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一章 雨の夜の出会い
1.春の夜の雨
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春には珍しい、強い雨が降っていた。
散った桜の花びらが、夜の黒い地面に点々と、雪片のように浮かび上がる。吉原の中心を貫く仲の町通りに植えられた桜並木が、鉄漿溝の際の河岸見世界隈にも華やかさのおこぼれを寄こしているかのようだった。
今、闇夜に響く人声は、花見の喧騒の煌びやかさとは無縁の、後ろ暗く剣呑なものだったが。
この野郎、と。低い唸り声が耳に届いたかと思うと、清吾の頬に熱が走った。拳で思い切り殴られたのだ。首が捥がれそうな衝撃は、襟元をひっ掴まれているせいで余所に逃がすこともできない。二度目も、三度めも。顔だけでなく、腹も、何度も。
殴打に縮こまる身体が地面に投げ出されると、冷たい泥水が清吾の身体を受け止めた。弥生の桜の季節を迎えていても、夜ともなれば雨は冷える。しかも雨粒だけでなく、容赦ない罵倒と蹴りも彼に浴びせられるのだ。相手はいったい何人なのか、闇の中のこと、しかも頭を庇うので精一杯の清吾には判断がつかない。
「金もねえのに未練がましくうろつきやがって」
「これに懲りたら二度と来るんじゃねえぞ」
最後に一度、止めとばかりに腹を蹴ってから、彼らは去ったようだった。頬に吐き捨てられた唾だけが生ぬるく、そしてすぐに雨と夜の冷気に冷えていった。
(……立たねえと)
痛みと屈辱に歯を噛み締め、寒さに震えながら、清吾の指が泥を掻いた。血と泥が混ざった唾を吐きながら、思う。
(大門が、閉まる前に……)
夜四つには吉原の大門は閉ざされる。次に開くのは、夜明けを待たなければならない。全身泥まみれの上に、なけなしの金は先ほどの連中に巻き上げられた。宿のあてなどなく、かといってこの傷で野外で一夜を過ごせば確実に身体を壊すだろう。彼のような職人にとって、しばらく働けないということは命に関わりかねない大事だった。
──だから、立ち上がらなければならないのに。
「クソ……っ」
雨のせいか、身体は石のように重く、強張って動かない。歩くことはおろか、這うことさえできそうになかった。いっそ目を閉じて、この場で眠り込んでしまおうか。泥水に顔を突っ込んで、息絶えることになるかもしれないが。
そんな、ひどく投げやりな気分になった時だった。
雨音の響きが、少し変わった。雫が地に叩きつけられる、ざあざあという音ではなく、ぼつぼつと──傘に当たる音、だろうか。
「もうし」
続けて聞こえた声は涼やかで、それでいて艶のある女のもの。雨に濡れた桜もかくやの、しっとりとした。下駄の歯が水たまりを踏む音と響きが、泥に半ば使った清吾の頬に伝わった。
「喧嘩も花のうちとは言うけれど、雨の夜に捨て置かれるとは無残なこと。主はいったい、何をなさんした?」
憐みと好奇心を等分に滲ませた女の声が、清吾に降り注ぐ。雨よりも温かく、花よりも甘く。耳慣れない響きは、廓言葉というやつだ。噂には聞いても、清吾が耳にするのは初めてだった。
女は灯りを携えているのか、辺りの闇が少しだけ薄れた。閉じかけた目蓋を無理に押し上げれば、清吾の目に移るのは白い月──否、雨の夜に見えるはずもない。月のごとくに美しい女が、彼を見下ろしているのだ。絶え間なく入る雨粒によって視界はぼやけ、女の顔立ちの細かなところは見えないけれど。美しいということだけは、分かる。
「……信乃?」
呟いたのは、女の名ではない。清吾の探し人のそれだった。よく見えないのを良いことに、覗き込まれる眼差しを、彼が勝手に重ねただけで。
つまりはそれほどに彼の気力と体力は尽きていたということでもあった。いったい何があったのか──女の問いに答えることもできないまま、清吾はそっと目蓋を閉じた。
散った桜の花びらが、夜の黒い地面に点々と、雪片のように浮かび上がる。吉原の中心を貫く仲の町通りに植えられた桜並木が、鉄漿溝の際の河岸見世界隈にも華やかさのおこぼれを寄こしているかのようだった。
今、闇夜に響く人声は、花見の喧騒の煌びやかさとは無縁の、後ろ暗く剣呑なものだったが。
この野郎、と。低い唸り声が耳に届いたかと思うと、清吾の頬に熱が走った。拳で思い切り殴られたのだ。首が捥がれそうな衝撃は、襟元をひっ掴まれているせいで余所に逃がすこともできない。二度目も、三度めも。顔だけでなく、腹も、何度も。
殴打に縮こまる身体が地面に投げ出されると、冷たい泥水が清吾の身体を受け止めた。弥生の桜の季節を迎えていても、夜ともなれば雨は冷える。しかも雨粒だけでなく、容赦ない罵倒と蹴りも彼に浴びせられるのだ。相手はいったい何人なのか、闇の中のこと、しかも頭を庇うので精一杯の清吾には判断がつかない。
「金もねえのに未練がましくうろつきやがって」
「これに懲りたら二度と来るんじゃねえぞ」
最後に一度、止めとばかりに腹を蹴ってから、彼らは去ったようだった。頬に吐き捨てられた唾だけが生ぬるく、そしてすぐに雨と夜の冷気に冷えていった。
(……立たねえと)
痛みと屈辱に歯を噛み締め、寒さに震えながら、清吾の指が泥を掻いた。血と泥が混ざった唾を吐きながら、思う。
(大門が、閉まる前に……)
夜四つには吉原の大門は閉ざされる。次に開くのは、夜明けを待たなければならない。全身泥まみれの上に、なけなしの金は先ほどの連中に巻き上げられた。宿のあてなどなく、かといってこの傷で野外で一夜を過ごせば確実に身体を壊すだろう。彼のような職人にとって、しばらく働けないということは命に関わりかねない大事だった。
──だから、立ち上がらなければならないのに。
「クソ……っ」
雨のせいか、身体は石のように重く、強張って動かない。歩くことはおろか、這うことさえできそうになかった。いっそ目を閉じて、この場で眠り込んでしまおうか。泥水に顔を突っ込んで、息絶えることになるかもしれないが。
そんな、ひどく投げやりな気分になった時だった。
雨音の響きが、少し変わった。雫が地に叩きつけられる、ざあざあという音ではなく、ぼつぼつと──傘に当たる音、だろうか。
「もうし」
続けて聞こえた声は涼やかで、それでいて艶のある女のもの。雨に濡れた桜もかくやの、しっとりとした。下駄の歯が水たまりを踏む音と響きが、泥に半ば使った清吾の頬に伝わった。
「喧嘩も花のうちとは言うけれど、雨の夜に捨て置かれるとは無残なこと。主はいったい、何をなさんした?」
憐みと好奇心を等分に滲ませた女の声が、清吾に降り注ぐ。雨よりも温かく、花よりも甘く。耳慣れない響きは、廓言葉というやつだ。噂には聞いても、清吾が耳にするのは初めてだった。
女は灯りを携えているのか、辺りの闇が少しだけ薄れた。閉じかけた目蓋を無理に押し上げれば、清吾の目に移るのは白い月──否、雨の夜に見えるはずもない。月のごとくに美しい女が、彼を見下ろしているのだ。絶え間なく入る雨粒によって視界はぼやけ、女の顔立ちの細かなところは見えないけれど。美しいということだけは、分かる。
「……信乃?」
呟いたのは、女の名ではない。清吾の探し人のそれだった。よく見えないのを良いことに、覗き込まれる眼差しを、彼が勝手に重ねただけで。
つまりはそれほどに彼の気力と体力は尽きていたということでもあった。いったい何があったのか──女の問いに答えることもできないまま、清吾はそっと目蓋を閉じた。
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