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机の上に置いていたピンク色の小ぶりなスマートフォン、キッズ用の最低限連絡だけが取れるこのスマホがメールを受信したことを知らせた。このスマホに連絡ができるのはパパと葛だけで、この時間に来る連絡はパパだと翠は知っている。
『今から帰る』
メールの内容は基本的にいつも同じで『今から帰る』か『遅くなる』かのどちらかだ。翠のスマホの受信ボックスは同じ内容のメールばかり並んでいた。
パパが時間通りに帰って来る日には学校で起きた事を話すようにしていたが、もしかするとそろそろ自分の要求を伝えても良いのかもしれないと翠は考えた。今まではパパの言う事は絶対でただ黙って従っていたが、もう翠も十一歳だ。あれがしたいこれがしたいという欲求も今まで以上に出てきた訳で、それがマンガを読みたいだとか映画を見たいだとかその程度ならパパも聞いてくれるのではないのだろうか? 翠は少しだけ、強気な気持ちだった。紅が現れた事で、翠の内面にも些細だが変化があった。心強い友達がすぐ近くにいるということは味方がすぐ傍にいるような安心感に繋がったのだ。
パパに意見を言おうだなんて、そんな発想は今までなかったのだから。
九時を過ぎた頃。ヴーンという玄関のドアのロックが解除される音がしてパパが帰ってきたことを知らせた。翠はちょうどパパの夕飯を温め直していたところで、キッチンからおかえりなさいと声をかけた。
「先にシャワーを浴びてくる。少しぐらいなら冷めても構わないから食事は出しておいてくれ」
「わかった」
ジャケットを脱いでネクタイをゆるめながらパパはシャワールームの方へと消えて行った。パパが淡々としているのはいつものことで、たくさんの児童向け小説に出てきたような大らかで優しい家族思いな父親とは程遠いように翠は思っている。翠から見てパパはいつだって何を考えているのかさっぱりな上に厳格すぎる。表情もあまり変わらない。背も高く娘の翠でさえも時折恐怖を感じてしまう存在だった。
ビーフシチューと輪切りにしたフランスパン、それからレタスのサラダをお盆に載せてテーブルへと運ぶ。強制されている訳ではなかったが、毎日遅くまで働いて休みもああまり取っていないパパに、子供心ながらせめてこのくらいはしてあげたいという翠の気持ちだった。
テレビをつけるとちょうど毎週金曜九時から放送されている豆知識クイズの番組の途中で、パパを待つ間これでも見ていようとソファに座り翠はぼぅっとその番組を眺めていた。
ドライヤーの音が止む。リビングへ続くドアが開く。
「学校はどうだった?」
ここからは父と娘の時間だった。もちろんこの時間が無い日もある。今日はある日だった。
「いつも通り、楽しかったよ」
翠はテレビを消してから再びキッチンへと向かい葛が翠の誕生日にとプレゼントしてくれたマグカップを手に取りそこに牛乳を注いだ。そうしてそれをレンジに入れて温める。
「クラスの子――凛子ちゃんって子に放課後遊ぼうって誘われたんだ」
「断ったのか」
「うん、もちろん」
「ならいい」
小学五年生にもなるとパパが放課後に遊びに行く事を絶対許してはくれないと翠はよくわかっていた。けれど高学年になったことでパパが『もう高学年なんだから遊びに行ってもいい』と許可を出さないか少しだけ期待したのだ。その期待はたった今外れてしまったが。
ホットミルクが出来上がりそれを持ってパパが食事をしている反対側に翠は座る。
「実はパパにお願いがあって」
そう話を切り出すとパパは顔をあげて鋭い目で翠のことを直視した。パパは視線が鋭くて、端的に言えば顔が怖い。けれど幼い頃の翠が葛にそれを話したところ葛は『あぁみえて優しい人だ』という。
「前に買ってもらった本、全部読み終わっちゃって」
翠は続ける。どのように言葉を選べばパパの癇に障らないか、慎重に続ける。
「だから、新しい本が欲しいなって。それか映画のディスクとか……勉強の息抜きになるものが何もなくって」
はっきりと、直球にマンガが読みたいだとかこういう映画がみたいだとかそう言えたら幾分か楽なものだ。しかし、パパの様子を伺いながら話をするとき、翠はどうにも遠回しない方をしてしまう。
「わかった、考えておく」
「ありがとう……」
結局、マンガやゲーム機が欲しいとは言えなかった。例え言えたとしても買ってもらえる事はないだろう。
パパに自分の意見を言うときにはどうにも緊張してしまう。そこでようやく翠はホットミルクに口を付けた。生ぬるくて、薄い膜が口のなかに張り付く。どうにも拭えない不快感を抱きながら翠はホットミルクを飲み干し、逃げるように自室へと向かった。
先程書き終えたばかりの交換日記を引っ張り出し、下に残った僅かなスペースに『パパにお願いしたけどゲームやマンガは買ってもらえなさそう』と付け足し、泣いている絵文字も添えて置いた。パパが厳しいのは昔からだ。仕方がない。そう自分に言い聞かせて、バイトができる年齢になったらアルバイトをして好きなものを買おうと翠は密かに心に決めたのだった。
『今から帰る』
メールの内容は基本的にいつも同じで『今から帰る』か『遅くなる』かのどちらかだ。翠のスマホの受信ボックスは同じ内容のメールばかり並んでいた。
パパが時間通りに帰って来る日には学校で起きた事を話すようにしていたが、もしかするとそろそろ自分の要求を伝えても良いのかもしれないと翠は考えた。今まではパパの言う事は絶対でただ黙って従っていたが、もう翠も十一歳だ。あれがしたいこれがしたいという欲求も今まで以上に出てきた訳で、それがマンガを読みたいだとか映画を見たいだとかその程度ならパパも聞いてくれるのではないのだろうか? 翠は少しだけ、強気な気持ちだった。紅が現れた事で、翠の内面にも些細だが変化があった。心強い友達がすぐ近くにいるということは味方がすぐ傍にいるような安心感に繋がったのだ。
パパに意見を言おうだなんて、そんな発想は今までなかったのだから。
九時を過ぎた頃。ヴーンという玄関のドアのロックが解除される音がしてパパが帰ってきたことを知らせた。翠はちょうどパパの夕飯を温め直していたところで、キッチンからおかえりなさいと声をかけた。
「先にシャワーを浴びてくる。少しぐらいなら冷めても構わないから食事は出しておいてくれ」
「わかった」
ジャケットを脱いでネクタイをゆるめながらパパはシャワールームの方へと消えて行った。パパが淡々としているのはいつものことで、たくさんの児童向け小説に出てきたような大らかで優しい家族思いな父親とは程遠いように翠は思っている。翠から見てパパはいつだって何を考えているのかさっぱりな上に厳格すぎる。表情もあまり変わらない。背も高く娘の翠でさえも時折恐怖を感じてしまう存在だった。
ビーフシチューと輪切りにしたフランスパン、それからレタスのサラダをお盆に載せてテーブルへと運ぶ。強制されている訳ではなかったが、毎日遅くまで働いて休みもああまり取っていないパパに、子供心ながらせめてこのくらいはしてあげたいという翠の気持ちだった。
テレビをつけるとちょうど毎週金曜九時から放送されている豆知識クイズの番組の途中で、パパを待つ間これでも見ていようとソファに座り翠はぼぅっとその番組を眺めていた。
ドライヤーの音が止む。リビングへ続くドアが開く。
「学校はどうだった?」
ここからは父と娘の時間だった。もちろんこの時間が無い日もある。今日はある日だった。
「いつも通り、楽しかったよ」
翠はテレビを消してから再びキッチンへと向かい葛が翠の誕生日にとプレゼントしてくれたマグカップを手に取りそこに牛乳を注いだ。そうしてそれをレンジに入れて温める。
「クラスの子――凛子ちゃんって子に放課後遊ぼうって誘われたんだ」
「断ったのか」
「うん、もちろん」
「ならいい」
小学五年生にもなるとパパが放課後に遊びに行く事を絶対許してはくれないと翠はよくわかっていた。けれど高学年になったことでパパが『もう高学年なんだから遊びに行ってもいい』と許可を出さないか少しだけ期待したのだ。その期待はたった今外れてしまったが。
ホットミルクが出来上がりそれを持ってパパが食事をしている反対側に翠は座る。
「実はパパにお願いがあって」
そう話を切り出すとパパは顔をあげて鋭い目で翠のことを直視した。パパは視線が鋭くて、端的に言えば顔が怖い。けれど幼い頃の翠が葛にそれを話したところ葛は『あぁみえて優しい人だ』という。
「前に買ってもらった本、全部読み終わっちゃって」
翠は続ける。どのように言葉を選べばパパの癇に障らないか、慎重に続ける。
「だから、新しい本が欲しいなって。それか映画のディスクとか……勉強の息抜きになるものが何もなくって」
はっきりと、直球にマンガが読みたいだとかこういう映画がみたいだとかそう言えたら幾分か楽なものだ。しかし、パパの様子を伺いながら話をするとき、翠はどうにも遠回しない方をしてしまう。
「わかった、考えておく」
「ありがとう……」
結局、マンガやゲーム機が欲しいとは言えなかった。例え言えたとしても買ってもらえる事はないだろう。
パパに自分の意見を言うときにはどうにも緊張してしまう。そこでようやく翠はホットミルクに口を付けた。生ぬるくて、薄い膜が口のなかに張り付く。どうにも拭えない不快感を抱きながら翠はホットミルクを飲み干し、逃げるように自室へと向かった。
先程書き終えたばかりの交換日記を引っ張り出し、下に残った僅かなスペースに『パパにお願いしたけどゲームやマンガは買ってもらえなさそう』と付け足し、泣いている絵文字も添えて置いた。パパが厳しいのは昔からだ。仕方がない。そう自分に言い聞かせて、バイトができる年齢になったらアルバイトをして好きなものを買おうと翠は密かに心に決めたのだった。
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