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一章 雨の夜の出会い
4.人探し
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よくあることで、仕方のないことでもあったのだろう。信乃の家には、ほかにもきょうだいがいた。一家そろって飢えて死ぬよりは、娘ひとりを犠牲にするのは良い勘定だ。信乃にとっても命を繋ぐ、ほとんど唯一の道だったはず。
(俺がいたって、何もできなかった。そうだろう?)
その時も、その後も、ずっと。清吾は大工の見習いに過ぎなくて、親方に蹴られ殴られ怒鳴られて、技を身につけるのに精いっぱいだった。吉原に足を運ぶなどとんでもない、そのための金がないのはもちろん、大川を越えた先、江戸市中から離された鄙に輝く享楽の里は、彼には果てしなく遠かった。距離の上でも、心の上でも。
「昨夜の見世に、その信乃が?」
「分からない。あいつの売られた見世も、里名も」
だから、唐織の問いにも首を振ることしかできないのだ。清吾自身も、郷里に帰ったことはない。その余裕もなく生きてきた。帰ったところで、知った顔がどれだけ残っているか。信乃の行方は、心の片隅では常に気に懸けていた──そのつもりだった──が、血の繋がった家族でもない身では、立ち入ったことを尋ねることもできなかった。
「売られてから、もう十年近く経っている。もう……死んでいるのかもしれない。ただ、もしも生きているなら──そろそろ年季が明けるはずだと、思った」
廓勤めの苦しさに、命を落とす女郎も多いとは聞く。いっぽうで、生きて苦界を抜ける道があるのも、清吾は知っている。大金を積んで身請けされるか、あるいは、年季が明けるのを待つのだ。見世が親なり女衒なりに払った金を、その身で返しおおせることができたなら、その女は自由になれる。
ああ、と。唐織花魁の唇から、得心がいった、という風情の溜息が漏れた。当然のことながら、この女は清吾よりもよほど、吉原の倣いに通じているのだ。
「それで、その娘を探し出して、年季明けの約束をしよう、と──かような心算でありんしたか?」
「……そうだ。身請けの金を工面できる甲斐性なんざ、持ち合わせていないからな……」
すぐさま助けてやる、とはとうてい言えない、情けないにもほどがある算段だった。十年前に別れたきりの男が現れて、果たして嬉しいものかどうかも分からない。
(だが。それでも)
都合の良いもしも、を積み上げてしまうのだ。もしも、信乃がまだ生きていたなら。もしも、彼をまだ覚えていたなら。さらには、言い交した相手もいなかったなら。
蜘蛛の糸よりなお細い望みを紡いだ先には、ふたりしてささやかな暮らしを営む未来があるかもしれない。何ごともなければ、そうなっていたであろう形に、収まることもできるかもしれない。今の清吾でも、女房ひとりくらいなら養えるのだ。
「だから──まずは、河岸見世から回ろうと思ったんだ。言っちゃなんだが、田舎娘が大見世の花魁になれるとは思えなくてな。それに、下級の見世でひどい扱いを受けているなら、一日も早く見つけてやりたくて」
もっともらしく語る言葉には、見栄も大いに混ざっていた。何のことはない、清吾には大見世に上がるだけの金も度胸もないのだ。唐織と対峙すれば嫌でも思い知らされる。ひと晩で千両を動かすとも言われる吉原の、頂点にいる女たちは、あまりに眩しくて直視できるものではない。
「昨夜のは、俺も悪かった。登楼しないで女の素性を聞き出そうとしたんだからな。だが、吉原では浮気はご法度、なんだろう? 一度敵娼を決めたら余所に行ってはならねえって──それに、手当たり次第に女郎買いは、信乃にも悪い」
これもまた、見栄だ。薄汚れた河岸見世で、客という名の獲物に群がる痩せた女たちに、清吾は怖じたのだ。その中のひとりが信乃かもしれないのに、触れるのは怖いと思った。だから、話を聞くだけで済ませようとして──それもまた、廓の掟に触れることではあったのだろう。
(殺されても文句が言えなかったな、本当に)
自身の愚かさと浅ましさに苦く笑んでから、清吾は再び唐織に頭を下げた。これ以上は語ることもなく、そして彼は恩人にまともに礼を言えていない。
「──花魁がいなければ、どうなっていたことか。この恩は、どう返せば良い? あんたに不足があるとは思えないが、俺にできることなら何でも──」
だが、清吾が言い切る前に、唐織は声高く笑った。耳で聞くだけで、目の前に満開の桜が溢れる思いがする、華やかな声だった。布団の上で、半端に身をかがめた間抜けな体勢のまま、清吾は目を瞠る。と、花魁も軽く身を乗り出して、彼に目線を合わせた。
「その娘は、幸せものでありんすなあ」
「……そうかな」
彼にしてみれば、花魁こそが見上げるような存在なのだ。衣食に不自由はなく、数多の男に崇められ、女でさえも焦がれる者がいるだろう。豪奢な衣装に対してだけではない。染みひとつない頬の滑らかさ、水仕事を知らない細い指は、清吾が知る長屋の女や農村の娘がどれほど望んでも得られないものだ。
「間違いありいせん」
なのに、唐織は迷いなく頷き──ふ、と憂いに柳眉を曇らせる。そうして、清吾に月が雲に隠れた様を思わせる。眼差しひとつで室内の明るさを操るような、目を離せない存在感のある女だった。
「花魁などとおだてられてはいても、誰もわちきを見てはおりいせん。噂の唐織花魁をひと目見たい、あわよくばものにしたい、それで名を上げたいと、物見高い輩ばかり。わちきが、今のこの姿ですれ違っても、お客の誰も気づきいせんよ」
「そんな、まさか」
唐織の溜息に胸をくすぐられて、清吾は思わず声を上げた。
「そんなに、綺麗なのに。……昨夜は、月みたいだと」
「迂闊なことは言いなさんすな。信乃とやらに申し訳が立ちいせん」
陳腐にもほどがある賛辞は、ごく軽く笑い飛ばされた。花魁にとっては、聞き飽きた類のものなのだろう。居たたまれなさに俯きかけた時──
「清さん」
甘く名を呼ばれて、清吾の手足に酩酊のような痺れが走った。彼を間近に見つめる眼差しは優しく、けれど同時に鋭くて、目を逸らすことを許さない。
声と視線で清吾を縫い留めておいて、唐織は三日月の形に笑ませた唇で囁いた。
「主を見込んで頼みがござんす。礼がしたいと仰えすなら──わちきの願い、叶えておくんなんし」
(俺がいたって、何もできなかった。そうだろう?)
その時も、その後も、ずっと。清吾は大工の見習いに過ぎなくて、親方に蹴られ殴られ怒鳴られて、技を身につけるのに精いっぱいだった。吉原に足を運ぶなどとんでもない、そのための金がないのはもちろん、大川を越えた先、江戸市中から離された鄙に輝く享楽の里は、彼には果てしなく遠かった。距離の上でも、心の上でも。
「昨夜の見世に、その信乃が?」
「分からない。あいつの売られた見世も、里名も」
だから、唐織の問いにも首を振ることしかできないのだ。清吾自身も、郷里に帰ったことはない。その余裕もなく生きてきた。帰ったところで、知った顔がどれだけ残っているか。信乃の行方は、心の片隅では常に気に懸けていた──そのつもりだった──が、血の繋がった家族でもない身では、立ち入ったことを尋ねることもできなかった。
「売られてから、もう十年近く経っている。もう……死んでいるのかもしれない。ただ、もしも生きているなら──そろそろ年季が明けるはずだと、思った」
廓勤めの苦しさに、命を落とす女郎も多いとは聞く。いっぽうで、生きて苦界を抜ける道があるのも、清吾は知っている。大金を積んで身請けされるか、あるいは、年季が明けるのを待つのだ。見世が親なり女衒なりに払った金を、その身で返しおおせることができたなら、その女は自由になれる。
ああ、と。唐織花魁の唇から、得心がいった、という風情の溜息が漏れた。当然のことながら、この女は清吾よりもよほど、吉原の倣いに通じているのだ。
「それで、その娘を探し出して、年季明けの約束をしよう、と──かような心算でありんしたか?」
「……そうだ。身請けの金を工面できる甲斐性なんざ、持ち合わせていないからな……」
すぐさま助けてやる、とはとうてい言えない、情けないにもほどがある算段だった。十年前に別れたきりの男が現れて、果たして嬉しいものかどうかも分からない。
(だが。それでも)
都合の良いもしも、を積み上げてしまうのだ。もしも、信乃がまだ生きていたなら。もしも、彼をまだ覚えていたなら。さらには、言い交した相手もいなかったなら。
蜘蛛の糸よりなお細い望みを紡いだ先には、ふたりしてささやかな暮らしを営む未来があるかもしれない。何ごともなければ、そうなっていたであろう形に、収まることもできるかもしれない。今の清吾でも、女房ひとりくらいなら養えるのだ。
「だから──まずは、河岸見世から回ろうと思ったんだ。言っちゃなんだが、田舎娘が大見世の花魁になれるとは思えなくてな。それに、下級の見世でひどい扱いを受けているなら、一日も早く見つけてやりたくて」
もっともらしく語る言葉には、見栄も大いに混ざっていた。何のことはない、清吾には大見世に上がるだけの金も度胸もないのだ。唐織と対峙すれば嫌でも思い知らされる。ひと晩で千両を動かすとも言われる吉原の、頂点にいる女たちは、あまりに眩しくて直視できるものではない。
「昨夜のは、俺も悪かった。登楼しないで女の素性を聞き出そうとしたんだからな。だが、吉原では浮気はご法度、なんだろう? 一度敵娼を決めたら余所に行ってはならねえって──それに、手当たり次第に女郎買いは、信乃にも悪い」
これもまた、見栄だ。薄汚れた河岸見世で、客という名の獲物に群がる痩せた女たちに、清吾は怖じたのだ。その中のひとりが信乃かもしれないのに、触れるのは怖いと思った。だから、話を聞くだけで済ませようとして──それもまた、廓の掟に触れることではあったのだろう。
(殺されても文句が言えなかったな、本当に)
自身の愚かさと浅ましさに苦く笑んでから、清吾は再び唐織に頭を下げた。これ以上は語ることもなく、そして彼は恩人にまともに礼を言えていない。
「──花魁がいなければ、どうなっていたことか。この恩は、どう返せば良い? あんたに不足があるとは思えないが、俺にできることなら何でも──」
だが、清吾が言い切る前に、唐織は声高く笑った。耳で聞くだけで、目の前に満開の桜が溢れる思いがする、華やかな声だった。布団の上で、半端に身をかがめた間抜けな体勢のまま、清吾は目を瞠る。と、花魁も軽く身を乗り出して、彼に目線を合わせた。
「その娘は、幸せものでありんすなあ」
「……そうかな」
彼にしてみれば、花魁こそが見上げるような存在なのだ。衣食に不自由はなく、数多の男に崇められ、女でさえも焦がれる者がいるだろう。豪奢な衣装に対してだけではない。染みひとつない頬の滑らかさ、水仕事を知らない細い指は、清吾が知る長屋の女や農村の娘がどれほど望んでも得られないものだ。
「間違いありいせん」
なのに、唐織は迷いなく頷き──ふ、と憂いに柳眉を曇らせる。そうして、清吾に月が雲に隠れた様を思わせる。眼差しひとつで室内の明るさを操るような、目を離せない存在感のある女だった。
「花魁などとおだてられてはいても、誰もわちきを見てはおりいせん。噂の唐織花魁をひと目見たい、あわよくばものにしたい、それで名を上げたいと、物見高い輩ばかり。わちきが、今のこの姿ですれ違っても、お客の誰も気づきいせんよ」
「そんな、まさか」
唐織の溜息に胸をくすぐられて、清吾は思わず声を上げた。
「そんなに、綺麗なのに。……昨夜は、月みたいだと」
「迂闊なことは言いなさんすな。信乃とやらに申し訳が立ちいせん」
陳腐にもほどがある賛辞は、ごく軽く笑い飛ばされた。花魁にとっては、聞き飽きた類のものなのだろう。居たたまれなさに俯きかけた時──
「清さん」
甘く名を呼ばれて、清吾の手足に酩酊のような痺れが走った。彼を間近に見つめる眼差しは優しく、けれど同時に鋭くて、目を逸らすことを許さない。
声と視線で清吾を縫い留めておいて、唐織は三日月の形に笑ませた唇で囁いた。
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