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第二節 落日は海鳴りに燃ゆる20

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 不意に、リーヤの心に、切なく悲しい、そしてどこか愛しさにも似た、ひどく複雑な感情がこみ上げてくる。
 なんだろう、この思いは・・・・・
 一体、なんなのだろう・・・・
 この気持ちは・・・・
 彼は、やがて、自分の傍らから・・・・その姿を・・・消してしまうのだろうか・・・・
 いつも、隣にいた・・・・彼が・・・・
 そう思った時、ぎゅっと両手に拳を握ったリーヤの口から出た言葉・・・
 それは・・・

「・・・・勝手です・・・・・身勝手です!!貴方は身勝手です!!
私の気持ちも考えずに、いつもいつも、勝手なことばかり・・・・っ!!
勝手なことばかり言って・・・・身勝手で、無礼で、口が悪くて、貴方は本当に、最低の人間です・・・・・っ!!」

 何の遠慮もせずに、そんな悪態をまくし立てた彼女の紺碧色の瞳から、不意に、大粒の涙が溢れ出した。
 白く秀麗な頬を伝う涙が、吹き付ける海風に煽られて、きらきらと宝石のように輝きながら宙を舞う。
 風の精霊が差し伸べる透明な手に、艶やかな長い巻き髪が浚われて、跳ね上がるようにその肩で揺れた。
 一瞬、唖然としたジェスターが、なにやら、怪訝そうに形の良い眉を寄せる。
 揺れる前髪の下で、珍しく戸惑った表情を見せた彼が、まじまじと、真っ赤に上気した彼女の顔を見つめすえる。

「おい・・・・なんだよいきなり・・・・?おまえ、あの魔物に妙な術でもかけられたのか?」

「この・・・・・うつけ者っ!!」

 そう叫ぶや否や、彼女の爪先が叩くように地面を蹴り、まるでカモシカが跳ねるように、そのしなやかな体が、思い切り彼の胸へと飛び込んで来た。

「!?」

 全く身構えていなかったジェスターの体が、その勢いに押されて後方に倒れこんでいく。
 朱の衣の長い裾を棚引かせ、リーヤの体を片腕に抱えたまま、ジェスターは、咄嗟に片手を地面について全くの転倒を防いだ。
 にわかに形の良い眉を吊り上げて、彼は、怒ったように言うのである。

「おい!なんだよおまえ!?平手の次は体当たりか・・・っ!?」

「黙りなさい!無礼者!!貴方なんか・・・っ、貴方なんか・・・っ」

 そう言った言葉の語尾は、もう、既に声にはならなかった・・・
 実に怪訝そうな、しかし、なにやらひどく戸惑ったような、そんな複雑な表情をするジェスターの衿首を掴み、その広い胸に頬を埋めたまま、リーヤは、顔を上げずに肩を震わせた。

「・・・・・なんなんだよ・・・・一体?・・・・怒ったと思えば泣いてみたり・・・馬鹿かおまえ?」

 大きなため息と共に紡ぎ出されたその言葉は、相も変わらず無粋な言葉だった。
 しかし、リーヤのその複雑な胸中を知ってか知らずか、ジェスターは、背中から地面に倒れこんだまま、大きな両腕で、小さく震える彼女の体を静かに抱きしめたのだった。
 ふと見上げた頭上の空は、西に落ち行く太陽の光を受け、燃えるような紅色に染まっている。
 細く棚引く茜色の雲が、静かに東へと押し流されていく・・・
 たゆたうようなその切っ先が指し示す紺色の天空には、金色に輝き始めた満月が、音もなく静かに佇んでいた・・・・
 鏡のような月影。
 この満ちた月が夜空から消えれば・・・・
 もう、後には戻れない・・・

 ジェスターは、その燃え盛る炎の如き緑玉の瞳をゆっくりと瞑目させると、凛々しい唇だけで、ふと、たおやかに微笑したのだった。

       
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