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氷雨2
しおりを挟む「あら、稲葉さん。ずいぶん早いですね」
いつも駆け込んでくるのに異様に早い出勤の上に、焦りが前面に出ていたのか佐藤が目を丸くしていた。何となく櫂がやってくることを想定してたのか、その奥で神崎はやっぱり来たかという顔をしていた。そして、目だけ動かして目配せしてくる。何も言うなという顔をして首を横に振って、櫂に手招きしていた。櫂は一度頷き、佐藤へ悟られないよう曖昧に笑う。
「急遽授業が休校になったんで、早めに講義の予習をしようと思いまして」
「なるほど。稲葉先生は、本当に真面目ですねぇ」
褒められて、少し罪悪感を感じながら自分の席に行くと、神崎が耳打ちしてきた。
「他ののスタッフには『由里ちゃんは、急用ができて欠勤だ』とだけ伝えてあるからその体で通してくれ」
「わかりました。それで、その後は?」
小声でのやり取りにも限界があるので、神崎は打ち合わせと称して、まだこの時間まだ使用されていない教室へと向かった。
ドアを閉めて、無駄に広すぎる部屋の真ん中に並んで腰を据えると、数分前の電話越しの神崎が乗り移ったように櫂が早口に切り出していた。
「由里さん……事件とか事故に巻き込まれたという可能性とかあるんじゃないですか?」
前のめりになる櫂に神崎は落ち着けと手で制される。浮いていた腰を椅子に無理やり押し付けても、ざわつく心臓はむしろ早まる一方だった。神崎は、大きく息を吐くと机に視線を落としたまま、重たくて仕方がなそうな口をこじ開けていた。
「さっき由里ちゃんの家のインターホンを押しに行ったんだ。案の定反応はなかったが、ちょうど隣の住人が部屋から出てきて、話を聞けたよ。そしたら、いつも通りの時間に二人で出かけて行ったと。隼君は、黄色い帽子を被ってたっていうから、保育園には向かったんだろうと思う。……だが、由里ちゃんはスーツケースを引いていたっていうんだ。珍しいことだったから、お出かけですか? と尋ねたらしい。そしたら『出張で』と答えたと。もちろん、由里ちゃんに出張の予定は入っていない」
「……隼を保育園に預けて、職場に連絡も入れずスーツケースをもって一人どこかへ行ったということですか?」
顎に手をやって、考え込みながら神崎はいう。
「そうだとしたら隼君を迎えに行かなきゃならないから、もともとその時間には戻ってこようという意思はあるんだろう。だとしたら、それはそれでいいんだが……」
だが、職場に連絡を入れない理由にはならない。では、隼は何と説明されていたのだろう。いつもは持ち出さないスーツケースを由里は持って家を出た。おそらく隼なら、その理由を聞かないはずがないだろう。そう思いながらもふと不安が過る。本当に隼が保育園に登園しているのだろうか。黄色い帽子は被っていたことが、確実に登園しているという証拠とはならない。櫂の疑念を見透かしたように神崎が答えていた。
「……隼の保育園には一応連絡は入れてみたよ。でも、保護者以外の部外者に子供の情報は教えられないと突っぱねられたよ」
当然か。うちの塾だって、保護者以外には決して子供の情報を口外するなと言われている。もっと幼い子供を預かる場所としては当然の判断だ。
「……まぁ。連絡が取れなくなって、まだ数時間程度だ。今日一日は、静かに様子を見よう」
神崎の言う通りだ。たった数時間連絡が取れないだけで、むやみに騒ぎ立てるのは由里が戻ってきたときに立場がなくなってしまう。
「今は由里ちゃんのことは片隅において、とりあえず稲葉君は講義に集中してくれ。今日から宮下さんの息子さんが通常授業にも加わる。気のない授業をして、宮下さんに怒鳴り込まれたらたまらないからね」
冗談で自分を元気づけるように神崎は無理やり笑って、部屋を出て行った。開け放たれたドアが風のせいか静かに揺れる。
不規則に揺れるたびに、どうしても嫌な方向に思考が傾いていく。
「さようなら」
忘れかけたその声がまた、風に乗って木霊する。
隼は保育園にいるのならば、迎えの時間には戻ってくる。それは、本当だろうか。本当に戻る意思はあるのならば、どうして職場には連絡もしてこなかった? 一体、何をしようとしているんだ?
いくら考えたって答えが出ることは一つもないことはわかっている。だが、考えるのはやめようとすればするほど、高速回転する頭。何とか櫂は立ち上がり、教室を出る。すると、数人の生徒が隣の教室に入っていくところだった。もうそんな時間か。この後の授業がこれでは、相当まずい。ともかく切り替えなければ。スイッチを入れようとしたところに
「今日からよろしくお願いします」
相変わらず、血色のいい顔がペコリと頭を下げていた。その頭を見て、やっと明後日の方向に飛んで行っていた頭が戻ってくる。
「あぁ、博司君。今日からよろしく」
櫂が応じると、博司はごそごそと鞄を探って書類を見せてきた。
「この書類を高梨さんに渡せって母に言われてたんですけど、いなかったので。稲葉先生に渡してもいいですか?」
「あぁ。じゃあ、僕が預かっておくよ」
「よろしくお願いします」
また頭を下げて教室に入って行こうとする博司の背中。由里の部屋の写真にあった顔が突然、博司の背中に重なった。
なぜ突然思い浮かんだのかもわからない。ただ、由里に関する情報なら何でもいいと思った。関係のないことでも何でも。由里に繋がる何かさえ掴めれば。
縋るように櫂は、博司を呼び止めていた。
「博司君。ちょっと、話を聞かせてくれないかな?」
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