君は僕の心を殺す〜SilkBlue〜

坂田 零

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【19、別離】

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 指の先が痺れてきたのは、決して寒さのせいなんかじゃなかった。
 起こってる事態を、うまく飲み込むことができない。

 あまりにも突然過ぎたその出来事に、心が、ただ、ざわざわとざわめく。
  締め付けられるような胸の痛み。
 じりじりと妬け付く、この感情。
 もはや、怒りなのか悲しみなのか、俺自身、分からなくなっていた。
 思わず、口調が強くなる。

「そんなこと、勝手に決めないでくれっ!
なんでそうなるんだっ?」

「 私…こんなことになるなんて、思ってなかったの!
こんなに苦しくなるなんて、思ってなかったの!」

「こんな関係になるんじゃなかったって、そう言いたい?
 後悔してるって、そう言いたい?」

「後悔なんてしてないよ!
後悔なんてしてない…っ!」

 そこまで言った彼女が瞳から、ついに、涙が溢れ出した。
 とめどなく流れる大粒の涙が、俺の心を締め付けるような痛みとなって、滴り落ちてくる。

 俺は、ずっと、ぼんやりと考えていたんだ…  

 これから、彼女がもし彼氏と結婚することがあっても、きっとこの関係は継続するもんだと。
 隠れて会ってれば、別にいいじゃんかって、そう思ってた。
 つまりはバレなきゃいいんだからって、そんな風に考えてた。
 それがだいぶ安易だったことに、俺はこの時、しみじみ気がついた。 

 そう、俺は、自他共に認めるクソガキだったんだ。

 彼女が、こんなに苦しんでいたことすら気がつかないような、自分勝手なのはむしろ彼女じゃなくて、俺の方だった。

 いたたまれなくなった俺は、彼女の細い腕を掴んで、もう一度ぎゅっと抱きしめる。

「 俺はまだ、里佳子さんのことが好きだ…」

「 嫌いになってよ…
 私のことなんか嫌いになって…!
 自分勝手な女だって、嫌いになってよ!」
 
「いやだ」

「離して…樹くん!」

「いやだ…っ 」

 彼女は、両手で思い切り俺の胸を押し飛ばすと、 この手をぱっとすり抜けた。
 次の瞬間、鋭い衝撃と共に、ぱぁんと派手な音がして、 じんとした痛みが俺の左頬に走る。

 何が起こったかわからずに、俺は目の前にいる里佳子さんの顔を見た。

 その瞳からは止めどなく涙がこぼれ落ち、子供みたいに嗚咽しながら、彼女は、肩を震わせてこう言った。

「もう二度と会わない…
 もう二度と会わないから…っ
 私のことなんか嫌いになって…っ
 あんなババア、遊んでやっただけだって、そう思って笑って…っ!」

「里佳子さん……何、言って…っ」

 彼女は、俺に背中を向けて玄関に走り出した。
 俺は、そんな彼女の背中を、追うことも出来ずに、ただその場に立ち尽くしてしまった。
 目の前で、玄関のドアが閉まる。
 走り出したパンプスの音が、どんどん遠ざかっていく。

 左頬に走る痛み。
 その痛みで、俺は今更、彼女に殴られたこと気がついた。

「なんで……」

 そう思ってはっとすると、俺は慌てて彼女の後を追った。
 エレベーターは既に下に降りている。
 階段を駆け下りて駐車場まで来た時、彼女はエンジンのかかった自分の車の中にいた。
 窓越しに見えるその横顔は、まだ泣き顔だった。
 涙で真っ赤になった瞳は、決してこちらを振り向かない。

 俺の目の前で、彼女の車は走り出し、猛スピードで駐車場を飛び出していく。
 俺はただ、呆然と走り去るその車を見送るしかなかった。

 リアルな恋愛の終わり方なんて、 ドラマや映画のように、クライマックスまで引っ張るわけじゃなくて、結構あっさりしてるもんだ。

 俺の脳みそは、その時点で思考停止した。
 
 俺は、何をどうしていいかわからずに、自分の車にもたれかかった。
 とりあえず、気持ちを落ち着かせようと、ジャンパーのポケットからタバコを取り出し、一本取り出して口にくわえると、ライターで火をつける

 真冬の寒い夜空の下に、ふわりと紫煙が立ち上った。
 
 思い切り煙を肺に吸い込んで吐き出す。
 殴られた左頬がやたら痛い。

 ほんとに思い切り殴っていったんだな…

 煙草を吸いながら、物は試しに電話をかけてみる。
 すでに着信拒否になっていた。
 ということは 、LINEを打っても、きっと無駄だろう…

 ああ、もう、終わりなんだな…
 
 俺の心が、それを自覚した。

 頬の痛みがじんじんする。
 それよりも、今はむしろ、心のほうが痛かった。

 俺にとっては、ほんとに突然だったこの終焉。
 だけど彼女にとっては、とっくに考えられていた終焉だったのかもしれない…
 
 煙草の煙が、ふと仰いだ夜空に立ち上る。
 
 それは、心を突然狙撃されて、風穴があいたような気分だった。
 胸が苦しい。
 痛くて痛くて、突然の終わりを受け止めきれてない。
 
 どうせなら、こんな痛みを感じないように、心が完全に機能しなくなるほど、止めを刺していってくれたら良かったのに…

 これじゃ、まだ恋しいままだ…

「ババアと遊んでやっただけなんて…
思うかよ、そんなこと…」

 相変わらず面白いことを言う人だ…なんて変なところで関心して、俺は、思わず一人で笑った。
 なんか、この現実がやけに面白すぎて、どんどん笑いたくなってきた。
 
 煙草の煙が目に染みる。
 ムカつくほど星の綺麗な夜空が、不意に歪んだ。
 
 別に泣きたかった訳じゃない、ただ、煙草の煙が染みただけ。
 ただ、それだけだ。

 これで終わり…
 そうだよ…
 もう、終わりだ…
 追いかけるなんてカッコ悪いことするかよ…
 だから、終わりだ…

  肺に思いきり煙草の煙を吸い込んで、それを吐き出しながら、歪んだ夜空を、俺は、ただ見上げた。
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