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港区のタワーマンションは、朝の光を淡く返しながら静まり返っていた。
昨夜の殺人現場とは思えないほど乾いた空気が、楓の頬を冷たく撫でた。
恭吾が警備員に身分証を示し、楓はその背に続いた。
エントランスの自動ドアが開くと同時に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
それは温度や匂いの変化ではない。
空気の“揺れ”だけが、肌を薄く擦るように伝わってくる感覚だった。
足が自然と止まり、楓は無意識に息を押し殺した。
「秋本?」
「……大丈夫です」
返事はできたが、胸のざわつきはおさまらない。
エレベーターの鏡に映った自分の顔が少し青く見えた。
十九階のボタンが光ると、胸の震えがまた強まった。
「しんどいなら言え」
「いえ……、行けます」
楓は息を整えたが、胸奥はどうしても静まらない。
まるで“あそこへ行け”と告げられているようだった。
十九階の扉が開いた瞬間、さらに冷えた空気が楓を包んだ。
誰もいないはずの廊下に、昨夜“何者か”が歩いた痕跡が薄い影となって漂っていた。
(……ここだ)と胸が訴える。
自分でも理由は分からなかった。
「秋本」
恭吾の視線が楓の顔色を探るように動いた。
「無理なら待ってろ」
「大丈夫です。行きます」
事件現場の扉の前には、封鎖テープの端がまだ残っていた。
恭吾が手袋をはめ、無言でドアを押し開ける。
楓はその背に続き、敷居をまたいだ瞬間、胸の奥が冷たく締めつけられるのを感じた。
(ここに──)
リビングは清掃が終わり、家具も整っていた。
だが空気の中心だけが薄く“歪んで”いる。
その歪みは、楓の鼓動と同じリズムで揺れていた。
「秋本?」
「……息が、少し……」
楓は胸元に手を添え、呼吸を整えようとした。
その瞬間、視界の端で“銀色”が揺れた気がした。
気のせいだといえば、それまでのことだった。
(誰かが……、いた)
楓の身体が震えた。
恐怖とは違う震え。
胸の奥の深い場所が“知っている”と告げてくる感覚だった。
現場中央に残された“痕跡”に恭吾はゆっくり近づいた。
鑑識が示した位置には、血の跡こそなかったが、床材が円を描くようにわずかに変色している。
焼けたようでいて、溶けたわけでもない。不自然に滑らかな断裂の痕。
人間の力では作れない種類の破壊だと、直感だけが告げていた。
「……やっぱりおかしいな。これ」
恭吾はしゃがみ込み、指先をかざして断裂面を見つめた。
工具痕ではない。
刃でもない。
だとすれば何だ。
背後で楓が息を呑む音がした。
「秋本、こっち来てみろ」
呼ぶ声に振り向いた楓は、驚くほど顔色が悪かった。
「顔、真っ青だぞ。無理すんなって言っただろ」
「……すみません。でも、大丈夫です」
言う割には膝が震えている。
恭吾は眉を寄せ、彼女の足下へ視線を落とした。
楓のつま先が、まるで“何かを避けるように”微妙に方向を変えているのが見えた。
(……避けてる。こいつ、何か感じてるのか)
刑事としての勘が警鐘を鳴らす。
楓の視界の真ん中がゆらゆらと揺らいでいる。
空気が歪むだけでなく、胸の奥の深い位置が熱でも冷たさでもない“痺れ”で満たされていく。
断裂面のそばに立つと、世界の奥で何かが擦れる音がした気がした。
(……来た。違う。戻った……?)
言葉にならない感覚が、まるで古い記憶の膜を押し上げてくるようだった。
視界の端で“銀色”が揺れる。
暗い部屋。幼い自分の手を掴む細い指。
フラッシュのように、声が耳の奥で反響した。
──No.12(トゥエルブ)。
「っ……」
胸がつぶれるような痛みに楓は思わず壁に手をついた。
「秋本!」
恭吾が肩を支えようと近づいてきた瞬間、痺れがさらに強まる。
この部屋のどこかに、彼がいた。
彼──No.13(サーティー)。
楓の喉から微かな息が漏れた。
(……見られていた。探されていた。私、を……?)
問いの形をとる前に、胸奥がまた波打つ。
楓は声を絞り出すように言った。
「……ここ、怖い……」
震えているのは身体ではなく、記憶の奥だった。
昨夜の殺人現場とは思えないほど乾いた空気が、楓の頬を冷たく撫でた。
恭吾が警備員に身分証を示し、楓はその背に続いた。
エントランスの自動ドアが開くと同時に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
それは温度や匂いの変化ではない。
空気の“揺れ”だけが、肌を薄く擦るように伝わってくる感覚だった。
足が自然と止まり、楓は無意識に息を押し殺した。
「秋本?」
「……大丈夫です」
返事はできたが、胸のざわつきはおさまらない。
エレベーターの鏡に映った自分の顔が少し青く見えた。
十九階のボタンが光ると、胸の震えがまた強まった。
「しんどいなら言え」
「いえ……、行けます」
楓は息を整えたが、胸奥はどうしても静まらない。
まるで“あそこへ行け”と告げられているようだった。
十九階の扉が開いた瞬間、さらに冷えた空気が楓を包んだ。
誰もいないはずの廊下に、昨夜“何者か”が歩いた痕跡が薄い影となって漂っていた。
(……ここだ)と胸が訴える。
自分でも理由は分からなかった。
「秋本」
恭吾の視線が楓の顔色を探るように動いた。
「無理なら待ってろ」
「大丈夫です。行きます」
事件現場の扉の前には、封鎖テープの端がまだ残っていた。
恭吾が手袋をはめ、無言でドアを押し開ける。
楓はその背に続き、敷居をまたいだ瞬間、胸の奥が冷たく締めつけられるのを感じた。
(ここに──)
リビングは清掃が終わり、家具も整っていた。
だが空気の中心だけが薄く“歪んで”いる。
その歪みは、楓の鼓動と同じリズムで揺れていた。
「秋本?」
「……息が、少し……」
楓は胸元に手を添え、呼吸を整えようとした。
その瞬間、視界の端で“銀色”が揺れた気がした。
気のせいだといえば、それまでのことだった。
(誰かが……、いた)
楓の身体が震えた。
恐怖とは違う震え。
胸の奥の深い場所が“知っている”と告げてくる感覚だった。
現場中央に残された“痕跡”に恭吾はゆっくり近づいた。
鑑識が示した位置には、血の跡こそなかったが、床材が円を描くようにわずかに変色している。
焼けたようでいて、溶けたわけでもない。不自然に滑らかな断裂の痕。
人間の力では作れない種類の破壊だと、直感だけが告げていた。
「……やっぱりおかしいな。これ」
恭吾はしゃがみ込み、指先をかざして断裂面を見つめた。
工具痕ではない。
刃でもない。
だとすれば何だ。
背後で楓が息を呑む音がした。
「秋本、こっち来てみろ」
呼ぶ声に振り向いた楓は、驚くほど顔色が悪かった。
「顔、真っ青だぞ。無理すんなって言っただろ」
「……すみません。でも、大丈夫です」
言う割には膝が震えている。
恭吾は眉を寄せ、彼女の足下へ視線を落とした。
楓のつま先が、まるで“何かを避けるように”微妙に方向を変えているのが見えた。
(……避けてる。こいつ、何か感じてるのか)
刑事としての勘が警鐘を鳴らす。
楓の視界の真ん中がゆらゆらと揺らいでいる。
空気が歪むだけでなく、胸の奥の深い位置が熱でも冷たさでもない“痺れ”で満たされていく。
断裂面のそばに立つと、世界の奥で何かが擦れる音がした気がした。
(……来た。違う。戻った……?)
言葉にならない感覚が、まるで古い記憶の膜を押し上げてくるようだった。
視界の端で“銀色”が揺れる。
暗い部屋。幼い自分の手を掴む細い指。
フラッシュのように、声が耳の奥で反響した。
──No.12(トゥエルブ)。
「っ……」
胸がつぶれるような痛みに楓は思わず壁に手をついた。
「秋本!」
恭吾が肩を支えようと近づいてきた瞬間、痺れがさらに強まる。
この部屋のどこかに、彼がいた。
彼──No.13(サーティー)。
楓の喉から微かな息が漏れた。
(……見られていた。探されていた。私、を……?)
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「……ここ、怖い……」
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