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チョコレィト編-修道服を着ているから、修道士なのではない
第四十五話 終幕
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スフレの朝は、自分の店の掃除から始まる。といっても、狭い店だ。そう大変なわけではない。厨房は昨夜の仕込みの後に掃除を済ませているし、あとは店先を箒で掃いて、パティスリーから受け継いだショウケースを磨くだけだ。昔と違い、お客用のテーブルを磨いたりしなくていいから、スフレはかつてより念入りにショウケースを磨くのだ。
そして、きれいになったガラス板に映る自分の顔を見ると。スフレは自分で言うのもなんだが、成長したなと感じる。
ショコラたちが時針塔で大立ち回りを演じたあの日から、すでに十年が経った。
スフレも、ヌガーに託された伝言をビスキュイまで伝え、ジェラートへの合図を花火として打ち上げてもらう伝令役を果たし。辛くもヴァンホーテンを打倒した、あの日から。
その後、ショコラはぼろぼろになって、その上右腕をなくして帰ってきた。
スフレがそんな彼女を出迎えて、最初に口に出してしまったのは、怒りだった。なんでそんなに命知らずなんですか、何で自分を大事にしないんですかと怒鳴り散らして、それから冷静になって謝り倒して。
むしろスフレの方がショコラに気遣われる羽目になったのは、彼にとっては恥ずかしい思い出だ。
そんなショコラの隣に立っていたのは、禿頭をした壮年の男性だった。
それが、ヌガーの用意した後ろ盾であり、当代のバーナン家当主、その人だった。ショコラはヴァンホーテンを誅殺した功績でもって、バーナン家お抱えの暗殺者となり、責を免れるのだと、そうショコラ自身の口で言った。ビスキュイは何も言わなかったが、視線だけで人を殺しそうな様子で、禿頭の当主を睨んでいた。
だからビスキュイは、可能ならばショコラをその立場から救い出したいと考えていたのだろうと、スフレは思う。
だが、老いがそれを許さなかった。
怪我の回復に時間のかかったビスキュイは、その間に体力をすっかり落としてしまい。裏ギルドとしてのパティスリーを任せるには不足であると判断され。パティスリーの裏ギルドとしての機能は、バーナン家に接収。
同時に、ショコラが元素魔球を壊したことを聞きつけたアガペル聖火教国が、エウロパに対して宣戦を布告。年を追うに連れて、ただでさえ客の少なかったパティスリーに足を運ぶ人もなくなり。
ビスキュイは今の狭い店に移って、お菓子屋ではなくパン屋として、店を守って。三年前、老衰で死んだ。
「ショコラの帰る場所を、ちゃんと残してやるんだよ」
ビスキュイの最期の言葉に、スフレは力強く頷いて、だから彼は、今日もパン窯に火を入れる。もちろん、魔法ではなく。
昨夜のうちに仕込んだ生地の調子を確かめて、窯に入れ、焼き上げる。戦争は長引いていて、誰も贅沢はしたがらないから、焼き上げるのも安価な黒パンだけだ。
それを、別に陳列するほど美しい見た目もしてないのに、スフレはせっせとショウケースに並べた。これは、ビスキュイが残した最後の意地だったから。本当を言うなら、わざわざ戸口をたてて敷居を高くするよりも、露天の形にした方が、安いパンをさばくにはちょうどいい。
だが、この店はこうでないと、わざわざ残す価値がない。
ショコラは、戦争による不安定な社会情勢のせいで、多忙を極めているようだし。
ヌガーは、それに付き添っているのだろう。
最近ほとんど顔を合わせていない二人も、きっとそう思うはずだから。
「ごめんください」
「あっ、はいっ!」
その時、店の戸が開いて、馴染みのご婦人が入ってきた。スフレは慌てて居住まいを正し、接客をする。彼女が買っていくのは当然、その日を生きるための黒パンで、スフレは頼まれた個数を一つ一つ丁寧に、かごに入れていく。
確かに数を確かめて、笑顔と一緒にご婦人に渡す。他と大して味の変わらないスフレのパンをこの女性が買い求めるのは、その笑顔のためだとは、スフレ自身気づいていない。
「ありがとう」
そう言って帰ろうとする女性。けれど今日は珍しく、ショウケースの隅にひっそりと置かれたお菓子に目を止めた。
「そのお菓子、いつも置いてあるけれど」
「あぁ、それですか? ここ、一応お菓子屋さんだったので、その名残で」
「見たことないくらい真っ黒だけど、なんていうお菓子なの?」
「チョコレートって言うんです。ほんとは牛乳とか砂糖を混ぜて、もう少し明るい色にするんですけど」
今や、どちらも貴重だった。
ほとんど純粋にカカオ豆を原料とするチョコレートは、一見するとゴキブリかなにかと間違えるほどに黒く、つい吐き出しそうになるほど苦い。
およそ売れたものではないし、スフレも丁寧にそのままを説明するから、余計に売れない。その代わり、砂糖などが入っていない分保存が効くので、陳列しておいてもさほど財布が痛まない。
「そうは言っても、結局売れないんでしょう?」
「あはは。そうなんですけど。半分願掛けみたいなものなので」
スフレがはにかみながらそう言うと、女性は眩しさを覚えて「あらそう」としか返すことができなかった。スフレはそのまま帰っていくご婦人を見送り、恥ずかしそうに頭をかく。
まさか、どんなチョコレートより深い黒をしたこのチョコレートを置いておけば。ダーカー・ザン・チョコレートの名で通っている最愛の暗殺者が帰ってきそうだなんて、そんなことは言えなかった。
彼女は今、悪いことで済ましてはいけない、罪を犯しているだろう。それこそ、誰もが苦すぎて吐き出してしまうチョコレートと同じように、彼女は唾棄すべき大罪人だったりするのだろう。
けれど、スフレは思う。
あのチョコレートにたとえわずかでも砂糖が入っていることを、作った僕だけが知るように。彼女を受け入れる人が一人くらいいたって、いいのじゃないかと。
だからスフレは待つのだ。
必ずあなたの元に帰ると、そう言ってくれたルビーの瞳を信じて。
今日も、開く扉の一つ一つに期待する。
「いらっしゃいませ!」
大人びた彼女の、自信満々な顔が、その扉の奥にあるのじゃないかと。
そして、きれいになったガラス板に映る自分の顔を見ると。スフレは自分で言うのもなんだが、成長したなと感じる。
ショコラたちが時針塔で大立ち回りを演じたあの日から、すでに十年が経った。
スフレも、ヌガーに託された伝言をビスキュイまで伝え、ジェラートへの合図を花火として打ち上げてもらう伝令役を果たし。辛くもヴァンホーテンを打倒した、あの日から。
その後、ショコラはぼろぼろになって、その上右腕をなくして帰ってきた。
スフレがそんな彼女を出迎えて、最初に口に出してしまったのは、怒りだった。なんでそんなに命知らずなんですか、何で自分を大事にしないんですかと怒鳴り散らして、それから冷静になって謝り倒して。
むしろスフレの方がショコラに気遣われる羽目になったのは、彼にとっては恥ずかしい思い出だ。
そんなショコラの隣に立っていたのは、禿頭をした壮年の男性だった。
それが、ヌガーの用意した後ろ盾であり、当代のバーナン家当主、その人だった。ショコラはヴァンホーテンを誅殺した功績でもって、バーナン家お抱えの暗殺者となり、責を免れるのだと、そうショコラ自身の口で言った。ビスキュイは何も言わなかったが、視線だけで人を殺しそうな様子で、禿頭の当主を睨んでいた。
だからビスキュイは、可能ならばショコラをその立場から救い出したいと考えていたのだろうと、スフレは思う。
だが、老いがそれを許さなかった。
怪我の回復に時間のかかったビスキュイは、その間に体力をすっかり落としてしまい。裏ギルドとしてのパティスリーを任せるには不足であると判断され。パティスリーの裏ギルドとしての機能は、バーナン家に接収。
同時に、ショコラが元素魔球を壊したことを聞きつけたアガペル聖火教国が、エウロパに対して宣戦を布告。年を追うに連れて、ただでさえ客の少なかったパティスリーに足を運ぶ人もなくなり。
ビスキュイは今の狭い店に移って、お菓子屋ではなくパン屋として、店を守って。三年前、老衰で死んだ。
「ショコラの帰る場所を、ちゃんと残してやるんだよ」
ビスキュイの最期の言葉に、スフレは力強く頷いて、だから彼は、今日もパン窯に火を入れる。もちろん、魔法ではなく。
昨夜のうちに仕込んだ生地の調子を確かめて、窯に入れ、焼き上げる。戦争は長引いていて、誰も贅沢はしたがらないから、焼き上げるのも安価な黒パンだけだ。
それを、別に陳列するほど美しい見た目もしてないのに、スフレはせっせとショウケースに並べた。これは、ビスキュイが残した最後の意地だったから。本当を言うなら、わざわざ戸口をたてて敷居を高くするよりも、露天の形にした方が、安いパンをさばくにはちょうどいい。
だが、この店はこうでないと、わざわざ残す価値がない。
ショコラは、戦争による不安定な社会情勢のせいで、多忙を極めているようだし。
ヌガーは、それに付き添っているのだろう。
最近ほとんど顔を合わせていない二人も、きっとそう思うはずだから。
「ごめんください」
「あっ、はいっ!」
その時、店の戸が開いて、馴染みのご婦人が入ってきた。スフレは慌てて居住まいを正し、接客をする。彼女が買っていくのは当然、その日を生きるための黒パンで、スフレは頼まれた個数を一つ一つ丁寧に、かごに入れていく。
確かに数を確かめて、笑顔と一緒にご婦人に渡す。他と大して味の変わらないスフレのパンをこの女性が買い求めるのは、その笑顔のためだとは、スフレ自身気づいていない。
「ありがとう」
そう言って帰ろうとする女性。けれど今日は珍しく、ショウケースの隅にひっそりと置かれたお菓子に目を止めた。
「そのお菓子、いつも置いてあるけれど」
「あぁ、それですか? ここ、一応お菓子屋さんだったので、その名残で」
「見たことないくらい真っ黒だけど、なんていうお菓子なの?」
「チョコレートって言うんです。ほんとは牛乳とか砂糖を混ぜて、もう少し明るい色にするんですけど」
今や、どちらも貴重だった。
ほとんど純粋にカカオ豆を原料とするチョコレートは、一見するとゴキブリかなにかと間違えるほどに黒く、つい吐き出しそうになるほど苦い。
およそ売れたものではないし、スフレも丁寧にそのままを説明するから、余計に売れない。その代わり、砂糖などが入っていない分保存が効くので、陳列しておいてもさほど財布が痛まない。
「そうは言っても、結局売れないんでしょう?」
「あはは。そうなんですけど。半分願掛けみたいなものなので」
スフレがはにかみながらそう言うと、女性は眩しさを覚えて「あらそう」としか返すことができなかった。スフレはそのまま帰っていくご婦人を見送り、恥ずかしそうに頭をかく。
まさか、どんなチョコレートより深い黒をしたこのチョコレートを置いておけば。ダーカー・ザン・チョコレートの名で通っている最愛の暗殺者が帰ってきそうだなんて、そんなことは言えなかった。
彼女は今、悪いことで済ましてはいけない、罪を犯しているだろう。それこそ、誰もが苦すぎて吐き出してしまうチョコレートと同じように、彼女は唾棄すべき大罪人だったりするのだろう。
けれど、スフレは思う。
あのチョコレートにたとえわずかでも砂糖が入っていることを、作った僕だけが知るように。彼女を受け入れる人が一人くらいいたって、いいのじゃないかと。
だからスフレは待つのだ。
必ずあなたの元に帰ると、そう言ってくれたルビーの瞳を信じて。
今日も、開く扉の一つ一つに期待する。
「いらっしゃいませ!」
大人びた彼女の、自信満々な顔が、その扉の奥にあるのじゃないかと。
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