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第10話 バラの意味
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『奥様ですか?お会いしたいのですが、お時間頂けませんでしょうか?』
そう一本の電話がかかってきたのはもう秋も深まった頃だった。
相手は女で桜井麻里子と名乗った。
これはひょっとして……。
女の勘というのだろうか、用件は何となくわかる。
一応用件を問うと『ご主人のことです』と返された。
(やっぱり……)
電話では話せないと言うので外で会うことにし、指定された喫茶店へと赴いた。
(絶対……一馬の彼女だ……)
ついに全面対決だ。しかし、あの剃刀の人だとすれば……いや、十中八九そうだろうとは思っている。だけど、あの剃刀は偶然かも知れない、とも思いたい気持ちもある。
剃刀の人であれば正直に言えば怖い。こちらに一馬への愛情がないといっても相手にとっては一馬の妻でしかない。きっと憎悪の対象だ。
本当は怖い。だけど、何故か話をしなくてはと思った。
美月は指定された喫茶店の前で立ち止まる。そして深呼吸をし意を決して扉を開けると、喫茶店特有のドアベルの音がした。その音に気が付いたのか窓際に座っていた黒のスーツをきれいに着こなしたキャリアウーマン風の美女が顔を上げた。
そして女は美月に気が付くと立ち上がりお辞儀をした。
「高遠さんの奥様、ですね?」
女にそう聞かれ、美月は頷いた。
席に着くように促され、美月は店員にコーヒーを注文した。
「高遠さんと同じ部署の桜井麻里子と申します。いきなりお呼び立てして申し訳ございません」
麻里子はそう言って会釈した。
「いえ……」
この女、桜井麻里子は第一印象としては仕事の出来そうな美女、といったところだ。この人が剃刀を仕込むようなことをしたのだろうか、美月は息を飲んだ。
そして美月はコーヒーが運ばれてくるのを見計らって口を開いた。
「…………ご用件は?」
美月が切り出すと、麻里子は真っ直ぐに美月を見据えた。
麻里子は髪を少しブラウンに染めていて、毛先の方で緩くウェーブが揺れている。
肌もきめ細かくて化粧もバッチリだ。相当の女子力だし黒のスーツがまたそのスタイルの良さを際立たせている。美月はその美貌に思わず見惚れてしまった。
(キレイな人だなあ……)
などと、これから愛人と対決するかも知れない妻とは思えない感想を持ってしまった。
(それに比べて私はどうよ……)
一応化粧をしているとはいえナチュラルメイクで髪は肩より下にはここ数年伸ばしていなくて、服装も動きやすさを重視したカジュアルなもの。今日はまだ少しだけフェミニンではあるが。
自分の女子力の無さに若干自己嫌悪していると、麻里子から爆弾が落とされた。
「私、ご主人と寝たことがあります」
麻里子は睨みつけるように美月を見ている。
(やっぱり……)
美月は胸中で呟いた。それと同時に背中に冷や汗が伝う。
予想はしていたとは言え、思わず喉の奥で言葉が詰まる。
(こういう場合、どうするんだろうか?普通の妻なら憤慨か?)
「……そうですか」
やっと出た言葉がそれだった。そうとしか言えない。どう返していいのかわからない。
「何故平然としていられるんですか?ご主人と寝たって言ってるんですよ」
(え?そういう風に見える?私いっぱいいっぱいなんだけどっ!?)
冷静に装うことが得意なことが裏目に出たのか、麻里子には美月の態度が余裕があるように見えて気に食わないらしい。
「別に……そんなことはないですけど……」
顔色を変えるとかした方がいいのだろうか?などと考えていると、
「……八つ当たりでした。ごめんなさい」
と素直に謝られた。
気の強そうな容姿。そんな人からそんなに素直に謝られると何だか不思議な気分になる。というか、これは何の話だっけ?
「えっと……主人と寝たってことですよね?それは最近ですか?」
「いいえ。結婚前です」
「そうですか。なら私に責める権利はありませんし、責める気もありません。気にしないで下さい」
今度こそ本当に平然と答えた。
それは本音だ。結婚前のことまでとやかく言う気などない。
それ以前に結婚前も結婚した今も、まだ男女の関係にはなっていない。
そんな美月に何が言えるのだろう。愛のない結婚なのだから。
麻里子はどこか悔しそうに顔を歪めたが、コホンとひとつ咳払いをすると続けた。
「……それから、バラの件ですけど……」
バラ……ということはやはりこの人が一馬の言う『会社の子』だ。
その途端、背筋が凍った。覚悟はしていたことだ。きっとそうだろうとは思った。だけどあの剃刀を仕込んだ人と差し向かっている。目の前の人が途端、怖くなった。
「剃刀……私の仕業です。ごめんなさい」
「……そうでしたか……」
膝の上で握る手が震える。
正直怖い。今更それを告白してどうしたいのだろう。ただ謝罪したかっただけなのか、それとも何か裏があるのか。
「本当に申し訳ないことをしたって思ってます。あなたが怪我をしたってあの人が憤慨して……でも私にも意地があった」
そう話す麻里子の目には涙が浮かんでいる。
「あの人と関係を持ったのは一度だけ。でも私はすごくあの人が好きだったから嬉しかった。私も本気でこの人の女になれたんだって、そう思ってたのに……結婚するって……」
麻里子は涙を一筋流した。それを見た美月も胸はチクリと痛んだ。
「確かに付き合ってなかった。でもきっと何かが始まるんだって……私は他の男と切ってでもこの人とって思ってたのに……」
他に男いたんかい……?と、声に出さずに胸中でツッコむ。
「とにかく悔しくて……あとから出てきたくせにって……だから『嫉妬』の花言葉の黄色のバラにあんなこと……」
嫉妬だったのか?花言葉には疎い美月は意味を知って素直に感心してしまった。こんな場面なのにも関わらず。
「本当に好きだったから……でも私、とんでもないことをしたって今更のように後悔してしまって……」
そう言って泣く彼女を何とも言えない気持ちで美月は見る。
目の前で泣くこの彼女がかつて美月から彼氏を奪った友人とだぶる。しかし、あのときと違うのは美月がそんなつもりはなかったとは言え奪った方になるのだということ。そして奪われた方の気持ちがわかるということ。
「でもこの人も気の毒な人なんだって思ったら、どうしようもなく申し訳ない気持ちになって……だから……」
「え?」
美月は目を瞠った。
「政略結婚だって聞きました」
「ああ……」
そういうことまで知っている間柄なのか……。何か少し、胸が痛む。
「あの人言ったんです。俺には愛する人がいる。決して手に入らない人だ。君はただの身代わりだったって」
「!?」
「でもあなたじゃないですよね。だって決して手に入らない人じゃないでしょ?結婚したんだから」
「……」
「本当にごめんなさい。あのとき、私本当にどうにかしてたんです」
麻里子はそう言って頭を下げ、伝票を持って出て行った。
(……手に入らない人……?あの人じゃなくて?)
美月は一人、呆然としていた。
帰り道、美月は麻里子のことを考えながらトボトボと歩いた。
麻里子に会ったことは一馬に報告すべきなのだろうか。
本当ならば言うべきだろう。だが何となく憚られた。
涙目で話す麻里子の姿を思い出す。
(……なんか……切なくなったなあ……)
胸が詰まった。この人、本当に一馬が好きだったのだろうと。
確かに他の男と手を切る、とか聞かされたら少し呆気にとられてしまったけれど、それでも切ってでも一馬と付き合いたいと思ったってことなのだ。
確かにバラの花束に剃刀を仕込むなどとエキセントリックなことが出来てしまうタイプであるようだけれど、それほど一馬のことが好きなのだろう。
それよりも、
(本当に好きな人の身代わりにするなんて、相変わらず鬼畜だな)
そのことが気になった。
(……でもアイツにも、他の人を身代わりにしなきゃなんないくらい好きな人がいたんだ……)
尚更この結婚は間違っていたのではないか?と思う。
この結婚は政略結婚に過ぎない。愛のない結婚だ。
でも本当は愛する人がいて、でもその人とは添い遂げることが出来なくて……。
そう思うと何だか胸の奥が痛む。
(アイツはアイツで苦しんでいたのかも知れない)
嫌いな女と結婚できるほど、もうどうでもよくなっていたのかも知れない―。
きっと一馬も辛い恋をしたのかも知れない。
それによって間違ったことをしてしまったのだろう。自分を見失うくらいに。
身代わりなんてとんでもない話だけど、そんなことをしてしまうくらい好きな人ってどんな人なのだろう。
少しだけ気になった。
一馬は帰宅したが麻里子のことはまだ言っていない。
あんなことをした麻里子ではあるが、それも一馬が好きだったことが所以だ。
そこまでして好きだった人だ。それなのに『身代わり』と言われてしまった人だ。
だけど謝罪はしてくれた。そのことは言った方がいいのかも知れない。
7時半頃に帰宅した一馬と夕食を食べ、今はリビングでテレビを見ている。
一馬はリビングにノートパソコンを持ち込み、持ち帰った仕事をしている。
うるさいだろうとテレビを消そうとすると、「見てるから消すな」と言われた。
一馬は何も知らない。今日麻里子に会ったことも、『身代わり』について聞かされたことも。
テレビを見ながらチラリと一馬を見る。
テレビなんか見ている様子はない。ずっとパソコンに向き合っている。
(だったら書斎でやればいいのに……)
最近ではこうやって一緒にいることが当たり前になってきたような気がする。
残業や遅番以外は一緒に夕飯を食べる。一緒にテレビを見る。たまに一緒に買い物に行く(というよりついて来る)。
一馬は仕事を持ち帰っても書斎に篭らず今日のようにリビングで仕事したりで、どうにもいつも傍にいるような気がする。
それでも寝室は別。決して一緒に寝ようとはしない。
(……どういうつもりなのかな?)
手を出す素振りは決して見せない。
それはそれでいい。美月自身もわだかまっているから迫られると本気で拒否しそうでそれが逆に怖い。
そんな美月の心情を一馬はわかっているのだろうか。だから何もしないのだろうか。
それとも『身代わり』は他にもいるのだろうか。
あんなヤツ、好きじゃないはずなのに。
『身代わり』が他にいるかも知れないこと。迫られたら本気で拒否をしてしまうかも知れないことを危惧していること。
何故か胸が痛む。
どうしてだろう。
自分の心境の変化に、美月は戸惑いを隠せなかった。
「どうした?」
クッションを抱えたまま、何か考え込んでいる風の美月を怪訝に思ったのだろう、一馬が声をかけてきた。
「へ?」
「何かあったか?」
コイツはどうして私の感情の機微に聡いのだろう。
美月はそんなことを思い、一馬の方を向く。一馬は真剣な顔で美月を見ていた。
「……麻里子さん」
「え?」
一馬の顔色が変わった。
「麻里子さんと会った。今日」
「何されたっ!? 何で俺に言わないっ!?」
一馬は激昂した。しかし美月は平静を装った。
「何もされてない」
「じゃあなんでっ!?」
「落ち着いて」
「っ!?」
美月の声に一馬は我に返った。
「大丈夫。何もされてない。それどころか謝ってくれた」
「……」
「だから、このことはもう終わりにして。あの人を責めないで」
「美月……」
「お願い」
美月の真剣な目に一馬は首肯するしかなかった。
「……わかった」
一馬は溜息を吐いて頭を抱えた。
「……他には……」
「え?」
「他には何も言ってなかったか?」
「あんたと関係があったって言ってた」
美月ははっきりとそれを口にした。
「……そうか」
一馬は目を伏せて息を吐いた。そして顔を上げると美月を真っ直ぐに見た。
「今は何もないから」
真剣そのものの目だった。
「……」
美月は何も答えなかった。どう答えていいのかわからなかった。
そして嘘を吐いた。『身代わり』のことは聞かなかったことにした。
きっと一馬もそこのことが気になったに違いない。
今はそのことには触れずにいよう。いやこの先、そのことに触れずにいけたらと思う。
そのことに触れるとき、きっと何かが壊れるときなのかも知れない。
でも今はこのまま……なんて思う。
自分でもどういうことかわからないし、こんな感情を持ったことに対しても戸惑ってしまっているけれど。
でも、やっぱり暫くこのままでいたいと思った。
寝室に戻り、ベッドで膝を抱える。
一馬は『身代わり』を必要とするほど辛い恋をしたのだろうか。
本当に愛する人。そんな人がいるにも関わらずいろんな女性と逢瀬を重ねてきた理由はきっと、その人を忘れるため。
しかし、その人以上に愛せる人に出会えなかったのだろう。
だから親の勧めのままに愛のない結婚をし、今こうして暮らしている。
きっと妥協と諦めなんだ。
自分だって家族のための結婚だ。同じ穴の狢なのだろう。
それでもきっと家族になろうとしている。夫婦になれなくても家族にはなれる。
だから当初の発言とは違い優しくしてくれるのは、彼なりの努力なのかも知れない。
本当は女としては身代わりなんて許せることではない。だけど彼が辛い恋をし、傷つき、それ故に起こしてしまった行動だったのだとすれば?
そう思うといたたまれない。
私は一馬のこと、何一つわかっていないのかも知れない。
美月は出来るだけ一馬のことを理解したいと思い始めていた。
そう一本の電話がかかってきたのはもう秋も深まった頃だった。
相手は女で桜井麻里子と名乗った。
これはひょっとして……。
女の勘というのだろうか、用件は何となくわかる。
一応用件を問うと『ご主人のことです』と返された。
(やっぱり……)
電話では話せないと言うので外で会うことにし、指定された喫茶店へと赴いた。
(絶対……一馬の彼女だ……)
ついに全面対決だ。しかし、あの剃刀の人だとすれば……いや、十中八九そうだろうとは思っている。だけど、あの剃刀は偶然かも知れない、とも思いたい気持ちもある。
剃刀の人であれば正直に言えば怖い。こちらに一馬への愛情がないといっても相手にとっては一馬の妻でしかない。きっと憎悪の対象だ。
本当は怖い。だけど、何故か話をしなくてはと思った。
美月は指定された喫茶店の前で立ち止まる。そして深呼吸をし意を決して扉を開けると、喫茶店特有のドアベルの音がした。その音に気が付いたのか窓際に座っていた黒のスーツをきれいに着こなしたキャリアウーマン風の美女が顔を上げた。
そして女は美月に気が付くと立ち上がりお辞儀をした。
「高遠さんの奥様、ですね?」
女にそう聞かれ、美月は頷いた。
席に着くように促され、美月は店員にコーヒーを注文した。
「高遠さんと同じ部署の桜井麻里子と申します。いきなりお呼び立てして申し訳ございません」
麻里子はそう言って会釈した。
「いえ……」
この女、桜井麻里子は第一印象としては仕事の出来そうな美女、といったところだ。この人が剃刀を仕込むようなことをしたのだろうか、美月は息を飲んだ。
そして美月はコーヒーが運ばれてくるのを見計らって口を開いた。
「…………ご用件は?」
美月が切り出すと、麻里子は真っ直ぐに美月を見据えた。
麻里子は髪を少しブラウンに染めていて、毛先の方で緩くウェーブが揺れている。
肌もきめ細かくて化粧もバッチリだ。相当の女子力だし黒のスーツがまたそのスタイルの良さを際立たせている。美月はその美貌に思わず見惚れてしまった。
(キレイな人だなあ……)
などと、これから愛人と対決するかも知れない妻とは思えない感想を持ってしまった。
(それに比べて私はどうよ……)
一応化粧をしているとはいえナチュラルメイクで髪は肩より下にはここ数年伸ばしていなくて、服装も動きやすさを重視したカジュアルなもの。今日はまだ少しだけフェミニンではあるが。
自分の女子力の無さに若干自己嫌悪していると、麻里子から爆弾が落とされた。
「私、ご主人と寝たことがあります」
麻里子は睨みつけるように美月を見ている。
(やっぱり……)
美月は胸中で呟いた。それと同時に背中に冷や汗が伝う。
予想はしていたとは言え、思わず喉の奥で言葉が詰まる。
(こういう場合、どうするんだろうか?普通の妻なら憤慨か?)
「……そうですか」
やっと出た言葉がそれだった。そうとしか言えない。どう返していいのかわからない。
「何故平然としていられるんですか?ご主人と寝たって言ってるんですよ」
(え?そういう風に見える?私いっぱいいっぱいなんだけどっ!?)
冷静に装うことが得意なことが裏目に出たのか、麻里子には美月の態度が余裕があるように見えて気に食わないらしい。
「別に……そんなことはないですけど……」
顔色を変えるとかした方がいいのだろうか?などと考えていると、
「……八つ当たりでした。ごめんなさい」
と素直に謝られた。
気の強そうな容姿。そんな人からそんなに素直に謝られると何だか不思議な気分になる。というか、これは何の話だっけ?
「えっと……主人と寝たってことですよね?それは最近ですか?」
「いいえ。結婚前です」
「そうですか。なら私に責める権利はありませんし、責める気もありません。気にしないで下さい」
今度こそ本当に平然と答えた。
それは本音だ。結婚前のことまでとやかく言う気などない。
それ以前に結婚前も結婚した今も、まだ男女の関係にはなっていない。
そんな美月に何が言えるのだろう。愛のない結婚なのだから。
麻里子はどこか悔しそうに顔を歪めたが、コホンとひとつ咳払いをすると続けた。
「……それから、バラの件ですけど……」
バラ……ということはやはりこの人が一馬の言う『会社の子』だ。
その途端、背筋が凍った。覚悟はしていたことだ。きっとそうだろうとは思った。だけどあの剃刀を仕込んだ人と差し向かっている。目の前の人が途端、怖くなった。
「剃刀……私の仕業です。ごめんなさい」
「……そうでしたか……」
膝の上で握る手が震える。
正直怖い。今更それを告白してどうしたいのだろう。ただ謝罪したかっただけなのか、それとも何か裏があるのか。
「本当に申し訳ないことをしたって思ってます。あなたが怪我をしたってあの人が憤慨して……でも私にも意地があった」
そう話す麻里子の目には涙が浮かんでいる。
「あの人と関係を持ったのは一度だけ。でも私はすごくあの人が好きだったから嬉しかった。私も本気でこの人の女になれたんだって、そう思ってたのに……結婚するって……」
麻里子は涙を一筋流した。それを見た美月も胸はチクリと痛んだ。
「確かに付き合ってなかった。でもきっと何かが始まるんだって……私は他の男と切ってでもこの人とって思ってたのに……」
他に男いたんかい……?と、声に出さずに胸中でツッコむ。
「とにかく悔しくて……あとから出てきたくせにって……だから『嫉妬』の花言葉の黄色のバラにあんなこと……」
嫉妬だったのか?花言葉には疎い美月は意味を知って素直に感心してしまった。こんな場面なのにも関わらず。
「本当に好きだったから……でも私、とんでもないことをしたって今更のように後悔してしまって……」
そう言って泣く彼女を何とも言えない気持ちで美月は見る。
目の前で泣くこの彼女がかつて美月から彼氏を奪った友人とだぶる。しかし、あのときと違うのは美月がそんなつもりはなかったとは言え奪った方になるのだということ。そして奪われた方の気持ちがわかるということ。
「でもこの人も気の毒な人なんだって思ったら、どうしようもなく申し訳ない気持ちになって……だから……」
「え?」
美月は目を瞠った。
「政略結婚だって聞きました」
「ああ……」
そういうことまで知っている間柄なのか……。何か少し、胸が痛む。
「あの人言ったんです。俺には愛する人がいる。決して手に入らない人だ。君はただの身代わりだったって」
「!?」
「でもあなたじゃないですよね。だって決して手に入らない人じゃないでしょ?結婚したんだから」
「……」
「本当にごめんなさい。あのとき、私本当にどうにかしてたんです」
麻里子はそう言って頭を下げ、伝票を持って出て行った。
(……手に入らない人……?あの人じゃなくて?)
美月は一人、呆然としていた。
帰り道、美月は麻里子のことを考えながらトボトボと歩いた。
麻里子に会ったことは一馬に報告すべきなのだろうか。
本当ならば言うべきだろう。だが何となく憚られた。
涙目で話す麻里子の姿を思い出す。
(……なんか……切なくなったなあ……)
胸が詰まった。この人、本当に一馬が好きだったのだろうと。
確かに他の男と手を切る、とか聞かされたら少し呆気にとられてしまったけれど、それでも切ってでも一馬と付き合いたいと思ったってことなのだ。
確かにバラの花束に剃刀を仕込むなどとエキセントリックなことが出来てしまうタイプであるようだけれど、それほど一馬のことが好きなのだろう。
それよりも、
(本当に好きな人の身代わりにするなんて、相変わらず鬼畜だな)
そのことが気になった。
(……でもアイツにも、他の人を身代わりにしなきゃなんないくらい好きな人がいたんだ……)
尚更この結婚は間違っていたのではないか?と思う。
この結婚は政略結婚に過ぎない。愛のない結婚だ。
でも本当は愛する人がいて、でもその人とは添い遂げることが出来なくて……。
そう思うと何だか胸の奥が痛む。
(アイツはアイツで苦しんでいたのかも知れない)
嫌いな女と結婚できるほど、もうどうでもよくなっていたのかも知れない―。
きっと一馬も辛い恋をしたのかも知れない。
それによって間違ったことをしてしまったのだろう。自分を見失うくらいに。
身代わりなんてとんでもない話だけど、そんなことをしてしまうくらい好きな人ってどんな人なのだろう。
少しだけ気になった。
一馬は帰宅したが麻里子のことはまだ言っていない。
あんなことをした麻里子ではあるが、それも一馬が好きだったことが所以だ。
そこまでして好きだった人だ。それなのに『身代わり』と言われてしまった人だ。
だけど謝罪はしてくれた。そのことは言った方がいいのかも知れない。
7時半頃に帰宅した一馬と夕食を食べ、今はリビングでテレビを見ている。
一馬はリビングにノートパソコンを持ち込み、持ち帰った仕事をしている。
うるさいだろうとテレビを消そうとすると、「見てるから消すな」と言われた。
一馬は何も知らない。今日麻里子に会ったことも、『身代わり』について聞かされたことも。
テレビを見ながらチラリと一馬を見る。
テレビなんか見ている様子はない。ずっとパソコンに向き合っている。
(だったら書斎でやればいいのに……)
最近ではこうやって一緒にいることが当たり前になってきたような気がする。
残業や遅番以外は一緒に夕飯を食べる。一緒にテレビを見る。たまに一緒に買い物に行く(というよりついて来る)。
一馬は仕事を持ち帰っても書斎に篭らず今日のようにリビングで仕事したりで、どうにもいつも傍にいるような気がする。
それでも寝室は別。決して一緒に寝ようとはしない。
(……どういうつもりなのかな?)
手を出す素振りは決して見せない。
それはそれでいい。美月自身もわだかまっているから迫られると本気で拒否しそうでそれが逆に怖い。
そんな美月の心情を一馬はわかっているのだろうか。だから何もしないのだろうか。
それとも『身代わり』は他にもいるのだろうか。
あんなヤツ、好きじゃないはずなのに。
『身代わり』が他にいるかも知れないこと。迫られたら本気で拒否をしてしまうかも知れないことを危惧していること。
何故か胸が痛む。
どうしてだろう。
自分の心境の変化に、美月は戸惑いを隠せなかった。
「どうした?」
クッションを抱えたまま、何か考え込んでいる風の美月を怪訝に思ったのだろう、一馬が声をかけてきた。
「へ?」
「何かあったか?」
コイツはどうして私の感情の機微に聡いのだろう。
美月はそんなことを思い、一馬の方を向く。一馬は真剣な顔で美月を見ていた。
「……麻里子さん」
「え?」
一馬の顔色が変わった。
「麻里子さんと会った。今日」
「何されたっ!? 何で俺に言わないっ!?」
一馬は激昂した。しかし美月は平静を装った。
「何もされてない」
「じゃあなんでっ!?」
「落ち着いて」
「っ!?」
美月の声に一馬は我に返った。
「大丈夫。何もされてない。それどころか謝ってくれた」
「……」
「だから、このことはもう終わりにして。あの人を責めないで」
「美月……」
「お願い」
美月の真剣な目に一馬は首肯するしかなかった。
「……わかった」
一馬は溜息を吐いて頭を抱えた。
「……他には……」
「え?」
「他には何も言ってなかったか?」
「あんたと関係があったって言ってた」
美月ははっきりとそれを口にした。
「……そうか」
一馬は目を伏せて息を吐いた。そして顔を上げると美月を真っ直ぐに見た。
「今は何もないから」
真剣そのものの目だった。
「……」
美月は何も答えなかった。どう答えていいのかわからなかった。
そして嘘を吐いた。『身代わり』のことは聞かなかったことにした。
きっと一馬もそこのことが気になったに違いない。
今はそのことには触れずにいよう。いやこの先、そのことに触れずにいけたらと思う。
そのことに触れるとき、きっと何かが壊れるときなのかも知れない。
でも今はこのまま……なんて思う。
自分でもどういうことかわからないし、こんな感情を持ったことに対しても戸惑ってしまっているけれど。
でも、やっぱり暫くこのままでいたいと思った。
寝室に戻り、ベッドで膝を抱える。
一馬は『身代わり』を必要とするほど辛い恋をしたのだろうか。
本当に愛する人。そんな人がいるにも関わらずいろんな女性と逢瀬を重ねてきた理由はきっと、その人を忘れるため。
しかし、その人以上に愛せる人に出会えなかったのだろう。
だから親の勧めのままに愛のない結婚をし、今こうして暮らしている。
きっと妥協と諦めなんだ。
自分だって家族のための結婚だ。同じ穴の狢なのだろう。
それでもきっと家族になろうとしている。夫婦になれなくても家族にはなれる。
だから当初の発言とは違い優しくしてくれるのは、彼なりの努力なのかも知れない。
本当は女としては身代わりなんて許せることではない。だけど彼が辛い恋をし、傷つき、それ故に起こしてしまった行動だったのだとすれば?
そう思うといたたまれない。
私は一馬のこと、何一つわかっていないのかも知れない。
美月は出来るだけ一馬のことを理解したいと思い始めていた。
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