記憶喪失のふりをしたら後輩が恋人を名乗り出た

キトー

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20.月が綺麗ですね

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 夏は公園に居た。
 ベンチに座り、星のない夜空をぼーっと眺めている。
 池を囲むような広い公園は、たまにジョギングをする人が通るだけで人気が無い。
 そんな中、ベンチに身を任せて空を仰ぎ見る夏は後悔だけが渦巻いていた。

 秋が好きだった。憧れから恋心に変わり、その後も想いは募るばかりだった。
 どうしても欲しくて、誰にも譲りたくなくて、彼が手に入るなら何でもするのにと何度思った事だろう。
 そんな時に秋が記憶喪失になった。夏の事も覚えておらず、どんな関係だったのかと問われた。

『俺と秋さんは恋人同士なんです』

 咄嗟に出た願望。まだ冗談だと笑って引き返す事も出来たのだ。
 だが、夏はしなかった。秋を騙そうとしている罪悪感と、秋が手に入るかもしれないという期待が夏の中で葛藤し、そして──この機会を逃したらもう二度とチャンスはないのでは? という結論に至ってしまったのだ。
 欲しかった。どうしても秋が欲しかった。誰よりも何よりも尊敬し、恋い慕う秋を手に入れたかった。

『何言ってんだお前?』

 戸惑う秋の顔を今でも覚えている。
 だが、秋は手を取ってくれた。戸惑いながらも自分の隣を歩いてくれた。
 時折、戸惑いが顔に出ていたが、それでも信用して身を委ねてくれたのだ。
 だが、全てが偽りだったと分かった今、秋はどう思っているだろうか。

「……っ、ごめんなさい秋さん……」

 真情を吐露した時の秋は、言葉を失っていたように見えた。
 目を見開いて、信じられない物を見る様だった。
 騙したのは自分だ。記憶喪失に付け込んで己の思いを無理やり押し付けた。
 幻滅されて、当然なのだ。
 それでも幸せだった。誰よりも大切な秋と恋人同士になれたのだ。たとえ偽りでも、隣で笑ってくれる秋が居た。後悔ばかりが胸を締め付けるが、自分は確かに幸せだった。
 もう、元には戻れないとしても自分はきっとこれからも……

「……好きです……秋さん……」

「うん、すっげー知ってる」

「っ!?」

 独り言として漏らした胸の内だった筈なのに、思わぬ返事に飛び上がる。
 夏が立ち上がったまま振り返ると、困ったような笑いを浮かべた秋がそこに居た。

「あ、あの……秋さん……俺は……」

「ここ座るぞ?」

「あ、はいどうぞ……」

「あと上着! もう夜は寒いんだから持って出ろよ」

「あの……はい、ありがとうございます……」

 ベンチに座った秋は、上着を受け取っても立ったままの夏を隣に促す。
 ふらふらと誘われて座った夏は、それでも唖然と秋を眺めたままだ。
 だが、心のすみで喜んでいる自分に気づく。
 秋が隣に来てくれた。自分を心配して、いつもの様に笑ってくれている。
 図々しくも、また元の関係に戻れるんじゃないかと期待してしまう。
 しかし、秋の予想外の言葉に夏はそれどころではなくなった。

「あー……とりあえず悪かったな、夏」

「なっ! 何で秋さんが謝るんですか! 悪いのは騙した俺です!!」

 悪いのは完全に自分なのに、なぜ秋が謝るのか。
 こんな所に呑気に座っている場合じゃない。今すぐ土下座してでも謝り尽くさなくては……。
 自分の不甲斐なさに苛立ちながらも立ち上がろうとした時だ。

「いやさ、実は俺も夏を騙してたんだよ」

「……えっ?」

「記憶喪失なんて嘘なんだ」

「……」

「……」

「…………え……?」

 予想外にも予想外の吐露に、夏は完全にフリーズしてしまう。そんな夏にかまわず秋は言った。

「ごめんなー」

 へらりと笑う秋を眺めながら、今日も秋さんは最高に素敵だなーっと現実逃避をしている夏が居た。

「いやー、冗談のつもりだったんだよ。ちょっと夏をからかってやろう、みたいなさ」

「は……はぁ」

「そしたら夏が完全に信じちゃってさ」

「はい……」

「俺と夏は恋人同士だとか言い出すもんだからびっくりした」

「すみませんでしたぁっっ!!!!」

 夏は今度こそ土下座し、広い公園で夏の謝罪が響く。
 犬の散歩をしていたおばさんが驚いた顔を向けた後、見てはいけない物を見たようにそそくさと去って行く。
 秋の足元で、夏は芝生に頭を擦り付ける。
 そんな夏の肩を叩き、顔を上げさせた秋はまた隣へと促した。

「さみーんだから地面に座るなよ」

「いえ! それでは俺の気が済みません!」

「俺が見てて寒いっての。早くこっち座れ」

 秋は夏の腕を引っ張りそのままベンチに座らせる。
 それでもなお頭を下げようとするので、秋は「しつこい」と頭を叩いた。

「俺が最初に嘘ついたのも悪かったんだ。お互い様だろ」

「しかし……秋さんの嘘と俺の嘘では重さが違いすぎます……」

「でも俺もけっこう楽しかったしさ」

「…………楽しかった……?」

 秋が謝る理由にまだ納得がいかないと憤慨する夏だったが、その言葉を聞いて呆けた顔する。
 そんな夏を見て、秋は少しだけ恥ずかしそうにして頭をかいた。
 そして照れ隠しのように笑って言う。

「お前との恋人生活、けっこう楽しかったよ」

「ほ、ホントですか……!?」

 楽しかった。秋の思ってもみなかった好意的な言葉に夏は驚きと同時に歓喜する。
 しかし、それは本当に言葉通りに受けとって喜んで良いものなのか。
 秋の事だ。自分を励ます為の方便の可能性だってある。
 だけどもし、もし本心から言っているのだとしたら……

「まぁ二人共悪かったって事でさ……だからもし夏が良いなら──」

「……」

 夏の期待が否応なしに膨らむ。
 都合の良い解釈かもしれないが、秋も自分との恋人関係にまんざらでもなかったのではないのか。
 だとしたら、また戻れる? 元の関係、いや、恋人としての関係に……
 しかし、期待に膨らんだ胸は、続けられた秋の言葉に見事にしぼんだ。

「──無かった事にしよう」

「……無かった事……?」

「そ、もう一回やり直すって言うか……今まで全部嘘だった訳だし、全部無しにしてやり直した方が良いだろ」

「そ……そうですね……」

 無かった事。今までの偽りの関係を全て無かった事にする。
 恋人同士だった関係も、それも、無かった事に。

「……っ」

 十分じゃないか。また友人関係に戻れるのだ。もう失うかもしれないと思っていたのにまだそばにいる事を許されたのだ。
 喜ぶべきだ。何を贅沢になっているんだ。
 恋人には戻れなくてもまだ完全に関係が途切れた訳じゃ無い。もうおはようのキスで目覚める事も胸を張って恋人だと周りに宣言する事も無くなるが、それでも俺は……

「そう……ですね……っ………!」

 何とか自分の気持ちに納得させようとするのだが、やるせない気持ちが膨らんでしまう。
 どんよりと曇った夜空をそのまま具現化したような夏は、愛想笑いすら浮かべられずにうなだれた。
 そんな夏の隣で、月のない空を見上げながら秋がポツリと呟く。

「……月が綺麗だな……」

「え……?」

 聞き覚えのあるセリフにうなだれていた顔を上げると、秋がこちらを見ている事に気づく。
 月なんて出ていないのに、どこか楽しそうな、期待するような顔だ。

「……この後の続き、言ってくんねぇの?」

 秋の言葉に一瞬呆けた表情を浮かべた夏だったが、すぐにその意味を理解して顔を赤くする。
 そして気がつけば、秋の前にひざまついていた。

「……っ! 結婚してくださいッ!!」

「思ってたのと違うな」

 両手を握られた秋は呆れながらも、わずかに頬を染めて楽しそうに笑った。
 ジョギングをしていたおじさんが微笑ましそうに二人を見ながら通り過ぎる。
 夜景の見えるレストランでは無かったが、曇った夜空がほんの少しだけ月をのぞかせた。
 
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