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≪ 麗景殿 ≫
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「匙だけか?」
慌てて他の銀食器も触ってみたが、何も感じない。
「他は何も感じません」
「匙だけなのだな?」と再度翠子に確認した煌仁は「このままお待ちください」と言い残してどこかに行った。
麗景殿の女御の震えた声が「匙が原因なのかえ?」と尋ねてくる。
「それはわかりませんが、食器のうち、この匙にだけ禍々しいものを感じます。これは毎日使っているのですか?」
年かさの女房がうなずく。
「そうじゃ。匙に彫ってある絵が大層気に入っておられて」
なるほど持ち手のところにかわいらしい猫が彫ってある。
「二の皇子は猫が好きなのじゃ」
「そうでしたか……」
年かさの女房は恐ろしそうに目を細めて匙を見つめる。
「この匙が、禍々しいのか」
「ええ……」
うまい言葉が見つからず禍々しいと言ったが実は少し違う。なんというか怨念とは違うように感じるのだ。
呪いよりは恐怖に近いかもしれない。迷いや強いおびえが染み込んでいる。
脳裏をよぎるのはやはり毒だ。意図的に毒を使うときの複雑な感情かもしれない。
それにしても素掘りなのは何故なのか。
「漆器ではないのは何故なのですか?」
毒についてはよくわからないが、漆が塗ってあるならそれほど毒が染み込んだりしないような気がした。
「皇子が漆の匂いを嫌がられて」
「――そうでしたか」
数々の偶然が利用されたのかもしれない。
(かわいそうに……)
間もなく煌仁が盥を抱えて戻ってきた。
呼んだのか唯泉も一緒にいる。
「おお、姫よ。ご苦労だな」
こんな時でも唯泉はは明るい。彼の笑顔のおかげで肩の緊張がいくらか解けた。
水を張った盥には、小さな魚が二匹泳いでいる。
煌仁は盥に匙を入れた。
最初のうちは元気に泳いでいた魚が、やがて動きを止めぽっかりと浮かぶ。
年かさの女房が「あっ!」と叫んだ。
やはり毒だった。
唯泉がしみじみと「匙に毒とはなぁ」と言った。拍子抜けするほど気の抜けた言い方に一瞬気がそがれたが、浮かんだ魚が再び現実の恐怖を呼び起こす。
こんなに小さな子供に、誰かが毒を盛ったのだ。予想をしていたとはいえ、残酷な現実を目に翠子は身震いした。
その場の女性はみな色を失う。女房たちは腰を抜かし、麗景殿の女御は目にした光景の衝撃に気を失った。
「女御さまっ! 誰か、誰か早く医師を」
翠子は呆然としたまま動けなかった。
顎が震え、かたかたと歯が音を立てる。物に沁み込んだ悪意に触れるのは慣れていても、こんな状況に居合わせるのは始めてだ。
「大丈夫か?」
肩に手を掛け、心配そうに覗き込んだのは煌仁だった。
「は、はい。少し、驚いてしまって……」
煌仁は翠子の背中をさする。
「朱依を呼んでくる。落ち着いたら戻ってよい。篁に案内させるから」
「はい」
ばたばたと女房や女官が行き交う中、朱依が駆けつけた。
「大丈夫ですか、姫さま」
「平気よ。ちょっと驚いてしまっただけだから」
立ち上がったとき、ぐらりと目眩がした。倒れまいと横にずらした足が袴を踏みそこね――。
「あっ」
倒れる寸前、翠子を抱えたのは煌仁だった。
(――え?)
女官に対して冷ややかに〝捨て置け〟と言った彼が、体を抱いて支えてくれている。
「少し休んだほうがいい」
煌仁は言うや否や翠子を軽々と抱き上げた。
翠子は驚きのあまり息を呑む。
どこか休める場所に案内するよう近くにいた女房に声をかけた煌仁は、翠子を抱いたまま女房のあとに付いていく。
抱かれた翠子は声も出ない。
ふわりと降ろされると、煌仁は几帳で手際よく仕切りを作った。
「無理をせず十分に休むといい。戻るときは篁と一緒にな」
「はい……」
煌仁は朱依に「後は頼む」と声を掛けてその場を離れていく。
今何が起きたのか。横たわった翠子は理解できずに混乱していると、ひょっこりと朱依が顔を覗き込む。
「姫さま、ご気分はどうですか?」
朱依は目を弓なりに細めて、にこにこと何か言いたげだ。
「……」
どうもこうもない。恥ずかしくてたまらず袖で顔を隠すのがやっとである。
胸はどきどきと高鳴り息も苦しい。大丈夫どころか、むしろ今の出来事で具合が悪くなってしまった。
「せっかくですから、少し休みましょうね」
それから温かいお茶が運ばれてきて、そのお茶が水のように冷めた頃、翠子はようやく起き上がった。
「気つけのお薬が入っているお茶だそうですよ」
(うっ……)
お薬と名の付くものがおいしかったためしがない。冷えているせいか匂いはそれほど強くはないけれど、やはり苦い。「姫さまがんばって」と朱依の声援を受け苦悶の表情を浮かべながら一気に飲み干した。
「ふぅ」
ひと息つくと、ほっとすると同時に火照った胸も落ち着いてくる。
「女御さまが目を覚まされて、典薬寮(てんやくりょう)の医師たちがいらしたようですよ」
几帳が遮っているので見えないけれど、人の出入りが激しいようだ。バタバタと慌ただしい音があちらこちらから聞こえてくる。
煌仁さまは、まだここにいらっしゃるのかしらと思った。
思っただけで口にしていないのに、また胸がどきどきと高鳴ってしまう。
邪魔にならないように荷物のように持ち上げて移動しただけだ。気にするほうがおかしいとわかっているけれど、恥ずかしくて顔を合わせられない。
慌てて他の銀食器も触ってみたが、何も感じない。
「他は何も感じません」
「匙だけなのだな?」と再度翠子に確認した煌仁は「このままお待ちください」と言い残してどこかに行った。
麗景殿の女御の震えた声が「匙が原因なのかえ?」と尋ねてくる。
「それはわかりませんが、食器のうち、この匙にだけ禍々しいものを感じます。これは毎日使っているのですか?」
年かさの女房がうなずく。
「そうじゃ。匙に彫ってある絵が大層気に入っておられて」
なるほど持ち手のところにかわいらしい猫が彫ってある。
「二の皇子は猫が好きなのじゃ」
「そうでしたか……」
年かさの女房は恐ろしそうに目を細めて匙を見つめる。
「この匙が、禍々しいのか」
「ええ……」
うまい言葉が見つからず禍々しいと言ったが実は少し違う。なんというか怨念とは違うように感じるのだ。
呪いよりは恐怖に近いかもしれない。迷いや強いおびえが染み込んでいる。
脳裏をよぎるのはやはり毒だ。意図的に毒を使うときの複雑な感情かもしれない。
それにしても素掘りなのは何故なのか。
「漆器ではないのは何故なのですか?」
毒についてはよくわからないが、漆が塗ってあるならそれほど毒が染み込んだりしないような気がした。
「皇子が漆の匂いを嫌がられて」
「――そうでしたか」
数々の偶然が利用されたのかもしれない。
(かわいそうに……)
間もなく煌仁が盥を抱えて戻ってきた。
呼んだのか唯泉も一緒にいる。
「おお、姫よ。ご苦労だな」
こんな時でも唯泉はは明るい。彼の笑顔のおかげで肩の緊張がいくらか解けた。
水を張った盥には、小さな魚が二匹泳いでいる。
煌仁は盥に匙を入れた。
最初のうちは元気に泳いでいた魚が、やがて動きを止めぽっかりと浮かぶ。
年かさの女房が「あっ!」と叫んだ。
やはり毒だった。
唯泉がしみじみと「匙に毒とはなぁ」と言った。拍子抜けするほど気の抜けた言い方に一瞬気がそがれたが、浮かんだ魚が再び現実の恐怖を呼び起こす。
こんなに小さな子供に、誰かが毒を盛ったのだ。予想をしていたとはいえ、残酷な現実を目に翠子は身震いした。
その場の女性はみな色を失う。女房たちは腰を抜かし、麗景殿の女御は目にした光景の衝撃に気を失った。
「女御さまっ! 誰か、誰か早く医師を」
翠子は呆然としたまま動けなかった。
顎が震え、かたかたと歯が音を立てる。物に沁み込んだ悪意に触れるのは慣れていても、こんな状況に居合わせるのは始めてだ。
「大丈夫か?」
肩に手を掛け、心配そうに覗き込んだのは煌仁だった。
「は、はい。少し、驚いてしまって……」
煌仁は翠子の背中をさする。
「朱依を呼んでくる。落ち着いたら戻ってよい。篁に案内させるから」
「はい」
ばたばたと女房や女官が行き交う中、朱依が駆けつけた。
「大丈夫ですか、姫さま」
「平気よ。ちょっと驚いてしまっただけだから」
立ち上がったとき、ぐらりと目眩がした。倒れまいと横にずらした足が袴を踏みそこね――。
「あっ」
倒れる寸前、翠子を抱えたのは煌仁だった。
(――え?)
女官に対して冷ややかに〝捨て置け〟と言った彼が、体を抱いて支えてくれている。
「少し休んだほうがいい」
煌仁は言うや否や翠子を軽々と抱き上げた。
翠子は驚きのあまり息を呑む。
どこか休める場所に案内するよう近くにいた女房に声をかけた煌仁は、翠子を抱いたまま女房のあとに付いていく。
抱かれた翠子は声も出ない。
ふわりと降ろされると、煌仁は几帳で手際よく仕切りを作った。
「無理をせず十分に休むといい。戻るときは篁と一緒にな」
「はい……」
煌仁は朱依に「後は頼む」と声を掛けてその場を離れていく。
今何が起きたのか。横たわった翠子は理解できずに混乱していると、ひょっこりと朱依が顔を覗き込む。
「姫さま、ご気分はどうですか?」
朱依は目を弓なりに細めて、にこにこと何か言いたげだ。
「……」
どうもこうもない。恥ずかしくてたまらず袖で顔を隠すのがやっとである。
胸はどきどきと高鳴り息も苦しい。大丈夫どころか、むしろ今の出来事で具合が悪くなってしまった。
「せっかくですから、少し休みましょうね」
それから温かいお茶が運ばれてきて、そのお茶が水のように冷めた頃、翠子はようやく起き上がった。
「気つけのお薬が入っているお茶だそうですよ」
(うっ……)
お薬と名の付くものがおいしかったためしがない。冷えているせいか匂いはそれほど強くはないけれど、やはり苦い。「姫さまがんばって」と朱依の声援を受け苦悶の表情を浮かべながら一気に飲み干した。
「ふぅ」
ひと息つくと、ほっとすると同時に火照った胸も落ち着いてくる。
「女御さまが目を覚まされて、典薬寮(てんやくりょう)の医師たちがいらしたようですよ」
几帳が遮っているので見えないけれど、人の出入りが激しいようだ。バタバタと慌ただしい音があちらこちらから聞こえてくる。
煌仁さまは、まだここにいらっしゃるのかしらと思った。
思っただけで口にしていないのに、また胸がどきどきと高鳴ってしまう。
邪魔にならないように荷物のように持ち上げて移動しただけだ。気にするほうがおかしいとわかっているけれど、恥ずかしくて顔を合わせられない。
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