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≪ 春隣(はるどなり) ≫
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しおりを挟む年が明け、早くも庭の梅がつぼみをつけた。
「今年はつぼみが早いわね。――ねぇ爺」
爺は母の代からいてくれる使用人だ。
「宮中の、梅壺っていう殿舎にね、立派な紅梅と白梅があったのよ」
赤と白と咲いたらさぞかし美しいだろう。
皆で花見をするのだろうか。
「ほぉ、それは綺麗でしょうな。姫さまは宮中には戻られぬのですか?」
「戻らないわ。爺たちとこの邸にいるほうがいいもの」
「うれしいことをおっしゃる。じゃが、わしらはどこでだって生きていけるんですから、姫さまはわしらの心配はしないで大丈夫ですよ」
爺は深い皺をくしゃくしゃにして微笑む。
「まぁ、私がいない方がいいの?」
爺は下がっている眉尻を更に下げて、困ったように笑った。
「姫さまは宮中で意地悪を覚えなさったか」
「冗談よ。私はここが好きなの」
その気持ちに嘘はない。
宮中に未練がないわけでもないけれど……。
よぎった思いに胸の奥がどんよりと重くなり、翠子は細く長い白い息を吐く。
「さあ姫さま、冷えますから中に入りなされ。温かい麦茶でも飲みましょう」
「ええ、そうね」
庭の梅が咲き吐く息が白くならなくなれば、この胸に潜むつらさも和らぐだろうか。
そう思いながら、再び翠子は細い息を吐く。
物語には恋の痛みは時間が解決すると書いてあった。
ゆっくりだが、確実にときは過ぎている。今はまだつらくとも薄らいでいくはずだ。
なのに、日を追うごとに辛さが増すのはなぜだろう。
煌仁に会いたい。彼の優しい声も唇に刻まれた温もりも早く忘れたいのに、いつまでも彼を想い続けていたい。
一生に一度の恋だから、簡単には消えなくてもいいとも思ってしまうのだ。
「姫さま、文が届いていますよ。蝶の女官さんからです。これも頂きました」
箱を開けると干した柑橘がたっぷり入っている。
酸味と一緒に甘い匂いが立ち上ってきて、思わず顔がほころんだ。
「まあおいしそう」
蝶の女官とは、左大臣に家族を人質にされていた女官だ。
文にはお礼と、再び女官として働き始めたと報告が書いてあった。
宮中は落ち着きを取り戻したらしい。大きく変わったのは、女御がいなくなった弘徽殿がひっそりとしているくらいだそうだ。
麗景殿の女御はもともと穏やかな人なので、後宮は平和なのだろう。
最後にまた宮中に来てくださいとあった。
ひょっこりと首を伸ばした朱依が、翠子が読んでいる文を覗く。
「えっと、【姫さまが、後宮にいてくださるとそれだけで安心できるのです。どうぞまたいらしてくださいませ】ですってよ、姫さま」
「もお、覗かないで」
「昨日は麗景殿の女御さまからのお届け物がありましたし、姫さまはすっかり人気者ですね」
「そんなんじゃないわ」
「姫さまったら、素直じゃないんだから」
くすくすと笑っているうちに、胸の痛みが和らいだ。
好きな人を忘れなくても、痛みだけは消えるのかもしれない。
いつか温かい気持ちだけが残って、それが想い出というものになるのだろうか。
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