【完結】月よりきれい

悠井すみれ

文字の大きさ
23 / 32
四章 闇の中

5.あり得ないもの

しおりを挟む
吉原よしわらで駆け落ちの成功は──そうそうないと、聞いているが」

 唐織からおりの心をおもんぱかるなど、清吾せいごには出過ぎた真似だ。だから、彼に問うことができるとしたら、ただの事実に関わる部分についてだけだ。そして、その辺りならば唐織もすらすらと答えてくれる。

「おふたりとも、もとより無理はご承知でござんした。ただ、何もかもを捨てて、互いが互いを求めたということ、そのこそを求めたようでありんした」

 まこと、というひと言が、清吾の胸に落ちてさざ波を立てる。彼にとっても唐織にとっても、なんと縁遠い言葉だろう。だが、先代の唐織とその情人の間には、確かにまことの想いがあったのだろう。見込みの低さに怯むことなくくるわおきてに真っ向から挑んだその危害は、清吾にとってはあまりに眩しい。

(俺は……駆け落ちを考えたことはなかったな)

 信乃しのに対しては、大人しく年季明けを待つはらで、一日も早く自由に、などとは思っていなかった。唐織に対してはなおのこと、納得のいく男に身請みうけされるよう、他人事として願うだけで。

「捕らえられて、折檻されて──それでも姉さんは嬉しそうに笑っていなんした。たいそう珍しい、みそかの月を見たと。それは綺麗であったと。そういう姉さんの笑みこそが、見たこともないほど綺麗で清らかで幸せそうで……!」

 そのふたりが手に手を取り合ったのは、実際はきっと闇夜であっただろう。人目を忍んでの駆け落ちならば、そのほうが都合が良いだろうから。

 だが、清吾の目に浮かぶのは、眩い満月に照らされて進む男女の絵だった。実際に見たかどうかではない、何もかも捨てて互いだけを求めたふたりなら、あり得ぬみそかの月も見えたのだろう。まことの儚さと不確かさ、嘘を紡ぐ舌の苦さを思い知らされた今の清吾には、自然とそう思えた。

楼主おやかた様が、どう言い繕うたかは存じいせん。高田屋様は、決めた通りに姉さんを身請けしなさんした。心はほかの男にあっても構わぬほどに、姉さんに惚れ抜いていたのか、それもわちきには分かりいせんが──」

 唐織も、清吾と同じ想像をしたのだろう。続ける声音は悔しげで羨ましげで。そして、清吾から背けて夜空を睨む目は、見えない月を探しているようだった。あるいは、姉貴分たちに思いを馳せたのか。その思いとは、憎しみなのか慕わしさなのか。分からなかったが──

「唐織姉さんは、吉原一の花魁でありんした。身請けを望まれながら駆け落ちなどと、かような醜聞は

 振り向いて、清吾を見下ろす唐織の目は、赫々かっかくと燃えるようだった。清様とやらへの思いが叶わなかった悔しさでも、姉花魁に頼られなかった寂しさでもない。怒りとも苦しみとも違うその感情は──あえて呼ぶなら確固たる決意、だろうか。

「姉さんに、まことを捧げる情人などのでありんすよ。妹分のわちきが言うのだもの、

 だから、唐織は「清様」の助言については省いて清吾に語ったのだ。いない男に助けられた記憶など、それこそあってはならないから。唐織は、振袖新造ふりそでしんぞうのころから強かで、客をあしらうことができていた、と──そういうことに、なったのだ。

 そして、その男の存在をなかったことにしたのは、自身をからでも姉貴分をかどわかしたからでもないはずだ。その理由は、今の清吾ならもう分かる。

「みそかの月は、もののたとえに過ぎいせん。それも、あり得ぬことの! そうでなくては──そうではないなどと、わちきはわちきゃあ、我慢なりいせん」

 この女は、姉──先代の唐織ほどに、男を心底愛したことがない。愛されたこともない。だから、みそかの月も見たことがない。

(手に入らないものがあるのは──辛いだろうな)

 まして、すぐ傍にいた姉貴分は、それを手に入れて美しく笑んでいたとなれば。耐えられないだろう。許せないとさえ、思うだろう。どうして自分は得られないのだと、朝な夕なに歯噛みし続けることになるだろう。

 だから──そんなものはそもそものだと、必死に言い立てるのだ。そうすれば、自身の「今」に満足することができるから。そして、満足し続けるためには、清吾の信乃しのへの想いも、まことであってはならないのだ。

「だから──主がまんまと騙されてくれて、わちきは嬉しゅうござんした。主も、分かってくれえしたな?」

 やっと、何もかもに得心がいった。そして、もはや疑問も反論もない。清吾は、いとも容易く花魁の手練手管に墜ちた。信乃への思いを揺らがせて、偽のあざにも欺かれた。

 そのような彼であればこそ、心から頷くことも、できる。

「ああ、よく分かったよ。花魁……!」

 言うなり、清吾は立ち上がる。手を伸ばし、唐織を腕の中に収める。嗚咽のような吐息が彼の首のあたりをくすぐるが、女は抗うことはしなかった。

 これは、身のほど知らずのことではない。とはいえ、想いがあってのことでもない。

 嘘でまことを覆い隠さねば生きていけない者同士、相憐あいあわんで傷をなめ合うだけのことだった。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

【完結】『江戸めぐり ご馳走道中 ~お香と文吉の東海道味巡り~』

月影 朔
歴史・時代
読めばお腹が減る!食と人情の東海道味巡り、開幕! 自由を求め家を飛び出した、食い道楽で腕っぷし自慢の元武家娘・お香。 料理の知識は確かだが、とある事件で自信を失った気弱な元料理人・文吉。 正反対の二人が偶然出会い、共に旅を始めたのは、天下の街道・東海道! 行く先々の宿場町で二人が出会うのは、その土地ならではの絶品ご当地料理や豊かな食材、そして様々な悩みを抱えた人々。 料理を巡る親子喧嘩、失われた秘伝の味、食材に隠された秘密、旅人たちの些細な揉め事まで―― お香の持ち前の豪快な行動力と、文吉の豊富な食の知識、そして二人の「料理」の力が、人々の閉ざされた心を開き、事件を解決へと導いていきます。時にはお香の隠された剣の腕が炸裂することも…!? 読めば目の前に湯気立つ料理が見えるよう! 香りまで伝わるような鮮やかな料理描写、笑いと涙あふれる人情ドラマ、そして個性豊かなお香と文吉のやり取りに、ページをめくる手が止まらない! 旅の目的は美味しいものを食べること? それとも過去を乗り越えること? 二人の絆はどのように深まっていくのか。そして、それぞれが抱える過去の謎も、旅と共に少しずつ明らかになっていきます。 笑って泣けて、お腹が空く――新たな食時代劇ロードムービー、ここに開幕! さあ、お香と文吉と一緒に、舌と腹で東海道五十三次を旅しましょう!

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...