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3つ隣の世界(1)
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気が付いたら、誰かに抱えられているような気がする。
「神よ…!」
……いや、そんなことを言われても、思い当たるふしがない。
茉莉は薄目を開けて周りの気配を探る。
あの男――マットが、階段から落ちた茉莉を助けに来たのかと言えばどうそうではない。声が違う。そして階段から落ちたにしては体の痛みもない。そしてあたりは明るくて草の匂いがしている。そもそも階段から落ちたのは金曜日、仕事が終わってから。あたりはもう暗くなっていた。なぜ外は青空なんだろう?と茉莉は眉間に皺を寄せながら目を開ける。
茉莉の目に飛び込んできたのは、彼女を心配そうに見つめる男性の、水色の瞳だった。湖のような瞳に吸い込まれそうだった。
そして茉莉は「これは夢だな」と思う。階段から落ちて頭を強打して、意識不明になっているのかもしれない。ひょっとしたら脳挫傷で、しばらく麻酔をかけられて眠らされているのかも。
彫りの深い顔立ちに青い目で、まつ毛がうらやましいくらい長くて、黒目…いや青目か?も大きい。好みのルックスで、なぜか目が離せない。そんなイケメンが目の前に突然現れるなんて、夢としか思えない。そう茉莉は考えた。
目を開けたら好みの見た目のイケメンがいる。いい夢じゃないか。
「気が付きましたか。マリー…マリ嬢」
青年は、なぜか茉莉の名前を知っていた。やはり夢か、と思い茉莉はあたりを見回す。深い緑が広がる丘の中の木陰にいるようだった。
青い空に、心地よい風も吹いている。
茉莉は、以前訪れたひたち海浜公園のネモフィラの丘を思い出した。「死ぬならこんな景色を見ながら死にたい」と思ったのだ。
三途の川へ向かって歩き出してでもいるということかな、と茉莉は考える。
しかし彼女を抱き上げている男性の腕の温かさが、生命を感じさせる。
「あなたがここに来るという神託がありました。私はアレクサンダーと申します。お迎えに上がりました」
湖のような瞳を持つ青年が、想像もつかないようなことを口にする。
……神託?このご時世に?
それを聞いて、茉莉はこれはやはり夢だろうなと考えた。
茉莉からの返事はないが、アレクサンダーは茉莉を抱えたまま立ち上がる。
茉莉は身長が168cmあって、太ってこそいないが決して細いほうではないので、「君、力があるね!?」とぎょっとした。心の中が茉莉の表情に現れたのを見て、アレクサンダーは微笑んだ。そして茉莉の顔にかかっている髪を払った。
「あなたの荷物はすでに車に運んであります。ご安心ください」
「あ、ありがとうございます」
茉莉は、アレクサンダーに言われるまで自分の荷物のことをすっかり忘れていた。しかし、荷物もないよりはあった方が良い。しかし何を持っていたか?と考えてしまう。とりあえずは、巻いたままだったお気に入りのストールはまだあったので、それがあっただけでも安心する。
アレクサンダーが言った「車」というのは、茉莉の知っている自動車とは見た目がかなり違った。茉莉からすると「クラシックカー」という見た目だったが、乗ってみると茉莉の知っている自動車とさほど違いはない。
茉莉が乗せられたのは後部座席で、アレクサンダーが車の運転をしている。
外を見ていると、丘にはちらほら羊やら馬やら、集落なども見える。茉莉は、昔行ったことがあるイギリスの田舎のような風景を思い出していた。きっとそういう舞台の夢なんだろうと考える。
そしてやってきた眠気に逆らわず、そのまま目を閉じた。
次に目が覚めたら、道路上か、救急車か、病室か……。
茉莉は、目が覚めたらどこかのお屋敷と言った風情の建物に到着していた。目が覚めたら、私の知っている日本…具体的には病院だったりとか、救急車だったりとかの景色が出てくるだろうと思っていたので、ひどく驚いた。
私は夢の中でも眠るのか、寝汚いなあ…と茉莉はふっと目を伏せる。
自動車を停めて、後部座席のドアを開けに来たアレクサンダーをきちんと観察することにする。茉莉は、この夢は面白いので、目が覚めたら誰かに話せるように、覚えていられるように頑張ろうと考えた。
茉莉は、ドアを開けてくれたアレクサンダーの隣に立って頭を下げる。彼は茉莉より15cmほど大きいのだろうか。彼の顎あたりに茉莉の目線がある。
アレクサンダーは黒といっていいほど濃い茶色の髪に青い目で、目の光彩が大きくて、愛嬌のある目元をしている。彫りの深い顔立ちにもうっすら目元のしわが見えるので、20代後半だろうか。30歳手前くらい、ほぼ同年代ではないかと茉莉は予想を付ける。
アレクサンダーが着ている服は、茉莉の知識とすり合わせてみるとやっぱり、形は古い感じがする。どこかの映画で見たことがあるような軍服といったような、襟が高い、ナポレオンコート風の黒のジャケットだ。
「ここは領主の屋敷です。彼女から、色々ご説明をさせていただくことになります…」
茉莉は、アレクサンダーから少し歯切れの悪い説明を受けながら屋敷の中に入る。
屋敷の中はこれも茉莉の知っている「イギリスのお屋敷」というような建物だった。玄関の先には広間があって、そこに階段がある。
そこから、アレクサンダーの案内で客間に通されたときにはすでに中に女性がいた。茉莉が知っている「現代」よりはだいぶ古い時代の女性の服だ。スカートが床につくほど長いワンピースのウェストをくっと締めたようなスタイルで、ドレスとシャネルスーツの中間の時代のものを思い出す。
私は最近そんな時代の映画を見ただろうか?と茉莉は心の中で首をひねる。
「こんにちは、マリ嬢。それともタマキさんとお呼びしたほうが良い?」
かなり大柄な女性が、茉莉に向かって両腕を広げてハグしようとしてくる。
今のところは感じが悪い人でもないので、茉莉も拒否はしない。この大柄な女性は、ヒールのある靴を履いているようだけれども、それにしても大きい。彼女も茉莉より15cmほど大きそうで、アレクサンダーと同じくらいの身長に感じられる。
赤毛の白人の女性で、とてもにこやかだ。40代半ばくらいか…と茉莉は見当をつける。
「私はハリエット・ゴードンと言います。ここダンフリーズも領地としている伯爵家のものです。あなたはニホンという国から来たのよね?」
「はい。私は日本から来ました。日本人です」
まさか外国語の教科書や会話集以外で「私は日本人です」なんて言うシチュエーションがあるとは!と、茉莉は面白くなってきた。
「マリでもタマキでも、呼びやすいほうでお願いします」
「ありがとう。じゃあマリと呼ばせていただくわ。私のことはハリエットと呼んで」
「レディ・ハリエット…?」
レディと呼ぶので合っているのだろうか。貴族の敬称なんてわからない。
「ただのハリエットで」
「ハリエット」
ハリエットの押しが強い。茉莉は、ホームステイ先のおばちゃんをファーストネームで呼ぶようなものか…と割り切ることにする。
「じゃあマリ、座ってちょうだい。お茶も持ってくるわ。コーヒーがいい?」
「ありがとうございます。お茶をいただけますか?」
「お茶ね!」
ハリエットが満面の笑みを浮かべる。彼女はコーヒーは好きではないのだろうか。まあイギリスっぽい世界だ、それでも不思議はない。
「アレクサンダーも座ってちょうだい」
アレクサンダーは私に、長椅子の左側に座るように促し、彼は私の右側に座る。
その様子を見てハリエットはよくわからないがまたにっこりと、機嫌が良さそうに笑う。まあ機嫌が悪い顔を見るよりは何倍もマシではあるが、その笑顔の理由は何なのかが気になって仕方がない。
イギリスのお屋敷のメイドさんっていう感じの方がお茶を持ってきて、ハリエットがお茶を注いでくれた。いい香りだ。砂糖を入れて、少し冷ましてから口を付けた。ダージリンかな?
私が口をつけたのを見て、ハリエットが私の向かい側に座って、話を始める。
「ではまず――カレドニアへようこそ、マリ。この世界は、あなたが住んでいた日本がある世界の、3つ隣の世界だと考えてください」
「…3つ隣の世界」
よくわからないので繰り返してしまう。3つ隣の国ならわからないでもないけれど。
ハリエットは、穏やかな微笑みを絶やさないままに話を続ける。
「その辺についてはおいおい。この国、カレドニアの伝説の初代国王夫妻、創生神のジェームスの妻で愛の女神のマーガレットは60年に一度、マーガレットの話し相手を求めて、異世界から一人、誰かを召喚するという言い伝えがあります。その話し相手に選ばれたのがあなたです」
召喚。……今、召喚って言った?
茉莉は、頭に血が上っているのか、それとも下がっているのか、ひどい眩暈がしてきた。
「3つ隣の世界……召喚……」
自分の頭が重すぎる。支えていられなくなる。
「マリ嬢、大丈夫ですか」
隣のアレクサンダーが茉莉を抱きしめてくる。頭を支えてもらえるので楽だ、と思った程度で、茉莉には拒絶感などはなかった。あったとしても、それどころではなかったかもしれない。
「あなたは、この世界に転移してきたの」
ハリエットの言葉に現実味はない。
「私は……地球の、日本に住んでいて……」
「地球はこの世界でも同じ惑星よ。だけど、日本という国は別の名前ね。『日出国』と言うの」
「聖徳太子かよ…!」
おっと、領主さまの前で言葉が汚い、と一瞬思ったが、やはりそれどころではない。
でも、こんな話を聞いて気が動転しているんだ。言葉が汚いくらいがなんだ。
「…これは、夢よね?」
「夢じゃないの。あなたはこちらの世界に転移してきたの。――そういう運命だったの。こちらの世界からしたら、なのだけど。私たちの伝説では」
「転移?…それが本当なら、拉致みたいなものじゃない」
ハリエットは一瞬言葉を詰まらせたが、固くなった声で話をつづけた。
「あなたの人生は、向こうでも続いています。こちら側に来たあなたの影だけは向こうに残ると言われています」
「えっ」
それこそ、今なんて言った?
「私の影は向こうに残る?」
「そう。あなたはいなくなったことにはならない」
ハリエットの口調は柔らかいけれど、声は固い。
「だから、あなたの世界には戻れない」
茉莉は「よくできた夢だな」と頭の片隅では思っているが、「あなたの世界には戻れない」という言葉が胸にしみこみつつも、頭の中を滑っていく。
「嘘でしょう」
茉莉は、アレクサンダーの腕の中でつぶやいた。アレクサンダーの腕の中で、言葉になり切らない思いが涙となって溢れだす。
「夢でしょう?私の積み上げてきたものは全部、その影に奪われたっていうの?お母さんにもお父さんにも、もう会えないの?私の人生は何だと思われているの。神様のおもちゃなの?」
茉莉は、思いついたことばを端から口に出していく。茉莉も成人して久しいが、こんな時に甘えたい先が親しかいないのも寂しいのかな、とも思う。しかし、影が向こうに残っているということは、茉莉自身がそれなりに築いてきた人生を他人に乗っ取られたようなものだ。「元の世界に戻れない」ということよりもそれが何より悔しかった。
「夢なんじゃないの…?夢でしょう…?」
茉莉は、現在が夢だということは諦めない。しかし、茉莉を強く抱きしめるアレクサンダーから伝わってくる温かさから、これは現実だとも言われているような不思議な気持ちになってくる。
彼は生きているんだ。そして私も生きている。だけど、ここにいる誰も、夢だって言ってくれない。
茉莉は悲しみというよりも、混乱で涙が止まらない。
私は独りぼっちだ。
「神よ…!」
……いや、そんなことを言われても、思い当たるふしがない。
茉莉は薄目を開けて周りの気配を探る。
あの男――マットが、階段から落ちた茉莉を助けに来たのかと言えばどうそうではない。声が違う。そして階段から落ちたにしては体の痛みもない。そしてあたりは明るくて草の匂いがしている。そもそも階段から落ちたのは金曜日、仕事が終わってから。あたりはもう暗くなっていた。なぜ外は青空なんだろう?と茉莉は眉間に皺を寄せながら目を開ける。
茉莉の目に飛び込んできたのは、彼女を心配そうに見つめる男性の、水色の瞳だった。湖のような瞳に吸い込まれそうだった。
そして茉莉は「これは夢だな」と思う。階段から落ちて頭を強打して、意識不明になっているのかもしれない。ひょっとしたら脳挫傷で、しばらく麻酔をかけられて眠らされているのかも。
彫りの深い顔立ちに青い目で、まつ毛がうらやましいくらい長くて、黒目…いや青目か?も大きい。好みのルックスで、なぜか目が離せない。そんなイケメンが目の前に突然現れるなんて、夢としか思えない。そう茉莉は考えた。
目を開けたら好みの見た目のイケメンがいる。いい夢じゃないか。
「気が付きましたか。マリー…マリ嬢」
青年は、なぜか茉莉の名前を知っていた。やはり夢か、と思い茉莉はあたりを見回す。深い緑が広がる丘の中の木陰にいるようだった。
青い空に、心地よい風も吹いている。
茉莉は、以前訪れたひたち海浜公園のネモフィラの丘を思い出した。「死ぬならこんな景色を見ながら死にたい」と思ったのだ。
三途の川へ向かって歩き出してでもいるということかな、と茉莉は考える。
しかし彼女を抱き上げている男性の腕の温かさが、生命を感じさせる。
「あなたがここに来るという神託がありました。私はアレクサンダーと申します。お迎えに上がりました」
湖のような瞳を持つ青年が、想像もつかないようなことを口にする。
……神託?このご時世に?
それを聞いて、茉莉はこれはやはり夢だろうなと考えた。
茉莉からの返事はないが、アレクサンダーは茉莉を抱えたまま立ち上がる。
茉莉は身長が168cmあって、太ってこそいないが決して細いほうではないので、「君、力があるね!?」とぎょっとした。心の中が茉莉の表情に現れたのを見て、アレクサンダーは微笑んだ。そして茉莉の顔にかかっている髪を払った。
「あなたの荷物はすでに車に運んであります。ご安心ください」
「あ、ありがとうございます」
茉莉は、アレクサンダーに言われるまで自分の荷物のことをすっかり忘れていた。しかし、荷物もないよりはあった方が良い。しかし何を持っていたか?と考えてしまう。とりあえずは、巻いたままだったお気に入りのストールはまだあったので、それがあっただけでも安心する。
アレクサンダーが言った「車」というのは、茉莉の知っている自動車とは見た目がかなり違った。茉莉からすると「クラシックカー」という見た目だったが、乗ってみると茉莉の知っている自動車とさほど違いはない。
茉莉が乗せられたのは後部座席で、アレクサンダーが車の運転をしている。
外を見ていると、丘にはちらほら羊やら馬やら、集落なども見える。茉莉は、昔行ったことがあるイギリスの田舎のような風景を思い出していた。きっとそういう舞台の夢なんだろうと考える。
そしてやってきた眠気に逆らわず、そのまま目を閉じた。
次に目が覚めたら、道路上か、救急車か、病室か……。
茉莉は、目が覚めたらどこかのお屋敷と言った風情の建物に到着していた。目が覚めたら、私の知っている日本…具体的には病院だったりとか、救急車だったりとかの景色が出てくるだろうと思っていたので、ひどく驚いた。
私は夢の中でも眠るのか、寝汚いなあ…と茉莉はふっと目を伏せる。
自動車を停めて、後部座席のドアを開けに来たアレクサンダーをきちんと観察することにする。茉莉は、この夢は面白いので、目が覚めたら誰かに話せるように、覚えていられるように頑張ろうと考えた。
茉莉は、ドアを開けてくれたアレクサンダーの隣に立って頭を下げる。彼は茉莉より15cmほど大きいのだろうか。彼の顎あたりに茉莉の目線がある。
アレクサンダーは黒といっていいほど濃い茶色の髪に青い目で、目の光彩が大きくて、愛嬌のある目元をしている。彫りの深い顔立ちにもうっすら目元のしわが見えるので、20代後半だろうか。30歳手前くらい、ほぼ同年代ではないかと茉莉は予想を付ける。
アレクサンダーが着ている服は、茉莉の知識とすり合わせてみるとやっぱり、形は古い感じがする。どこかの映画で見たことがあるような軍服といったような、襟が高い、ナポレオンコート風の黒のジャケットだ。
「ここは領主の屋敷です。彼女から、色々ご説明をさせていただくことになります…」
茉莉は、アレクサンダーから少し歯切れの悪い説明を受けながら屋敷の中に入る。
屋敷の中はこれも茉莉の知っている「イギリスのお屋敷」というような建物だった。玄関の先には広間があって、そこに階段がある。
そこから、アレクサンダーの案内で客間に通されたときにはすでに中に女性がいた。茉莉が知っている「現代」よりはだいぶ古い時代の女性の服だ。スカートが床につくほど長いワンピースのウェストをくっと締めたようなスタイルで、ドレスとシャネルスーツの中間の時代のものを思い出す。
私は最近そんな時代の映画を見ただろうか?と茉莉は心の中で首をひねる。
「こんにちは、マリ嬢。それともタマキさんとお呼びしたほうが良い?」
かなり大柄な女性が、茉莉に向かって両腕を広げてハグしようとしてくる。
今のところは感じが悪い人でもないので、茉莉も拒否はしない。この大柄な女性は、ヒールのある靴を履いているようだけれども、それにしても大きい。彼女も茉莉より15cmほど大きそうで、アレクサンダーと同じくらいの身長に感じられる。
赤毛の白人の女性で、とてもにこやかだ。40代半ばくらいか…と茉莉は見当をつける。
「私はハリエット・ゴードンと言います。ここダンフリーズも領地としている伯爵家のものです。あなたはニホンという国から来たのよね?」
「はい。私は日本から来ました。日本人です」
まさか外国語の教科書や会話集以外で「私は日本人です」なんて言うシチュエーションがあるとは!と、茉莉は面白くなってきた。
「マリでもタマキでも、呼びやすいほうでお願いします」
「ありがとう。じゃあマリと呼ばせていただくわ。私のことはハリエットと呼んで」
「レディ・ハリエット…?」
レディと呼ぶので合っているのだろうか。貴族の敬称なんてわからない。
「ただのハリエットで」
「ハリエット」
ハリエットの押しが強い。茉莉は、ホームステイ先のおばちゃんをファーストネームで呼ぶようなものか…と割り切ることにする。
「じゃあマリ、座ってちょうだい。お茶も持ってくるわ。コーヒーがいい?」
「ありがとうございます。お茶をいただけますか?」
「お茶ね!」
ハリエットが満面の笑みを浮かべる。彼女はコーヒーは好きではないのだろうか。まあイギリスっぽい世界だ、それでも不思議はない。
「アレクサンダーも座ってちょうだい」
アレクサンダーは私に、長椅子の左側に座るように促し、彼は私の右側に座る。
その様子を見てハリエットはよくわからないがまたにっこりと、機嫌が良さそうに笑う。まあ機嫌が悪い顔を見るよりは何倍もマシではあるが、その笑顔の理由は何なのかが気になって仕方がない。
イギリスのお屋敷のメイドさんっていう感じの方がお茶を持ってきて、ハリエットがお茶を注いでくれた。いい香りだ。砂糖を入れて、少し冷ましてから口を付けた。ダージリンかな?
私が口をつけたのを見て、ハリエットが私の向かい側に座って、話を始める。
「ではまず――カレドニアへようこそ、マリ。この世界は、あなたが住んでいた日本がある世界の、3つ隣の世界だと考えてください」
「…3つ隣の世界」
よくわからないので繰り返してしまう。3つ隣の国ならわからないでもないけれど。
ハリエットは、穏やかな微笑みを絶やさないままに話を続ける。
「その辺についてはおいおい。この国、カレドニアの伝説の初代国王夫妻、創生神のジェームスの妻で愛の女神のマーガレットは60年に一度、マーガレットの話し相手を求めて、異世界から一人、誰かを召喚するという言い伝えがあります。その話し相手に選ばれたのがあなたです」
召喚。……今、召喚って言った?
茉莉は、頭に血が上っているのか、それとも下がっているのか、ひどい眩暈がしてきた。
「3つ隣の世界……召喚……」
自分の頭が重すぎる。支えていられなくなる。
「マリ嬢、大丈夫ですか」
隣のアレクサンダーが茉莉を抱きしめてくる。頭を支えてもらえるので楽だ、と思った程度で、茉莉には拒絶感などはなかった。あったとしても、それどころではなかったかもしれない。
「あなたは、この世界に転移してきたの」
ハリエットの言葉に現実味はない。
「私は……地球の、日本に住んでいて……」
「地球はこの世界でも同じ惑星よ。だけど、日本という国は別の名前ね。『日出国』と言うの」
「聖徳太子かよ…!」
おっと、領主さまの前で言葉が汚い、と一瞬思ったが、やはりそれどころではない。
でも、こんな話を聞いて気が動転しているんだ。言葉が汚いくらいがなんだ。
「…これは、夢よね?」
「夢じゃないの。あなたはこちらの世界に転移してきたの。――そういう運命だったの。こちらの世界からしたら、なのだけど。私たちの伝説では」
「転移?…それが本当なら、拉致みたいなものじゃない」
ハリエットは一瞬言葉を詰まらせたが、固くなった声で話をつづけた。
「あなたの人生は、向こうでも続いています。こちら側に来たあなたの影だけは向こうに残ると言われています」
「えっ」
それこそ、今なんて言った?
「私の影は向こうに残る?」
「そう。あなたはいなくなったことにはならない」
ハリエットの口調は柔らかいけれど、声は固い。
「だから、あなたの世界には戻れない」
茉莉は「よくできた夢だな」と頭の片隅では思っているが、「あなたの世界には戻れない」という言葉が胸にしみこみつつも、頭の中を滑っていく。
「嘘でしょう」
茉莉は、アレクサンダーの腕の中でつぶやいた。アレクサンダーの腕の中で、言葉になり切らない思いが涙となって溢れだす。
「夢でしょう?私の積み上げてきたものは全部、その影に奪われたっていうの?お母さんにもお父さんにも、もう会えないの?私の人生は何だと思われているの。神様のおもちゃなの?」
茉莉は、思いついたことばを端から口に出していく。茉莉も成人して久しいが、こんな時に甘えたい先が親しかいないのも寂しいのかな、とも思う。しかし、影が向こうに残っているということは、茉莉自身がそれなりに築いてきた人生を他人に乗っ取られたようなものだ。「元の世界に戻れない」ということよりもそれが何より悔しかった。
「夢なんじゃないの…?夢でしょう…?」
茉莉は、現在が夢だということは諦めない。しかし、茉莉を強く抱きしめるアレクサンダーから伝わってくる温かさから、これは現実だとも言われているような不思議な気持ちになってくる。
彼は生きているんだ。そして私も生きている。だけど、ここにいる誰も、夢だって言ってくれない。
茉莉は悲しみというよりも、混乱で涙が止まらない。
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