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序章-グラスから唇までは遠い
第一話 タミゼ
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ギイィと、軋む。
鬱屈とした地下室の、カビの生えた空気が入れ替わり、どこか甘やかな匂いとともに、壁に取り付けられた燭台の火が揺れた。日に一度しか開かれぬ扉が、今日、三度開いたのである。
地下室の奥、五元素の色を顕す魔石や、魔物から取れる希少素材を入れた試験管が並ぶ机に向かう青年は、モノクルをくいと上げた。その痩身にピタリとあった細身の服は、上質の証としてのきめ細やかさを持って。背にあしらわれた、蔦の絡む弓の紋章は、下級貴族であるカラント家のものだ。
それを見て、扉から現れた人影が安堵を漏らす。
「……あぁ、良かった。カラント家の道楽息子、タミゼだろう。お前さん」
言葉をコーティングする、人生の深みを背負った憂鬱。
焦したキャラメル色の人影は、オールバックに整えた黒髪を撫で付ける。触った手がベタつきそうなほどにヘアオイルがぎらつく彼に、部屋の中の男、タミゼは憎々しげに漏らした。
「報告は聞いていたが、本当にここまで来るとは。そういう貴様は、裏ギルドの刺客だな?」
「あぁ、そうともいう……が、そうじゃない。いや、表向きはそうなんだが、お前には表を見せる必要がない」
「歯切れの悪い奴め……」
「よく言われるな。悪い癖であり、それが俺の味だと思っている」
キャラメル色の男は、なんとも要領をえない語り口をしていた。
がらら、と。タミゼは音を立てて椅子を引き、振り返る。ぬぅっと立ち上がった彼は、自分に差し向けられた敵を値踏みするように、モノクルの奥から見下ろし。
いや、実際に値踏みしたのだ。
「それは……魔道具か。いや、俺は事象魔法が使えるくらいで、元素魔法には詳しくないからよくわからんが、その、ぼやぁっと光るのは元素魔法の魔力光に似ている」
「ほう、裏ギルドは自分の貴賎を勘違いした、元素魔法の冒涜者たちの巣窟だと思っていたが」
「若いなぁ、お前さん。そういうのは、心の中で考えるもんだ。自分の思考を無駄に見せびらかすなんて、女優《アクトリス》が突然ストリップを始めるくらい下品だろう」
「言わせておけば……!」
怒りに歯噛みするタミゼ。
それもそうだろう。彼はすでに、目の前の男が本当に元素魔法の才を持たない、口の回るだけの無能だと知っているのだ。
タミゼのモノクルは、規則的に色を変える微光を放っていた。それは五大元素の赤、青、黄、橙、緑の五色を繰り返し、その色に対応した僅かな魔法を放ち続けるものだ。もし、相手が何かしらの元素魔法を扱えるのならば、その元素の魔法だけが共鳴し、反射してくることで、タミゼのモノクルのレンズが色付くはず。
ただ、目の前の男を映すそのレンズは、一向に透明のまま。だから、悠然とタミゼは歩を進める。
「父上も、舐めたことをするものだ!」
「……しまった。適当に喋ってお前さんをおちょくっていたんだが、もしかして口を滑らせたか?」
「ふん。俺を殺そうなどと考えるのは、あの父上くらいのものだからな」
言って、タミゼは足音を立てて立ち止まった。薄暗い部屋の中央、彼を囲うように描かれた魔法陣は床のほとんどを埋め尽くしてる。
電撃、一閃。
タミゼの足元から流れ出た黄色い蛇が、その白線の上をのたうち回る。魔法陣が起動したのだ!
手狭な地下室は、そこだけ雷雨に見舞われたかのように、放電の音に支配され。明滅に白く彩られる。
キャラメル色の男が慌てて一歩下がるのを、タミゼは鼻で笑い。
「さぁ、かかってこい! ここまで、雇った警備を倒して来たんだろう? その力を見せてみろ!」
「力、力ねぇ……」
見えすいた挑発に、男は途方に暮れたように空を見上げた。とは言っても、あるのは茶色の岩肌だけれども。
ぱちっ、と弾けた稲光が、彼の頬をかすめる。
ため息混じりに、彼は自分の着ているスーツの内側へ、手を伸ばした。我が意を得たりと凄絶に笑うタミゼ。
「なぁ、言ったろう?」
「何をだ?」
タミゼの声音は、勝利を確信している。
「そうじゃないと。俺は刺客じゃあないんだと」
「あぁ、よくわからないことを言っていたな」
「いや、俺は事実を言ったんだ。わからなかったとしたら、それはお前さんの頭の問題で」
たっぷりと持たせた含みでもって、男が取り出したのは――葉巻だった。
続けて取り出したシガーカッターで吸い口を切り、しゃがみ込む。足元に描かれた魔法陣に押しつけて火をつけた。
そして、タミゼなど目に入らないとばかりに優雅な一服を始めた男は、ぷかりと煙を浮かべ。
彼は、背後に声を送る。
「なぁ、ショコラ。もういいだろう。こいつはダメだ。聞く耳がない」
「違うでしょヌガー! 貴方が最初から無駄に焚きつけてるだけって、何度言わせるのよ!」
「じゃあ、最初からショコラが話せばいい」
「えぇ、えぇ! そうさせてもらうわ!」
ポカンと口を開けるタミゼ。
その目の前で、ヌガーと呼ばれた男は一つ背伸びをして。手をひらひらと振りつつ、来た道を引き返してしまった。
「なんだったんだ……」
自然、彼は意気消沈し、せっかく起動させた魔法陣もおとなしくなる。
しかし、彼は見落としていただけである。その刺客の身長があまりにも小さいものだから。
「ちょっと、ねぇ、あなた!」
甲高い声が、反響した。タミゼが視線を下げると、そこには果たして、幼い少女が一人。
背丈はタミゼの腰ほどまでしかなく、切り揃えられた銀髪を、ツーサイドアップ。エスプレッソのような可憐なドレスは、裾をホイップクリームのようなフリルが飾っていた。
「ヌガーが、失礼な物言いをしたわね。パートナーとして謝罪させていただくわ」
「あ、あぁ。貴方が謝ることではない、お嬢さん……?」
ちょこんとスカートを摘んで非礼を詫びる少女は、その実、貴族の娘と言われても納得のいく整った顔立ちであったから。タミゼが困惑するのも無理はない。
結果、お嬢さん扱いを受けたからか、上機嫌に顔を上げたその少女。明らかに場違いな、その華やかさ。揺れる蝋燭の橙色に照らされながら、神が気まぐれに下界へと与えたもうた可憐でもって、告げた。
「それで、あなたはバターケーキを作るとき、小麦粉と砂糖、どっちを先に入れるかしら?」
タミゼには、事態が理解できなかった。
「えっ、いや……。そんなもの、どちらでもいいだろう」
「あら、そう?」
彼は、才能に恵まれた男だ。少なくとも、彼自身がそう思っている。
カラント家に流れる雷の元素適性を高く発揮し、貴族の特権たる魔法学においても優秀な成績を収め。しかし、彼は三男坊だった。
ただその一事で、彼は平凡な長男に勝てなかったのだ。この国における貴族とは、魔法研究者としての側面が強いというのに、父親は長男をこそ、当主に指名すると言う。
ならば、自尊心の高いタミゼにはもう、家にこだわる理由がなかった。
もはや散歩に出かけるような心地で出奔したタミゼ。王都外では禁じられた魔法の研究をしていたわけだが、こうして刺客が送られてきたのは、ことが露見し一家の恥となる前に、処理するためなのだろうと。
そう考えたタミゼは、むしろヌガーの出現に喜んだものだった。
「あなた、人のことを考えられないのね」
これで、あの大馬鹿者に初めて吠え面をかかせられるに違いないと。
「そんな、どちらでもいいのなら、聞くわけないじゃないの」
俺の復讐はここから始まるのだという、静かな興奮。
「あなた、悲しい人だわ」
だというのに、急にそれは取り上げられてしまって。あまつさえ、目の前の少女如きが馬鹿にする。腹立たしい、ルビーの瞳。
タミゼには、理解できなかった。
「星を墜とせ子らの手よ!」
バチリ……ッ!
やり場のなくなった苛立ちのように。魔法陣の至る所から稲妻が走る。支柱に絡みつく蔓《つる》のように、少女に迫る。
少女は何一つ、動かなかった。
「死んでしまぇっ!」
タミゼが唾を飛ばす。しかし、それすらも少女には届かなかったのだ。
少女の足元に伸びた影から、ぬるりと立ち上がり。変幻自在の漆黒が彼女を覆った。電撃はその表面を伝い、地面へ拡散してしまう。
「くそっ!」
悪態とともに、彼は次の魔法の構築を始めた。
魔法陣の中央に立つ彼のもとへ、吸い上げられるように電流が集まる。それは彼の体をつたい、掲げた手から放電して絡み合い。やがて槍を形作った。
「万象穿つ神の槍!」
手を振り下ろすに合わせ、眼を焼き尽くすほどの光量が殺到する!
「タブレット」
漆黒の中から、くぐもった声。大気をも焦がす稲妻の槍に対し、ドーム状だった漆黒が長方形の壁となって聳え立つ。
激突。
じゅう、という音ともに、黒い壁から白煙が噴出する。それは確かに、一撃を受け止めたのだが。タミゼの槍は着実に前進し、壁から黒焦げのカケラがこぼれ落ちて行く。
「さぁ、もう後がないぞ! 命乞いでもするか、マドモアゼル?」
ここまで来れば、タミゼにだってわかっていた。
あの少女こそ、自分を殺すための刺客だったのだ。
故に、油断などしない。悠然と問いかける彼であったが、その掲げた掌の上には第二射が形成され始めていた。
ただ、その形成が、第一射と比して確実に遅い。
この白煙に巻かれているからだろうか。まさに彼が、そう思い至った時。
「パレ」
彼の横顔を、石の礫が強かに打ちつけた。
たたらを踏み、頬を抑えるタミゼ。もちろん、集中力を欠いたことで準備していた魔法は消えてしまっている。ハッとした顔で、彼が視線を送った先。
漆黒の壁は大穴を開け、崩れ始めていた。けれどその向こうに、少女の人影はなく。
白煙に紛れて、回り込まれていたのだ。顔に血を昇らせたタミゼが少女に手を向けるが、もう遅い。
「ランス……」
「オランジェット!」
狼狽たその声を、少女の声が掻き消す。
同時、タミゼの足元から漆黒が這い上がり、その身体を覆ってゆく。
「うわぁあっ!? なんだこれは!」
「知らない? オランジェット、オレンジピールをチョコレートで包んであって、美味しいのよ?」
「ふざけるなっ! くそっ、動かない……!」
タミゼは足を抜こうともがくが、漆黒の拘束はびくともしなかった。そうするうちに、どんどんと彼の身体は囚われてゆく。
少女はもう、タミゼには目もくれなかった。スカートを摘み、翻してみては、パンパンと汚れを払う。
「これから殺すのに、私だけが一方的にあなたを知っているのはフェアじゃないから、最後に名前だけ教えて差し上げるわね」
「うるさいっ、早く魔法を解け!」
「私はショコラ。あとそう、今から私を殺そうとしても無駄よ。むしろ、解除する人がいなくなるわ」
「ぐうっ……!」
さらりと放たれた言葉に、タミゼは背後に構築していた雷球を消す。ショコラはやっぱりね、と指を鳴らす。天井から落ちてきた氷柱状の漆黒が、人間大の大きさでタミゼの目と鼻の先に突き立った。
生唾を飲む音が、静かな室内に残る。
「頼む……、命だけは、見逃してくれないか」
「いいわよ」
「……えっ?」
「いいわよって言ったの。私、お金のために仕事してるんじゃないもの」
氷柱が新たに沸き起こった漆黒にぬめぬめと飲み込まれ、びちゃりと液化して消える。視界の開けたタミゼの目の前には、ショコラ。
たじろごうにも、彼の身体はすっかりとコーティングされてしまって、もう首から上しか動かなかった。
「ねぇ、あなた」
タミゼは少女の言葉に身構える。なにせ、金に興味はないと言い放ったのだから。何を要求されるのか、わかったものじゃない。
彼の視線は、ショコラの桜色の唇から離せなくなっていた。その唇が、いよいよ開く。
「チョコレィトって殺し屋を、知っているかしら」
「…………知らない」
タミゼはたっぷりと考えて、はっきりと口にした。そして、一度開いた口は、賭場のルーレットのように回りだす。
「俺は、本当に知らない。俺は全く関係ない。もしその、チョコレィトとかいうふざけた名前の輩に親でも殺されたなら……」
「ねぇ」
それは、破滅への回転に他ならず。
「今あなた、わたしのお父さんをバカにしたかしら」
「ひっ……!」
ルビーの瞳に炎が踊ったかと思えば、タミゼは悲鳴を叫びきる間も無く、漆黒の彫像と化していた。
ショコラはそれからはっとして、自分の顔を覆った。うずくまって、「ん゛ん゛~」と唸り声を上げながら首をぶんぶんと振る。ツーサイドアップのくすんだ銀髪も揺れる。
開きっぱなしの扉に寄りかかって、それを見下ろす男が一人。
「あれだけ大見得を切っておいて。本当にお前さんは、交渉とか尋問とか向かないな、ショコラ。一流のパティシエは、バットを洗ってから菓子を作るもんだ」
「うるっさい! 元はと言えば、仲介役のあなたがちゃんとしてれば良かったんじゃない!」
「俺はちゃんとしていた。俺はお前のような人間が対象を殺しやすくするよう、下準備をする人間だろう。ちゃんと逆上させた。殺しやすくした」
ぽんぽんと怒りだすショコラに、ヌガーは吸っていた葉巻を片手で遊ばせながら返す。それがまた気に入らないらしく、ショコラは踵を打ち付けて歩いた。
「おかしいのはお前さんだぜショコラ。お前さんのような子供が、父親の復讐をしようってのがおかしいんだ。そういうのは、大人の俺に任せて――」
「そういうのは、自分で魔法が使えるようになってから言ってほしいわ!」
「はぁ、そう言われると何も言えないのが悲しいところだ」
ショコラはそのままヌガーの隣を通り過ぎ、彼は肩を竦めてそれを追う。その不釣り合いな二つの背中を、かつてタミゼだったものが見送る。
ダーカー・ザン・チョコレィト。
やがてそう呼ばれる二人の仕事の、ありふれた一幕だった。
鬱屈とした地下室の、カビの生えた空気が入れ替わり、どこか甘やかな匂いとともに、壁に取り付けられた燭台の火が揺れた。日に一度しか開かれぬ扉が、今日、三度開いたのである。
地下室の奥、五元素の色を顕す魔石や、魔物から取れる希少素材を入れた試験管が並ぶ机に向かう青年は、モノクルをくいと上げた。その痩身にピタリとあった細身の服は、上質の証としてのきめ細やかさを持って。背にあしらわれた、蔦の絡む弓の紋章は、下級貴族であるカラント家のものだ。
それを見て、扉から現れた人影が安堵を漏らす。
「……あぁ、良かった。カラント家の道楽息子、タミゼだろう。お前さん」
言葉をコーティングする、人生の深みを背負った憂鬱。
焦したキャラメル色の人影は、オールバックに整えた黒髪を撫で付ける。触った手がベタつきそうなほどにヘアオイルがぎらつく彼に、部屋の中の男、タミゼは憎々しげに漏らした。
「報告は聞いていたが、本当にここまで来るとは。そういう貴様は、裏ギルドの刺客だな?」
「あぁ、そうともいう……が、そうじゃない。いや、表向きはそうなんだが、お前には表を見せる必要がない」
「歯切れの悪い奴め……」
「よく言われるな。悪い癖であり、それが俺の味だと思っている」
キャラメル色の男は、なんとも要領をえない語り口をしていた。
がらら、と。タミゼは音を立てて椅子を引き、振り返る。ぬぅっと立ち上がった彼は、自分に差し向けられた敵を値踏みするように、モノクルの奥から見下ろし。
いや、実際に値踏みしたのだ。
「それは……魔道具か。いや、俺は事象魔法が使えるくらいで、元素魔法には詳しくないからよくわからんが、その、ぼやぁっと光るのは元素魔法の魔力光に似ている」
「ほう、裏ギルドは自分の貴賎を勘違いした、元素魔法の冒涜者たちの巣窟だと思っていたが」
「若いなぁ、お前さん。そういうのは、心の中で考えるもんだ。自分の思考を無駄に見せびらかすなんて、女優《アクトリス》が突然ストリップを始めるくらい下品だろう」
「言わせておけば……!」
怒りに歯噛みするタミゼ。
それもそうだろう。彼はすでに、目の前の男が本当に元素魔法の才を持たない、口の回るだけの無能だと知っているのだ。
タミゼのモノクルは、規則的に色を変える微光を放っていた。それは五大元素の赤、青、黄、橙、緑の五色を繰り返し、その色に対応した僅かな魔法を放ち続けるものだ。もし、相手が何かしらの元素魔法を扱えるのならば、その元素の魔法だけが共鳴し、反射してくることで、タミゼのモノクルのレンズが色付くはず。
ただ、目の前の男を映すそのレンズは、一向に透明のまま。だから、悠然とタミゼは歩を進める。
「父上も、舐めたことをするものだ!」
「……しまった。適当に喋ってお前さんをおちょくっていたんだが、もしかして口を滑らせたか?」
「ふん。俺を殺そうなどと考えるのは、あの父上くらいのものだからな」
言って、タミゼは足音を立てて立ち止まった。薄暗い部屋の中央、彼を囲うように描かれた魔法陣は床のほとんどを埋め尽くしてる。
電撃、一閃。
タミゼの足元から流れ出た黄色い蛇が、その白線の上をのたうち回る。魔法陣が起動したのだ!
手狭な地下室は、そこだけ雷雨に見舞われたかのように、放電の音に支配され。明滅に白く彩られる。
キャラメル色の男が慌てて一歩下がるのを、タミゼは鼻で笑い。
「さぁ、かかってこい! ここまで、雇った警備を倒して来たんだろう? その力を見せてみろ!」
「力、力ねぇ……」
見えすいた挑発に、男は途方に暮れたように空を見上げた。とは言っても、あるのは茶色の岩肌だけれども。
ぱちっ、と弾けた稲光が、彼の頬をかすめる。
ため息混じりに、彼は自分の着ているスーツの内側へ、手を伸ばした。我が意を得たりと凄絶に笑うタミゼ。
「なぁ、言ったろう?」
「何をだ?」
タミゼの声音は、勝利を確信している。
「そうじゃないと。俺は刺客じゃあないんだと」
「あぁ、よくわからないことを言っていたな」
「いや、俺は事実を言ったんだ。わからなかったとしたら、それはお前さんの頭の問題で」
たっぷりと持たせた含みでもって、男が取り出したのは――葉巻だった。
続けて取り出したシガーカッターで吸い口を切り、しゃがみ込む。足元に描かれた魔法陣に押しつけて火をつけた。
そして、タミゼなど目に入らないとばかりに優雅な一服を始めた男は、ぷかりと煙を浮かべ。
彼は、背後に声を送る。
「なぁ、ショコラ。もういいだろう。こいつはダメだ。聞く耳がない」
「違うでしょヌガー! 貴方が最初から無駄に焚きつけてるだけって、何度言わせるのよ!」
「じゃあ、最初からショコラが話せばいい」
「えぇ、えぇ! そうさせてもらうわ!」
ポカンと口を開けるタミゼ。
その目の前で、ヌガーと呼ばれた男は一つ背伸びをして。手をひらひらと振りつつ、来た道を引き返してしまった。
「なんだったんだ……」
自然、彼は意気消沈し、せっかく起動させた魔法陣もおとなしくなる。
しかし、彼は見落としていただけである。その刺客の身長があまりにも小さいものだから。
「ちょっと、ねぇ、あなた!」
甲高い声が、反響した。タミゼが視線を下げると、そこには果たして、幼い少女が一人。
背丈はタミゼの腰ほどまでしかなく、切り揃えられた銀髪を、ツーサイドアップ。エスプレッソのような可憐なドレスは、裾をホイップクリームのようなフリルが飾っていた。
「ヌガーが、失礼な物言いをしたわね。パートナーとして謝罪させていただくわ」
「あ、あぁ。貴方が謝ることではない、お嬢さん……?」
ちょこんとスカートを摘んで非礼を詫びる少女は、その実、貴族の娘と言われても納得のいく整った顔立ちであったから。タミゼが困惑するのも無理はない。
結果、お嬢さん扱いを受けたからか、上機嫌に顔を上げたその少女。明らかに場違いな、その華やかさ。揺れる蝋燭の橙色に照らされながら、神が気まぐれに下界へと与えたもうた可憐でもって、告げた。
「それで、あなたはバターケーキを作るとき、小麦粉と砂糖、どっちを先に入れるかしら?」
タミゼには、事態が理解できなかった。
「えっ、いや……。そんなもの、どちらでもいいだろう」
「あら、そう?」
彼は、才能に恵まれた男だ。少なくとも、彼自身がそう思っている。
カラント家に流れる雷の元素適性を高く発揮し、貴族の特権たる魔法学においても優秀な成績を収め。しかし、彼は三男坊だった。
ただその一事で、彼は平凡な長男に勝てなかったのだ。この国における貴族とは、魔法研究者としての側面が強いというのに、父親は長男をこそ、当主に指名すると言う。
ならば、自尊心の高いタミゼにはもう、家にこだわる理由がなかった。
もはや散歩に出かけるような心地で出奔したタミゼ。王都外では禁じられた魔法の研究をしていたわけだが、こうして刺客が送られてきたのは、ことが露見し一家の恥となる前に、処理するためなのだろうと。
そう考えたタミゼは、むしろヌガーの出現に喜んだものだった。
「あなた、人のことを考えられないのね」
これで、あの大馬鹿者に初めて吠え面をかかせられるに違いないと。
「そんな、どちらでもいいのなら、聞くわけないじゃないの」
俺の復讐はここから始まるのだという、静かな興奮。
「あなた、悲しい人だわ」
だというのに、急にそれは取り上げられてしまって。あまつさえ、目の前の少女如きが馬鹿にする。腹立たしい、ルビーの瞳。
タミゼには、理解できなかった。
「星を墜とせ子らの手よ!」
バチリ……ッ!
やり場のなくなった苛立ちのように。魔法陣の至る所から稲妻が走る。支柱に絡みつく蔓《つる》のように、少女に迫る。
少女は何一つ、動かなかった。
「死んでしまぇっ!」
タミゼが唾を飛ばす。しかし、それすらも少女には届かなかったのだ。
少女の足元に伸びた影から、ぬるりと立ち上がり。変幻自在の漆黒が彼女を覆った。電撃はその表面を伝い、地面へ拡散してしまう。
「くそっ!」
悪態とともに、彼は次の魔法の構築を始めた。
魔法陣の中央に立つ彼のもとへ、吸い上げられるように電流が集まる。それは彼の体をつたい、掲げた手から放電して絡み合い。やがて槍を形作った。
「万象穿つ神の槍!」
手を振り下ろすに合わせ、眼を焼き尽くすほどの光量が殺到する!
「タブレット」
漆黒の中から、くぐもった声。大気をも焦がす稲妻の槍に対し、ドーム状だった漆黒が長方形の壁となって聳え立つ。
激突。
じゅう、という音ともに、黒い壁から白煙が噴出する。それは確かに、一撃を受け止めたのだが。タミゼの槍は着実に前進し、壁から黒焦げのカケラがこぼれ落ちて行く。
「さぁ、もう後がないぞ! 命乞いでもするか、マドモアゼル?」
ここまで来れば、タミゼにだってわかっていた。
あの少女こそ、自分を殺すための刺客だったのだ。
故に、油断などしない。悠然と問いかける彼であったが、その掲げた掌の上には第二射が形成され始めていた。
ただ、その形成が、第一射と比して確実に遅い。
この白煙に巻かれているからだろうか。まさに彼が、そう思い至った時。
「パレ」
彼の横顔を、石の礫が強かに打ちつけた。
たたらを踏み、頬を抑えるタミゼ。もちろん、集中力を欠いたことで準備していた魔法は消えてしまっている。ハッとした顔で、彼が視線を送った先。
漆黒の壁は大穴を開け、崩れ始めていた。けれどその向こうに、少女の人影はなく。
白煙に紛れて、回り込まれていたのだ。顔に血を昇らせたタミゼが少女に手を向けるが、もう遅い。
「ランス……」
「オランジェット!」
狼狽たその声を、少女の声が掻き消す。
同時、タミゼの足元から漆黒が這い上がり、その身体を覆ってゆく。
「うわぁあっ!? なんだこれは!」
「知らない? オランジェット、オレンジピールをチョコレートで包んであって、美味しいのよ?」
「ふざけるなっ! くそっ、動かない……!」
タミゼは足を抜こうともがくが、漆黒の拘束はびくともしなかった。そうするうちに、どんどんと彼の身体は囚われてゆく。
少女はもう、タミゼには目もくれなかった。スカートを摘み、翻してみては、パンパンと汚れを払う。
「これから殺すのに、私だけが一方的にあなたを知っているのはフェアじゃないから、最後に名前だけ教えて差し上げるわね」
「うるさいっ、早く魔法を解け!」
「私はショコラ。あとそう、今から私を殺そうとしても無駄よ。むしろ、解除する人がいなくなるわ」
「ぐうっ……!」
さらりと放たれた言葉に、タミゼは背後に構築していた雷球を消す。ショコラはやっぱりね、と指を鳴らす。天井から落ちてきた氷柱状の漆黒が、人間大の大きさでタミゼの目と鼻の先に突き立った。
生唾を飲む音が、静かな室内に残る。
「頼む……、命だけは、見逃してくれないか」
「いいわよ」
「……えっ?」
「いいわよって言ったの。私、お金のために仕事してるんじゃないもの」
氷柱が新たに沸き起こった漆黒にぬめぬめと飲み込まれ、びちゃりと液化して消える。視界の開けたタミゼの目の前には、ショコラ。
たじろごうにも、彼の身体はすっかりとコーティングされてしまって、もう首から上しか動かなかった。
「ねぇ、あなた」
タミゼは少女の言葉に身構える。なにせ、金に興味はないと言い放ったのだから。何を要求されるのか、わかったものじゃない。
彼の視線は、ショコラの桜色の唇から離せなくなっていた。その唇が、いよいよ開く。
「チョコレィトって殺し屋を、知っているかしら」
「…………知らない」
タミゼはたっぷりと考えて、はっきりと口にした。そして、一度開いた口は、賭場のルーレットのように回りだす。
「俺は、本当に知らない。俺は全く関係ない。もしその、チョコレィトとかいうふざけた名前の輩に親でも殺されたなら……」
「ねぇ」
それは、破滅への回転に他ならず。
「今あなた、わたしのお父さんをバカにしたかしら」
「ひっ……!」
ルビーの瞳に炎が踊ったかと思えば、タミゼは悲鳴を叫びきる間も無く、漆黒の彫像と化していた。
ショコラはそれからはっとして、自分の顔を覆った。うずくまって、「ん゛ん゛~」と唸り声を上げながら首をぶんぶんと振る。ツーサイドアップのくすんだ銀髪も揺れる。
開きっぱなしの扉に寄りかかって、それを見下ろす男が一人。
「あれだけ大見得を切っておいて。本当にお前さんは、交渉とか尋問とか向かないな、ショコラ。一流のパティシエは、バットを洗ってから菓子を作るもんだ」
「うるっさい! 元はと言えば、仲介役のあなたがちゃんとしてれば良かったんじゃない!」
「俺はちゃんとしていた。俺はお前のような人間が対象を殺しやすくするよう、下準備をする人間だろう。ちゃんと逆上させた。殺しやすくした」
ぽんぽんと怒りだすショコラに、ヌガーは吸っていた葉巻を片手で遊ばせながら返す。それがまた気に入らないらしく、ショコラは踵を打ち付けて歩いた。
「おかしいのはお前さんだぜショコラ。お前さんのような子供が、父親の復讐をしようってのがおかしいんだ。そういうのは、大人の俺に任せて――」
「そういうのは、自分で魔法が使えるようになってから言ってほしいわ!」
「はぁ、そう言われると何も言えないのが悲しいところだ」
ショコラはそのままヌガーの隣を通り過ぎ、彼は肩を竦めてそれを追う。その不釣り合いな二つの背中を、かつてタミゼだったものが見送る。
ダーカー・ザン・チョコレィト。
やがてそう呼ばれる二人の仕事の、ありふれた一幕だった。
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