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5 まずは友人、もしくは兄妹として
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本を読んでいるとすでに日が赤くなっているのに気づいた。白川殿はそっと廊を出て空の赤をみやった。
これを見るたびに風早中納言は今宵も来てくれるだろうかと考えていた。そのうちに優しい笑顔でやってきてくれるのが常であり、その度に白川殿は嬉しさで満たされていった。
だが、もう来てくれない。
もういないのだから。
何度も理解しているはずのそれをつきつけられると胸の奥がずーんと重苦しくなった。
ずいぶんの間廊に出ていたと思われる。
赤かった空は少しずつ闇へと変わり、小さく輝く星がちらちらと見えるようになった。
ああ、やはり来ない。
肌寒さに震えながらも来ない男のことを思うと白川殿は切なく感じた。
「春先とはいえ夕は冷えます。中へ入りましょう」
そう声をかける者に白川殿は驚き振り返った。そしてさらに驚いた表情を浮かべた。
「それは、どうしましたか?」
そう指さす先に夏基の左頬が真っ赤に膨れていた。それを指摘され夏基は恥ずかし気に笑った。
「昔の恋人に……」
水で冷やした布をあてて夏基は今日のことを話した。今まで関係を持った女性一人ひとりに別れの挨拶をしてきたという。まだ全員ではないが。
白川殿に会う前に別れを告げた相手に張り手をくらわされたのである。
「それは」
たいへんでしたねと言おうにもそれは合った言葉か悩むところであった。
「何人かは怒り張り手をくらわされるかなぁ、と思っていましたので」
夏基は苦笑いして言った。
「何故そのようなことを」
「あなたを妻にしたから」
夏基は白川殿の顔近くまで近づきそう答えた。綺麗な男の顔に、耳に響く声に白川殿は思わずぞくりとした。
なるほど、多くの姫君が彼に堕ちたのは理解できなくもない。
白川殿はそっと後ろに下がろうとするが右手をとられてしまう。
「何故、ほとぼりが冷めれば自由に色んな姫のもとへお通いになればいいではないですか?」
本来この結婚は醜聞により貰い手のなくなった自分を社会的に処理するためのもの。白川殿が正室の座についたままであれば夏基はこの邸を自由にしていいし、好きに女を囲ってもよい。邸の主人である自分がそう許可しているのだから。
当初の夏基もそのはずであった。
妃になる予定であった鈴姫に手を出そうとしたことで罰せられ、官位を維持するために仕方なく東雲大臣の要求を呑んだにすぎない。
確かにはじめはそう言っていたはずだ。
「私は、お恥ずかしいながら今まで本気の恋というものをしていませんでした。満たされない想いを重ね日々をやり過ごす日々。あなたの婚儀もその見境のなさが災いしてのこと」
夏基は今までの自分のしてきていたことを正直に話し自分の浅ましさを恥じた。
「しかし、今私はあなたへの想いで満たされています。まだあなたが他の方をみているとわかっていても愛しく感じ、こちらへ向いて欲しいと考えあぐねる日々。どうすればいいか悩み、まずは信じられる男にならなければと考えました」
そのために何をすべきか。
今までの自分のしてきたことを清算すべきだと思い至ったという。
「それで張り手にも甘んじましたか?」
「はい」
「……色男が台無しですね」
白川殿はくすりと笑って揶揄した。その顔が愛らしくうつり夏基は思わず白川殿の両肩に手を添えた。顔が近づきもう少しで唇と唇が触れると思ったところでそれを遮ったのは白川殿の袖であった。
「まだ、私を認めてくれませんか」
無論、この程度で想いが通じるとは思ってもいなかったが。
「ごめんなさい」
白川殿は首をふるふると横に振り謝った。
「あなたの想いは信じようと思います。でも、私がそれに応えられないだけです」
「それだけ好きだったのですか?」
かつての恋人の風早中納言のことが。
「あの方は私の世界を変えてくれました。簡単に忘れられません」
「そうですか」
夏基はようやく白川殿の肩を放し、距離を置いた。
「では、夫婦は無理でもまずは友として一緒に過ごさせていただけませんか?」
その言葉に白川殿は首を傾げた。外見はすでに夫婦であるが、中身はそれに伴わない。ではまずは友としての絆を深めようと夏基は提案した。
「そりゃ、できることならもっと夫婦らしくしたいです。ですが、あなたの中の私はまだ小さくて、それに甘んじるしかありません」
それでいいの? と白川殿は上目使いで夏基を見つめた。夏基としては辛いものである。だが、耐えなければならない。その間自分はあくまで白川殿一筋で過ごす。それが自分が考えた誠意のひとつである。
「もちろん風早中納言に目劣りしない程になった時は私も堂々とあなたを愛させていただきます」
たぶんそれは一生ないことと思われる。
白川殿はそう口にしようと思ったが、自分の口が思うように動かなかった。
「そうだ。いっそ兄か弟と思ってくださっても構いませんよ」
そうすれば近しい間柄になりやすいと夏基は提案するも白川殿は首を横に振った。
これを見るたびに風早中納言は今宵も来てくれるだろうかと考えていた。そのうちに優しい笑顔でやってきてくれるのが常であり、その度に白川殿は嬉しさで満たされていった。
だが、もう来てくれない。
もういないのだから。
何度も理解しているはずのそれをつきつけられると胸の奥がずーんと重苦しくなった。
ずいぶんの間廊に出ていたと思われる。
赤かった空は少しずつ闇へと変わり、小さく輝く星がちらちらと見えるようになった。
ああ、やはり来ない。
肌寒さに震えながらも来ない男のことを思うと白川殿は切なく感じた。
「春先とはいえ夕は冷えます。中へ入りましょう」
そう声をかける者に白川殿は驚き振り返った。そしてさらに驚いた表情を浮かべた。
「それは、どうしましたか?」
そう指さす先に夏基の左頬が真っ赤に膨れていた。それを指摘され夏基は恥ずかし気に笑った。
「昔の恋人に……」
水で冷やした布をあてて夏基は今日のことを話した。今まで関係を持った女性一人ひとりに別れの挨拶をしてきたという。まだ全員ではないが。
白川殿に会う前に別れを告げた相手に張り手をくらわされたのである。
「それは」
たいへんでしたねと言おうにもそれは合った言葉か悩むところであった。
「何人かは怒り張り手をくらわされるかなぁ、と思っていましたので」
夏基は苦笑いして言った。
「何故そのようなことを」
「あなたを妻にしたから」
夏基は白川殿の顔近くまで近づきそう答えた。綺麗な男の顔に、耳に響く声に白川殿は思わずぞくりとした。
なるほど、多くの姫君が彼に堕ちたのは理解できなくもない。
白川殿はそっと後ろに下がろうとするが右手をとられてしまう。
「何故、ほとぼりが冷めれば自由に色んな姫のもとへお通いになればいいではないですか?」
本来この結婚は醜聞により貰い手のなくなった自分を社会的に処理するためのもの。白川殿が正室の座についたままであれば夏基はこの邸を自由にしていいし、好きに女を囲ってもよい。邸の主人である自分がそう許可しているのだから。
当初の夏基もそのはずであった。
妃になる予定であった鈴姫に手を出そうとしたことで罰せられ、官位を維持するために仕方なく東雲大臣の要求を呑んだにすぎない。
確かにはじめはそう言っていたはずだ。
「私は、お恥ずかしいながら今まで本気の恋というものをしていませんでした。満たされない想いを重ね日々をやり過ごす日々。あなたの婚儀もその見境のなさが災いしてのこと」
夏基は今までの自分のしてきていたことを正直に話し自分の浅ましさを恥じた。
「しかし、今私はあなたへの想いで満たされています。まだあなたが他の方をみているとわかっていても愛しく感じ、こちらへ向いて欲しいと考えあぐねる日々。どうすればいいか悩み、まずは信じられる男にならなければと考えました」
そのために何をすべきか。
今までの自分のしてきたことを清算すべきだと思い至ったという。
「それで張り手にも甘んじましたか?」
「はい」
「……色男が台無しですね」
白川殿はくすりと笑って揶揄した。その顔が愛らしくうつり夏基は思わず白川殿の両肩に手を添えた。顔が近づきもう少しで唇と唇が触れると思ったところでそれを遮ったのは白川殿の袖であった。
「まだ、私を認めてくれませんか」
無論、この程度で想いが通じるとは思ってもいなかったが。
「ごめんなさい」
白川殿は首をふるふると横に振り謝った。
「あなたの想いは信じようと思います。でも、私がそれに応えられないだけです」
「それだけ好きだったのですか?」
かつての恋人の風早中納言のことが。
「あの方は私の世界を変えてくれました。簡単に忘れられません」
「そうですか」
夏基はようやく白川殿の肩を放し、距離を置いた。
「では、夫婦は無理でもまずは友として一緒に過ごさせていただけませんか?」
その言葉に白川殿は首を傾げた。外見はすでに夫婦であるが、中身はそれに伴わない。ではまずは友としての絆を深めようと夏基は提案した。
「そりゃ、できることならもっと夫婦らしくしたいです。ですが、あなたの中の私はまだ小さくて、それに甘んじるしかありません」
それでいいの? と白川殿は上目使いで夏基を見つめた。夏基としては辛いものである。だが、耐えなければならない。その間自分はあくまで白川殿一筋で過ごす。それが自分が考えた誠意のひとつである。
「もちろん風早中納言に目劣りしない程になった時は私も堂々とあなたを愛させていただきます」
たぶんそれは一生ないことと思われる。
白川殿はそう口にしようと思ったが、自分の口が思うように動かなかった。
「そうだ。いっそ兄か弟と思ってくださっても構いませんよ」
そうすれば近しい間柄になりやすいと夏基は提案するも白川殿は首を横に振った。
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