黒羽織

四宮

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序章・一話

05

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「・・・・・・・・・?」
眉を顰める彼の瞳には人間とは明らかに違うものが見えていた。
「夢か・・?」
と、思いつつ目を擦るものの、やはり透明な何かが見えている。

見えているのだ。人ではない何かが。

同じように着物を身に着けている人間の姿を前にして、彼はその場所に呆然と立ち尽くしてしまった。
見た目は何処から見ても人間とほぼ変わらない。それが歩く人の中をすり抜けながら普通に町を歩いている。
ただ、影虎を困惑させたものは、それだけではなかった。
歩く人間の側に、その妙なものが憑いているではないか。
人の肩に乗っていても、誰も驚かないその光景は不気味としか言いようがない。
「・・・なんだ、これは・・・」
そう思った瞬間、ぞくりと影虎の背中に何か冷たいものがサッと走り去った。

「・・・これは・・・物の怪か・・あやかしか・・幽霊か・・」
その瞬間。消えていった兄の姿が脳裏を過る。
「・・・・・・」
ズキリと疼く心の臓を落ち着かせなくてはと、視線を下方に向けたその時、通り過ぎようとしていた幽霊と不意に目が合ってしまった。
「・・・う・・・」
無意識に逃げようとした影虎の動きを察したのだろう。
眼前でピタリと動きを止めていた幽霊がニタァと薄気味の悪い笑みを浮かべると、影虎に向かって襲い掛かってきたのである。

「うわっ!何だっおめぇわぁ!」
強張る背筋もそのままに、彼は幽霊に背を向けて夢中で走った。
周囲の人々の表情は変わらない。その姿はもしかすると自分にしか見えていないのかもしれない。
「嗚呼!人が多すぎる!」
「ごめんよ!」と声を掛けながらも間に合わず、幾人もの通行人にぶつかる度に「馬鹿野郎!気をつけろい!」「気をつけんさい!!」といくつも罵声が飛び込んでくる。けれど、逃げているこちらからしてみれば、その言葉にいちいち立ち止まってなどいられなかった。

影虎は罵声に向かって「ごめんよ!」と、返しながら人の中をすり抜けるように、ただ夢中で走った。
その度に、振り返る皆の視線が突き刺さってくる。
『くそっ!こんなところで・・!』
逃げるうちに、ぜいぜいと呼吸が苦しくなってきた。
どれくらい走ったのか見当もつかない。
「!?」
やがて人の数も少なくなったという頃、彼は眼下の小石に躓いて地面に転げてしまった。
同時に「ぐっ」と声が漏れる。ビタンとぶつけた顎と腹がじんじんと痛い。
ハッと気がついた時にはもう遅かった。

自分に襲い掛かる幽霊が、もう目の前に迫っている。
とっさに腕で頭を抱えようとした瞬間、彼の目の前に飛び込んできたものは、長く伸びた大きな刀であった。
ヒュッと風を切る微かな音が、ふわりと彼の腕を掠め、呆然と顔を上げた先には、横一直線に断ち切られる幽霊の歪んだ表情が見える。

うめく様な表情の幽霊の腹が綺麗に裂かれ、腹の中からは舞い上がるように蒼い桜の花びらがいくつも空に向かって舞い上がっていく。
キラキラと藍色に光る桜の花びら。
その美しい光景に我を忘れて、彼はただ呆然と見とれてしまっていた。

それ程に美しかったのだ。
青く光る桜の花が。舞いながら、ゆっくりと消えて行くその光景が。

・・・きれいだ
無意識に動いた唇から発せられたその声が、音に変わることはなかった。

「よう。知ってるか」

急に聞こえる声にハッと我に返れば、眼前には黒い袴が見えた。
段々と視線を上に向けて行くと、今度は黒い羽織が見える。
声の主と変わらない大きさの刀を軽々と肩に担ぎ、背まで伸びた黒く長い髪が静かに揺れた。
その刀の主は、どこか楽しそうに影虎を見下ろしながら、

「幽霊ってのはなぁ。斬ると桜が舞うんだぜ」

と、口角を僅かに上げながら、ニヤリと笑った。
「・・・え・・」
状況に頭がついていかない影虎をよそに、後方に視線を向けた男が真面目な表情に変わる。
男の視線を追いかけようと、影虎が後ろを振り向いた時、うっすらと透き通ったような光が見えた。

「・・・・・・・・・・」
いつ集まったのか。先程の倍ともいえる数の幽霊が男を取り囲んでいる光景に影虎の眼が大きくなる。
「・・・・・悪ぃな・・・これも仕事なんだ・・・」
トントンと担いだ刀を揺らしながら、男の表情に暗い影が差す。だがそれは一瞬で険しいものへと変わり、表情を崩すことなく腰を落とした姿勢でフッと身を翻すと、幽霊に向かって刀を横一文字に振り回したのだ。

その刀の幅は武士が身に付ける刀よりもだいぶ横に広い。恐らく遠心力を利用しているのだろう。しかし、重そうな刀とは裏腹に男の動きは風のように速かった。
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