パパには言わない

田中潮太

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 土曜日は翠にとって退屈でしかなかった。パパも仕事でいない上に葛も休みで時間と自由だけはある。翠は暇を持て余していた。けれど今週は違った。紅がいる。昨日はドアに鍵がかかっていて開けることができなかったが、今日は開ける事ができるかもしれないと翠は朝食後にさっそくクローゼットのドアを引いた。

「紅?」

 ドアは開いた。鉄格子があり、その奥は真っ暗。紅はまだ寝ているのだろうか? 

「おはよう、翠」

 奥から紅が現れた。いつもと変わらない制服姿で。

「良かった、昨日はクローゼットのドアに鍵がかかってたから」
「たまにあるみたい。気にしないで。会いに来てくれてありがとう」

 そんな風に言われたのは初めてで翠は少しだけぎょっとした。紅といえばいつも澄ましていて、ほんの少し気まぐれ。素直に『会いに来てくれてありがとう』だなんていわれるとは思っていなかったのだ。

「う、ううん。ぼくが会いたかったから」
「誰とも話すことがないから、こうして翠がお喋りに来てくれるの、嬉しいのよ」
「パパとも話さないの?」
「話さないわ。わたしのことなんてすっかり忘れちゃったのかしら」
「……寂しい、よね?きっと。ずっと誰とも話さないなんて……」
「そうね。そうかもしれないわ。だから翠が来てくれてすごい嬉しいの」

 自分の存在が認められたように感じて翠は少しだけ誇らしかった。
翠はいつでも、それこそ無意識下ではずっと誰かに認められたいと思っていた。新しい学年に上がった際に学級代表に理候補してみたりもしたがいつも落選だった。

「紅、なんかいつもより明るいね。あっごめんね、悪い意味とかじゃ、ないんだけど」
「いいの。昨日少し考えたのよ」
「考えた? 何を?」
「翠とパパが話してるのが聞こえて来てね。翠ってば暇つぶしがないっていうから……それならわたしが友達として話し相手になれるんじゃないかって」

 紅がそう言ってくれたことが、翠はとても嬉しかった。翠も家ではずっとひとりで寂しい思いをしていたのだ。紅自らそう言ってくれたのは、心から嬉しいことで翠はなんと言っていいのかわからずぎこちなく視線を彷徨わせた。

「寂しいのは、悲しいもの……ちょっと、思い出したの。今まで冷たい態度をとってごめんね」
「い、いいよ謝らなくて! だって、出会ったばかりの人とすぐに仲良くなれないのは当たり前だし……」

 紅の態度が急変したことで翠が戸惑うのは当然だった。まるで人が変わったようで、けれど『寂しいのは悲しい』という紅の言葉は翠にも痛い程共感できる言葉だった。

「思えばずっとすぐ近くにいたんだもの。パパ以外の人とお話できる日が来るなんて思ってなかったから」
「そうなの?」
「うん。八年前……小さい頃にパパとママに大きな病院へ連れて行ってもらって、わたしは病院が怖くて泣いちゃったけど看護師さんに抱っこされてね。看護師さんが優しくあやしてくれたのを覚えてる。お医者さんもいたけど、わたしはずっと看護師さんに抱っこされていて――――そんな記憶がぼんやりとあるくらい」

 ママ。翠にはママの記憶が残っていなかった。パパによれば、ママは翠が三歳の頃に亡くなってしまったのだ。それ以上でも以下でもない。ママの事は聞くなと一蹴されてしまう。

「……ママのこと、知ってるの?」

 これ以上はやめておくといった相手に尋ねるのは気が引けたが、翠はずっとママのことを知りたかった。長い事、それは今もだが亡くなってしまった母親のこと――少しでも、ママのことを知りたいと言う気持ちはいつでも胸のどこかで燻っている。

「うん」
「ど、どんな人だったの? ぼく、ママのことは全然覚えていないんだ」
「ママはね…………翠のこと、愛してなかった」


 ジりりりりり! というけたたましい目覚まし時計の音で翠は目を覚ました。
 まだ七月の初めで暑さも本格的ではないというのにびっしょりと汗だく。目覚めは最悪だった。

「ゆめ、夢」

 自分を落ち着かせるために翠はそう声に出して呟いた。とても恐ろしい夢だった。幾度か考えた事のある可能性、ママは自分を愛していなかったのかもしれないという事。翠の勝手な妄想に過ぎなかったが、夢の中で人から、それも紅から突き付けられるというのは気味の悪いほどリアルで恐ろしかった。

 汗だくの体をなんとかしなければいけない。一旦シャワーを浴び思考もすっきりさせようと翠はベッドから出てすぐに着替えをもってシャワールームへと向かった。

 翠はシャワーを浴び終えると食パンにチーズを乗せてトースターのダイヤルを回した。半袖では少し肌寒く感じたのもありその間にカーディガンを取りに行く。そしてリビングへ戻ってくるとちょうどよくトースターが音を立てた。
 牛乳をコップに注いでからひとりで朝食を取る。テレビをつけると朝の情報番組の占いコーナーが放送されており、チーズトーストにかじりつきながらそれを眺めた。

『今日の一位は……おめでとうございます! ふたご座のあなた!』

 自らの星座が一位であったにもかかわらず翠の心は重く沈んだままだった。夢のことが頭から離れない。シャワーを浴びている最中も夢のことが頭をよぎりシャンプーとコンディショナーを間違えて手のひらに出してしまったほどだ。

『今日のふたご座さんは何をやっても絶好調! おでかけをするとよい事があるかも? ラッキーアイテムは……』

 アナウンサーの軽やかで爽やかな声も翠の耳には届いていなかった。チーズトーストをかじって、咀嚼する。プログラムされた動作のようにそれを繰り返しながら頭の中は夢のこと、母親のことばかりだった。パパにママの事は聞くなと叱咤されてからは翠も極力母親のことは考えないように努め、思い出してもすぐにその思考を取り払うようにしていた。しかしあのような形で、夢で紅に突きつけられるようなあの感じ――どうにも不快感が拭えない。なぜなら、紅が本当に『ママ』を覚えている可能性があるからだ。

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