16 / 17
軛村ニテ神退治ノ事(五)
しおりを挟む
***
焚き火の前で熊吉は考え事をしていた。
もうすぐ生まれる息子の名前についてだ。
初めての子、それを思うだけで熊吉の頬が不意に緩む。若い頃に父親を亡くしていた熊吉は出来るだけ息子と一緒にいようと思っていた。
強く優しく何より幸せに育って欲しいと願い、そして熊吉自身、息子を父親として立派に育て上げねばと今まで感じたことのない気持ちに身体が熱くなる。
親になるというのはこういう事なのだな、と思った。
バチリと焚き火の爆ぜる音で現実に引き戻され、小屋の四隅を警戒する。
異常が無い事を一通り確認してから熊吉は安堵し、まだ気が早いか、と頭を掻いた。
晩秋の山の闇はとても深い。
今でこそ、この山小屋で過ごす夜に慣れたものだが猟師になりたての頃は物音がする度に熊吉の身体は自分でも驚く程に強張った。気の小さいのは生まれつきの性分でそれは仕方がないか、とため息をつく。
━山を生きて降りたければ人一倍臆病であれ。
父親から言われた言葉がずっと心に残っている、その言葉は臆病な自分への優しさだったのかもしれない。
「俺も年を取ったもんだ、おっとう、俺はもうおっとうの年を超えちまったよ。」
四十を間近に控え、白髪の混じり始めた伸びかけの坊主頭をピシャリと叩き、熊吉は温めていた酒を一口丁寧に飲んだ。
…それにしても、と熊吉は御山の不穏な空気を山に入った時から感じていたのを思い出した。
ここ最近、御山に入った他の猟師たちが口を揃えて言う、山の様子がおかしいという言葉を肌で理解したのだ。
今日までは、熊吉は気のせいだろうとタカを括っていたが彼等が言っていたのは本当だった。
猪はおろか生き物の気配すらなく、生臭く嫌な風が時折山頂の方から吹き下ろしてくる。
長い間山に入って来たがこんな事は初めてだった。もしかしたら山神の機嫌が悪いのかもしれないと熊吉は思った。
猟師達が使うこの小屋は狩場の近くに建てられていて巫女沼にも程近い場所にある。
村の者達は物心ついた頃から巫女沼には近づくなと言い聞かされて育ち、近付けるのは猟師と山神神社の神主だけだった。
小屋の周りにも腐ったような臭いが立ち込めていて熊吉は山を降りようかとも思ったが秋の日は短く、しぶしぶ予定通り熊吉は小屋に泊まることにしたのだ。
こんな事なら猟に出るんじゃなかった、と熊吉は一人ごちて窓と扉の隙間を泥で塞いで行く。 手を真っ黒にしながらこれで外の臭いが紛れる、
そう思った時外で奇妙な音が聞こえた。
今まで聞いた事の無い、不快で甲高い鳴き声のような音。
キョーキョーという奇怪な音と同時に男の叫び声が熊吉の耳にまで響いた。
断末魔と思しきその声に心臓を掴まれたような恐怖が首を擡げる。
巫女沼の方角から届いたその死が纏わり付く声に熊吉は慄いた。
一声聞いただけであれは得体の知れないものだという確信が熊吉にはあった、御山に住む獣はこんな声で鳴いたりしない。
…熊吉は葛藤した。
今すぐ助けに行かないと…しかし、もし猟銃でも歯が立たない相手だったら…
もし山神だったとしたら…
大きくなった腹を摩りながら嬉しそうに名前を考えている嫁の顔が熊吉の脳裏に浮かんだ。
「…おっかあ、すまねえ。」
銃に弾を込め、松明を掲げて熊吉は巫女沼の方へと向かった。
*
木々が炎の明かりに照らされ、吹き荒ぶ風に踊るように揺れている。
足下を取られぬ様に気をつけながら熊吉は歩みを進める。
近づき過ぎると灯りを気取られるかもしれない、不意に襲われる恐怖に足が竦むのを必死に堪えている。
沼の少し手前、森が開ける辺りで松明の炎を消した、そのまま熊吉は茂みに隠れ息を殺す。
破裂しそうな心臓の音が体内を巡っている。
暗闇に目を慣らし深呼吸を一つしてから熊吉は声の主を探した、すると沼の奥の木陰に"それ"は居た。
身の丈はそばの木の幹ほど大きく、腕とも脚とも見当がつかないものが月の光に照らされてぬらぬらと無数に蠢いている、百足のような胴体とそれに見合わぬ細い首の先に付いている頭は肥大化しているように見えた。
悍しい姿をしたそれは上半身を起こし胴体から伸びる腕で抱きしめるように固定しながら、死んだ男の頭蓋にしゃぶりついている。
熊吉は吐き気を堪えるのに必死だった、見つかれば確実に殺される。
助けてください、と行く先の無い祈りを無限に繰り返した。
*
"それ"は胴体にも付いているもう一つの口、無数の腕と脚の中心へと男の体を押し込んで行く。
首の無い男を丸飲みにしてゴリゴリと音を立て時間をかけて咀嚼すると遺体の骨、そしてそれに付いている肉片と着ていた着物を吐き出した。
それは蠅のように全ての腕を擦り合わせると満足したように巫女沼の奥の崖の方へと消えて行った。
熊吉は"あれ"が戻ってこない事を長い間地面に伏せ、注意深く確認してから亡骸へと駆け寄る。
吐き出された男の残りは滑り付く胃液のような物に覆われていて御山に漂っていた腐臭と同じ臭いがした。
ここに居ると自分も危ない、そう思った熊吉は急いで銃を背負い身元が分かるかもしれないと男の着物を持ち帰る事にした。
「…助けられなくてすまねえ。」
熊吉は男に手を合わせると明けかけていく山を転がるように下りて行った。
焚き火の前で熊吉は考え事をしていた。
もうすぐ生まれる息子の名前についてだ。
初めての子、それを思うだけで熊吉の頬が不意に緩む。若い頃に父親を亡くしていた熊吉は出来るだけ息子と一緒にいようと思っていた。
強く優しく何より幸せに育って欲しいと願い、そして熊吉自身、息子を父親として立派に育て上げねばと今まで感じたことのない気持ちに身体が熱くなる。
親になるというのはこういう事なのだな、と思った。
バチリと焚き火の爆ぜる音で現実に引き戻され、小屋の四隅を警戒する。
異常が無い事を一通り確認してから熊吉は安堵し、まだ気が早いか、と頭を掻いた。
晩秋の山の闇はとても深い。
今でこそ、この山小屋で過ごす夜に慣れたものだが猟師になりたての頃は物音がする度に熊吉の身体は自分でも驚く程に強張った。気の小さいのは生まれつきの性分でそれは仕方がないか、とため息をつく。
━山を生きて降りたければ人一倍臆病であれ。
父親から言われた言葉がずっと心に残っている、その言葉は臆病な自分への優しさだったのかもしれない。
「俺も年を取ったもんだ、おっとう、俺はもうおっとうの年を超えちまったよ。」
四十を間近に控え、白髪の混じり始めた伸びかけの坊主頭をピシャリと叩き、熊吉は温めていた酒を一口丁寧に飲んだ。
…それにしても、と熊吉は御山の不穏な空気を山に入った時から感じていたのを思い出した。
ここ最近、御山に入った他の猟師たちが口を揃えて言う、山の様子がおかしいという言葉を肌で理解したのだ。
今日までは、熊吉は気のせいだろうとタカを括っていたが彼等が言っていたのは本当だった。
猪はおろか生き物の気配すらなく、生臭く嫌な風が時折山頂の方から吹き下ろしてくる。
長い間山に入って来たがこんな事は初めてだった。もしかしたら山神の機嫌が悪いのかもしれないと熊吉は思った。
猟師達が使うこの小屋は狩場の近くに建てられていて巫女沼にも程近い場所にある。
村の者達は物心ついた頃から巫女沼には近づくなと言い聞かされて育ち、近付けるのは猟師と山神神社の神主だけだった。
小屋の周りにも腐ったような臭いが立ち込めていて熊吉は山を降りようかとも思ったが秋の日は短く、しぶしぶ予定通り熊吉は小屋に泊まることにしたのだ。
こんな事なら猟に出るんじゃなかった、と熊吉は一人ごちて窓と扉の隙間を泥で塞いで行く。 手を真っ黒にしながらこれで外の臭いが紛れる、
そう思った時外で奇妙な音が聞こえた。
今まで聞いた事の無い、不快で甲高い鳴き声のような音。
キョーキョーという奇怪な音と同時に男の叫び声が熊吉の耳にまで響いた。
断末魔と思しきその声に心臓を掴まれたような恐怖が首を擡げる。
巫女沼の方角から届いたその死が纏わり付く声に熊吉は慄いた。
一声聞いただけであれは得体の知れないものだという確信が熊吉にはあった、御山に住む獣はこんな声で鳴いたりしない。
…熊吉は葛藤した。
今すぐ助けに行かないと…しかし、もし猟銃でも歯が立たない相手だったら…
もし山神だったとしたら…
大きくなった腹を摩りながら嬉しそうに名前を考えている嫁の顔が熊吉の脳裏に浮かんだ。
「…おっかあ、すまねえ。」
銃に弾を込め、松明を掲げて熊吉は巫女沼の方へと向かった。
*
木々が炎の明かりに照らされ、吹き荒ぶ風に踊るように揺れている。
足下を取られぬ様に気をつけながら熊吉は歩みを進める。
近づき過ぎると灯りを気取られるかもしれない、不意に襲われる恐怖に足が竦むのを必死に堪えている。
沼の少し手前、森が開ける辺りで松明の炎を消した、そのまま熊吉は茂みに隠れ息を殺す。
破裂しそうな心臓の音が体内を巡っている。
暗闇に目を慣らし深呼吸を一つしてから熊吉は声の主を探した、すると沼の奥の木陰に"それ"は居た。
身の丈はそばの木の幹ほど大きく、腕とも脚とも見当がつかないものが月の光に照らされてぬらぬらと無数に蠢いている、百足のような胴体とそれに見合わぬ細い首の先に付いている頭は肥大化しているように見えた。
悍しい姿をしたそれは上半身を起こし胴体から伸びる腕で抱きしめるように固定しながら、死んだ男の頭蓋にしゃぶりついている。
熊吉は吐き気を堪えるのに必死だった、見つかれば確実に殺される。
助けてください、と行く先の無い祈りを無限に繰り返した。
*
"それ"は胴体にも付いているもう一つの口、無数の腕と脚の中心へと男の体を押し込んで行く。
首の無い男を丸飲みにしてゴリゴリと音を立て時間をかけて咀嚼すると遺体の骨、そしてそれに付いている肉片と着ていた着物を吐き出した。
それは蠅のように全ての腕を擦り合わせると満足したように巫女沼の奥の崖の方へと消えて行った。
熊吉は"あれ"が戻ってこない事を長い間地面に伏せ、注意深く確認してから亡骸へと駆け寄る。
吐き出された男の残りは滑り付く胃液のような物に覆われていて御山に漂っていた腐臭と同じ臭いがした。
ここに居ると自分も危ない、そう思った熊吉は急いで銃を背負い身元が分かるかもしれないと男の着物を持ち帰る事にした。
「…助けられなくてすまねえ。」
熊吉は男に手を合わせると明けかけていく山を転がるように下りて行った。
0
あなたにおすすめの小説
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
どうやらお前、死んだらしいぞ? ~変わり者令嬢は父親に報復する~
野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
ファンタジー
「ビクティー・シークランドは、どうやら死んでしまったらしいぞ?」
「はぁ? 殿下、アンタついに頭沸いた?」
私は思わずそう言った。
だって仕方がないじゃない、普通にビックリしたんだから。
***
私、ビクティー・シークランドは少し変わった令嬢だ。
お世辞にも淑女然としているとは言えず、男が好む政治事に興味を持ってる。
だから父からも煙たがられているのは自覚があった。
しかしある日、殺されそうになった事で彼女は決める。
「必ず仕返ししてやろう」って。
そんな令嬢の人望と理性に支えられた大勝負をご覧あれ。
私たちの離婚幸福論
桔梗
恋愛
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる