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夢に出てくるあの子

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「……っ!」
 アレクサンダーは飛び起きて、深くため息をつく。――すでに二か月も続いている淫夢のせいだ。29歳でもこれだけ夢精をする男は世の中にいるだろうか?と。
 今日も、夢の中の彼女――マリーは魅力的だった。しかし、それにしてもこう連日ではたまったものではない。
 アレクサンダーは、夢に出てくる彼女のことを子供のころから知っている――夢でだが。

 マリーは魅力的な黒髪の女性だ。東洋系に見えるが、それにしては少し大柄かもしれない。真珠のようになめらかな肌をもち、顔立ちは目がくりっとしていて、目でものを語るタイプのようだ。
 マリーは、アレクサンダーの夢に定期的に出てくる。子供のころから毎年、女神マーガレットの生誕祭とされる日の夜の夢に出てきていた。アレクサンダーが子供の頃には、彼女も子供だった。アレクサンダーが成長するにつれ、夢の中の彼女も同じような速度で成長していく。ただ、彼女が身に着けているものはアレクサンダーにはあまりなじみのないもので、違う文化に暮らしている少女のようだった。
 その少女は今では立派な女性になって、毎晩夢に出てくる。必ず、性的な夢の中に――。

 子供時代のアレクサンダーは、児童養護施設で暮らしていた。3月のある日、施設の前に置き去りにされていたという。彼の暮らす国、カレドニアの福祉はとても整っていて、孤児院に住むことになった子供は一定の水準の生活と教育を与えられた。この国の一般的な家庭程度の生活水準と教育を与えられる。その後手に職をつけて暮らすことにするか、学をさらに身につけるかなどの進路も自由だ。
 彼がまだ10歳の時だった。12月、女神マーガレットの生誕祭の日の晩に、見たこともないような黒髪の女の子が夢に出てきた。
 そのことを学校の図書館の司書に何の気なしに話をしたら、司書の女性が明るく笑い、アレクサンダーの頭を撫でながらこう話した。
「マーガレットの生誕祭の晩に夢に見た人と将来結婚するっていう伝説があるのよ。ひょっとしたら、あなたの将来のお嫁さんかな?」
「けっこん」
 まだ10歳のアレクサンダーは、実感のない言葉を口にした。
「伝説だからね。…でも将来、その本当に子に会うのかもしれないから、楽しみにしていてもいいんじゃない」
「はい」
 アレクサンダーは嬉しくなった。彼の知識の中では結婚というのは愛し合ったおとな二人がするもので、子供を作って家庭を作って一緒に、幸せに暮らすというものだ。
 アレクサンダーの知らない世界を、その少女が見せてくれるのかもしれない。
 そう思って、彼はその晩の夢を日記に残した。

『12月7日
 黒い髪の女の子が夢に出てきました。目が大きくて真ん丸で、赤いかばんを背負っていました。図書館の司書さんは、将来のお嫁さんになる女の子かもしれないと言っていました。マーガレットの生誕祭の晩に夢に見た人と将来結婚するという伝説があるそうです。早く会いたいです。』

 その後も毎年、アレクサンダーの夢に黒髪の少女は現れた。マリーという名前のようだった。彼女の家族や、友人らしき人物も見えることがあったけれども、夢から覚めても明確に覚えているのはマリーのことだけだった。
  アレクサンダーも成長して、10代の半ばには年齢相応に恋人ができたりもしたけれども、それでもマーガレットの生誕祭の晩に夢に見るのは、子供の頃から決まってマリーの夢だった。
 18の年には施設の寮から出て、大学の寮で暮らしていた彼は当時の恋人とマーガレットの生誕祭の晩を共に過ごしたけれど、それでも夢に出てきたのは恋人ではなくマリーだった。ここまでくると、偶然ではなく真実、マリーと将来結婚することになるんだろうという気持ちになってくる。
 アレクサンダーはそのあとすぐに、その時の恋人には捨てられた。「マーガレットの生誕祭の夜には違う女の夢を見た」ということをうっかり漏らしてしまったからだ。
 この、アレクサンダーが18歳の時のマーガレットの生誕祭の時のマリーが、初めて彼の夢の中に淫夢として現れた時だった。彼女は、同じく黒髪の青年と肌を重ねていた。
 目が覚めたら夢精をしていたのでため息が出たが、それ以外の意味でもため息が出ていたのだ。
 ――彼女の初めての恋人になれなかったなんて。
 とはいえ、アレクサンダーもすでに女性の恋人が数人いて、初体験も16の時には済ませていたのだから、あまり文句は言えない。
 アレクサンダーは、少なくとも自分が「彼女の男の中で一番下手」と言われたくないな、と、実技の練習を積むべきかどうか、一瞬真剣に考えた。
 一度も現実で会ったことがない、違う世界の少女――階級の違いの比喩だとか、地理的なものではなく本当に違う世界であろうとうすうす想像がついていた――といつ会うことになるのか、アレクサンダーは密かに胸を躍らせていたのだ。
 彼はこの世界に、親というのも過言ではないほどに世話になった施設の大人たちや、少なくない友人はいるが、親はいない。身内らしい存在も見つかっていない。そこに、違う世界からいつか来るかもしれない女性が自分の家族になってくれるのだ。
 二人きりで幸せな暮らしを営む――そんな、恋愛小説じみた白昼夢を見るアレクサンダーは、大柄で純朴な、ダークブラウンの髪の青年になっていた。
 薄い水色の瞳は大きくて、愛嬌がある顔立ちで異性にも、同性にも魅力的だといわれることが少なくなかった。
 カレドニアは性的には解放的ともいえる国で、婚前交渉は当然で、同性同士での恋愛や結婚もすべて普通に受け入れられている国だ。ただしアレクサンダーは異性愛者だったので、同性からの誘いは断っていたが。
 アレクサンダーは、いつかマリーと会うことになったときに面倒なことにならないよう、ほどほどに女性と付き合いながら大学を卒業、その後は出身地ダンフリーズの役所に勤務し、領主のハリエット・ゴードンの秘書の一人として働くようになる。

 アレクサンダーは、淫夢が1か月ほど続いた時点で、地元の神殿へ行って祭司に相談をしていた。
 彼の住むカレドニアは多神教の国で、伝説の初代国王ジェームスが太陽神、その妻マーガレットが愛の神とされ、信仰を集めている。アレクサンダーは、子供のころからの夢の件があったため、マーガレットを深く信仰していたので、念のため祭司に相談に行ったのだ。
 そろそろ、60年に一回異世界から招かれるという『マーガレットの娘』が前回この国にやってきてから、また60年がたとうとしてきているのではないかと。
 記録によると、『マーガレットの娘』がやってくるのは60年に一度で、『娘』のことを子供のころから夢に見ている相手の近くにやってくるとのことだった。
 アレクサンダーは自意識過剰かもしれないので、神官に相談するのも懺悔のような形で「この年になっても毎日のように淫夢を見るので、まさか淫魔に取りつかれてでもいるのでは」と、それはそれで恥ずかしい相談をしに行くことを決めたが、夢に出てくる『マリー』が『マーガレットの娘』の可能性は高いのではないかと思っていた。
 そして相談――懺悔した相手の神官にはこう告げられた。
「あなたの夢に出てくる女性は、『マーガレットの娘』である確率はかなり高いです。これから、夢を記録してください。そして彼女があなたの近くにやってくるような予兆があったら、すぐに知らせてくださいね」
「わかりました」
 ようやくマリーに会えるかもしれない、その兆しを逃すまいとアレクサンダーは心を引き締める。引き締めたところで、見るのは淫夢なので、そこが少し残念なところだった。
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