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六章 翰鷹皇子

3.脅迫

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 炎俊は、翰鷹皇子からは見えない卓の下で小刻みに膝を指で叩いていた。なぜか兄皇子に対して敬意が薄いように見えるこの女のこと、早まったことを言ってくれるな、と気を揉むけれど――気持ちが分かってしまうのも、困りものだった。どうして自身の妃を探すのに、弟夫婦に頼ろうとするのか分からない。

 この期に及んではさすがに仕方ないことだろうけど、炎俊が兄に対して向ける目つきも声も鋭いものだった。糾弾されるのを覚悟していたのが肩透かしに終わった分、今度は彼女が責める側に回ったかのよう。

「まず第一に、どうして私が引き受けると思われたのかを伺いたい」
「私が恩を売れるのはそなただけだ。兄上方は我らのことなど眼中にない。私が白家の後ろ盾を失うならそれはそれで良し、あえて助けることなどお考えにはならないだろう」
「私としても、それはそれで良いのですが……」

 貸しを作らせてやると言われて、炎俊の眉間に皺が寄った。整った顔だけに、不快を露わにすると迫力がある。施すような物言いは、多分この女の気に入るものではないだろうし、単純に信じられるようなことでもない。それに、助けろと言われたところで、朱華には何をすれば良いか分からないのだ。炎俊だって同じだろう。

 弟が不審と不満を全身で示しているというのに、翰鷹皇子は穏やかに笑った。

「そして、もうひとつ。この宮には水竜の力を持つ者がいないのだ」

(水竜……水を操る力が、何なの……?)

 翰鷹皇子に水竜の力があることは、たった今聞いたばかり。第一皇子の妃の宋凰琴もそうらしい。第二皇子の辰緋宮も、妃の数は多いのだから誰かしらその力を持つ者がいてもおかしくない。でも、だから何だというのだろう。
 朱華にとってだけでなく、炎俊にも兄皇子の言葉の意図は掴めなかったらしい。一層眉を寄せて、問い質すために唇を開きかけて――けれど、彼女たちの疑問に答えたのは言葉ではなく妖しい煌めきだった。

(剣!? なんで!?)

 中空に突如として剣が浮かび上がった、と思った。炎俊も翰鷹皇子も椅子に掛けた姿のまま、侍女も供の者たちも控えているのに。けれど瞬きする間に気付く。鋼で作られたにしては、その「剣」は透き通って揺らめいている。水だ。水が、剣の形に凝って宙に浮いて――そして、その切っ先は、翰鷹皇子の首元を狙っている。

「な――」

 事態を把握して思わず腰を浮かせた朱華に、翰鷹皇子はにこりと爽やかな笑みを見せた。水でできた透明な剣の向こう側、その笑顔も少し歪んで見えたけれど。

「雪莉姫は安心なされよ。貴女にも貴女の夫にも危害を加えるつもりはない。――だが、そなたは困るだろう、炎俊。私が死ねばせっかくの宮を出ることになる」

 落ち着いた翰鷹皇子の声を聞いてやっと、朱華は水の剣は彼によって作られたのだと悟った。これこそが水竜の力の一端なのだということも。それに――翰鷹皇子は、自身の命を持って弟を脅そうとしているということも。

(四つの宮の皇子のうち、誰が欠けても残った皇子は帝位を失う……!)

 本来は、皇族同士で殺し合い、国が乱れるのを避けるための法のはずだ。でも、翰鷹皇子はそれを脅迫の手段として使っている。遠見の力はこの場では役に立たないし、横目で窺った炎俊の、青褪めて強張った顔からして、時見も同様のようだ。むしろ、炎俊の大きく見開かれた目は、翰鷹皇子の首筋から血飛沫が上がる未来を視ているのかもしれない。

「軽挙は慎んでいただきたい、兄上」
「軽挙などではない。そなたを動かすためには必要なことだ」

 炎俊にできるのは、多分もう口を動かすことだけだ。けれど、翰鷹皇子の笑みも、水の剣の切っ先も、何ら動くことはなかった。だって、炎俊の口調は懇願ではない。眉を寄せたままの難しい表情で述べるのは、せいぜいが諫言、下手をすると説教にさえ聞こえるのだから。これで、思いつめた相手を説得できるはずがない。

「でも、あの……っ、御身に何かあれば、佳燕様が――」

 そういう朱華も、余裕がある訳では全くない。引き攣った声は、雪莉としてのものにちゃんと聞こえているだろうか。分からなかったし、翰鷹皇子が顧みるとも思えなかったけれど。少なくとも、炎俊は彼女が何を言わんとしているかを聞き取ってくれたようだった。細い顎が小さく頷き、次いで、きっと兄に向き直ったのが横目に見えた。でも――

「雪莉の言う通り。そのように愚かな真似をなさるほどにはく妃が大切だというなら、命を捨てては意味がない」

(説得したいのか喧嘩を売りたいのかどっちよ!?)

 多少気を取り直して冷静さを取り戻したところで、炎俊の言葉の無礼さはどうしようもなかった。翰鷹皇子は、激高こそしなかったけれど全く表情を変えず、大きく頷く。

「愚かだろうが、私には佳燕が必要なのだ。皓華宮を得たのも彼女を妃にするためだった。帝位争いなどどうでも良い」
「どうでも良い……!?」

 翰鷹皇子こそ、見事に炎俊を挑発してくれた。朱華には分かってしまう。炎俊は、皇族としてはとても真面目なのだ。帝位を軽んじるような発言は、きっと許しがたく思うはず。炎俊が眉を跳ね上げるのを見て、朱華は暴れたくなった。好き勝手言い合う皇子どもを、声を限りに怒鳴りつけたかった。

(ああもう……っ!)

 兄は「剣」を持ち出して退かず、弟も諫めるどころか激している。朱華には計り知れない《力》を持ったふたりが本気で争ったらどうなるのか――想像できるものではないし、したくもない。だから、罵詈雑言は呑み込んで、叫ぶ。

「――三の君様!」

 混乱しているのも冷静さを失っているのも、朱華と他のふたりは変わらないはず。でも、幸か不幸か、朱華はこの場で一番下の立場だった。繕うべき体面は比較的ないし、無知も無力も当然の立ち位置だ。悲鳴を上げて泣き叫んだって許されるだろう。微笑んで座っていれば良いはずだったのに、どうして執り成すようなことをしなければいけないのか、矢面に立たなければいけないのか分からないけど。

「そ、そのように仰られても……何があったかも分からないままでは、頷くこともできません。せめて、佳燕様がなぜ、どのようにして姿を消したか知らないことには……」
「話を聞いてくれるのか」
「雪莉、そなたの出る幕ではない」

 翰鷹皇子の安堵したような笑みと、炎俊の咎める目を同時に浴びて――朱華は、開き直った。こいつらに任せていたら、話はいつまでも進まない。出る幕でないのは百も承知、余計な口を挟まないと埒が明かないと思わせた彼らの方に咎があるはずだ。

「長春君様、仕方ありませんわ。兄君様が退かれることはなさそうですもの。お話を伺ってみれば、やはり無理だということにもなるかもしれませんし……」
「無理だと言って、聞いてくださる様子でもないが」
「我が君様、どうか……!」

 唇を尖らせて、まだ言い足りない風情だった炎俊は、けれど朱華と目が合うと小さく息を吐いた。健気に聞こえるであろう震える声は、翰鷹皇子に向けたもの。炎俊に向けた目線では、全霊を込めて黙れ、聞き分けろと伝えたのが分かったらしい。少しは頭が冷えたのか、朱華を怒らせたら後で面倒だと思ったのか。この際、どちらでも良いだろう。

「――だが、妃を狙う企みがあるなら、詳細を教えていただくのは必要なこと、か」

 炎俊の声を切っ掛けに、場の雰囲気がふ、と緩んだ。水の剣の切っ先は翰鷹皇子の首筋から逸れ、それを操っていた者も明るい声を上げる。

「それは、承諾の答えと取って良いか」
「脅されて頷かせられたのです。次にお招きすることがあれば、池の傍の部屋は選びません」

 炎俊が吐き捨てたのを聞いて初めて、朱華は翰鷹皇子の剣が池の水を使って作られたものだと知った。水の剣は宙で解け、一筋の蛇のような形になって窓へと消えていく。

「その用心には意味がない。茶の一杯でも、喉を詰まらせ窒息させるには十分だからな」
「ご忠告、痛み入ります」

 さらりと笑った兄に対し、炎俊はあくまでも苦い顔をしていた。どうやら、水竜の力は水の形を自在に操ることができるらしい。剣をかたどるのに比べれば、喉に詰まるくらいの塊を作るのはたしかにずっと簡単そうだ。不可視の力によって動く、多分飲み込むことも吐き出すこともできない塊が喉に居座り続けたら、人はまあ死ぬだろう。

(え……それって、すごく『便利』なんじゃない……?)

 手の内を明かしてくれるなら奇特なこと、と。翰鷹皇子を見直しかけて――朱華の肌は粟立った。翰鷹皇子は脅しに使っただけだったけど、この先水竜の力を持つ者と対峙する時は、その相手はいつでも朱華を殺せるということだ。例えば、碧羅宮の妃、宋凰琴だって、美しい笑顔の下では、隙だらけの朱華のことを笑っていたのかもしれない。

「紫薇。茶が冷めてしまった。淹れ直しておくれ」

 今の一幕がなかったかのように穏やかに命じた炎俊は、そんなことはとうに知っていたのかもしれないけれど。
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