背中越しの恋人

雨宮 瑞樹

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追跡9

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 亮につかまれた腕に更に熱が籠る。亮が掴む手は、強い力でもないのになぜか振り払えない。唯が懸命に閉ざそうとしていた道を模索するように亮は真剣な瞳のまま見つめてくる。消えた街灯の代わりに満月の光を亮の瞳の中心に置いて暗がりでもわかるほど、強い光を放っていた。
 早くここから逃れて、この闇の中に呑まれて消えてしまいたいくらいなのに手足が竦む。
 亮は、二人の間に道筋を作るように深く息を吐いた。

「せっかくうまくいったと思ったのにさ、それと引き換えみたいに生きにくくなるよな。今までは何をしてたって何も言われなかったのに、ちょっと名前や顔が知れ渡った途端、急に周りは騒ぎ始めて。これまで積み上げてきたものを無視して横道からズカズカ入り込んで乱していく。これまで進んできた道を振り返ってみたら、顔も名前も知らない誰かの足跡だらけだ。どこを歩いてきたのかもよくわかなくなってる。
 ……だけど、その紛れた足跡の中には俺たちの歩んできた確かな足跡があって、それは乱された道のずっと奥から途切れることなく続いている。この成功をつかみ取れたのは、その奥の本当の軌跡が今につながったんだ。そして、それは俺一人じゃ絶対に成しえなかった」
 最初は少し怒っているな声だったのに、いつの間にか穏やかな口調に代わっていく。その声に完全に動きを制されてしまった唯の体に感情が追い付いてきて、全身に覆いかぶさってくる。息ができないくらい胸が詰まる。暴れまわる思いも、涙も全部押さえ込んでしまいたい。なのに、どんどん視界が滲んでゆく。亮の顔が歪んでいく。そう見えるのは、涙のせいなのか本当にそんな顔をしているのかも、よくわからなくなってくる。それでも、涙を溢さないように抗い続ける唯に、亮の声は静かに闇の中に光を灯すように優しく響いていく。

「日本に帰ってしまおうか。そう思ったことは、何度もあったよ。だけど、その度に電話で唯に『道半ばで諦めるなんてらしくない。ボロボロになるまでやってこい』って、唯に怒られてさ。そのあとに『それでもだめだと思ったときは、堂々と胸を張って帰ってくればいい。その時は、一緒においしいものでも食べて、思い出話でもして、また一緒に隣を歩いてよ』って言ってくれた時、本当に嬉しかったんだ。どんな結果が待っていても唯がいてくれる。だったら、とことんやってやる。そう思えた。だから、俺は腐らずにここまでやってこれたんだ。会えなくても、離れていても。俺の中心には、いつも唯がいた。
 それがなくなったらどうなると思う? 高く積み上げていったものの礎がなくなったら、呆気なく崩れて跡形もなく粉々になる。
この先俺が行こうとする道に唯がもういないというのなら、もうこれ以上進んでも意味がないんだよ」

 唯を掴んでいた亮の大きな手はゆっくりと離れていくのに、肌で感じる亮の柔らかい眼差しは唯のずっと奥深くに優しく届いて掴んで離さない。何とか表面張力で保っていた涙が、耐え切れず溢れ出して歪んでいた亮の顔が鮮明になっていく。どこまでも真っすぐで、曇りのない純粋な思いが。ずっと近くで見てきた変わらない瞳が確かな光を纏って、そこにあった。一直線に向けられた亮の瞳奥の熱が唯が丁寧に隠していた感情の幕をあっけなく溶かしてゆく。そうなってしまえば、もう唯には抵抗する術は残されていなかった。頬を一筋の涙が伝ってゆく。
「そんなこと、言わないでよ……。そんなこと言われたら……私……もう、離れなられなくなっちゃうじゃない……」
 固く引き結んでいた唇が小さく震える。一度、出来上がってしまった水の道筋に、止めどなくまた新たな涙が滑り落ちる。たとえ、亮の前であったとしても、泣き顔なんか見せてたくはない。これでまでだって、人前では泣かないように我慢してきたんだから。なのに。涙をとめなきゃと思えば思うほどに、溢れてくる。もうどうすることもなくて、両手で顔を覆おうとしたら亮の手が伸びてきて引き寄せられていた。

「ずっと俺の隣にいてほしい。俺がこの世界に身を置いている以上、この先もきっと唯を不安がらせたり、嫌な声もたくさん聞こえてくるかもしれない。だけど、俺が全力で唯を守ってみせる」
 何かも包み込んでいくような優しい声が頭上から降ってくる。唯の涙の膜に触れて、息ができないくらいの嗚咽に変わっていた。
 全身を震わせて泣く唯をすべて受け止めるように亮の背中を擦り続けていた。

「そんな青臭いことを言っているから足元を掬われるんだよ……」
 ぐずぐず亮の胸を借りて泣くことが情けなくて、そんな減らず口を叩く唯に、亮は泣いてるくせに相変わらず可愛げのないやつだな、と苦笑いしながらそういうと、背中に回された亮の手に力が入って、苦しいくらいにまた胸に押し付けられた。
「もう、離さないからな」
 これまでずっと思い悩んでいたことが、亮の腕の中で跡形もなく消えていく。今まで私は何を悩んでいたんだろうと腹が立つほどに。
 唯もまた、亮の背中に手を回し力を込めて、未だに止まらない涙を流しながら目を閉じる。何もかも開け放たれた感情の奥から揺るぎない決意。

 もう、迷わない。どんなことがあっても、亮が望んでくれるのならば共に歩んでいこう。
 そして、私も強くならなきゃ。亮に負けないくらい。もっと強く。
 満月の光が重なる二人の影を映し出すほどに眩い光を放ちながらも、月光はどこまでも柔らかく二人を見守るように包み込んでいた。
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