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第一節 開戦の調べ15

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 迸る爆炎が大地を焦がす。
 凄まじいばかりの焔を上げる灼熱の業火が、その異形と呼ばれる瞳に映る全ての敵兵を、全身につけた金属という金属を溶かしながら次々と焼き払っていく。

 纏われた甲冑も兜も、手に持った武器すらも、もはや何の役にも立たない。

『ぎゃぁぁぁ――――――っ!!』

 地獄の業火とも言うべき深紅の炎に焼かれた者たちが、断末魔の悲鳴を轟かせながら、まるで舞を舞っているかのようにその身を踊らせては、緑に萌える草原の只中に倒れ伏していく。

 地面を草ごとめくりあげ、吹き上がる幾本もの灼熱の火柱が、人馬もろとも、視界に入る全ての敵兵を焼き尽くし、轟音を上げては消え、再びそこで燃え上がる。

 海際の広大な草原は、空の色と相反した紅蓮に染め上げられ、肉が焼ける匂いと死臭で満たされていった。
 迫り来る爆炎への恐怖に慄き、士気を失って逃げ帰ろうとする兵士にすら、その灼熱の炎は、容赦なく豪速で迸る。

 煌々と燃え立つ紅蓮の炎が、辺りの空気を異様なほどの熱波に変えて、その虚空にゆらゆらと熱い蜃気楼を描いていた。

 全身を火達磨にして絶命していく兵士たち。
 凄まじい速さで地面を走る爆炎が、天をも焦がす勢いで大きく伸び上がり、また一人、また一人とその灼熱の焔の中へ飲み込んでいく。

 火炎地獄と言うならば、それは、今、正に眼前で起こっているこの光景を差す言葉なのであろう・・・・

 吹き付ける強い風に海鳴りが轟く。
 そのしなやかで柔軟な肢体に絡み付く、燃え盛る紅蓮の炎が、見事な栗色の髪を輝くような朱色に染めている。

 揺れる前髪の下から覗く鮮やかな緑玉の瞳が、背筋が凍る程冷酷に、恐ろしい程美しく爛々と輝いていた。
 金色の妖剣の鋭利な切っ先は、敵軍に向かって真っ直ぐ伸ばされたまま虚空で静止している。

 凛々しく端正な彼の顔が、ふと、どこか不敵に微笑った。
 すらりとした長身に纏われた朱の衣の長い裾が、流れるように揺れている。

 自らを『名を棄てた者(ジェスター・ディグ)』と名乗るアーシェ一族の青年は、その視界の中に、黒き水牛の旗を掲げた幕舎を捕らえた。

 大地を舐めつくし、彼に刃を向けた者全てを焼き尽くした地獄の業火が、今、ゆっくりとその場から地面に吸い込まれていく。

 その全てが消え去った時、ジェスターは、金色の大剣を構えた手をゆっくりと地面に向けたのである。
 辺りを埋め尽くしていた熱波と深紅の蜃気楼が溶けるように消え、広大な草原に、けたたましい風の精霊の声が響いた時・・・・不敵な表情のまま、その場に佇んでいたジェスターの背後に、足音もなく誰かが立ったのだった。

 さして驚く様子もなく、ジェスターは、見事な栗色の髪を揺らしながら、ゆっくりと背後を振り返る。

 そこに立っていたのは、優美な銀糸の髪を吹き付ける海風に揺らした、妖艶で美麗なクスティリン族の魔法使い、マイレイだったのである。

あの時も・・・・
彼女は、いつの間にか、戦いを終えた彼の背後にこうして立っていた・・・・

 未だに手械を填められた彼女のしなやかな手首に、赤い痣が刻まれている。

 真っ直ぐに、異形と呼ばれる鮮やかな緑玉の瞳を見つめすえる、澄んだ銀水晶の瞳。
 綺麗なその唇が、小さく微笑んだ。

「火炎を纏うそなたは・・・・本当に、炎の獅子そのものだ・・・・ジェスター・・・・」

 広い肩に金色の大剣を担ぐようにして、ジェスターの凛々しい唇が、まるで自嘲するように小さく笑った。

「似たようなことを、【鍵】たる者に言われたことがある・・・・・
マイレイ・・・おまえのことだ、もう、知ってるんだろう・・・・?今宵がどんな夜になるか・・・・?」

「・・・・知っている」

 マイレイは、どこか切な気な微笑みをその妖艶な唇に刻んで、小さく頷いた。

「そうか・・・・・」

 短くそう答えたジェスターの緑玉の瞳が、ふと、何かに気付いたように辺りを見回した。

「おい・・・おまえの弟子はどうした?」

「炎を操るそなたの姿が、随分と恐ろしかったのだろう・・・・・・・あちらで卒倒している」

 マイレイは、そう言って、実に愉快そうに笑うと背後を振り返った。
 その視線の先を追うと・・・・まさに、彼女の言葉通り、ずっと彼女に付き添っていた少女ディーテルが、ばったりと草の上に倒れ伏していたのである。
 なにやら、ひどく心外そうな顔つきをして、ジェスターは、一度大きく息を吐いた。

「まったく、これぐらいで倒れてどうする・・・・・」

「我等は攻撃の術は持たぬゆえ、驚いたのだろう」

 実に愉快そうな表情で笑うと、マイレイは、再び、ゆっくりとジェスターの端正な顔を仰いだのである。
 風に揺れる優美な銀糸の髪が、竜の羽のモチーフが描かれた秀麗な頬を撫でた。
 もう一度大きく息を吐くと、ジェスターは、片手でマイレイの細い手首を掴んだのである。

「これを外してやる、おまえはもう自由だ」

 そう言うなり、彼は、僅かばかり後方に下がり、肩に担いでいた金色の大剣を片手で振り上げると、一気にその刀身を振り下ろしたのだった。
 
 空を薙ぐ鋭い音と共に、アクトレイドスの鋭い炎の斬撃が、マイレイの肌には少しも傷をつけずに、その自由を奪っていた手械を粉々に打ち砕いたのである。

 弾け飛ぶ銅の破片が、きらきらと輝きながら緑の地面に降り注ぐ。
ぱらぱらと軽い音を上げて落下したそれをちらりと見やって、ジェスターの緑玉の瞳が、再び、マイレイの美麗な顔を見た。

 そんな彼に向かって、彼女は、あの時のように、艶やかに妖艶に微笑したのである。

「そなたに救われたのは、これが二度目だな・・・・感謝する」

「いや」

 ふわりと朱の衣の長い裾が翻った。
 マイレイの視界の中で、ジェスターが、静かにその広い背中を向ける。

 利き手に金色の大剣を持ったまま、その歩みが、ゆっくりと黒き水牛の旗を掲げた幕舎に向かって進んでいく。
 焼け爛れた無数の屍を踏み越えて、海鳴りと海風の最中を、金色の大剣を携えた炎の獅子が、今、静かに歩み行く・・・・

 それはまるで、異国の愚かな王の残り少ない命の時間を、緩やかに刻んでいるようでもあった。

 マイレイは、優美な銀糸の髪をたおやかに揺らしながら、その澄み渡る銀水晶の瞳で、ただ、真っ直ぐに、遠くなっていく彼の背中を見送ったのである・・・・
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