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4泊目

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 私の耳を支配しているのはシャワーの音。顔に当たる流水の感触が心地よい。手で水を払い、目を開ける。濡れた髪を束ねて、もう一度湯船に身体を沈めた。
 今日は佐久間から珍しく誘われた。休みだったからジャージで髪も整っていなかった。1時間の猶予をもらって、私は自分の身なりを整える。化粧にはそこまで時間はかけない、いつも割と適当だ。細めにアイラインを引いて、鏡を見て自分に暗示をかける。
(大丈夫、今日も酷くはない。)


 待ち合わせのいつものコンビニに向かう途中、地元の人がよく使う抜け道に差し掛かったところだった。私は腕をぐっと引かれ、心臓が跳ね上がる。驚きで声も出ず、振り返るとそこには私のトラウマがいた。
「な、んで…」
「志穂、その…つい。」
私は手を振り解くと、一歩後ろに下がった。逃げる事は出来なかった。綺麗に巻いていた髪の毛を彼に触られないように意識を注ぐ。
「つい、じゃないんだけど。何?」
「あのさ、怒ってる?」
つい、間抜けな声が出てしまった。怒っていないはずがない。けれど、それよりも呆れの感情が上回って、私は次に失笑していた。
「もう、興味ないよ。」
「なんで?新しい男でもできた?」
気がつくと彼は間合いを詰めていた。私は焦っていることを悟られないように平然を装う。なんとか10分以内に切り上げないと佐久間を待たせてしまう。それは避けたかった。
「彼女いる奴が何言ってんの?関係ないでしょ。」
「できてないんだ。」
ニヤリと笑う元彼はべっとりと私にこびりついてきた。言いようのない気持ち悪さが、そしてどこか懐かしさが私を取り巻く。彼の越しに見慣れた人が歩いてきているのが見えた。
「っ、翔ちゃん!!」
出来るだけ大きな声で叫んだ。付き合っていた時に呼んでいた、もう一生呼ぶことがないと思っていた呼び方で。目配せをして助けを求める。翔太は目を見開いて驚いていた。
「…志穂?」
久しぶりに翔太の口から私の名前が出てきた。仕方のない状況なのにそれに少しだけ心臓が跳ねる。
 私は隙を見て、翔太の方へ駆けた。小さくごめんと呟いて翔太の腕に抱きつく。すると、翔太は自然に私の肩を抱き寄せた。
「何してんの?」
「今カレ?」
「だったら?」
「嘘だな。」
何故か彼の勘は鋭く、私たちの関係を否定する。翔太は私を庇うようにして、もうすこし抱き寄せた。
「なんで俺がお前に嘘つく必要があるかわかんないんだけど。」
「なんか、嘘っぽいんだよ。」
「——翔ちゃん、もう行こうよ。」
「キスでもしてみろよ。そしたら帰るわ。できないならそいつに用があるんでそっちが帰って。」
挑発するように私を見ながら彼は言った。無理だ。私たちが付き合っていた時、キスをしたのは一回だけ。軽く触れる、可愛らしいキス。私は赤面して俯くしかなかった。こんなことで翔太に迷惑をかけてしまうなら、謝ってちゃんとあいつの話を聞こう。
 すると、頭上から舌打ちが聞こえて、私のおとがいに手が添えられ、翔太の方を向けさせられた。
 翔太の顔は近づいて、私の唇に遠慮がちに触れる。翔太への申し訳なさで泣きそうになってしまった。好きでもない、自分のことを振った女にキスをさせてしまった。
(ごめんなさい——)
 すぐに離れると思った唇は一向に離れず、むしろ角度を変えてもう一度キスされる。唇を舌でこじ開けられて、私の頭はパニックになる。反射的に顔を離そうとした私の後頭部は押さえつけられる。私の腰を抱きながら深さを増していく翔太の口付けはもう大人だった。
 この状態で興奮している自分が情けないが、初めて翔太としたディープキスは腰が抜けそうなくらい気持ちが良かった。柔らかな唇の感触と味わった事のない彼の味。情けない声が少しだけ洩れる。舌を吸われて、もう一度絡めてくる。これでもかと私の口内を貪った翔太は、優しく最後に触れるだけのキスを落とした。
「ん?まだいたの?志穂はお前なんかもう眼中にないよ。いつまで自分のものだと思ってるわけ?
 志穂は元彼とはより戻さないってさ。そう言ってたよ。覚えときな。」
淡々と告げる翔太が、少し悲しそうに見えたのは私の願望だろう。
「なんか、疑って悪かった。帰るわ。」
思ったより素直に引き下がった彼は私の横を通り過ぎていく。その瞬間私の身体は反射的に強張った。
「あ、そうそう、志穂の処女、最高だったぜ。」
冷徹に笑って翔太の肩をポンと叩き、彼は爆弾を落としていった。翔太が彼の事を睨んで、彼はまた挑発する様に「おー、怖。」と肩を竦めて立ち去った。
 彼の姿が見えなくなると私は腰が抜けて、その場にへたり込んだ。翔太は優しく笑って、私を心配してくれる。汚れるよと私が立ち上がるのを手助けしてくれた。
「ごめん。」
「いや、俺こそ…その。」
翔太は目を泳がせながら私にあやまった。私は出来るだけ気にしていないフリをして彼の謝罪を断りお礼を言った。何が模範解答なのかはわからなかった。
 翔太に助けて貰ったのに、私は彼があんな風にキスをするようになったことに心がズキズキしていた。元カノとあんな風にキスをしていたのだと思うとまた泣きそうになる。ここで泣き出してしまうとまた彼を困らせてしまうので、大きな深呼吸をして翔太にもう一度お礼を言った。

 送ろうかと言う翔太の提案を断って、私は佐久間の元へ急いだ。待ち合わせの時間には数分遅れている。コツコツとヒールの音を鳴り響かせて走った。
「——ごめん!」
 佐久間はコーヒーを飲みながら運転席に座っていた。早く乗るように合図されて、私は慌てて助手席の方へ回る。
「本当にごめん。」
「いや、数分でしょ?気にしてないよ。
 それより、珍しいね渋川が遅れるなん…て…。」
何かに気がついた佐久間は、言葉の速さを小さくした。私は不思議に思って首を傾げる。私の方へ佐久間は手を伸ばし、唇に軽く触れた。
「口紅取れるようなことしてたの?」
あからさまに不機嫌な佐久間は私が戸惑っている間に私のシートベルを無理矢理締めて、粗めに車を発進させた。
 いつも通るラブホへの道のりは気まずくて、音楽が辛うじて沈黙を作らないようにしてくれている。
「ねえ…怒ってる?」
皮肉にも私はさっき元彼に聞かれたのと同じことを聞いていた。佐久間は大きな溜息をつく。
「別に?興味ねぇよ。」
佐久間の言葉に息が詰まる。喉元が熱くなって、視界が少しだけ滲む。というか、そもそも私たちはだ。嫉妬することや涙を堪えることの方がおかしいはずだ。
 そう思ったらなんだか私は腹が立ってきて、窓の外に目を向けた。流れていく景色はいつもと変わらない。明るい恋愛ソングは私たちの雰囲気を打ち壊している。エンジン音が微かに聞こえる車内では一切この後口を開くことはなかった。
 ラブホに着くと彼は先に降りて、一応私を待ってくれる。私が降りたのを確認するとスタスタと先に歩いて中に入っていった。追って私もホテルに入る。
「208号室。」
それだけ言うと佐久間は部屋に向かっていった。こちらを振り返らない背中。嘘でも今日は可愛いと言ってくれない。
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