黒羽織

四宮

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序章・一話

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首を傾げる影虎に向かって、立ち上がった由利乃は「私と君の分の膳を運んでもらったんだ」と笑みを浮かべ、未だ状況がよく呑み込めない彼に「部屋においで」と声をかけている。
その言葉に手を引かれるように影虎もまた遠慮がちに部屋へと上がる事にしたのである。
「えっと・・」
「さあ。座って」
部屋に入ると布団は隅にたたまれた状態で置かれていて、目の前には二人分の蓋付きの膳がちょこんと置かれている。
「・・・・・?」
先程この膳を運んできた女の子の姿は無く、由利乃は膳の前に正座の姿勢になると
「さあ、座って。食べながら話をしようか?君の居た場所の話を聞かせてよ」
ね?と言うように片目を瞑りながら悪戯っぽい表情を見せている。その表情にホッと心の何処かが軽くなった影虎は、自身も静かに席に着くと料理を食べることにしたのだった。

「・・・・・・わぁ・・・・・」
カパリと汁椀の蓋を取ると、白い湯気と共に味噌の香りがほのかに匂った。
汁椀に大根の煮付け。白米のよそわれた茶碗を前にして、影虎は本当にこれを食べても良いものかどうか迷ったが、残すのも失礼だろうと思い、ありがたく頂戴することにしたのだ。
「・・・・・・・」
そっと汁椀に口をつけて、それをごくりと飲んでみる。
自分が知る味噌汁と比べてやや味付けが薄い気もするが、とても温かくて美味しかった。
喉の奥を通る際に気持ちが良いと感じるのは多分、体が冷えてしまっているせいだろう。
『美味しい・・』
ほっと息を吐きながら、汁椀を膳に置いて由利乃に視線を向ければ、こちらを嬉しそうに見る彼と目が合ってしまい、無意識に顔を逸らしてしまった。
「・・・・・」
なんだかこの人といると落ち着かない。というか食べづらい。
先ほどから心の臓が煩く鳴っている。チクチクと背中が痛いのは気のせいだろうかなんて思いながら、おずおずと大根の煮付けに箸をつけようとしたその時、由利乃の声が聞こえて彼は箸を置くと声の主を見た。

「君の居た場所とは味付けが違うかもしれないね」
そんなことを彼は言う。
影虎は首を軽く左右に振りながら「でも、此処のご飯の方が美味しいです」と答えた。
実際そうだったのだ。
山の中では採れるものは限られていて、此処の食事と比べるのが恥ずかしくなるくらい違っていた。住む場所が違うのだから当然と言われれば、その通りなのだけれど。

「君のいた場所の事を聞かせて」
柔らかい声色。落ち着くような声音。
まるで湯の中にいるような心地良さを感じながら、その声に導かれるように影虎はゆっくりと話し始める。

懐かしい、それでいて遠い。昔の事を・・・。

「僕の居た所は山の中で、鵜流派と呼ばれていました。何故呼ばれたのか、僕は理由を知らないです。ただ、僕の居た場所は山の中でもかなり奥の方で、朝になると霧が深かった・・」

そこまで話して、彼は思い出す。自分の兄のことを・・。

「僕には血の繋がりの無い兄者様が居ます。兄者様と言っても僕よりも大きくて、いろんな事を教えてくれました。僕に名前をくれたのも兄者です」
そう言って箸を両手に持ちながら彼は俯いた。
でもその視線は、膳ではなく何処か遠い場所を見ている。
そんなことを由利乃は思う。

「紺色の忍び装束が格好良くて、兄者は動きも速くて技を使うのも凄く綺麗でした。顔も僕なんかとは違って・・綺麗だったー・・。里の女忍が皆、兄者を見てはウットリとした顔をしていたんです。でも兄者はそんな人達よりも僕と一緒にいるほうがいいらしくて・・・」
そこまで言って影虎の言葉が途切れる。

懐かしい風景が甦る。辺り一面に広がる緑が、風に揺れている。
周囲は木々で覆われている森の中で、影丸が人差し指を立てながら此方を見ている。
『いいか。影虎。まずは何も考えずにその苦無を投げてみろ』
『でも兄者・・ここじゃ・・遠すぎるよ・・』
『また、お前の悪い癖がはじまった』
そう言って顔を覗き込みながら、困ったように笑う兄の顔が甦る。
整った凛々しい顔がくしゃっと崩れる瞬間。
苦手だと言っていた許婚の琴音ことね様にも見せた事の無い兄様の表情。

『兄者!!』と呼びながら走っていく自分の姿。
嬉しそうに振り返る兄の顔は笑っていて、その背中は誰よりも逞しかった。
大きな背中。
兄の胸の中に飛び込んで抱きしめられるのが好きだった。
いつか兄のようになりたい。
それはいつしか自分の目標になっていた気がする。

桜が好きで、木を見上げるのが好きで、風に身を任せるように寝転んで日向ぼっこをするのが好きだった兄。大好きだった。その側に居る事が楽しくて幸せだった。

何の忍術も会得出来なくて座り込む自分に『慌てる必要はないさ』と隣に座りながら、草笛を吹く兄の横顔。懐かしい音色。全てが昨日の事のように思い出され、箸を握った両手にポタリと何かが落ちるまで、影虎は話すのを止めようとはしなかった。

「・・・・・・」
不意に背後に熱が生まれる。
その温もりに驚いた影虎だったが、由利乃の「ごめんね・・そんなつもりじゃ・・」という声と、優しく髪を撫でながら抱きしめるその腕が心地良くて。
気付いた時には「わぁぁああぁぁっ!!」と大声を上げながら、由利乃の胸に顔を押し付けていたのである。

いろんな事が甦る。思い出される昨日までの鵜流派の情景。兄の姿。
いろんな事が混ざって、ぐちゃぐちゃになって、今まで押し込めていた事が爆発したように彼はただ大声で泣いていた。

それをただ由利乃は黙って受け止めた。
何も言わずにずっと。
「・・・・・・・・・」
どれくらい時間が経過したのか検討もつかない。
気がついた時には、影虎は由利乃の腕の中ですうすうと規則正しい寝息を立てながら眠ってしまっていたからだ。
「・・たくさん・・がんばったね・・」
と、呟いた由利乃の声は静かに溶けていったのである。
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