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そして、二十四歳 6

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 一方的に切られた彩芽のスマホがだらりと下がって、ガタンと床へ落ちる。

 そのまましばらく呆然と佇んでいた彩芽の横にいた陽斗も同じ状態だった。歩美が最後に投げつけてきた爆弾が思い切り二人の頭部に当たって、怒りさえも吹っ飛んでいた。
 歩美の声が二人の頭の中で、未だに意味をよく理解していないまま木霊して続けている。あれだけ怒り狂っていた彩芽も、元の丸い瞳に戻って、きょとんとした顔を陽斗に向けていた。
 
「ねぇ、陽斗。『婚姻届けを受理した』って、聞こえたけど、幻聴? 私、頭がおかしくなったのかしら?」
「いや、俺にもそう聞こえた……けど、勝手にそんなことできるはずないよなぁ? 婚姻届け勝手に書いて、勝手に提出して、役所が受理なんて、できるはずがない。酒飲みすぎて、頭がおかしくなったのは、あいつらの方だろ?」
 そう陽斗説明を加えるが、二人の背中がどんどんざわざわしてくる。
 そんな非常識なこと、できるはずがない。できるはずないと思うけど……本当に? 
 彩芽は、ざわめく心を沈めるために落としたスマホを手に取り、母親へ掛けなおそうとするが『電源が切れているため、かかりません』という機械的な返事。陽斗も佐和のスマホへ電話してみるが、同じだった。神経を逆撫でしてくるほど、ゆったりとした音声で、張本人達は、完璧な守りを固めてしまっていた。
 
 天地ひっくり返るほど搔き乱された状態のまま、元凶が帰ってくるのを明後日まで静かに待っていることなど、できるはずもない。一睡もできないどころか、発狂してしまいそうだ。
 この意味の分からない状況を一刻も早く解明してくれる相手を見つけるしかない。
 ちっと二人の舌打ちと共に、二人の声が重なった。
「道端のところへ行こう」

 
 彩芽と陽斗は、ドタドタと部屋を出て、廊下を走り階段を駆け下りる。四階の道端の家のインターホンを連打した。
 すると、八回目くらいで、そのまま玄関のドアが開いて、ぼさぼさ鳥頭の道端のしかめっ面が、顔を出していた。

「お前ら、ふざけんなよ。夜に、揃ってうるせぇんだよ。今日は、両親いないからよかったものの、いたらカンカンだったぜ」
 道端の苦言を、彩芽がキリっと睨み付けて、はねのける。
 
「説明して」
「はぁ? なんのこと?」
「今日、俺と彩芽のおふくろが役所に来たんだろ? お前に聞けって、言われたぞ」
「あぁ! 婚姻届けね。お前たち母親が、まぁ嬉しそうに提出しに来てさ。いや、マジで驚いたぜ!」
 バカでかい声が、寒々しい空気を突き抜けて、まっすぐ二人の鼓膜に届いてくる。同時に二人の頭は、一瞬真っ白になる。そこに頭にくるほどの明るい声が再生される。
『冗談じゃなくて、本気よ』
 沸々と忘れていた怒りが蘇ってき始める。 
 そんなことなど知るはずもない道端は、ぺらぺらとよく喋っていた。
「お前ら、いつから付き合ってたんだよ。つい最近、廊下で会った時も、そんな話しても全然そんな雰囲気もなかったじゃねぇか。まぁ、お前らがのろのろしてただけで、今更結婚しても驚くようなことはないけどさ……って、どうして二人ともそんな怖い顔してんの? こういうときって、満面の笑みなんじゃねえの?」
 困惑する道端の疑問を無視して、彩芽がいう。
「婚姻届けって、本人じゃなくても出せるものなの?」
「え? あぁ、もちろん。代理人で全然オッケーだよ。だから、親に頼んだんだろ? 出してくれって」
「頼んでない」
 陽斗が答える。
「勝手に、出されたの」
 間髪入れず彩芽がつけた足すと、しばらくの沈黙があってから、道端の間の抜け面とすっとんきょんな声が飛び出していた。
「はい?」

 
 立ち話するにしては、話が長そうだ。中に入れてやるから、感謝しろと言われながら、道端の部屋の中へ招き入れられ、リビングへ通された。
 リビングのダイニングの椅子におしりを着けたと同時に、今日あった出来事をそのまま話して聞かせる。普通の感性の持ち主ならば、ありえない話だ。その話は、嘘だろうといわれてしまうところだが、道端は「お前らの母親なら、やりかねないな」と、納得していた。

 
「明日、出勤したら、取り消ししてくれよ」
 陽斗がそういうと、道端は何言ってんだと、一蹴していた。
「そんなの無理に決まってんだろ。もう受理しちゃったもん」
 のんびりいう道端に、彩芽がドンと机を叩いていた。道端だけでなく、陽斗の肩もビクッと飛び上がる。
「いつもお役所仕事遅いじゃない! 適当じゃない! なんで、こんな時ばっかり仕事早いし、融通利かないのよ!」
「酷い言われようだな……。お前らの母親から、速攻でお願いって頼みこまれたし、そもそも、婚姻届け提出されて不備がなければ即効力を発揮することになっている。その日、入籍したってことになり、婚姻は成立。つまり、もう無理」
「どうして? だって、本人の同意ないんだよ? 勝手に書いたんだよ?」
「そんな事情、ただの事務処理しているだけの俺らが知りようがないじゃん。わざわざ婚姻届の署名に筆跡鑑定なんて、しないし。俺たちは、市民様の言われた通り動くだけ。だから、今更取り消しなんてできないの。あきらめろ」
「ふざけないでよ!」
「こっちは、真面目に言ってる。どうしても嫌なら、弁護士に相談でもしろよ。俺は、ただの一公務員の仕事を全うしただけ。俺の責任じゃない。もう、どうせだから、そのまま結婚でいいじゃん」
 道端は、面倒くさくそうに投げやりにいう。
 さすがの陽斗も噴火していた。

「結婚って『どうせだから』とか、そういう適当な気持ちでするもんじゃないだろ! お前、婚姻届け受理するような仕事してるんだったら、そんな軽々しく言うなよ!」
「そうよ! 一生に一度あるかどうかもわからない、人生の大きな出来事なのよ! こんな勝手に出されて……こっちの気持ちも考えてよ!」
「……面倒くせ。ともかく、これは俺のせいじゃない! お前らの母親のせいだ。俺を巻き込むな。 これ以上居座ったら、高島に陽斗の過去全部喋るぞ」
 突然脅しが入ってきて、陽斗は、ぎょっとして一瞬怯んでしまう。
 
 小・中学校は、三人とも地元の公立校へと通っていたが、高校は三人とも別々の学校へと進学した。だが、道端とは高校時代同じサッカークラブに所属していたため、彩芽よりも、陽斗のいらぬ情報は頭に入ってしまっている。だが、そうはいっても、後ろめたいことはしてきていないはずだ。
「俺は真面目な生活を送ってきてる。聞かれちゃまずいようなことは、してない」
「ふーん。じゃあ、いいんだな? 高島、陽斗な、高一の時ファースト……」
 そこまで言って、ニタっと笑って、歪んだ口を開きかける道端を「わー!」と、陽斗が遮っていた。なんてことを言い出すんだ。絶対に思い出さないように、ぐるぐるに巻き付けて頭の外に投げ捨てた悪夢を、彩芽の前で晒そうとするなんて。こいつは、やはり性格が悪いと再認識する。母親たちはド派手な爆弾を思い切り爆発させてきたが、道端は違う種類の爆弾を放ってくる。じわじわとダメージがくる神経毒ガスだ。道端を睨み付け、ほぼ反射的に彩芽の方へ視線をやる。すると、彩芽の顔から喜怒哀楽は消えて、無表情になっていた。
 道端もその変化に気付いて、やりすぎたとばかりに、二人を追いたてていた。
「というわけで、帰った、帰った!」
 西澤は、部屋に入ってきた蛾でも追い出すように両手でシッシと振り払い「お幸せにー」といって、乱暴に玄関から追い出された。
 
 ここに来たときよりも更に重たい沈黙に加えて、北風まで吹き付けてくる。六階の部屋に着くまで二人とも、ひたすらの無言だった。
 そして、六一○号室の家の前に着いて、玄関ドアに手を掛ける彩芽は、振り返ってきて、目を臥せる。
 
「陽斗、ごめん。私ちょっと頭冷やしたい。ワインは今度、付き合って。じゃあね」
 目を合わせることもなく、部屋の中へ入ってそのまま閉じられたドア。無情な施錠音。取り残された陽斗は、かける言葉をみつけられず、パンクしそうな頭を抱えながら、隣の六○九号室へ帰っていた。

 こうして、彩芽の二十四歳の誕生日は、波乱の様相を呈し、幕を開けていった。

 
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