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3章
第26話 噛み合わない二人
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雨が続く季節になった。
海茅は湿気で膨らむ髪をまとめるために、地味なヘアゴムでぴっちりと結う。登校するだけで肌が汗ばみ、汗拭きシートで拭いても拭いても不快感は収まらない。授業が終わった頃には蒸れた靴下の臭いが気になり、上履きを脱いで音楽室に入るのが帰りたくなるほど嫌だった。
基礎を真面目にするようになってから、海茅のサスペンドシンバルの音が格段に良くなった。
海茅に頼まれて音のチェックをしていた段原先輩も、満足げに口元を緩めている。
「うん! 粒も揃ってるし良い音鳴ってる。やっぱり海茅ちゃんはシンバルの響かせ方が上手だね」
「ありがとうございます! 今までは、響かせたい音はイメージできても、手が思うように動かなくて上手くいかなかったんです。でもスネアスティック練習をちゃんとし始めてから、手じゃなくて耳に集中できるようになりました!」
「それにしても、どうして急にスネアスティック練習に打ち込むようになったの? 今まではずっとイヤイヤしてたのに」
段原先輩の質問に、海茅は苦笑いをしながら答える。
「えっと、管楽器の人たちも、退屈でしんどいロングトーン練習頑張ってるじゃないですか。だから私も頑張ろうって思えて」
「確かに、ロングトーン練習は大変そうだもんね」
「ほら、スティック練習は叩いてる間も息はできますし。ロングトーンに比べたら全然苦しくはないなって考えると、何を甘えたことを言ってるんだろう私、ってなって」
「そんなふうに思う必要はないんだけど……。でも、海茅ちゃんが基礎練習に前向きになってくれてよかったよ」
コンクール曲の楽譜を渡されて約三カ月が経った。
今では暗譜もして、合奏でもそれなりに合わせられる程度には上達した。かといって演奏の質はまだまだなので、海茅の課題は山積みだ。
コンクールまであと約二カ月半。折り返しを過ぎてから顧問の指導が一層厳しくなった気がする。管楽器への指導なんて、海茅では到底分からないような難しい注文ばかりしていた。
その日の合奏は、フルートパートがたくさん注意されていた。
顧問の求める表現を音に乗せられず何度もやり直しをさせられた明日香は、自主練の時間になっても珍しくしょんぼりと椅子に座っていた。
海茅は明日香の耳に入らないよう、コソッと段原先輩の耳元で囁く。
「先輩。今日のフルート、そんなに悪かったですかね……?」
「うーん、悪くはなかったと思うんだけど」
「じゃあどうして、あんなにフルートにキツく当たるんでしょう……」
段原先輩はキョトンとして答えた。
「どうしてって、フルートに期待してるからだよ。今年のフルートはレベルが高いから」
「上手だったら普通怒られないんじゃないですか?」
段原先輩は首を横に振り、顧問について教えてくれた。
顧問はある有名な指揮者の孫弟子で、本来、侭白中学校のような弱小吹奏楽部にいるにはもったいないほどの音楽性の持ち主なのだそうだ。そのため、基本的には部員のレベルに合わせて指揮を振っているらしい。
「でも、今のフルートなら、顧問が求めている音楽を表現できるんじゃないかって思ったんだと思う。だから求める音楽のレベルが上がって厳しくなったんじゃないかな」
そういわれると、初めての合奏以降、海茅は顧問にほとんど注意されたことがなかった。それは海茅の演奏が問題ないからだと思っていたのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。
(期待されてないってこと? なんかそれ、ムカつく……)
海茅に沸々と練習意欲が湧いてきた。彼女は鼻息を荒げてクラッシュシンバルを引っ掴む。
自主練をする前に、海茅はクラッシュシンバルを持ったまま明日香の前で仁王立ちした。
「如月さん!」
駐輪場で気まずい雰囲気になったっきり、二人は言葉を交わしていなかった。
明日香は突然海茅に呼ばれ、体を強張らせる。
「ど、どうしたの彼方さん……?」
「今日、たくさん怒られて落ち込んでるの?」
「う、うん……」
明日香の目がじんわり滲んでいる。余程堪えているようだ。
海茅は仁王立ちしたまま、音楽室の端を顎で指した。
「ちょっと話せる?」
「あ……うん」
のろのろとフルートを椅子に置いた明日香を、海茅は音楽室の隅まで連れていく。
海茅が口を開く前に、明日香が勢いよく頭を下げた。
「彼方さん! この前は本当にごめんなさい!」
「えっ、なんのこと?」
「彼方さんがフルートしたかったことも知らずに、あんな話聞かせたこと。ずっと謝らなきゃと思ってたのに、怖くてずっと言い出せなくて……。本当にごめんなさい」
海茅はそんなことすっかり忘れていた。確かにあの時は腹が立ったが、引きずるようなことでもないと思っていた。何より校外学習があったので、匡史のことで頭がいっぱいになり、明日香の言葉は隅に追いやられていたのだ。
それなのに、明日香は一カ月以上もこのことを気にしていたようだ。
海茅は、この世の終わりのような表情を浮かべている明日香に両手を振る。
「気にしないで!? 私忘れちゃってたくらいだし」
「でも、私だったらきっと一生恨むレベルの発言しちゃったから……」
「いや全然そこまでじゃなかったよ!?」
いくら海茅が許そうとしても、明日香の気が収まらないようだ。これ以上話しても終着点がないと察した海茅は、慌てて本題に移った。
「先輩に聞いたんだけど、如月さんが顧問にたくさん怒られたのって期待されてるからなんだって」
海茅は段原先輩が言っていたことを明日香に話した。
しかし明日香は納得できていないようだ。
「ううん。私が下手だからだよ」
海茅の顔がひくついた。たとえそのままの意味だったとしても、明日香がこれを言ったら嫌味にしか聞こえない。
「だって私、今日全然上手く吹けなかったもん」
「……如月さんって意外とネガティブなんだね。そんな上手なのに」
本題も二人が頷ける答えは導けなさそうだ。
海茅は立ち上がり、クラッシュシンバルの練習をすることにした。
海茅は湿気で膨らむ髪をまとめるために、地味なヘアゴムでぴっちりと結う。登校するだけで肌が汗ばみ、汗拭きシートで拭いても拭いても不快感は収まらない。授業が終わった頃には蒸れた靴下の臭いが気になり、上履きを脱いで音楽室に入るのが帰りたくなるほど嫌だった。
基礎を真面目にするようになってから、海茅のサスペンドシンバルの音が格段に良くなった。
海茅に頼まれて音のチェックをしていた段原先輩も、満足げに口元を緩めている。
「うん! 粒も揃ってるし良い音鳴ってる。やっぱり海茅ちゃんはシンバルの響かせ方が上手だね」
「ありがとうございます! 今までは、響かせたい音はイメージできても、手が思うように動かなくて上手くいかなかったんです。でもスネアスティック練習をちゃんとし始めてから、手じゃなくて耳に集中できるようになりました!」
「それにしても、どうして急にスネアスティック練習に打ち込むようになったの? 今まではずっとイヤイヤしてたのに」
段原先輩の質問に、海茅は苦笑いをしながら答える。
「えっと、管楽器の人たちも、退屈でしんどいロングトーン練習頑張ってるじゃないですか。だから私も頑張ろうって思えて」
「確かに、ロングトーン練習は大変そうだもんね」
「ほら、スティック練習は叩いてる間も息はできますし。ロングトーンに比べたら全然苦しくはないなって考えると、何を甘えたことを言ってるんだろう私、ってなって」
「そんなふうに思う必要はないんだけど……。でも、海茅ちゃんが基礎練習に前向きになってくれてよかったよ」
コンクール曲の楽譜を渡されて約三カ月が経った。
今では暗譜もして、合奏でもそれなりに合わせられる程度には上達した。かといって演奏の質はまだまだなので、海茅の課題は山積みだ。
コンクールまであと約二カ月半。折り返しを過ぎてから顧問の指導が一層厳しくなった気がする。管楽器への指導なんて、海茅では到底分からないような難しい注文ばかりしていた。
その日の合奏は、フルートパートがたくさん注意されていた。
顧問の求める表現を音に乗せられず何度もやり直しをさせられた明日香は、自主練の時間になっても珍しくしょんぼりと椅子に座っていた。
海茅は明日香の耳に入らないよう、コソッと段原先輩の耳元で囁く。
「先輩。今日のフルート、そんなに悪かったですかね……?」
「うーん、悪くはなかったと思うんだけど」
「じゃあどうして、あんなにフルートにキツく当たるんでしょう……」
段原先輩はキョトンとして答えた。
「どうしてって、フルートに期待してるからだよ。今年のフルートはレベルが高いから」
「上手だったら普通怒られないんじゃないですか?」
段原先輩は首を横に振り、顧問について教えてくれた。
顧問はある有名な指揮者の孫弟子で、本来、侭白中学校のような弱小吹奏楽部にいるにはもったいないほどの音楽性の持ち主なのだそうだ。そのため、基本的には部員のレベルに合わせて指揮を振っているらしい。
「でも、今のフルートなら、顧問が求めている音楽を表現できるんじゃないかって思ったんだと思う。だから求める音楽のレベルが上がって厳しくなったんじゃないかな」
そういわれると、初めての合奏以降、海茅は顧問にほとんど注意されたことがなかった。それは海茅の演奏が問題ないからだと思っていたのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。
(期待されてないってこと? なんかそれ、ムカつく……)
海茅に沸々と練習意欲が湧いてきた。彼女は鼻息を荒げてクラッシュシンバルを引っ掴む。
自主練をする前に、海茅はクラッシュシンバルを持ったまま明日香の前で仁王立ちした。
「如月さん!」
駐輪場で気まずい雰囲気になったっきり、二人は言葉を交わしていなかった。
明日香は突然海茅に呼ばれ、体を強張らせる。
「ど、どうしたの彼方さん……?」
「今日、たくさん怒られて落ち込んでるの?」
「う、うん……」
明日香の目がじんわり滲んでいる。余程堪えているようだ。
海茅は仁王立ちしたまま、音楽室の端を顎で指した。
「ちょっと話せる?」
「あ……うん」
のろのろとフルートを椅子に置いた明日香を、海茅は音楽室の隅まで連れていく。
海茅が口を開く前に、明日香が勢いよく頭を下げた。
「彼方さん! この前は本当にごめんなさい!」
「えっ、なんのこと?」
「彼方さんがフルートしたかったことも知らずに、あんな話聞かせたこと。ずっと謝らなきゃと思ってたのに、怖くてずっと言い出せなくて……。本当にごめんなさい」
海茅はそんなことすっかり忘れていた。確かにあの時は腹が立ったが、引きずるようなことでもないと思っていた。何より校外学習があったので、匡史のことで頭がいっぱいになり、明日香の言葉は隅に追いやられていたのだ。
それなのに、明日香は一カ月以上もこのことを気にしていたようだ。
海茅は、この世の終わりのような表情を浮かべている明日香に両手を振る。
「気にしないで!? 私忘れちゃってたくらいだし」
「でも、私だったらきっと一生恨むレベルの発言しちゃったから……」
「いや全然そこまでじゃなかったよ!?」
いくら海茅が許そうとしても、明日香の気が収まらないようだ。これ以上話しても終着点がないと察した海茅は、慌てて本題に移った。
「先輩に聞いたんだけど、如月さんが顧問にたくさん怒られたのって期待されてるからなんだって」
海茅は段原先輩が言っていたことを明日香に話した。
しかし明日香は納得できていないようだ。
「ううん。私が下手だからだよ」
海茅の顔がひくついた。たとえそのままの意味だったとしても、明日香がこれを言ったら嫌味にしか聞こえない。
「だって私、今日全然上手く吹けなかったもん」
「……如月さんって意外とネガティブなんだね。そんな上手なのに」
本題も二人が頷ける答えは導けなさそうだ。
海茅は立ち上がり、クラッシュシンバルの練習をすることにした。
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