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鬼雨
しおりを挟む翌朝。眠っている隼のことをみゆきに頼んで、櫂は最後の一つのチョコレートを口の中に放り込んでアパートを出た。
どっしりと空ごと落ちてきそうな重たい雲の下、いつか一緒に見た街路樹の桜の木は赤く染まり始めている。いつもなら気にもしたことがなかったのに、今はやけにその赤が櫂の意識を引いてくる。
だが、櫂は立ち止まることなく、一直線に校門を潜り、教室へと向かった。すぐに見つけた人目を惹く派手な金髪。
櫂は迷わずその横へ向かう。いつもなら、誰かしらと談笑しているのに、今は吊り上がった三角の眼が真っすぐに前を向いたまま微動だにしていなかった。背中からも発せられている不機嫌な空気。構わず櫂は鞄を宏樹の隣の机の上に乱暴において、ずっしりと腰を据え身体ごと宏樹に向けた。宏樹がじろりと櫂を見る。背中とは比べ物にならないほど荒んだ顔。夏休み前に塗り替えつつあった『誠実』の顔は跡形なく消えていた。宏樹はこちらを見ようともせず、ただ頬杖をついてむすっとしたままだ。話しかけるなと言っている。だが、それを全部差し置いて櫂は真っすぐに尋ねた。
「宏樹。単刀直入に聞く。高梨由里という人を知っているか?」
名前を出した途端、宏樹の顔がバネの様に弾かれてこちらを見た。三角の瞳が丸く見開かれる。知っている。高梨由里を知っている。双眸の表面にあぶり出されるが、その奥は嫌悪色に染まって浸食していく。表面に現れていた高梨由里をその黒く激しい感情が飲み込んでいた。
宏樹は、その激しい感情に支配され、机を拳で殴りつけていた。衝突音に、教室内の学生たちの視線が一気に集まる。だが、それでも抑えきれない感情は、声をも支配していく。
「いい加減にしろよ! お前あの女と結託してるのか? どいつもこいつも……俺を嵌めようとしてるのかよ! 冗談じゃない!」
教室中に宏樹の吠える響き渡った。学生たちは、息をのみざわざわと騒然とし始める中、教授が教室に入ってきた。集まっていた学生たちは、各々席に着き始める。相変わらず宏樹へと視線は注がれたままだった。
宏樹は乱暴に椅子を引いて立ち上がり教室を出ていく。教授は、怪訝な顔をしていたが、構わず櫂もその後を追った。もうついてくるなという背中に、櫂は食いつく。
「質問に答えろ。あの女って……前に会ったって言っていたユカリって人か?」
「名前も聞きたくないね!」
憤慨する肯定。更に歩みが早まり、校舎の外へと出ていく。その横で、櫂は由里の部屋に飾ってあった三人の写真をスマホに収めておいた画像を宏樹に見せた。
「この人か?」
画面を見せると頭の中でユカリへと向けられていた怒りが、困惑に変わる。
宏樹は混乱したように眉を潜めていた。水分を含んだ空気が体中に張り付き、体が重くなり歩みも止まっていく。
「……以前会ったことがあるのは、薄化粧の左の女。でも、昨夜会ったのは右の女。急に濃い化粧をしていて、性格もきつくなってた……つまり……俺が昨日会ったのはユカリではなく、別人だったってことか?」
「いや、宏樹が会ったのは同一人物。お前にユカリだと名乗った人だよ」
はっきりそういう櫂一点に集まる。宏樹の困惑は消えて、今度は軽蔑と怒り混ぜ合わせた尖った瞳を櫂一直線に向けてくる。
「いったい何なんだよ? お前もあの女の仲間だったのか? いや、お前の女か?」
突っかかってくる宏樹。櫂を怒らせて逃げ道を探しているのが見て取れた。拒否反応で更に宏樹の顔は険しくなる。真一文字に結ばれた薄い唇。それをこじ開けるために、櫂は宏樹の前に回り込んだ。
「俺はその人を探しているんだ。バイト先の同僚で子供もいる。なのに、昨日は職場にも来ず、子供の迎えにも現れなかった。彼女は、何か大きな事情を抱えている様子だった。一刻を争うかもしれない。だから、教えてくれ。彼女と最後にあったのはいつだ? 何を話した?」
説明しながら冷静な櫂の声音。そのうえ、空からはポツリと雨粒が落ちてき始めていた。宏樹の熱くなっていた頭が少し冷めたのか。怒りの欠片は目尻に残したままだったが、大きくため息をついて櫂を見た。お前の言うことなら、仕方がない。そんな顔をしながら、重い口を開いた。
「……櫂と同じようなことを聞かれた。『高校の時、高梨由里という人と付き合ってただろう』って、物凄い剣幕で捲し立てられた。知らないっていうのに、絶対嘘だって言い張って『あんたの実家の名刺が出てきたんだから、知らないはずがない』ってさ。しかも、今までは薄化粧だったのに昨日は一転、濃い化粧。ものすごいきついアイライン引いて、般若のような形相で迫ってきた。しかも、片手に刃物だ。冗談じゃねぇよ」
その出来事を思い出したのか、宏樹のまた目が吊り上がって、血が頭に上っていく。それを押さえつけるように雨粒の感覚が短くなっていく。
「結局あの女、お前が前に言ってたハニーのつかないただのトラップだった。完全に罠。警察呼ぼうかと思ったが、『警察に通報するような真似したら、襲われそうになったって証言する』っていうもんだからさ。場所がホテルの一室だったから、やめたけどよ。本当にふざけんなって話だよ」
「それで、そのあとは? その説明で納得したのか?」
「しねぇよ。その後も、俺にナイフを向けながら、実家が産婦人科していることを知っている人間が大学内で知ってるのは他にいるか、とか。四年くらい前くらいに実家の病院を紹介した人はいたかとか、質問攻め」
悍ましいとでも手に何も持たない二人に強くなり始める雨が叩きつけ始める。冷えていけばいくほど、鮮明な記憶が研ぎ澄まされ、宏樹の顔は更に険しくなる。
「怒り心頭で、そんな奴いるはずないだろ! って言ってやりたかった。……だけど。……いたんだよ」
言ってやりたかった言葉が飲み込まれて、怒りが消える。ずっと尖っていた三角の瞳が忘れてしまったように、四角いような丸いような複雑な形に変わっていた。一直線に櫂に向けられる。更に、雨が強まって髪が濡れて顔に水滴が滴り落ちた。
「大学入りたての時。『友達が予想外に妊娠して堕胎したいといっている奴がいるんだ。実家産婦人科だろう? 場所教えてくれ』ってさ。まだ、大学は入って一週間もしない頃だ。知り合ってもすぐだったし、強烈に覚えていて思い出した。その時、普段持ち歩いていないけどたまたま財布に入ってた。場所が書いてある地図が記載された案内カードを渡した」
「……そいつは、もしかして……」
名前を出そうとしたら、口の中の唾が邪魔してうまく声が出ない。代わりに更に雨が強まる。ザーッとアスファルトを叩く雨の音。煙っていく景色。足元にはいくつも水たまりができて、その中に雨が次々と吸い込まれていく。嘘も偽りもこの雨の前では、通用しない。
その奥で、黒い傘が見えた。雨に濡れないように。塗り固めた嘘が剥がれ落ちないように。
「よぉ。二人そろってそんなに雨が好きだったのか? もうすぐ授業始まるぞ」
黒い傘の下で、人のよさそうな笑みを浮かべて立っていた男は、篤人だった。
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