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最終章 初恋と親友

第三十六話

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 一緒に美術館へ行った日以降も、俺は定期的にシアンさんと会っていた。
 それまでは美術館やカフェに出かけていたのだが、「インドアを極めし者」である彼女にとって外出は非常にハードルが高いらしく、四度目にして「遊ぶならうちに来い」と家にお呼ばれしてしまった。

 シアンさんは、都心から少し離れたところで一人暮らしをしている。
 彼女の部屋は一見綺麗に片付いているように見えるが、そんなことは全くない。ベッドの下に押し込まれた衣服や本、不自然にストールで隠されたソファなど、チラッと見ただけでも普段は散らかっているのだろうと分かる。

「シアンさん。このソファ座っていい?」
「だ、だめー! そこには推しのぬいたちがモゴモゴ」
「ぬい?」
「まー細かいことは気にしないで、クッションの上にお座りください!」

 言われるがままに、床に置かれた、ぺちゃんこになっている低反発クッションに座る。
 俺は少しおかしいので、この残念な部屋にも、ごまかすように笑うシアンさんも、ほぼ床の上と同じ座り心地の低反発クッションですら、可愛く思えて仕方がない。

 つまるところ、シアンさんの全てがドツボだった。

「えっと、どうしよっか。『ネオン』を観るか、ルノワールの図録を見るか、どっちがいい?」
「図録が見たい。『ネオン』のBRⅮは俺も持ってるから、ここでしか見られないものを見たい」
「はーい」

 すぐにシアンさんが図録を三冊持ってきた。

「全部がルノワールじゃないよ。ルノワールの絵画がたくさん載ってるの持ってきた!」
「おー。早速見せてもらお」
「どうぞどうぞー」

 ルノワールの絵画は素晴らしい。色彩が美しくて、俺は特に彼の描く青色が好きだと感じた。
 それに何より、彼の描く女性が愛おしい。もちろん俺からしたら細い女性の絵もたくさんあったが、それも肉が柔らかそうで、瞳が慈しみに溢れている。

「俺、ルノワールと友だちになりたい」
「あははっ!」
「俺のこの気持ちを分かってくれるのは、ルノワールだけかもしれない……」
「もしくは、ユウくんの前世はルノワールだったのかも」
「さすがにそれは怒られそう」

 冗談を交わしながら、図録のページをめくっていく。図録の解説と、シアンさんの主観と妄想マシマシの解説を聞き比べるのが楽しかった。

 俺の前世がルノワールなのであれば、シアンさんの前世は、きっと絵画のモデルさんだ。彼女は絵画から飛び出してきたと錯覚してしまうほど、ルノワールの描いた女性たちにそっくりなのだから。
 理想の女性が、今俺の目の前にいる。そう考えただけで体が誤作動を起こしてしまいそうになった。

 俺の視線に気付いたシアンさんが、柔らかそうなお腹をぽんぽんと叩く。

「ユウくん。本当に私の体型を見ても、いやな気持ちにならないの?」
「ならない。むしろ人生で一番幸せを感じてる」
「こんなおなかでも?」
「最高じゃん」
「この太い足も?」
「膝枕してほしいです」

 真顔で即答する俺に、はにゃりと破顏するシアンさん。かわいすぎる。最高。

「膝枕する?」
「えっ」
「私のくそでぶ太ももで良ければ、どうぞ」

 シアンさんはそう言って太ももを叩く。ぺちぺちと肉が弾ける音がして、俺の下半身は完全に操作性を失った。

「あの……ほんとにいいの?」
「どうぞ、ユウくんの言う、ポチャバブ欲を満たしてください」

 はぁぁぁ……。こういうとこなんだよシアンさん。もうすでにポチャバブ欲が満たされているんだよ俺は。
 彼女はその母性溢れる包容力で、俺が今まで誰にも明かせなかった性癖を受け入れて、さらに満たそうとしてくれている。

 俺は生唾を飲み込み、おそるおそる頭を彼女の膝に預けた。や、やらけぇぇ……。もちもちしてやがるぜ。幼児返りが止まんねえ。
 シアンさんが俺の頭に手を置き、子守唄を歌う時のように優しく叩く。
 涙が出た。止まらなくなった。

 今までそこはかとなく感じていた、この世の中と俺自身とのズレ。他の人たちと、同じ時に、同じ場所で生きているのに、俺だけ異次元にいるような違和感がずっと拭えなかった。
 今、世の中と俺の次元が繋がった。シアンさんの柔らかい、太ももの上で。

「ユウくん、こんな私を褒めてくれてありがとう」

 彼女の言葉に、俺は嗚咽を抑えるのに必死で応えられなかった。お礼を言いたいのは俺の方だ。
 こんな俺を、受け入れてくれてありがとう。


「ユウくん……。そろそろ足が限界。痺れて感覚がないんだけど……」
「ごめん。もうちょっと待って。収まらないんですよ下半身が。申し訳ないけど」

 膝枕をして十分も経たないうちにシアンさんが音を上げたが、見事にテントを張っている姿を見せたくなくて俺はグズッていた。

「いやもう無理。足がちぎれる。デブをなめないで。デブの正座は負荷がすごいんだから」
「あと五分……」
「無理無理。もう別にどうなってたっていいから降りてください」
「ぐえっ」

 俺の頭を床に落として、足を伸ばしたシアンさんは、「あぁ~」とオッサンのような声を漏らした。それすらも可愛い。どうしよう。俺、シアンさんと出会って余計変態に拍車がかかった気がする。

 俺は頭だけを動かして彼女を見た。
 趣味が同じで、好みの顔と体型をしていて、何より性格が良いシアンさん。
 彼女が隣にいるだけで、彼女と文字のやり取りをしているだけで、体がふわふわして幸福感に包まれる。

 それと同時に、魂が抜けてしまいそうな不快感もあった。気持ちも体も言うことを聞かない。人はこれを、ドキドキすると言うのだろうか。

 俺はたぶん、彼女と初めて会ったあの日から……いや、今思うと『ネオン』を一緒に観始めた時――顔も知らない時から、シオンさんに恋をしていた。

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