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3つ隣の世界(2)

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 茉莉は、アレクサンダーにしがみついて泣きながら眠ってしまったようだ。目が覚めたときには「私はこの世界に来てから寝てばかりだな」と思った。そして、「夢の中でも寝るんだな」と考えた。茉莉は、まだこれが夢だということをあきらめていない。
しかし、アレクサンダーには申し訳ないことをしている。彼のジャケットをだめにしてしまっていないだろうか。
アレクサンダーから離れるときに、下を向いたまま「ごめんなさい」と謝って離れる。
ああ、思った通り、ジャケットは涙と多分鼻水、下手をするとよだれでひどいことになっている…。
「すみません。見苦しいところを…」
「とんでもない。あなたが、取り乱さないわけがないもの」
ハリエットは席を立ってこちらに向かってくる。そして茉莉の前に跪く。
「顔を上げて」
「それは無理です。顔を見せたくない」
人のジャケットをあんなにしてしまったのだ。ひどい顔になっていないわけがない。
「……じゃあ、話を続けるわね」
 ハリエットは茉莉の手を取り、冷えてしまった指先を温めるように包みこむ。
その温かさがしみ込んでくる。
そうだ、生きているんだ、と茉莉は改めて思う。
これが夢であっても、夢でなくても、生きているから温かさを感じ取り、出来事に思い悩むのだ。
階段から落ちて頭を打っているのかもしれないけれど、夢を見ているということはまだ生きているのだ。目が覚めたら病院にいるのかもしれないけれど、ここにいる私は、怪我もしていない。
おいしいところ取りができるのならばしてやりたいというくらいの気持ちもわいてきた。
 ハリエットは、茉莉の手を取ったまま、様子をうかがいながら続ける。
「あなたは、この世界にやってくる前に言った言葉って――『お前のなんて腐って落ちてしまえばいい』とかじゃない?」
「なんで知ってるんですか!」
 上品な身なりと口調の女性が突然言い出すことでもないし、まさか言い当てられるとも思っていなかった茉莉は、こんなひどい顔を誰にも見せたくない、とか思っていたくせに、思わず顔をあげてしまった。ハリエットの顔がすぐ前にある。アレクサンダーは横で、まあ良かったと言えなくもない。茉莉は自分の長い髪で、アレクサンダーからは顔が見えていないことを期待した。
 ハリエットは苦笑していた。
「神話で、マーガレットが話し相手を求めるようになったきっかけというのはね、ジェームスと痴話喧嘩をしたからなの。彼女の味方をしてくれる女性を話し相手に求めるらしくてね。その…『アレが腐って落ちろと言ったことのある娘』が条件なのよ…」
 なんてキーワードだ。創生神夫妻だなんて神々のやることではないだろう。まあ、ギリシャ・ローマ神話みたいなものなのだろうか。
「私たちの世界のカレドニアは、そちらの世界の『英語』と呼ばれる言葉と非常に似ているの。あなたは多分その『英語』が話せる人なのね?」
「そうですね…」
 茉莉は、日本語はあまりできないマット相手には基本的に英語で話をしていた。
 そうだ。そういえば私は今、英語をしゃべっているような感覚で話をしている、と茉莉は言われて気が付いた。それにしては自然に理解できているのが不思議なところだが、これも夢だからか、と茉莉は納得する。
しかし、男に対して「腐って落ちろ」って言ったのがこちらの世界へ転移させられた理由かと思うと、茉莉のしんどさが増してきた。
私は普段、そこまで下品なことは言わない人間のつもりだったのに!と、思い切って言った言葉を悔やんでしまいそうになる。

 茉莉はまた眩暈がするような気がして、腿の上に肘をついて自分の手に頭をもたれかけたが、横からアレクサンダーが抱きしめてきた。自分のせいだが、濡れたジャケットが頬に当たるのが気持ち悪い。
「ハリエット、本日はこの辺にしておきませんか。マリ嬢の様子が心配です」
 アレクサンダーが抱きしめた茉莉の髪を撫でる。しかし茉莉はアレクサンダーの腕から逃れて、ハリエットに伝える。
「いえ、一言で説明しきれないことはあると思いますが、私がショックを受けそうなニュースは、できればまとめて伝えてもらえると嬉しいです」
 茉莉は、こちらで一晩寝て、次に目が覚めたらまた自分の部屋に戻っているかもしれないと期待した。もし帰れなかったとしても、そうでなかったとしても、日替わりで号泣はしたくなかった。
「他になにかありますか」
 茉莉はハリエットを促す。アレクサンダーは、自分の腕から逃れた茉莉の左手を両手で包み込んでいる。
 それを見てハリエットはまた微笑み、椅子に戻って紅茶を口にしてから話し始める。
「さっきほど衝撃的な話はもうないと思いたいんだけどね。あなたは『マーガレットの娘』として定期的に神事に参加してもらうことになるはず。そちらについては私は詳しくないので、今後……落ち着いたら向かってもらうカレドニアの本神殿で説明を受けてちょうだい」
「神事!」
 茉莉は動揺した。
何をするのか。何をさせられるのか。「腐ってもげろ」なんてキーワードがある愛の女神の娘として神事だなんて、何か破廉恥なことをさせられたりやしないか。
 茉莉は、この世界では思っていることがすぐ顔に出るようになっているようで、ハリエットが茉莉の顔を見て、努めて明るく笑う。
「大丈夫よ。変なこととかしないから。あと、本神殿に向かうときにはアレクサンダーと言ってもらうことになります」
「アレクサンダーと?…ハリエットは?」
 茉莉も、冷めきっている紅茶に口を付ける。乾いた喉を一気に潤すにはありがたい。一気に飲み干した。マナーなんて今は無視だ。
「あら、私が行かないと寂しい?」
「…そうですね、あなたのことは、この世界でのママのように思えてきています」
 茉莉は冗談を言ってみたつもりだったが、ハリエットは大喜びをしてしまった。
「私!あなたみたいに頭の良さそうな娘が欲しかったのよ!」
 マリエットはまた椅子から立って、茉莉の前にやってきた。彼女は感情表現がとても豊かだ。
「じゃあ、アレクサンダーがパパ?」
「いやあ…」
 茉莉は、彼は『お父さん』という感じの人ではないな…と言葉を濁す。アレクサンダーは自分と年も近そうだ。そしてハリエットの具体的な年齢や、独身かどうかなどもわからないので年の話はしない方がよいかと言葉を濁すが、しかし、ハリエットは興味津々、という表情を隠そうともしないで押してくる。
「ねえねえ、アレクサンダーのことはどう思う?」
「……第一印象は『すごい素敵な人』でしたね」
 茉莉は、「どうせ夢だし」と素直な印象を口にした。
「目が覚めたら目の前にこんな、夢みたいに素敵な人がいるなんて、絶対に夢でしかないと思いましたね」
「良かった!」
 ハリエットはまた私の手を取る。
「神話によるとね、この世界に来たあなたを見つけてくれた人は、あなたの運命の人なのよ」
「えっ!?」
茉莉は、思わずアレクサンダーの方を向いてしまう。泣きはらした顔を見せたくないと思っていたのも無駄になった。
 しかし、アレクサンダーは顔を真っ赤にして、左手で自分の顔を隠していた。
 ――かわいかった。

 ハリエットは、『愛と家庭の女神のマーガレットのご加護でこの世界にやってくることになってしまった女性には、その女性の理想ともいえる外見・内面の男性が用意されている』というようなことを茉莉に説明した。
「今までの女性たちは、どうだったんですか!」
 茉莉は、嘘だろうと思うのが9割、本当だったらいいなというのが1割くらいの気持ちで質問をする。
「今までのマーガレットの娘たちはみんな、第一発見者の男性と幸せになっていると言い伝えられているわ。前回にそちらからやってきた『娘』――とはいえ男性で、男色の方だったんだけど。その方の第一発見者は男色家で!その二人も幸せに暮らしているらしいわよ」
本当かよ!?という思いの方が強くなってしまった。いや、本当なら本当に素晴らしいのだが、なんでもアリだ。
これだけなんでもアリなんだから、まだこれは夢の可能性も捨てたもんじゃないと茉莉は考える。
「この世界で男色、というか同性愛というのは一般的なものなのですか」
「一般的って?」
「あ、例えば異性を愛するのが当たり前とか…」
「あらやだ、愛する人に性別なんて関係ないじゃない。気にする人なんているの?」
「……私の世界にはいたんですよ」
 ハリエットもアレクサンダーも、不思議なことを言われたような表情になっている。茉莉は、ハリエット達がクラシックな服装をしているから、考え方も茉莉の世界の古い考えを適用してしまったが、むしろ先を行っているような気がする。それとも何か根本的に倫理観的なものが違うのかもしれないので、先入観を取り払わないといけないと、自分を戒める。
 しかし、茉莉が気になったのは「同性愛が当たり前か」とかいうことではない。茉莉個人は、誰が性的に魅力を感じるのがどの性別でも、自分が恋した相手のこと以外は気にはならない。気になっていたのは、茉莉の知る世界の3つ隣のこの世界が、案外茉莉のいた元の世界――まだ夢だということはあきらめてはいないけれど――と変わらないのに、たかだか60年の間に一人の性的指向で『隠していたものを隠さないようにするのが普通にする』ようになるほど影響が強い立場になってしまっていたらどうしようかと思ったのだ。
「いい世界ですね」
「世界っていうか、カレドニアは昔からこうなのよね」
 また、湯気が出るような温かい茶をつぎながら、他の国からカレドニアに移住してくる男性同士、女性同士のカップルもいるとハリエットは語る。
「いや、私が気になったのは性的指向がどうこうというのよりもですね…なんか、転移してきた人間が、この世界に何か大きい影響を与えてしまうとちょっと責任重大だなあと……」
 こんなことをいうのは自意識過剰な気がして恥ずかしい気がすると茉莉は付け加えたが、ハリエットは知らない場所のことだから心配よね、と理解してくれた。
「責任ねえ…。特にないけど、結婚式を神殿でしてもらうことくらいかなあ。あと、毎年のマーガレットの生誕祭には出てきてもらうことが望ましいみたいだけど」
 そのくらいなら神社の巫女さんのバイトみたいなことをするようなものだろうか、と茉莉が考えたところで、アレクサンダーが咳ばらいをした。
 ここで茉莉はアレクサンダーのことをようやく思い出した。
「あの、運命の相手というのは、私にとっての運命の相手なだけでなく、今回の場合……アレクサンダーにとってもそういうことになるんでしょうか」
「そうじゃなければ二人して『ずっと幸せに暮らしました』っておとぎ話にはならないわよ!」
 明るく、嬉しそうなハリエットとは対照的に、アレクサンダーが下を向いてしまう。
「アレクサンダーは…下を向いているけど…」
 赤くなった顔を隠そうとしてアレクサンダーが下を向いただろうことは大体気づいていても、茉莉はあえて口にだす。
「問題など、どこにもありません!」
 アレクサンダーは、下を向いたままではあったが力強く言い切った。茉莉の左手を握っていた彼の右手に力も加わった。
 そのアレクサンダーが、耳まで赤くしているのが見えて、茉莉はなんとなく安心した。とりあえずこちらでも、少なくともしばらくの間は自分の味方になってくれそうな人たちがいるのだ。
 これが本当に夢でなくて、今までの自分の生活に戻れなかったとしても、なんとかやっていけるような道筋があるというのは少しだけ安心できる材料だった。
「多分、こちらの世界についてはいろいろお伺いしないといけないことがたくさんあると思います。よろしくご教示ください」
 茉莉はハリエットとアレクサンダー、二人に向かって頭を下げる。これからどのくらい世話になるのか――迷惑になるのかわかったものではない。
「いいのよ、気にしないで。マリは今日からしばらくはうちに住んでちょうだい。あと、その部屋の隣にはアレクサンダーの部屋も用意するわね」
 茉莉は、住むところと、食べるところに困らないことはありがたい。だが、アレクサンダーも隣の部屋に、というのだけはさすがに驚いた。
「二人で仲良くしてちょうだい」
 どう考えても「仲良く」にセックスを含む、という顔の笑顔のハリエットに、「この世界に貞操観念という言葉はあるか」と聞いてしまい、早速大笑いをされた。

 この世界でも、「貞操観念」というような考え方がないわけではないらしい。処女が「好きな人に捧げたい」だとか、「結婚したからこれからは妻一筋」だとかいう程度のもので、決まった相手を作らないような人も、節度を守っていればそこまで非難されることはないらしい。そしてこのカレドニアでは一夫一妻制、離婚・再婚も可、婚前交渉的なものも一般的ということだった。
「だから大丈夫!」
「何が大丈夫なんですかね!?」
 茉莉は、先ほどとは違う意味で混乱をしている。
明るいハリエットと、照れて下を向くアレクサンダー。これはどちらが「普通」なのか。
 他の人たちと話す機会を作る必要があるのは間違いない。
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