炎華繚乱 ~偽妃は後宮に咲く~

悠井すみれ

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八章 小鳥は鳥籠に戻る

3.籠の扉

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「陶妃様の御力は、非才なりに良く存じておりますが──」

 朱華が相手をする気配を見せると、蔡弘毅は大柄な体躯を縮こめるようにして畏まった。女だからか、主君の妃だからか。どちらにしても、この調子ではいずれ閨を共にしろなどと言われたら卒倒するのではないかと勝手に心配してしまう。

「籠の鳥は、たとえ不意に逃げたとしても、空を恐れるものではないでしょうか。安全な籠から出てしまったのを後悔して、戻ろうとするのでは? 鳥でなくても、猫などでも──餌を用意して窓を開けていれば、戻ってくることもあるものですが」
「でも、私が探している鳥は、鳥籠を嫌って飛び出したのですよ? 二度と戻りたくないと思っているのではありません?」

 翰鷹皇子の過ぎた寵愛ぶりも、佳燕の憔悴ぶりも、大まかにではあるが話したばかりだ。それをちゃんと聞いていたのか、と聞き直すと、蔡弘毅は少し首を傾げてみせた。貴人相手だから遠慮があるようだけど、彼は朱華に何か物申すことがあるらしい。

「飛び出すときには、後先を考えないものでしょう。外の危険も、籠の中の居心地の良さも。開いている窓や扉を前に、つい、さまよい出てしまうだけで……」

 言われて朱華は、腕組みをする。そんなバカな、と言いたくなるのを堪えて。蔡弘毅が指摘する通り──輿を降りた時の佳燕に深い考えがあったはずがない。たまたま、翰鷹皇子と別れて宮に帰ることを許されて、たまたま、輿を止めさせた。佳燕の失踪は、偶然に条件が整ったからでしかない。

(佳燕様は、宮には戻りたいと思っていたもおかしくない、のかしら……)

「蔡校尉は、鳥を飼っているのですか?」

 意外とまっとうな進言だったのかもしれない、と思い直して、朱華は蔡弘毅の前に膝をついて目を合わせた。遠見ははかどっていないし、この男のことをもう少し詳しく知っておくのも、後々きっと必要になる。

 間近に顔を覗き込むと、蔡弘毅は赤面して目を逸らした。この調子で、炎俊の前ではいったいどのように振舞っているのか不思議なほどだ。

「いえ……ただ、田舎者ですから、実家では色々と生き物がおりました。高貴な『鳥』を、鶏など一緒にしては無礼なのでしょうが」

 拾挙しゅうきょで採用される者たちの出自を、朱華は知らない。田舎で鶏を飼うような生活も。

(小鳥でも飼ったら炎俊あいつも変わるのかしらねえ)

 大の大人、帝位を狙う皇子に対してというよりは、小さな子供に対するように考えながら、朱華は立ち上がった。もう一度、初心に帰って遠見を行ってみよう。

「そうですね。でも、参考にはなるかもしれません。ありがとうございます」
「は、恐れ入ります……!」

(籠の扉……というか、佳燕様が最初にいなくなったところ……?)

 それは、朱華にとってもそもそもの始まりの場所だ。輿を降ろされた回廊。佳燕も立ち止まって、庭を眺めた場所。佳燕からしてみれば、皓華宮からの迎えというか追手が来るとしたら、そこからだと思うだろう。だからこそその辺りにはいないだろうと決め込んでいたけれど、その思い込みを一度疑ってみるとしたら──

「──あれ?」

 早くも当たり、なのかどうか。早速、回廊の傍に華奢な人影を見つけてしまって、朱華は間の抜けた声を上げてしまった。

「見つけましたか」

 そして、耳元に低く囁かれて小さく跳び上がる。跪いて控えていたはずの蔡弘毅は、一瞬のうちに朱華のすぐ傍に立ち上がっていた。音もなく、空気を動かすこともなく。猫のように密やかで素早い動きだった。

「う、うん……あの、ええ」
「どこですか」

 見上げる横顔も、人が変わったように精悍で、目が鋭くて。驚きのあまりに、集中が完全に途切れてしまったけれど。重ねて鋭く問われて、気を取り直す。炎俊がこの男を呼び寄せたのは、多分、佳燕を確保するためでもある。そう、咄嗟に悟ったのだ。

「さっき、長春君様と別れた回廊です。東側に降りたところ、えんじゅの木……二本並んでいるうちの、手前の方。その、影に。薄桃色の上衣を着ている方です」
「承知」

 短い答えを聞いたと同時に、突風が吹いた、と思った。蔡弘毅が、獣のはやさで飛び出したのだと認識するのに、数秒が必要だった。慌てて遠見から視点を戻した時には、彼の背は木々の間に消えようとしている。

「ちょっと、待ってよ……!」

 遠見の景色と、目の前の景色。そのズレに慣れる間もなく走り出すと、眩暈のような感覚に襲われた。でも、構ってはいられない。朱華が視たのは間違いなく佳燕だった。

(知らない男に突然襲われたら、佳燕様の心臓が止まっちゃう!)

 蔡弘毅の身のこなしを見た後では、取り逃す心配など微塵もない。そうではなく、ひたすらか弱い佳燕の心の裡を慮りながら、朱華は必死に足を急がせた。
 佳燕と蔡弘毅の居場所は、遠見によってだけでなく、耳からの情報によっても知れた。絹を裂く悲鳴が木々の枝を揺らし、遠見をしながら走る朱華の耳に刺さったのだ。

「きゃあ──っ」

(ああ、まるでこっちが人攫いみたいじゃない!)

 朱華は走りながら頭を掻きむしる。侍女風に慎ましく結った髪が乱れるけれど、我慢できない。天遊林で、不満や苛立ちを態度に表すことができる機会は稀なのだから。誰も見ていないこの瞬間くらいは、好きなように叫ばせて欲しい。

 蔡弘毅の足は獣のように速く、回廊をどうにか越えて、もみ合う──というか、男の腕の中から逃れようと足掻く女の姿が朱華の尋常の視界に入った時には、彼女の肺は破裂しそうになっていた。蔡弘毅は、貴人の妃の身体になるべく触れないように口を塞ぐという難事に挑みながら、上手いこと回廊から目につかない木陰に移動してくれている。佳燕をしっかりと捕えているのは上出来なのだろう。でも、佳燕の顔色は蒼白で、懸念していた通り、事情を話す前に意識を失ってしまいかねない。

 だから、朱華は頭がぼうっとするのを懸命に堪えて、精一杯の声を張り上げた。

「──佳燕様! どうか落ち着かれて……!」
「──っ」

 新手の刺客とでも思われたのか、佳燕の涼やかな目が見開かれ、涙を浮かべた。口こそ蔡弘毅の手に塞がれているけれど、喉が声にならない悲鳴を上げて攣ったのが見て取れる。あまりに哀れな狼狽ぶりに、朱華は必死に声を紡ぐ。全力で駆けたせいで、彼女の方こそ窒息しそうな気がするのだけど。

「覚えていてくださいますか!? 星黎宮の者です。無事な場所にご案内いたします。長春君様はいらっしゃいません。繍栄しゅうえいも、御身を心配しておりますから……!」

 佳燕の悲鳴を聞きつけて駆け付けて来る者がいるかも、と思うとなるべく自身の身元を明らかにしてしまう単語は口にしたくなかった。炎俊がやっと娶った妃という物珍しい立場を、この方が覚えていてくれることを期待するしかない。

「…………」

 怯え切った子兎が狼を見るような目で、佳燕は朱華を見つめる。でも──辛抱強く距離を保って見守るうちに、佳燕の目にじわじわと理解の色が浮かんでいった。それを見計らって、朱華は手を放すように蔡弘毅に目で命じる。大声を上げる恐れさえなくなれば、佳燕を押さえつける必要はない。

 蔡弘毅の腕から解放されると、佳燕はその場にへたり込んだ。立っていることさえままならないのかと、朱華は慌てて駆け寄る。

とう妃様……? どうして……」

 佳燕が、支える朱華の袖に縋る仕草はあの繍栄を思わせた。もちろんその指は老侍女よりも細くて白いけれど。恐らくは朱華より幾つか年上の方に対して庇護欲を感じるのを不思議に思いながら、朱華は佳燕の背をさすり、できるだけ優しい声を繕おうと務めた。

「三の君様が、我が君の時見を頼られたのですわ。私の遠見も……。──でも、ご心配なさらないで! 我が君は佳燕様に同情なさっています。お気の済むまで、星黎宮で匿って差し上げますから……!」

 翰鷹皇子に言及した途端、佳燕の目が不安に揺らいで、朱華を慌てさせた。炎俊が慈悲深いかのように語るのは、後ろめたいことではあるのだけど。でも、兄君への嫌がらせが目的だとしても、炎俊は佳燕を悪いようにしないはず。というか、朱華がさせない。

 決意は、朱華の手に力を宿らせた。抱きしめられるような格好に驚いたのか、佳燕の目が朱華をじっと見つめて来る。

「あの、本当に……? なぜ、そこまで──」
「最初は、三の君様のご命令でしたから。でも、皓華宮でお話を聞くうちに……その、間を取り持つ者が必要な気がしてならなかったものですから」

 どうしてこんなことをしているのか、朱華自身にも分からないのだ。簡単に済ませようとすれば、他にも選択肢はあったはず。ただ──それでは落ち着かないから、としか言いようがない。炎俊や翰鷹皇子への呆れが、あの兄妹と同じ行動をとってはいけないと思わせるのかもしれないし、雪莉に合わせる顔がないと思ってしまうのかも。彼女の秘密にも関わってしまうから、多くを語ることができないで曖昧に微笑むと、佳燕は心底不思議そうに首を傾げた。
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