はじまりは雨のち、雪

雨宮 瑞樹

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はじまりは雨のち、雪

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雨の匂いがする。
朝の気怠い微睡みの中、ゆっくり浮上していく意識の中一番最初に感じた香りは重く湿った水の匂い。
むくりと重い身体を起こすと肩くらい伸びた私の髪は、打ち上げ花火のように飛び散っていた。
自由に跳ねている髪を撫でつけながらベッドから這い出て、窓を開け空を見上げれば薄雲のカーテンの向こうに太陽がほんのり顔を出していた。時折青空も顔を除かせて。
もう一度深く行きを吸い込んでみれば、やっぱり胸一杯になるくらい色濃く立ち上る雨の匂いがした。
間違いない。
雨が降る。

窓を閉めてキッチンに行き、トーストを焼きながらテレビの電源を入れると、可愛いお天気キャスターが『今日は、雨の心配はありません。お帰りの際も傘は必要ないでしょう。安心してお出かけください』とキラキラの笑顔で語りかけていた。
キッチンでカリカリに焼けた食パンを頬張り、インスタントコーヒーを飲みながら、そんなハッキリ言ったら、明日謝ることになるのにな。思いながら、朝食を早々に食べ終えると急いで着替えて出かける準備に取り掛かった。
今日はどうしても受けておかなければならない授業が1、2限目と続いている。ともに同じ授業を受け持つ教授は、遅刻者に厳しい対応をするので、冷血男との異名も持つ。遅れるわけにはいかない。
学生になってするようになった化粧を5分ほどで終えると、撥水加工の水玉模様の上着に袖を通し、桜色の傘と折り畳み傘を手に取り、レインブーツを履いて私はアパートを出た。
空は先ほどよりも明るく、雲もさらに薄くなり時折日差しが出ている。初夏特有の若葉の香も充満する中に確かに感じる雨の気配。
道行く人が、雨と無縁そうな空模様に似つかわしくない私の出で立ちに怪訝な顔を向けていたのを無視しながら、駅へと向かった。

学校につけば沙也加が着席していた。
「沙也加、おはよう。」
と声をかけながら、その横に腰を下ろした早々。
私の服装と傘を見てぎょっとした顔をしていた。
「雪乃が、そんなに重装備してるっていうことは…。まさか今日強めの雨降るの!?今日はバイトもあるのに…。何時くらいに雨降るの?」
私はクンクンと漂う空気を嗅ぐと、あと数時間で雨が降るあの独特な重めの湿気が鼻の奥でツーンとついた。
「この匂いだと昼過ぎくらいにザーッと激しく降って、そのあともなかなか雨はやまず、上がるのは夜9時頃かな。これ、使う?」
私は水色の折り畳み傘を鞄から取り出して沙也加に差し出した。
彼女はすんなりと、眉間に皺をよせていた沙也加の顔にパッと花が咲かせる。
「さすが!いつもありがとう!
…にしても、ほんとに嘘っぱち天気予報には頭にくるわ!雪乃、早くお天気お姉さんになりなさいよ。あんたの天気予報は百発百中じゃない。こんなに正確に天気を言い当てられる人こそが、天気予報について述べる権利があるってもんよ。雪乃、絶対気象予報士向いてるわよ。」
「私が当てられるのは、その日の天気だけだし。気象についての知識もないから、ムリよ。」
漂う空気の匂いを嗅げば、晴れか、雨か、曇りか天候はほぼがわかる。
雨の匂いがすれば、何時くらいに雨が降るのか。どのくらいの強さになるのかまで。
でも。
ひとつだけわからないことがある。

「雪は予測できない…のよね。」
「へぇー!雪乃って名前なのに、雪は予測できないって不思議なものね。」

自分でも皮肉な話だと思う。
私が生まれた日は、都心では滅多に降らない雪が前触れなく突然降ってきたんだそうだ。
これは、神様のお告げだと両親は迷わず「雪乃」と命名したとその昔に聞いた。
そんな私と雪との関わりは、それなりに深いと思っているのに。
これまで経験した数少ない雪の日の匂いは、どれもメチャクチャだった。
雲一つない快晴の匂いの時もあれば、薄曇りの匂いもあり、雷のような焦げ臭い匂いだった。
本当に雪に関して、こんなにも的外れな香りがするのは、笑ってしまうくらい不思議な話なのよね。
そんなことを考えていたら、机に置いてあった沙也加のスマホが震えてこちらに注目せよと画面に光が灯った。
沙也加はスマホを弾けるように手に取り、指先を滑らせた途端、クールビューティーの顔が溶けたアイスクリームのように顔が崩れていった。
その顔を見れば、スマホの向こう側に繋がっている相手なんて容易に想像がつく。
「彼?」
「そうよ。」
目じりを下げて笑う彼女が、とても可愛らしくて私の口元も緩んでしまう。
バイト先の居酒屋で、沙也加が一目ぼれをして、声をかけたのがお付き合いの始まりだったらしい。勇気を出して話しかけて、本当によかったと、顔を火照らせてはしゃいでいたのを思い出す。
つい三か月前のことだ。
「雪乃、やっぱり折り畳み傘今日はいいわ。」
「いいの?」
いつもなら、迷わず持っていくのに。
「だって、彼がいるからさ。突然、雨に降られて二人でキャッキャするのも、またいいじゃない?」
そう言いながら、顔を赤らめる沙也加。
どうやら私には経験のないお花畑の世界が、彼女の頭には広がっているようだ。
突然降られる、なんて、そういえば私の人生で一度もないなぁなんて思い返しながら、返された畳み傘を鞄に仕舞いこんだ。
「恋っていいわよ~。世界が見間違えるほど、明るくなるんだから。
雪乃も恋しなさいよ。好い人いないの?」
「私は…まぁ。見ての通りこんな石橋を叩いても渡らない性格だからさ。」
「叩いて、叩いて、叩き壊す性格ね。」
「…まぁ。そんな感じね。」
「でもね、恋はある日突然落ちるものよ。
でも、その恋に出会うためには、それはやっぱり全部受け身ではダメなわけ。
アンテナや撒き餌は、しとかないとね。
たまには、雪乃も傘をわざと置いてくるとかしてみたら?
そしたら、素敵な男性が傘を差し出してくれるかもよ?」
そんなものなのかなぁ。
私には到底思い付かない奇抜な発想を脳内で再現しているみると、なんとも言えない複雑な感情に飲まれた。
やっぱり、私は雨が降るとわかったら、傘は必ず持っていかないと、一日ソワソワしてしまってその日は何をやっても身が入らないと思う。そして、私は嘘が下手だ。
うっかり、傘をわざと忘れてきました。なんて、口を滑らせてすべて台無しにするパターンの方が上手くいく可能性より断然高い気がする。

そんなこと考えていると、教授が教室に颯爽と入ってきた。


私たちも含め、ピタリと私語を止めて、あのピリピリした教授のつまらない授業が静かに始まった。

恋…か。
恋なんて、遠い遠い向こう側の世界。
私は女子中高一貫に通っていたから男の子とは無縁の世界で暮らしてきたし、大学に入って共学にはなったけれど全くと言っていいほど接点はない。
バイトも短期の黙々とするものばかりだから、出会いもない。
それ以前に、私にはあまり恋愛に対する興味が薄いのだ。
だから、『憧れる人』はもしかしたら出会えるかもしれないけれど、沙也加が言っているような『恋に落ちる』なんて出来事、私には一生ないと思う。
それほど、私は堅く、つまらない人間なのだ。

そんなとりとめのないことばかり考えていたら、授業は静かに終わりを告げていた。

「やっと終わったわね。雪乃はこの後、どうするの?」
「今日はもう授業もないし、お昼食べて帰ろうかな。沙也加はデートでしょ?」
「うふふ。そうよ。ちなみに、雨いつから降るの?」
「あと一時間くらいかな。」
「そっか。じゃあ、そのくらいの時間に外歩くようにするわ!また明日ね!」

沙也加と別れたあと、私は電車に乗って新宿東口を出て数分歩いた場所にある大型書店に、足を向けた。
色濃く漂う雨の匂い。
まだ雨は降っていないけれど、私が本屋を出る頃にはきっと、本格的な雨が降っているだろう。
そう思いながら、私は本屋の中へ入り、用を済ませて、本屋の軒先まで出ると。
案の定、雨がザーザー音を立てて降り始めていた。
予想通りの時間と、雨の強さによしよし。としたり顔で頷いていると。
私より頭一つ分背の高い黒いスーツを着た男性が、青い顔をして呆然と濡れるコンクリートを眺めていた。
「どうしよう…。」
小さく呟く男性の手には紙袋があった。
少しだけのぞいてみれば、そこには会社で使うのか分厚い資料らしきものが入っていた。
あの青ざめた顔を見る限り、とんでもなく大事な資料なのかもしれない。
男性は忙しなく腕に巻かれている腕時計と泣いている空を険しい顔をして見ていた。
時間も差し迫っているのか、落ち着きのない様子でいたが、意を決したのか紙袋を背広の上着に隠し、忌々しそうに雨を睨みつけ一歩踏み出そうとする一瞬早く。
私は男性に声をかけていた。
「あの。よかったらこれ、使ってください。」
私は鞄から水色の折り畳み傘を差し出した。
「え?…でも…。」
「私は、この通りちゃんとした傘を持っているので大丈夫です。」
私は右手に持っていた桃色の傘を持ち上げて見せた。
「すみません。では、お言葉に甘えてしまっていいかな?」
そういう彼の目じりが少しだけ下がった二重の目を揺らしながら、頭をかいていた。

「こんな、どこの人間なのかもわからない僕にそんな風に傘を差し出してくれるあなたは  、本当に優しい人なんですね。」
包み込むような温かい声が。
整った顔立ちの頬を、少しだけ赤くして照れ臭そうに頭を掻くその仕草が。
透き通った焦げ茶色の瞳がバチリと合った時。
私を深い深い海の底に突き落としていた。
その美しく深い青の中に、太陽の光が天使のように揺らいで目が離せない。
上へ。上へ。
這い上がらないと。と思っているのに。
身体に絡んだ糸が動きを制されて、苦し気に打つ心音ばかりが、頭に響き渡る。
そのくせ、私の頬には血が集中していく。
思考やあらゆる筋肉に血は通っていないというのに。
私ったら、一体どうしたのかしら。
実は突然頭をガツンと一発殴られているのかもしれない。
もしくは、変なガスでも吸わされて身体がおかしくなっているのかもしれない。
それなら、この鼓動の早さも金縛りにあったかのように動かない身体の理由もつく。
その一方で、沙也加の『恋は落ちるもの』という言葉が頭が痛くなるくらい大きく反響していた。

完全に動きを停止してしまった私に、彼は「どうかしましたか?」と私の顔をまじまじと見つめてくるものだから、私は慌てて彼から視線をはずして、早口で捲し立てた。

「急いでいるんですよね?どうぞ、持って行ってください。では。」
私は折り畳み傘を彼の手に押し付けて、一礼すると、パッとさくら色の傘を開かせて雨で霞んでいる霧の中に飛び込んだ。
何かまだ言いたそうな彼を見なかったことにして、私は急いで雨に紛れていく。
ドキドキ煩いくらい脈打つ音が、私の足を速めた。
そして、本屋から遠ざかったところで、歩調を緩めホッと息をついた。
胸に手を当てれば、未だに胸が高鳴っていた。
ゆっくり深呼吸をして、息を整えていけば、疼くような甘い鼓動に変わっていた。
そして、私の心の奥にポッと優しい火が灯る。
この火を消さないように、そっと両手で包みこめば指先から体全体に熱が帯びていく気がした。

雨で溜まってできた水たまりをレインブーツで弾くと水しぶきが街頭に照らされて輝きながら飛び散っていく。
コツコツ雨が傘を叩く音を聞きながら、私の鼓動が落ち着くのを、高まる熱を冷やすようにゆっくりと家路へと向かった。

翌日―

「それは恋よ!恋!!とうとう、雪乃にも春が来たわね!」

翌日学校に行って、昨日の話をぼそりとしたら、沙也加は盛大にそう叫んだ。
授業終わりの教室に数人残っていた学生たちも、こちらに視線が集まるのを感じて、私は慌てて沙也加の口を塞いだ。
「…ちょっと!静かにしてよ…。」
「だって、雪乃がそんなこというから、興奮しちゃって。えへへ。」
「で?その人といつ会うの?」
「え?」
「え?って…まさか。雪乃…そのまま帰ってきたなんてオチじゃないでしょうね…?」
そのまさかだという無言の肯定を沙也加が受け取ると、目を丸くして信じられないという顔をして、まじまじと私の目を見た。
「嘘…。じゃあ、せめて連絡先は?」
「…知らない。」
「ちょっと雪乃!見ず知らずの男に傘を貸したんでしょ?貸したってことは、返してもらわなきゃいけないでしょ?返してもらうためには、連絡取らなきゃいけないでしょ!?」
私は、押し黙ってうつむくしかなかった。
そんな私に本当にどれだけ奥手なんだと、半ば呆れている顔をして沙也加は盛大にため息をついた。
そんな彼女のきれいにセットされていた長い髪が心なしか乱れている気がした。
「…連絡先も知らないんじゃ、実るものも実らないじゃない…。
こうなったら、毎日本屋に通うわよ!
雪乃が言えない想いの丈を私が切々と代わりに語ってあげるから。」
沙也加は、ぐっと拳を握ってやる気満々な顔をしていた。
私の背中に冷たい汗が落ちる。彼女なら本気でやりかねない。
私は慌てて彼女をたしなめた。

恋…か。
改めて指摘されると、そんな気もするし、少し違う気もして少し複雑な思いに駆られた。
このドキドキは、確かに恋のような気がする。
でも、その一方で、ただの憧れな気もする。
滅多に男性を意識したことがなかった私には、この気持ちがよくわからなかった。
だから、確かめたいと思った。
この思いが、恋と呼ばれるものなのか、そうではないのか。
もう一度、会えれば、それはきっとハッキリする。
そう思ったら、いてもたってもいられなくなって、私は沙也加には内緒で毎日のように新宿の本屋に立ち寄った。
また雨が降れば、会えるかもしれない。
そんな淡い期待をしながら、毎日のように私は本屋に通った。
あの日と同じような強めの雨が降った日も。
激しい夕立が街を襲った日も。
しとしと優しい雨が覆った日も。
ただ、会いたい。
その一心しかなかった。

そんな日々を重ねていけば、いつの間にか季節は進んで、秋になっていた。

アスファルトが秋雨にしっとりと濡れ、冬の気配も感じさせるような少し冷たい風を感じながら、私はいつものように本屋の軒先でぼんやりと雨で煙る街を眺めていた。
私、何やってるんだろうな。
自分の気持ちを確かめたいなんて、思ってここにきているけれど。
もしも奇跡的に彼に会えたとして、そのあとは何がしたいんだろう?
こんにちは。私のこと覚えていますか?なんて、気持ち悪いことを言うんだろうか。
それとも…お久しぶりです。あの日貸した傘、返してください。なんて、借金の取り立てやのように攻め立てるんだろうか。
それとも。あなたにずっと会いたかったです。なんて、告白じみたことでもするのだろうか。
そんなことを逡巡していると。

雨で靄のかかった奥から、綺麗な白いスーツに身を包んだ女性が談笑しながら歩いてきた。
遠目からでも、とても綺麗な女性だとわかるくらい、際立っていた。
青い傘は隣にいる背の高い男性が持っていて、相合傘をしているようだ。
横にいる男性の顔は、傘が邪魔してよく見えないけれど、うんうんと女性の話をやさしく聞いているようで、その雰囲気だけで、お似合いのカップルに見えた。
もし、あんな風に私も彼の横にいられたら…。
そんなこと、考え始めてしまう自分が恥ずかしくて、頭を振って想像を掻き消した。

段々こちらに近づいてくる二人。
私との距離が縮まるほど、女性の美しさが眩しいくらいその魅力を解き放っていた。
私とは大違いだな…。
大人っぽくて、ハキハキしてて。
女性の溌剌とした声と美しい黒髪が笑うたびに、優しく揺れていた。
あんな風に明るく笑える人は、私みたいにいつまでもうじうじなんかしないんだろうなんて思う。
髪を耳にかけるその左手の薬指には、きらりと指輪が光っていた。
二人の歩みが本屋の軒先の私から数歩のところ止まると、女性は「ありがとう」と傘をさしていた男性に声をかけて先に庇に入ると、それに続いて男性も女性の隣に立って傘を閉じた。


傘が閉じられ、見えた男性の顔。
私は、目が痛くなるくらい大きく見開いた。
そこにあったのは。
整った顔立ちに、優しげな目が印象的なあの日であった彼だった。
ずっと会いたかった…彼。
だけど…。
穏やかに微笑んでいるその顔は決して私に向けてくれているものではなくて。
黒髪の美しい女性に向けられたまま。
ドキドキ鼓動は早くなるけれど、あの時とは違って私の胸はぎゅっと掴まれたように、苦しくて痛い。
手も足も震えて、頭は真っ白になっていく。
女性が先導して、本屋に入っていく。
彼も彼女の小さな背中を追うように本屋の入口へと向かっていく。
私は無意識に彼の大きな背中を見つめていると、突然彼の顔がこちらに向いて、彼の双眸が一瞬大きく見開かれた。
でも、私はその茶色い瞳をまともに見ることもできず、慌てて桃色の傘を開くと、逃げるように強めに降り始めた冷たい雨の中を走っていた。

何で走っているんだろう。
バカみたい。
ただ確かめたいと思ってた。
この思いの名前を知りたかっただけ。
そして、その答えは恋だとせっかくわかったのに。
それだけ、分かれば十分だったはずなのに。
なのに、私は何故こんなに泣いてるんだろう。
冷たい雨は、私の心に灯っていた火を消すには十分すぎるほど容赦なく降き、涙が溢れていた。


それから、私はもうあの本屋に足を向けることはなかった。
欲しい本があれば、学校の近所にある個人経営するこじんまりとした本屋に行くことにして、あの本屋には近づくことはなかった。
なかなか癒えることのない、鈍く疼く痛みを抱えながら、淡々とその日をやり過ごしていく。
いつになれば、この痛みは消えてなくなるのだろう。
ため息をつく毎日を過ごしていけば、気づいた時には季節はまた移り替わり冬を迎えていた。

今年の冬はやけに寒い。
何十年に一度の寒波が東京にも襲っているらしく、木々も街も寒さに震えていた。
そんなどんよりとした薄い雲に覆われていた朝。
顔に刺すような寒さを感じて目が覚めた。
いつも、目覚めると同時に天気の匂いがするのに、今日はなんだか薄くてよくわからなった。
私は寒さを凌ぐ様に腕を摩りながら、いつものように部屋の窓を開けて思い切り空気を吸い込むと、一点の曇りのない晴れ渡った匂いが胸いっぱいに広がった。
空を見上げれば、雲は所々に見えるだけで、太陽がさんさんと輝いていた。
今日は、雨の心配なしね。
そう確信して、私は身支度を整えて、家を出ていつものように学校へと向かった。

いつものように沙也加と談笑して、その日の講義を終えると教授は珍しく課題が出された。
しかも、レポート20枚という。
「どういうことよ!今日は恋人たちの日クリスマスイブよ?なのに、この量のレポート書けって、本当血も涙もないわ!冷血男め!」
「本当にね…。」
そう叫ぶ沙也加の横で、私もため息をついた。
これだけの量を書くには、資料集めも必須になる。
「私は、さっそく資料集めに本屋にでも行こうかな。」
そう呟いた私に、沙也加は少しかしこまって、私の方を見た。
急にどうしたのかと思い、どうしたの?と聞けば、
「…ねぇ、夏くらいに言ってた人と会えてないの?」
「…そりゃあ…ね。会いたいって思っても、そんな都合よく現れないだろうし。
それに、もうあの本屋には行かないことに決めてるの。」
「どうして?」
「だって、知り合いでもない、ただ一言二言話しただけの人よ?相手だって、私のことなんか忘れてるだろうし、私もどうでもよくなっちゃったし、もう顔もあんまり覚えてないしね。」
嘘だった。
本当はどうでもよくなかったし、忘れられるはずもなかった。
でも、彼の顔を思い出すと同時に、隣にいた女性の輝くような笑顔が、電球が切れる一瞬の閃光のように脳裏に蘇るのだ。
その度に私の心は深く深く光の届かない暗く寒い海の底に沈んでいく。
恋に落ちれば、景色は明るく変わる。なんていつか言っていたけれど。
遂げられない恋は、色褪せた景色に変わっていくんだよ。
なんて、沙也加相手といえど、そんな情けない話できるはずもなかった。
私は深くため息をつく。

「今日は、クリスマスイブよ。
神様はきっと純粋な恋に味方してくれる…なーんて、私が言えた口じゃないけどさ。」
沙也加は机の上のものをカバンに詰め込みながらそんなことをいう。
珍しい。
現実主義で、そんな夢みたいなことをいうような彼女じゃない。
急に本当にどうしたんだろう。
その後を私も慌てて追った。
「私、雪乃にあきらめてほしくなかったんだよね。
本当は今でもそう思ってる。あんたは慎重派でなかなか好きな人できない質だって
知ってるし、雪乃、本当はまだその人のこと好きなんでしょ?今日くらい奇跡でも起きないかなって。…そんなに、甘くないか…。」
キンと冷える空気にコートの襟を立て身を窄めながら、沙也加は空を仰ぐ。
そんなこと言ってくれるなんて。初めてかもしれない。
沙也加とは、大学の入学式で初めて出会って、そこからすぐに仲良くなれたけれど。
彼女は、なんでも積極的でズバズバ物事を言うクールなタイプに周りからは見られがちだ。
けれど、気心知れた人の前での彼女の顔は思慮深くて、思いやりがあって、熱い心の持ち主であることを私は知っている。
今、目の前にいる彼女は、きっと親友としての顔。
沙也加の言葉は、光の届かないずっと暗がりにいた私を救い上げてくれたような気がして、私は彼女の美しい横顔見ながらそっと答えた。
「ありがとう。」


「ねぇ、雪乃。今日って…雨降らないわよね?」
沙也加は、空を見上げながら聞いてくる。
私はいつものように匂いを拾っていけば、今朝の匂いと変わらない晴れ渡る太陽の匂いがしてた。
「うん。今日は、雨の匂いはしないから、降らないよ。
でも、おかしいなぁ。今日はずっと晴れる匂いがしていたんだけど…。」
空を見上げれば、どんよりとした雲が垂れ込めていた。
「まさか、雪乃が唯一予測できない、雪でも降るのかしら。それはそれで、ロマンティックだけど、東京の雪は水分が多いから、傘がないとキツイわね。
ま、その辺は恋人たちの日という魔力で何とかなるか!じゃ、私はすべての現実をいったん忘れて、デートに専念してくるわ。雪乃、またね!」
笑顔で、手を振って沙也加は蝶が優雅に跳ぶように消えていった。

そう。
沙也加が言う通り。
現実はそんなに甘くない。
何よりもあの時、十分現実を突きつけられているのだからこれ以上この現状が好転するなんて、ありえない。
だけど…。
もう一度だけ。
彼女と一緒でもいいから。
一目でいいから。
彼に会いたい。
そうすれば、この思いもきっと決着をつけられるから。
だから、今日だけどうか。
奇跡を起こしてほしい。

私の頼りない細い足にありったけの願いを込めて私は、新宿へと向かった。
そのまま、迷いなく本屋に向かう。
あの時見かけた軒先に視線を走らせても当然、彼の姿なんてあるはずもなく。
私は、情けない笑みを零した。
どんなに願っても、奇跡なんて都合よく起きてくれるはずないんだから。
これはこれで、もういいのではないか。
そんな気がしたら、私の気持ちはホッと穏やかになっていくのを感じた。

すると、ふわりと顔を掠めて、地面に染み込み溶けていく白い綿。
空を見上げれば、灰色の空から白い大きな綿がふわりふわりと次々と舞い落ちてきていた。

本当に、降ってきたんだ。
掌を空に向けて雪が手に落ちると、パサリと音を立てて崩れ、水だけ残して消えていく。沙也加が言った通り、東京の牡丹雪は湿り気が強くて、とても重い。
このまま、駅まで引き返したとしても、ずいぶん濡れるんだろうな。
そんなことを考えたら、一気に気が重くなっていく。
本屋に来たついでだ。
さっき出たレポートの資料を探しに本屋の中へと入っていった。
都心の雪は気まぐれだ。
目当ての本を見つける頃には、もう雪はやんでいるかもしれない。
そう淡い期待を寄せて、私は資料を探すことに専念した。
でも。
再び目的を達成して本屋の軒先まで出てくれば、雪はやむどころか一層激しく降っていて、すでに街全体は白く覆われていた。
思わず深い深いため息をついた。
こんなに雪が降っているのに、相変わらず一点の曇りのない清々しい太陽の匂いがする。

本当に雪はわからない。  
せめてフード付きのコートにしておくべきだった。
今さら後悔しても仕方がないけれど。
寒そうだけど、行くしかないわ。
自分に言い聞かせて、白く染まりつつあるアスファルトに一歩踏み出した。
容赦なく大粒の雪が私の頭に肩に止めどなく落ちてくる。
大きな白い綿は、次々と蝶のように宙を舞いと私の頬に当たって消えていく。
一歩踏み出しただけで、こうということは、駅に着く頃には、どんな悲惨な状態になっているのか想像しようとしてやめた。
そんなことしたって、現実はかわりないんだから。
先に進もう。
何もかも忘れて。
地面に落ちれば消えてしまうこの雪に、私の忘れられなかった思いを託して。
跡形もなく、綺麗に溶かしてしほしい。
決して思い出すことのないように。
晴れてしまえば、すべてが幻想だったかのように。
そうすれば、きっと私は前へ進めるはずだから。

そう思った時だった。

「よかったら、入りませんか?」

温かく優しい声が、私の背中にふわりと包み込んだ。
ハッとして、振り替えるとそこには。
私が濡れないよう傘を差し出しながら、とても温かい微笑みがあった。
あの時と同じ優しい瞳が私を捉えて、離さない。
頭は雪が降り積もったように白く染まっていくのに、目頭が熱くなって視界がぼやけて見えて彼の顔も歪んでよく見えなかった。
だけど、彼の包み込むような温かい声は心地よく私の心によく響いて泣きたいくらい優しく木霊した。

「あの時借りた折り畳み傘も、君に渡せる傘も今はないけれど。僕はずっと君を待っていました。」
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