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故郷の群青
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故郷の群青
『おはようございます。朝のニュースです。今年も暑い夏がやってきました。この時期になると…』
僕は夏が嫌いだ。とくに理由はないが、ダラダラと続く日照りにうだるような蝉の鳴き声。
とにかく僕はこの季節が嫌いだ。
テレビから聞こえてくるアナウンサーの声が途中から蝉の声に掻き消される。重い瞼にうんざりしながらネクタイを探す。
社会人ニ年目ともなると寝ぼけながらでも身なりは整う。
「そろそろ行こうかな」
親が親戚から借り上げたという戸建マンションの最上階のドアを開けると、瞼の裏まで照らすような朝日が降り注ぐ。
エレベーターの中は狭いものの、クーラーがよく効いていてこのままずっと降り続ければいいのになんて思ったりもするが、案外早くそのドアは開く。
夏は嫌いだ。無駄に広いロビーには残暑見舞いやお歳暮のお知らせなんかがポストに所狭しと挟まっているからだ。
「たまには整理しないと…」
最後に開けたのはいつだっただろうか、確か梅雨が明けた頃だったかなんて思いながらポストを開けると、一枚のハガキが目にとまった。
そこには見覚えのある風景の写真が刷ってあったからだ。
「おはようございまーす。」
鮮やかな緑が広がる田園地帯に僕の通う『第二高等学校』はひっそりと建っている。A県でもかなり田舎の山の麓だった。
「ねぇねぇ聞いた?今度コンビニが近くに出来るんだってよ!チャリで行こうよ!」
なんていう会話がごくごく普通に話されているほどだ。
僕の家は地元では有名な地主で、学校のすぐそばに家があったため、朝はゆっくり登校できた。
その日もいつものようにギリギリまで部屋にいた。ふと外の登校してくる生徒たちを眺めていると、見たことのない顔の生徒が小走りに通り過ぎて行った。全校生徒数は他の田舎の学校と同じようにかなり少ないため、全校生徒の顔は皆覚えていたはずだった。
「今日は珍しく転校生を紹介する。」
担任がそう言って教室のドアを開けると一人の女生徒が静かに入ってきた。
第一印象は『黒いな』だった。肩で切りそろえた髪はまるでシルクのように滑らかで、その下に褐色の整った端正な顔が覗く、割と長身な美人と呼ばれる類の子だった。
「横峰明日香といいます。出身はC県で、祖父母と暮らすためにここに越してきました。趣味は…」
淡々と自己紹介をしていく彼女は、まるで原稿を読んでいるかのような印象を与えた。もしここが都心の学校だったならクラスに馴染むのすら難しそうな子だった。
だが、幸いにもここは田舎の学校である。C県と言えば都心に程近い郊外にある学校で、うちの県に比べたらそれはもう大都会からのお嬢様だったのだ。すぐさま彼女は一躍人気者となった。
「ありがとう藤堂君。おかげでここの様子がだいぶ分かったわ。わざわざ家まで送ってくれてありがとう。」
僕は担任に言い付けられ、もとい押し付けられるように横峰明日香に校内から学校周り、そして家までの道案内をしながら歩いて回ったのだった。
「私、この町好きだな。」
彼女の家の裏に広がる防波堤の上を、夕陽に照らされながら二人で歩いていると、ふと彼女がそう呟いた。僕は、どこが?と尋ねるように目を少しばかり見開いてみせた。
「だってこの町には、こんなにたくさんの自然が溢れているもの。それに、ここの人たちはみんな優しいわ。」
横峰明日香。彼女はまるで今まで生きてきた環境から解放された喜びを表すかのようにその滑らかな髪を大きく風になびかせながらそう言った。
その日から僕の日課には、横峰明日香と防波堤の上で話しながら夕陽を眺めるという時間が加わった。
ポストの中にある手紙や封筒を部屋に持ち帰らなければ仕事には行けないなと思い、部屋に戻ってきてしまった。
一度部屋から出たら帰ってくるのは夜も更けたころだという日々だったためか、陽の指す部屋に入るとどこかこそばゆく感じる。
ふとさっきのハガキが気になり、つけっぱなしだったテレビを消して、椅子に腰かけた。
それからというもの、授業が終わると彼女と帰り道を共にし、そして夕陽が沈んだら各々の家に帰るという日々が続いていた。
うだるような暑さも、煩わしい蝉の鳴き声も、服に染み込んだ汗の臭いすらも、彼女といると忘れられた。
僕は彼女に恋をしていた。
季節は巡り、彼女と行く二度目の夏祭りの日が訪れた。
「今日は浴衣なんだね。」
そう軽口を叩く僕に、彼女はにんまりと笑いながら言った。
「去年は忙しかったの。今年は少し気合を入れてみたわ。」
そういう彼女は一年も経つと、クラスにも馴染み、ここの暮らしにも慣れてきたようだった。
去年のクリスマスも、正月の初詣、春の花見も、いつの間にか事あるごとに僕は彼女と過ごす時間が多くなっていた。
「すごく似合ってるよ。君にぴったりな向日葵だね。」
彼女の浴衣には、鮮やかな色であしらわれた向日葵が咲いていた。元から綺麗な彼女が着ると、まるで夜の帳にそこだけ陽の光を当てたように、艶やかに見えた。
「前から思っていたのだけれど、清也君って女性を褒めるのが上手いのね。ちょっと恥ずかしいわ。」
そう言いながらも僕に向日葵がよく見えるように振る舞う彼女は、いつにも増して可愛らしかった。彼女とは、いつしか下の名前で呼び合うほどの仲になっていた。
ハガキに綴られた手書きの文字を読み終えると、会社の上司に今日は体調がすぐれないため休むと電話をした。仕事着から私服に着替えながら、僕は学生の頃を思い返していた。
「私の両親はよく暴力を振るう人達だったの。」
彼女はいつもの防波堤でそう僕に言った。その日は、いつもの夕陽がなぜだか少し眩しくて、彼女の顔をうまく見ることは出来なかった。
季節はまた巡り、別れの季節が訪れた。
授業が終わり、いつものように彼女に帰ろうと告げると、いつになく彼女は寂しそうな顔をした。
「今日はもう少し学校に居たいな。」
彼女は二人の影が長くなるまで学校を歩き回った。
「私ね、ここに残ることにしたの。」
卒業した後、彼女はここで祖父の営む小さな商店を継ぐのだそうだ。
僕はB県の会社に就職が決まっていた。
僕達は違う道を遠くで歩む事になった。
電車に揺られながら僕は、懐かしい気分に浸っていた。三年前にこの町を出て以来、ここに戻ってくるのは初めてのことだった。
車窓から覗く景色には、相も変わらず緑と青と、そして真っ白な雲が広がるのどかな風景が広がっていた。
駅のホームに降り立つと、肌を舐めるような湿っぽく熱い風が頬を撫でる。
「変わらないな。」
僕はポツリと呟くと、慣れた足取りで、誰もいないホームを後にした。
ホームを出るとそこは三年前となんら変わらない田舎道が続いていた。僕はその道を黙々と歩いた。やはり故郷は良い。そんなジジ臭い感傷に浸っていると、壁を打つ波の音が聞こえてきた。
いつもの防波堤。
僕は一人。
彼女も一人。
二人の影は重なることを知らないかのように、互いと見つめ合っていた。
「向こうに行ってもメールを送るよ。その時は返してやってくれ。」
「嫌よ、思い出しちゃうじゃない。楽しい日々を。」
「そんなこというな。悲しくなるじゃないか。」
「清也ってたまに可愛いわ。」
「君は時々意地が悪い。」
そんな君に恋をしたんだ。
たったその一言が言えなかった。
卒業式はそつなく終わりを迎えた。皆散り散りになることになっていた。そのためか各々が目に涙を浮かべながら最後の時を過ごしていた。
僕はいつもの防波堤にいた。
彼女は隣にはいない。
今頃は校庭でクラスメイトに囲まれているだろう。
夕陽というには幾分か高すぎる陽の光を浴びながら、僕はひどい眠気に襲われた。その後のことはよく覚えていない。気づけば仕事に奔走する毎日を送っていた。
群青色の波が防波堤の壁にぶつかり、淡い白色が空に舞う。
いつもの、いつも二人でいた防波堤に来ている。
「ここはこんなに暑かったのか。」
いや、一人でいる時はいつもそうだった気がする。
今日は実家に泊まろう。手荷物はなかった。ポッケに一枚のハガキが入っている以外は。
「藤堂君。」
どうやら少し寝てしまっていたようだ。
目を開けると、眩しいくらいの茜色が辺りを照らしていた。
「早かったのね。ぐっすり寝てた。」
すぐ側で声がする。聞き慣れた、優しい声だ。
「ここは何も変わってないな。」
僕は呟くように、それでも隣にいる誰かに聞こえるように、そう言った。
「いいえ、ここは変わってしまったわ。」
僕はなにが?というように目を見開いてみせた。
「よかった。その癖は治ってなかったのね。」
クスクスと笑う声が聞こえる。
辺りは濃い茜色に染まり、隣にいる誰かさんの顔をすら、うまく見えなくしていた。
僕はおもむろに立ち上がると横に数歩進んで後ろを振り向いた。
そこには胸まで伸びた、まるでシルクのように滑らかな髪をなびかせた褐色で長身の美人が立っていた。
彼女の褐色の肌と対比しているかのような純白のワンピースを、鮮やかな夕陽が茜色に染めていた。
「おかえりなさい。藤堂君。」
いつからだろう。僕は彼女に恋をしていた。彼女が可愛かったからだろうか、単に転校生だから珍しかったのだろうか。もう随分と昔のことで、そんな曖昧な想いは、打ち寄せる波のように淡く消え去っていた。
「そんな他人行儀な呼び方はよしてくれよ横峰さん。」
僕らはまるで初めて出会った時のようにぎこちなく話していった。
辺りは、海と空の境界が見えなくなるほど暗くなっていた。僕は彼女の顔が月に照らされているのを、ただ、静かに眺めていた。
「そんなに見つめないでよ、恥ずかしくなるじゃない。」
そういう彼女は、恥ずかしがりながらも、やはり僕に顔がよく見えるようにこちらを向いた。
「君のそういうところも変わってなくて安心したよ。」
そういうと彼女はクスクスと笑いながら、
「清也もね。」そう言った。
足元に打ち寄せる波の音が、このまま僕らを暗く深い海に連れて行って帰さないかのように、一定のリズムで鳴っていた。
あぁ、思い出した。僕はきっと。
それから僕らは、夜の学校へ向かい歩いていた。誰もいない田舎のあぜ道が、こんなにも神秘的で静動的で、そして、ワクワクするものだとは思わなかった。
去年の夏に廃校になったの。
そう彼女が教えてくれた。
僕らが通った、人は少ないけれど確かに賑やかだった校舎は、静かにそこに佇んでいた。
「私ね、この町が好き。」
いつの日か聞いた言葉を、彼女は、噛みしめるようにしっかりと、僕に聞こえるようにそう言った。
一通り校舎を見て回り、満足したのか、彼女が帰ろうと言った。
「あと少しだけここにいたいな。」
僕は、校舎の陰で月に照らされる彼女を、まだ眺めていたかった。
それから幾分かの時間が経ったのだろう。
「帰ろう、清也。」
ふいにそう呼ばれた。
帰り道、僕らは言葉を発すことはなかった。発しなかったのではない。発しなくても伝わる想いが、そこにはあったのだ。
明日には帰る。
わかった見送りに行くね。
実家への帰り道は、なぜだかただの田舎道にしか見えなかった。
朝、目が覚めてから、いつもしていたように、窓の外を眺めていた。その窓から臨む景色に、道を行き交う生徒達の姿は無い。
軽く朝食を済ませ、両親に帰る旨を伝えると、僕は足早に家を出た。
帰りはフェリーにしよう。なぜだかそう決めていた。
いつもとは違う防波堤を歩いていると、黄金色が反射する広い海の上を優雅に泳ぐ雲のように、純白のワンピースが風になびいていた。
白いワンピースがくるりとこちらを向く。
「早いんだね。」
彼女は寂しそうな、そして嬉しそうな顔をしていた。
「早く君に会いたくて。」何気なくそう言った。
彼女の目が大きく開かれる。
「僕の真似をするのはよしてくれ。恥ずかしいだろう。君こそ早いんだね。」
「私も会いたかったの。清也。」
やはりそうだ。僕は、君に名前を呼ばれるのが嬉しくて、僕の名を呼ぶ君を好きになったんだ。
フェリーに乗る前に僕はもう一度彼女の方を振り返った。
波に映る光は、黄金色から濃ゆい茜色へと変わっていた。
彼女の白いワンピースは、夕陽の影を映し出す雲のように、茜色に染まっていた。
あの涼しげな白い雲に手は届かなくても、目の前にいる彼女にはきっと僕の手は届くのだろう。
僕はポッケに入れた一枚のハガキを彼女に手渡した。
「残暑見舞いってやつになるのかな。ポストは苦手でね。君に直接渡したかったんだ。」
海の上を走るフェリーは、その船体を大きく揺らす。
防波堤の上の小さな雲が、空の雲と混ざって見えなくなるまで、僕はじっと海辺を眺めていた。
『おはようございます。朝のニュースです…』
重い瞼を引きずるように、リモコンを探す。もう蝉の声を消すためにアナウンサーの声を聞かなくてもいいだろう。
玄関のドアを開けると、蝉の声はもうしない。夏もそろそろ終わるようだった。
今頃彼女は何をしているのだろうか。
そんなことを考えながら、狭いエレベーターを降りる。まだ暑さは残っているのだからクーラーくらいはつけてほしい。
無駄に広いロビーの片隅。ポストに一枚のハガキを見つけた。
『また、会いに来てください。あの防波堤で待ってます。 横峰明日香 』
僕は夏が嫌いだ。
暑くて怠くて、何より煩い。
だけど、僕は夏を好きになる。きっと。
あの小さな白い雲に逢えるから。
故郷の群青 fin.
『おはようございます。朝のニュースです。今年も暑い夏がやってきました。この時期になると…』
僕は夏が嫌いだ。とくに理由はないが、ダラダラと続く日照りにうだるような蝉の鳴き声。
とにかく僕はこの季節が嫌いだ。
テレビから聞こえてくるアナウンサーの声が途中から蝉の声に掻き消される。重い瞼にうんざりしながらネクタイを探す。
社会人ニ年目ともなると寝ぼけながらでも身なりは整う。
「そろそろ行こうかな」
親が親戚から借り上げたという戸建マンションの最上階のドアを開けると、瞼の裏まで照らすような朝日が降り注ぐ。
エレベーターの中は狭いものの、クーラーがよく効いていてこのままずっと降り続ければいいのになんて思ったりもするが、案外早くそのドアは開く。
夏は嫌いだ。無駄に広いロビーには残暑見舞いやお歳暮のお知らせなんかがポストに所狭しと挟まっているからだ。
「たまには整理しないと…」
最後に開けたのはいつだっただろうか、確か梅雨が明けた頃だったかなんて思いながらポストを開けると、一枚のハガキが目にとまった。
そこには見覚えのある風景の写真が刷ってあったからだ。
「おはようございまーす。」
鮮やかな緑が広がる田園地帯に僕の通う『第二高等学校』はひっそりと建っている。A県でもかなり田舎の山の麓だった。
「ねぇねぇ聞いた?今度コンビニが近くに出来るんだってよ!チャリで行こうよ!」
なんていう会話がごくごく普通に話されているほどだ。
僕の家は地元では有名な地主で、学校のすぐそばに家があったため、朝はゆっくり登校できた。
その日もいつものようにギリギリまで部屋にいた。ふと外の登校してくる生徒たちを眺めていると、見たことのない顔の生徒が小走りに通り過ぎて行った。全校生徒数は他の田舎の学校と同じようにかなり少ないため、全校生徒の顔は皆覚えていたはずだった。
「今日は珍しく転校生を紹介する。」
担任がそう言って教室のドアを開けると一人の女生徒が静かに入ってきた。
第一印象は『黒いな』だった。肩で切りそろえた髪はまるでシルクのように滑らかで、その下に褐色の整った端正な顔が覗く、割と長身な美人と呼ばれる類の子だった。
「横峰明日香といいます。出身はC県で、祖父母と暮らすためにここに越してきました。趣味は…」
淡々と自己紹介をしていく彼女は、まるで原稿を読んでいるかのような印象を与えた。もしここが都心の学校だったならクラスに馴染むのすら難しそうな子だった。
だが、幸いにもここは田舎の学校である。C県と言えば都心に程近い郊外にある学校で、うちの県に比べたらそれはもう大都会からのお嬢様だったのだ。すぐさま彼女は一躍人気者となった。
「ありがとう藤堂君。おかげでここの様子がだいぶ分かったわ。わざわざ家まで送ってくれてありがとう。」
僕は担任に言い付けられ、もとい押し付けられるように横峰明日香に校内から学校周り、そして家までの道案内をしながら歩いて回ったのだった。
「私、この町好きだな。」
彼女の家の裏に広がる防波堤の上を、夕陽に照らされながら二人で歩いていると、ふと彼女がそう呟いた。僕は、どこが?と尋ねるように目を少しばかり見開いてみせた。
「だってこの町には、こんなにたくさんの自然が溢れているもの。それに、ここの人たちはみんな優しいわ。」
横峰明日香。彼女はまるで今まで生きてきた環境から解放された喜びを表すかのようにその滑らかな髪を大きく風になびかせながらそう言った。
その日から僕の日課には、横峰明日香と防波堤の上で話しながら夕陽を眺めるという時間が加わった。
ポストの中にある手紙や封筒を部屋に持ち帰らなければ仕事には行けないなと思い、部屋に戻ってきてしまった。
一度部屋から出たら帰ってくるのは夜も更けたころだという日々だったためか、陽の指す部屋に入るとどこかこそばゆく感じる。
ふとさっきのハガキが気になり、つけっぱなしだったテレビを消して、椅子に腰かけた。
それからというもの、授業が終わると彼女と帰り道を共にし、そして夕陽が沈んだら各々の家に帰るという日々が続いていた。
うだるような暑さも、煩わしい蝉の鳴き声も、服に染み込んだ汗の臭いすらも、彼女といると忘れられた。
僕は彼女に恋をしていた。
季節は巡り、彼女と行く二度目の夏祭りの日が訪れた。
「今日は浴衣なんだね。」
そう軽口を叩く僕に、彼女はにんまりと笑いながら言った。
「去年は忙しかったの。今年は少し気合を入れてみたわ。」
そういう彼女は一年も経つと、クラスにも馴染み、ここの暮らしにも慣れてきたようだった。
去年のクリスマスも、正月の初詣、春の花見も、いつの間にか事あるごとに僕は彼女と過ごす時間が多くなっていた。
「すごく似合ってるよ。君にぴったりな向日葵だね。」
彼女の浴衣には、鮮やかな色であしらわれた向日葵が咲いていた。元から綺麗な彼女が着ると、まるで夜の帳にそこだけ陽の光を当てたように、艶やかに見えた。
「前から思っていたのだけれど、清也君って女性を褒めるのが上手いのね。ちょっと恥ずかしいわ。」
そう言いながらも僕に向日葵がよく見えるように振る舞う彼女は、いつにも増して可愛らしかった。彼女とは、いつしか下の名前で呼び合うほどの仲になっていた。
ハガキに綴られた手書きの文字を読み終えると、会社の上司に今日は体調がすぐれないため休むと電話をした。仕事着から私服に着替えながら、僕は学生の頃を思い返していた。
「私の両親はよく暴力を振るう人達だったの。」
彼女はいつもの防波堤でそう僕に言った。その日は、いつもの夕陽がなぜだか少し眩しくて、彼女の顔をうまく見ることは出来なかった。
季節はまた巡り、別れの季節が訪れた。
授業が終わり、いつものように彼女に帰ろうと告げると、いつになく彼女は寂しそうな顔をした。
「今日はもう少し学校に居たいな。」
彼女は二人の影が長くなるまで学校を歩き回った。
「私ね、ここに残ることにしたの。」
卒業した後、彼女はここで祖父の営む小さな商店を継ぐのだそうだ。
僕はB県の会社に就職が決まっていた。
僕達は違う道を遠くで歩む事になった。
電車に揺られながら僕は、懐かしい気分に浸っていた。三年前にこの町を出て以来、ここに戻ってくるのは初めてのことだった。
車窓から覗く景色には、相も変わらず緑と青と、そして真っ白な雲が広がるのどかな風景が広がっていた。
駅のホームに降り立つと、肌を舐めるような湿っぽく熱い風が頬を撫でる。
「変わらないな。」
僕はポツリと呟くと、慣れた足取りで、誰もいないホームを後にした。
ホームを出るとそこは三年前となんら変わらない田舎道が続いていた。僕はその道を黙々と歩いた。やはり故郷は良い。そんなジジ臭い感傷に浸っていると、壁を打つ波の音が聞こえてきた。
いつもの防波堤。
僕は一人。
彼女も一人。
二人の影は重なることを知らないかのように、互いと見つめ合っていた。
「向こうに行ってもメールを送るよ。その時は返してやってくれ。」
「嫌よ、思い出しちゃうじゃない。楽しい日々を。」
「そんなこというな。悲しくなるじゃないか。」
「清也ってたまに可愛いわ。」
「君は時々意地が悪い。」
そんな君に恋をしたんだ。
たったその一言が言えなかった。
卒業式はそつなく終わりを迎えた。皆散り散りになることになっていた。そのためか各々が目に涙を浮かべながら最後の時を過ごしていた。
僕はいつもの防波堤にいた。
彼女は隣にはいない。
今頃は校庭でクラスメイトに囲まれているだろう。
夕陽というには幾分か高すぎる陽の光を浴びながら、僕はひどい眠気に襲われた。その後のことはよく覚えていない。気づけば仕事に奔走する毎日を送っていた。
群青色の波が防波堤の壁にぶつかり、淡い白色が空に舞う。
いつもの、いつも二人でいた防波堤に来ている。
「ここはこんなに暑かったのか。」
いや、一人でいる時はいつもそうだった気がする。
今日は実家に泊まろう。手荷物はなかった。ポッケに一枚のハガキが入っている以外は。
「藤堂君。」
どうやら少し寝てしまっていたようだ。
目を開けると、眩しいくらいの茜色が辺りを照らしていた。
「早かったのね。ぐっすり寝てた。」
すぐ側で声がする。聞き慣れた、優しい声だ。
「ここは何も変わってないな。」
僕は呟くように、それでも隣にいる誰かに聞こえるように、そう言った。
「いいえ、ここは変わってしまったわ。」
僕はなにが?というように目を見開いてみせた。
「よかった。その癖は治ってなかったのね。」
クスクスと笑う声が聞こえる。
辺りは濃い茜色に染まり、隣にいる誰かさんの顔をすら、うまく見えなくしていた。
僕はおもむろに立ち上がると横に数歩進んで後ろを振り向いた。
そこには胸まで伸びた、まるでシルクのように滑らかな髪をなびかせた褐色で長身の美人が立っていた。
彼女の褐色の肌と対比しているかのような純白のワンピースを、鮮やかな夕陽が茜色に染めていた。
「おかえりなさい。藤堂君。」
いつからだろう。僕は彼女に恋をしていた。彼女が可愛かったからだろうか、単に転校生だから珍しかったのだろうか。もう随分と昔のことで、そんな曖昧な想いは、打ち寄せる波のように淡く消え去っていた。
「そんな他人行儀な呼び方はよしてくれよ横峰さん。」
僕らはまるで初めて出会った時のようにぎこちなく話していった。
辺りは、海と空の境界が見えなくなるほど暗くなっていた。僕は彼女の顔が月に照らされているのを、ただ、静かに眺めていた。
「そんなに見つめないでよ、恥ずかしくなるじゃない。」
そういう彼女は、恥ずかしがりながらも、やはり僕に顔がよく見えるようにこちらを向いた。
「君のそういうところも変わってなくて安心したよ。」
そういうと彼女はクスクスと笑いながら、
「清也もね。」そう言った。
足元に打ち寄せる波の音が、このまま僕らを暗く深い海に連れて行って帰さないかのように、一定のリズムで鳴っていた。
あぁ、思い出した。僕はきっと。
それから僕らは、夜の学校へ向かい歩いていた。誰もいない田舎のあぜ道が、こんなにも神秘的で静動的で、そして、ワクワクするものだとは思わなかった。
去年の夏に廃校になったの。
そう彼女が教えてくれた。
僕らが通った、人は少ないけれど確かに賑やかだった校舎は、静かにそこに佇んでいた。
「私ね、この町が好き。」
いつの日か聞いた言葉を、彼女は、噛みしめるようにしっかりと、僕に聞こえるようにそう言った。
一通り校舎を見て回り、満足したのか、彼女が帰ろうと言った。
「あと少しだけここにいたいな。」
僕は、校舎の陰で月に照らされる彼女を、まだ眺めていたかった。
それから幾分かの時間が経ったのだろう。
「帰ろう、清也。」
ふいにそう呼ばれた。
帰り道、僕らは言葉を発すことはなかった。発しなかったのではない。発しなくても伝わる想いが、そこにはあったのだ。
明日には帰る。
わかった見送りに行くね。
実家への帰り道は、なぜだかただの田舎道にしか見えなかった。
朝、目が覚めてから、いつもしていたように、窓の外を眺めていた。その窓から臨む景色に、道を行き交う生徒達の姿は無い。
軽く朝食を済ませ、両親に帰る旨を伝えると、僕は足早に家を出た。
帰りはフェリーにしよう。なぜだかそう決めていた。
いつもとは違う防波堤を歩いていると、黄金色が反射する広い海の上を優雅に泳ぐ雲のように、純白のワンピースが風になびいていた。
白いワンピースがくるりとこちらを向く。
「早いんだね。」
彼女は寂しそうな、そして嬉しそうな顔をしていた。
「早く君に会いたくて。」何気なくそう言った。
彼女の目が大きく開かれる。
「僕の真似をするのはよしてくれ。恥ずかしいだろう。君こそ早いんだね。」
「私も会いたかったの。清也。」
やはりそうだ。僕は、君に名前を呼ばれるのが嬉しくて、僕の名を呼ぶ君を好きになったんだ。
フェリーに乗る前に僕はもう一度彼女の方を振り返った。
波に映る光は、黄金色から濃ゆい茜色へと変わっていた。
彼女の白いワンピースは、夕陽の影を映し出す雲のように、茜色に染まっていた。
あの涼しげな白い雲に手は届かなくても、目の前にいる彼女にはきっと僕の手は届くのだろう。
僕はポッケに入れた一枚のハガキを彼女に手渡した。
「残暑見舞いってやつになるのかな。ポストは苦手でね。君に直接渡したかったんだ。」
海の上を走るフェリーは、その船体を大きく揺らす。
防波堤の上の小さな雲が、空の雲と混ざって見えなくなるまで、僕はじっと海辺を眺めていた。
『おはようございます。朝のニュースです…』
重い瞼を引きずるように、リモコンを探す。もう蝉の声を消すためにアナウンサーの声を聞かなくてもいいだろう。
玄関のドアを開けると、蝉の声はもうしない。夏もそろそろ終わるようだった。
今頃彼女は何をしているのだろうか。
そんなことを考えながら、狭いエレベーターを降りる。まだ暑さは残っているのだからクーラーくらいはつけてほしい。
無駄に広いロビーの片隅。ポストに一枚のハガキを見つけた。
『また、会いに来てください。あの防波堤で待ってます。 横峰明日香 』
僕は夏が嫌いだ。
暑くて怠くて、何より煩い。
だけど、僕は夏を好きになる。きっと。
あの小さな白い雲に逢えるから。
故郷の群青 fin.
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