くようなことを言い出す宏樹にぞわっと全身に鳥肌が立つ。いつも節々に見下す言動をしてきたくせにいったいどういう風の吹き回しだ?
「……そりゃあ、今のうちに稼いでおかないと。病院実習が始まったらいつバイトに入れるかもわからないしな」
返答しながら、コーヒーを口に含む。
五年生になれば、格段に忙しくなる。もしかしたら、バイトをやっている暇もなく、やめることも視野に置かなければならなくなるかもしれない。口の中にあった苦みが急に味を失っていく。
「ま、確かにな。今とは比べ物にならないほど忙しくなるんだもんな。俺も今のうちに愛を育まないとな。ユカリちゃんと」
「ユカリ?」
「この前話しただろ? 突如現れた、美人」
ずいぶん時間が経っていて、頭の片隅からも消えかかっていた。授業とバイトの忙しさそういえば、そんな話があったなと朧気ながらに思い出す。
「まだ、一回くらいしか飯行けてないんだけどさ。今度久々に会うんだ」
「まだ付き合ってなかったのか?」
「当たり前だろ」
当然だと言いたげにそういう宏樹をまじまじと見る。あれから、かなり時間もたつ。なのに、手を出していないなんて。いつもなら、出会ったその日のうちにどうにかなっているはずなのに。
「前にも言ったろ。今回は本気なんだよ。いや、これまでだって本気だった。だけど、今回は種類が違う」
怖いくらい真面腐ってそういう宏樹。その女の熱にでも充てられたか。コーヒーを飲みながら、見定める。
「櫂。俺わかったんだ。本当に大事な人がいると人は変われるんだということに。俺は彼女のために生きる」
コーヒーが気管支に入ってむせ返る。ゴホゴホ咳をすると、宏樹との一線引いていた薄い壁がすっ飛んでいた。
「いや、待て。お前まだ付き合ってないんだろう? ちょっと冷静になれよ。そもそも、そのユカリって人本当に大丈夫なのか? 素性とかちゃんとわかってるのか?」
目にかかった金髪をさらりと後ろに追いやると、コーヒーを一気飲みしていた。
「大丈夫だ。お前に心配されるようなことは断じてない。じゃあな」
落ち着き払ってそういうと、飲み終えた紙コップを握りつぶすと、颯爽と姿を消していた。消えた先から視線を落とせば、手元に残っているコーヒーが黒く渦巻いていた。
たしかに、これまでの宏樹の振る舞いは目に余るものがあった。長続きしない関係。すぐに変わっていく恋人。遠くからそれを見ていた櫂は、他人事とはいえあまりいい気分ではなかった。自分基準の『誠実』からは、あまりにかけ離れすぎていて不快にさえ思っていた。
だが、そんな中突如として現れた女性により宏樹は、櫂基準の『誠実』の姿になろうとしている。そうであれば、喜ぶべきことなのかもしれない。でも、どうしてこんなに胸騒ぎがするのだろう。一人の女性と向き合うことは、大いに賛成だ。だが、あまりに急激すぎないか?
まぁ、どちらにせよ、宏樹があれだけのぼせ上っていたら、どんな忠告を提示しても右から左へ流れていくのだろうが。
とりあえず、面倒だ。放っておこう。残ったコーヒーを胃の中にすべて流し込み、立ち上がろうとしたとき。
「稲葉君……よね?」
寄ってくるショートカット。程よく焼けた小麦色の顔に少し釣り目がちの白い目で、櫂の浮いていた腰を再度椅子に押さえつけていた。
宏樹に「コーヒーを奢る」と珍しくそんな誘いを受けて、二人で食堂へと来ていた。そんなこと言いだすのは、初めてのことだ。櫂は大いに警戒心の鎧を身にまとっていた。奢られたコーヒーを手に椅子へ座るなり、いつものおちゃらけた顔はなく、これまで見せたことのない優等生の雰囲気を醸し出していた。急にどうしたんだ? 櫂はブラックコーヒーを啜り苦みを感じながら、出方を待っていると、これもまた今まで聞いたことがない自分を気遣うような声が飛んできた。
「この忙しい中、バイトに勉学。櫂は、両立してよくやってるよな」
突然、歯の浮くようなことを言い出す宏樹にぞわっと全身に鳥肌が立つ。いつも節々に見下す言動をしてきたくせにいったいどういう風の吹き回しだ?
「……そりゃあ、今のうちに稼いでおかないと。病院実習が始まったらいつバイトに入れるかもわからないしな」
返答しながら、コーヒーを口に含む。
五年生になれば、格段に忙しくなる。もしかしたら、バイトをやっている暇もなく、やめることも視野に置かなければならなくなるかもしれない。口の中にあった苦みが急に味を失っていく。
「ま、確かにな。今とは比べ物にならないほど忙しくなるんだもんな。俺も今のうちに愛を育まないとな。ユカリちゃんと」
「ユカリ?」
「この前話しただろ? 突如現れた、美人」
ずいぶん時間が経っていて、頭の片隅からも消えかかっていた。授業とバイトの忙しさそういえば、そんな話があったなと朧気ながらに思い出す。
「まだ、一回くらいしか飯行けてないんだけどさ。今度久々に会うんだ」
「まだ付き合ってなかったのか?」
「当たり前だろ」
当然だと言いたげにそういう宏樹をまじまじと見る。あれから、かなり時間もたつ。なのに、手を出していないなんて。いつもなら、出会ったその日のうちにどうにかなっているはずなのに。
「前にも言ったろ。今回は本気なんだよ。いや、これまでだって本気だった。だけど、今回は種類が違う」
怖いくらい真面腐ってそういう宏樹。その女の熱にでも充てられたか。コーヒーを飲みながら、見定める。
「櫂。俺わかったんだ。本当に大事な人がいると人は変われるんだということに。俺は彼女のために生きる」
コーヒーが気管支に入ってむせ返る。ゴホゴホ咳をすると、宏樹との一線引いていた薄い壁がすっ飛んでいた。
「いや、待て。お前まだ付き合ってないんだろう? ちょっと冷静になれよ。そもそも、そのユカリって人本当に大丈夫なのか? 素性とかちゃんとわかってるのか?」
目にかかった金髪をさらりと後ろに追いやると、コーヒーを一気飲みしていた。
「大丈夫だ。お前に心配されるようなことは断じてない。じゃあな」
落ち着き払ってそういうと、飲み終えた紙コップを握りつぶすと、颯爽と姿を消していた。消えた先から視線を落とせば、手元に残っているコーヒーが黒く渦巻いていた。
たしかに、これまでの宏樹の振る舞いは目に余るものがあった。長続きしない関係。すぐに変わっていく恋人。遠くからそれを見ていた櫂は、他人事とはいえあまりいい気分ではなかった。自分基準の『誠実』からは、あまりにかけ離れすぎていて不快にさえ思っていた。
だが、そんな中突如として現れた女性により宏樹は、櫂基準の『誠実』の姿になろうとしている。そうであれば、喜ぶべきことなのかもしれない。でも、どうしてこんなに胸騒ぎがするのだろう。一人の女性と向き合うことは、大いに賛成だ。だが、あまりに急激すぎないか?
まぁ、どちらにせよ、宏樹があれだけのぼせ上っていたら、どんな忠告を提示しても右から左へ流れていくのだろうが。
とりあえず、面倒だ。放っておこう。残ったコーヒーを胃の中にすべて流し込み、立ち上がろうとしたとき。
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