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朝食に弥生の風を添えて
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「ちぃーさな、トランクと……君の好きだった窓際の席に……」
白と緑に配されたタイルの台所。近くの窓から降り注ぐ弥生の日差しの中、私はエプロンを身に着けて小さく歌を口ずさんでおりました。まだ肌寒さも続きますので、淡い桜色の厚手パーカーを身にまとっております。冬の装いはかさばりますから、エプロンが少しばかり動きにくさを感じました。でも暖かさには代えられません。
星が降るような白い斑点模様のテフロントースタートレーに、袋から取り出したばかりの厚切りのパンを置きました。香ばしいパンの香りが漂います。一度手を止めて、鼻腔をくすぐる香りにうっとりと心を委ねました。
背後ではドライフードを一心にむさぼるサン=テグジュペリさんの軽やかなカリカリ音が聞こえます。
容器からナイフでたっぷりバターを取り、パンに乗せました。やや硬く、このまま塗るとなるとパンの身が崩れてしまいそうです。
仕方ありません。少しばかり行儀はよくありませんが、私一人の食卓です。自由をいたしましょうか。乗せたバターを素手で千切りまばらに乗せていきます。体温で溶けていったバターは指先からゆるりと逃げていきますが、ぎゅっと潰していきます。
指についた油分を洗う前に、指先を口に運びます。誰も見てませんよね。
ぺろり。
油脂の甘みと塩気が空腹の舌に広がります。バターの香りに食欲が胃をぐるうりと踊りました。
さっと手を洗い、白いはちみつポットを手にします。レバーを引きながら傾ければ黄金色の幸福が糸となって降り注ぎます。パンの大地とバターの岩場を濡らしていく、極上の雨。みさごさんという神が心行くまで恵みを与えました。
さて、お待ちかねのチーズタイム。
常温に戻しておいたピザ用チーズを豪雪のごとく豊かの大地に振りまきます。
神は気まぐれなのです。
ばさり、ばさり、ばさり……
溶けた時に零れないように、でも少し零れるように。
大地から溢れないように、でも溢れてしまいそうなくらいに。
世界はチーズに沈みました。
みさごさんという神は満足されたのでしょうか。
いえ、まだ満足されておりませんでした。空腹が囁くのです、もっと、もっとチーズは求められています。
微かな理性が囁きました。火が通らなくなります。ここで留めておくのです。
諦めました。
理性、欲望、双方の意見をまとめてみさごさんは満たされないチーズは、二枚目を後で焼くことで約束いたしました。
神はトレーをトースターに閉じ込め、レバーをぐるぅりと回しました。ぢぢぢ……と世界創生へのカウントダウンが聞こえます。トースターの中がゆっくりと緋に包まれていきました。
神はホーローケトルを手に水を注ぎ、火に掛けました。紅茶の準備です。
ナイフ、フォーク、カップ、追いはちみつを用意すると私は椅子に腰かけ窓の外を眺めました。
風に揺れる緑色の光。少し前までは台所に立っていても足元の寒さに身を縮こませていました。それがもう、こんなに心地よい空気に包まれて肌寒さまで愛おしいと思えます。
目を閉じて世界に心を捧げました。外を奔る風の足音、かき混ぜられる木々の葉、春色に塗り替えられていく空、密度を増していく身を包む空気。季節の移ろいに今を感じるのでした。
リーンとトースターが世界の完成を告げます。
春に捧げた心を取り戻し、一目散にまだ微かに緋の灯りが残るトースターのガラスを覗き込みました。目を張ってしまいました。
ふつふつ、あるいは、むちむち、もしくは、ぷつぷつ、と淡白いチーズの海が泡だっていました。膨らんでははじけて、また溶けて。溶けて膨らんではじけて溶けて。わずかにだけパンの大地からあふれたひとすじかふたすじの、チーズの雫。
世界はところどころ黒に焦げており、それは約束された幸福の証に見えました。
私は未だ熱に浮かされたトースタートレーをミトンで掴み、紅茶とカトラリーの待つテーブルに置きました。
じうじうとはちみつとチーズが沸騰する音が少しずつ消えていきます。濃厚なチーズの香りがキッチンを包んでいきました。
「いただきます!」
いても立ってもいられないみさごさんは手を合わせてこの世の感謝を告げました。
フォークを当ててナイフを入れました。
焼けたミミの切れる軽い手ごたえ。ナイフについた油脂でぬらりと光りながら、パンを割いていきます。断面が目に入りました。
厚さのあった山盛りのチーズは溶けて薄くなりましたが、密度を増してパンを包んでひとつの乳泥層を描きます。次にハチミツを吸った金蜜層、バターに満ちた油脂層が前後するナイフに見え隠れ。
切り分けてもなお糸に繋がれるとろりチーズを、フォークの先のパンでぐるぐると絡めとると、私は空腹に乾いた口に運びます。
むしゃり。
さっくりと焼けたパンの耳が香ばしい。
じゅわり、とバターとハチミツの甘みと塩気が口に溢れ、続いてチーズとパンの濃厚な旨味が洪水となって押し寄せます。咀嚼を続けますと、むっちりとした歯ごたえを伴って混然一体となったハニーバターチーズトーストの美味しさに味覚が溺れていきました。
さらに鼻にため息をすればそれらは一つになり、美味しい甘い香りが肺を満たしました。
ひとくち、ふたくちと夢中で嚥下して心にひとときの平穏を感じてから、紅茶の甘く微かな渋さの香るカップを手にします。するりと舌に流れる紅茶は、すべての美味しさをまた別の魅力へと描き替えながら喉へと落ちていきました。
私は大きく幸せのため息をつきました。
「はぁ……」
窓の外を見るとも見ずに、ただただひとときの満足に身を委ねます。朝食の恍惚。
今一度、完成されたはハニーバターチーズトーストを眺めました。
さあ、まだまだしあわせはこんなにもたくさんあるのです。
すべてを忘れ、今と言う時間に身を委ねることにいたしましょう。
朝食に弥生の風を添えて 了
白と緑に配されたタイルの台所。近くの窓から降り注ぐ弥生の日差しの中、私はエプロンを身に着けて小さく歌を口ずさんでおりました。まだ肌寒さも続きますので、淡い桜色の厚手パーカーを身にまとっております。冬の装いはかさばりますから、エプロンが少しばかり動きにくさを感じました。でも暖かさには代えられません。
星が降るような白い斑点模様のテフロントースタートレーに、袋から取り出したばかりの厚切りのパンを置きました。香ばしいパンの香りが漂います。一度手を止めて、鼻腔をくすぐる香りにうっとりと心を委ねました。
背後ではドライフードを一心にむさぼるサン=テグジュペリさんの軽やかなカリカリ音が聞こえます。
容器からナイフでたっぷりバターを取り、パンに乗せました。やや硬く、このまま塗るとなるとパンの身が崩れてしまいそうです。
仕方ありません。少しばかり行儀はよくありませんが、私一人の食卓です。自由をいたしましょうか。乗せたバターを素手で千切りまばらに乗せていきます。体温で溶けていったバターは指先からゆるりと逃げていきますが、ぎゅっと潰していきます。
指についた油分を洗う前に、指先を口に運びます。誰も見てませんよね。
ぺろり。
油脂の甘みと塩気が空腹の舌に広がります。バターの香りに食欲が胃をぐるうりと踊りました。
さっと手を洗い、白いはちみつポットを手にします。レバーを引きながら傾ければ黄金色の幸福が糸となって降り注ぎます。パンの大地とバターの岩場を濡らしていく、極上の雨。みさごさんという神が心行くまで恵みを与えました。
さて、お待ちかねのチーズタイム。
常温に戻しておいたピザ用チーズを豪雪のごとく豊かの大地に振りまきます。
神は気まぐれなのです。
ばさり、ばさり、ばさり……
溶けた時に零れないように、でも少し零れるように。
大地から溢れないように、でも溢れてしまいそうなくらいに。
世界はチーズに沈みました。
みさごさんという神は満足されたのでしょうか。
いえ、まだ満足されておりませんでした。空腹が囁くのです、もっと、もっとチーズは求められています。
微かな理性が囁きました。火が通らなくなります。ここで留めておくのです。
諦めました。
理性、欲望、双方の意見をまとめてみさごさんは満たされないチーズは、二枚目を後で焼くことで約束いたしました。
神はトレーをトースターに閉じ込め、レバーをぐるぅりと回しました。ぢぢぢ……と世界創生へのカウントダウンが聞こえます。トースターの中がゆっくりと緋に包まれていきました。
神はホーローケトルを手に水を注ぎ、火に掛けました。紅茶の準備です。
ナイフ、フォーク、カップ、追いはちみつを用意すると私は椅子に腰かけ窓の外を眺めました。
風に揺れる緑色の光。少し前までは台所に立っていても足元の寒さに身を縮こませていました。それがもう、こんなに心地よい空気に包まれて肌寒さまで愛おしいと思えます。
目を閉じて世界に心を捧げました。外を奔る風の足音、かき混ぜられる木々の葉、春色に塗り替えられていく空、密度を増していく身を包む空気。季節の移ろいに今を感じるのでした。
リーンとトースターが世界の完成を告げます。
春に捧げた心を取り戻し、一目散にまだ微かに緋の灯りが残るトースターのガラスを覗き込みました。目を張ってしまいました。
ふつふつ、あるいは、むちむち、もしくは、ぷつぷつ、と淡白いチーズの海が泡だっていました。膨らんでははじけて、また溶けて。溶けて膨らんではじけて溶けて。わずかにだけパンの大地からあふれたひとすじかふたすじの、チーズの雫。
世界はところどころ黒に焦げており、それは約束された幸福の証に見えました。
私は未だ熱に浮かされたトースタートレーをミトンで掴み、紅茶とカトラリーの待つテーブルに置きました。
じうじうとはちみつとチーズが沸騰する音が少しずつ消えていきます。濃厚なチーズの香りがキッチンを包んでいきました。
「いただきます!」
いても立ってもいられないみさごさんは手を合わせてこの世の感謝を告げました。
フォークを当ててナイフを入れました。
焼けたミミの切れる軽い手ごたえ。ナイフについた油脂でぬらりと光りながら、パンを割いていきます。断面が目に入りました。
厚さのあった山盛りのチーズは溶けて薄くなりましたが、密度を増してパンを包んでひとつの乳泥層を描きます。次にハチミツを吸った金蜜層、バターに満ちた油脂層が前後するナイフに見え隠れ。
切り分けてもなお糸に繋がれるとろりチーズを、フォークの先のパンでぐるぐると絡めとると、私は空腹に乾いた口に運びます。
むしゃり。
さっくりと焼けたパンの耳が香ばしい。
じゅわり、とバターとハチミツの甘みと塩気が口に溢れ、続いてチーズとパンの濃厚な旨味が洪水となって押し寄せます。咀嚼を続けますと、むっちりとした歯ごたえを伴って混然一体となったハニーバターチーズトーストの美味しさに味覚が溺れていきました。
さらに鼻にため息をすればそれらは一つになり、美味しい甘い香りが肺を満たしました。
ひとくち、ふたくちと夢中で嚥下して心にひとときの平穏を感じてから、紅茶の甘く微かな渋さの香るカップを手にします。するりと舌に流れる紅茶は、すべての美味しさをまた別の魅力へと描き替えながら喉へと落ちていきました。
私は大きく幸せのため息をつきました。
「はぁ……」
窓の外を見るとも見ずに、ただただひとときの満足に身を委ねます。朝食の恍惚。
今一度、完成されたはハニーバターチーズトーストを眺めました。
さあ、まだまだしあわせはこんなにもたくさんあるのです。
すべてを忘れ、今と言う時間に身を委ねることにいたしましょう。
朝食に弥生の風を添えて 了
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