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≪ 春隣(はるどなり) ≫
6
しおりを挟むときに切なさに袖を濡らし、ときに笑い、物の声を聞き。
なんだかんだと慌ただしく日々が過ぎていき、庭の梅の花が咲いたある日。
「姫さまー」
ぱたぱたと足音を立てながら朱依が簀子を走ってきた。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「来たんですよ。煌仁さまが」
「え?」
まゆ玉が膝の上にいるのも忘れ、翠子は立ち上がった。
ありえない。
彼は自由に宮中から外へは出られないはず。
(でも――まさか。本当に?)
落ちたまゆ玉が「みゃあ」と抗議の声を上げるが翠子の耳には届かない。
胸の鼓動をを高鳴らせながら簀子に出たときには、煌仁がもう、すぐそこにいた。
「あ、煌仁さま?」
「姫よ、迎えに来たぞ」
「え?」
後ろにいる篁が困ったように眉を下げる。
「煌仁さまは、姫さまが入内しない限り、帝にはならないと宣言されたのだ」
朱依が「なんと」と声をあげた。
「すまぬ、あおういうわけだ。来てもらえぬか?」
「で……でも」
入内なんて、無理ではないか。
「だって、私は、祓い姫なのですよ?」
篁がにっこり笑って「なにも心配ありませぬ」と声を上げた。
「姫さま、朝議でも姫さまの入内は満場一致だったのですよ!」
(え?)
「麗景殿の女御を助けてくださったと言って、右大臣は後見人を姫さま申し出られましたし、姫さまが助けた女官たちの実家も皆大賛成じゃ。率先して祝いを述べるのは大納言中納言と有力な方々ばかりで、反対するものなどおりませぬ」
(そんな……そんなはず)
「姫は愛されておるのだ。宮中の皆に」
煌仁が翠子の手を取る。
「姫にいてほしいのだ。姫でなければ后などいらぬ」
「煌仁さま」
とそこに白い髭をたくわえた高齢の公達が一歩前へ出た。篁が「この方は帥宮(そちのみや)さまじゃ」と紹介した。
「はじめまして、姫よ。おばあさまによく似ていらっしゃる」
煌仁が「そなたの母の兄君だよ」と教えてくれた。母と帥宮さまとは異母兄妹であるらしい。
翠子の母を知らずとも、宮中にいた当時の祖母をよく覚えているそうだ。
唯泉から翠子の母の素性については聞いていたが、実際に祖母を知っている人物が現れるとは夢にも思わなかった。
さておき――。
その前に、入内の話である。
「姫よ。わしからも頼む。なあ朱依も頼んでくれ」
篁が朱依に両手を合わせ、朱依は大きくうなずいた。
「姫さま、行きましょう宮中へ。私も一緒に参りますから」
朱依が目にいっぱい涙をためて訴えた。
「幸せになりましょう」
いつの間にか集まっていた爺や使用人のみんなも口々に「姫さま、お行きなされ」「幸せにおなりなされ」と涙を浮かべて訴える。
梅が終わり、桜がほころび始めたころ、煌仁は帝となった。
即位の儀には中宮となった翠子が並ぶ。
それはそれは美しい両陛下の姿に人々は歓喜に沸いた。
帥宮が最終的な後見人となりさまざまな準備を整えて翠子は入内した。朱依は官位を授かり翠子付きの上臈女房となった。
爺や他の使用人たちは本人たちの希望で八条の邸に残った。翠子がいつでも心置きなく帰れる場所を守りたいと言って。
頼もしくも優しい帝に気遣われながら、凜とする中宮を見て朱依は袖で涙を隠す。
「朱依よ、そろそろ色よい返事をくれぬか」
ひょっこりと顔を出した篁が、すねたように顔をしかめる。
「朱依じゃなくて朱の君と呼んでちょうだい」
「またそんな水臭いことを。なぁ、無事に即位の儀も済んだのだから、そろそろよかろう?」
朱依は、返事はしないけれども、篁が持ってきた干し棗はうれしそうに頬張る。そしてなにを思ったか棗をひとつまみして篁の口元に差し出した。
うれしそうにその棗を口にして、篁は朱依を抱き寄せる。
「ご覧なさいよ、月がきれいだわ」
「ああ、そうだな。でも朱依のほうがきれいだぞ」
宮中の夜は更け、清涼殿から琵琶の音が聞こえてきた。
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