パパには言わない

田中潮太

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 そう、ずっと考えていた。
 紅が三歳の頃を覚えているとしたら、紅はママの事を知っている可能性がある。ただ、本当に覚えていたとして紅がそれを素直に話してくれるのかはわからない。翠にとって気まぐれな女の子の考えはどうにも読めなかった。
 食器を片付けてから自室へと戻り翠は算数のノートを取り出した。ぱらぱらと捲り、その中に挟んでいた一枚のメモ用紙を取り出す。『愛に聞きたいことリスト』だ。
 そしてその一番下に『ママの事を知ってる?』を書き足し、リストの一番上へと矢印を引いた。次に紅と話す時はこのことを聞く、実行は今日の昼食後と決めた。

 パパから昼食代にと千円札を受け取っていた翠は財布にその背年札だけをいれてお気に入りのスニーカーを履いて少し離れた所にあるスーパーへと向かった。
 このスニーカーは先月の誕生日に葛からもらったもので、それも人気アイドル牧瀬愛とのコラボデザインのスニーカーだった。小学生女子の間では牧瀬愛は神聖視されていて、グッズを持っているという事はある種のステータスでもあった。芸能人にあまり詳しくない翠でも牧瀬愛が可愛く人気であるということは知っている程に。

 天気も良く気温も高すぎず低すぎずな今日は絶好のお出かけ日和だった。深緑の木々の揺れる遊歩道を歩いていく翠の足取りも心なしか軽いもので、あの悪夢の記憶も薄れつつあった。

「おーい! 翠!」

 後ろから元気いっぱいに名前を呼ばれて振り返ると、自転車に乗った柚希が減速しながらこちらに近づいてきているのが見え翠は立ち止まった。キュッと短いブレーキ音を立てて柚希が自転車を止め翠の横に並ぶ。
 これは翠にとってチャンスだった。木曜日まで待たなくとも、幼い頃のことを柚希に尋ねる事ができる。

「どこ行くん?」
「スーパーにお昼ごはん買いにいくところ」
「あ、マジで? 俺も俺も! 母さんにおつかい頼まれてさ。お菓子買っていいって言われたから」

 柚希が自転車を押しながら翠と歩く。この遊歩道を抜けて信号を渡ったらスーパーまではもうすぐだ。

「翠の父さんは今日も仕事?」
「うん。いつもよりは早く帰って来るけど、パパは忙しいから」
「やっぱ医者って忙しいんだなぁ」
「でも、看護師さんだって忙しいじゃん」
「うちの母さんは平日しか仕事行かないし、ぜってー夕方には帰って来るから」

 確かに、保育園の頃も柚希は必ず母親が迎えに来ていたと翠は思い返す。その様子を見て羨ましいと何度思った事か。

「あのさ柚希、柚希って三歳ぐらいの時のこと覚えてる? 保育園で何があったとか……」

 唐突かとは思ったが翠は話を切り出す。ここで柚希に会ったのだから聞かないわけにはいかなかった。
柚希は覚えているのか、もし覚えていたらどういった答えが返ってくるのか、何か紅のことやママのことを覚えていてくれないだろうか。心の内で翠はそう祈る。

「三歳? え~……あ、お遊戯会? でダンスやったのが三歳クラスの時じゃね? ほら、みんなで変な猫の恰好してさ。家に録画残ってたから見た記憶あるわ~」

 しみじみとそう思い出す柚希に対して、翠にはまったくその記憶がなかった。それどころか期待外れの回答に落胆した。それもそうだ、都合よく翠のほしい答えをくれる確率は微々たるものだ。
しかし翠にはお遊戯会でダンスをした記憶は全くと言っていい程残されていなかった。

「そんなのやった?」
「やったって! 色着いたビニール袋の衣装着て」

 話をしてくれた柚希には悪いと思いつつも、その思い出はやっぱり翠の欲しい情報ではなかった。しかしよくよく考えれば幼い頃の記憶なんてものは断片的なものでしかなく、大きなイベントごと――お遊戯会や家族旅行など――の事を覚えていれば良い方なのだ。

「ビニール袋と言えばこの前ゴミ袋に穴開いててさぁ……」

 柚希の身に起きた出来事に話はシフトし始め、翠はこれ以上の詮索を諦めた。柚希の身に起きたハプニングな出来事に笑い、そうして歩いている間にあっという間にスーパーへ到着した。
 自転車置き場に自転車を置きに行く柚希とまた学校でと挨拶を交わし店内へ入ろうと一歩踏み出したところ「あ!」という大きな声に驚き翠は思わず柚希の方へ振り返る。

「一個思い出した!」
「な、なに?」

 大声に驚き心臓をバクバクとさせながらも、自転車を止めて走り寄って来る柚希に注目する。

「ほら、さっきの続き。三歳クラスの、お遊戯会の!」

 早口でまくし立てる柚希に「そ、それで?」と翠は先を促す。

「翠が泣いて先生に抱っこされててさ。そうしたらお遊戯会が終わって帰る頃に翠の母さんが三歳クラスのみんなの前で謝ってんの」
「そ、そんなことあった?」

 求めていた答えが突如語られた事によって翠は焦る。そして一言一句聞き逃さないように柚希から語られる言葉に耳を澄ませる。
ママがお遊戯会に来た? 
ママの事は全く覚えていない。だというのに、そんな印象に残るような出来事があったというのだろうか? 翠は自身の記憶を疑ったが、どう足掻いても当時の記憶を思い出す事はできない。

「そうそう。なんで謝ってたかはわかんねーけど……でも大人が謝ってるのって結構ショーゲキだったからさ」
「ぼくは覚えてない、かも」
「俺もなんとなーく覚えてるぐらいだし、勝手に翠の母さんって思い込んでるだけで本当はちげーかも。じゃ! 急がねーと母さんに怒られるから!」
「あ、あぁうん……じゃあね……」

 店内へと消えていく柚希を見送ってから、翠も続けて自動ドアをくぐった。柚希の話は全く心当たりがない。ただ一つ言えるのはもし柚希の話が本当だったとして……ママが来ないと泣いていた筈がお遊戯会の終了後にママが謝っていたという矛盾だ。

 お遊戯会に、ママは来ていたのだろうか? 来ていたとして、どうして謝っていたのか? 

 知りたかった情報を得る事が出来たはずなのに翠の心は晴れなかった。むしろ疑問だけが残されてしまい、どうにも処理できないわだかまりのようになっている。柚希が話していたように、断片的でも記憶が残っていなければおかしい。なのに自分は三歳以前の記憶が少しも残っていない。

 考えても答えは出ず、結論として翠はこの疑問を友達に相談しようと決めた。玲那と、できれば紅にも。
そうして選んだ今日のお昼ご飯は冷やし中華のお弁当。千円札を出しても半分はお釣りで返って来る。けれどお菓子やジュースは買う事が許されておらず買う事ができないい為に翠はレジを抜けた後すぐに店内を出た。
 もやもやしたままスーパーを出た時、柚希の自転車はもう跡形もなく消えていた。彼が急いで買い物を終わらせて自転車を急いで漕いで帰る様子が目に浮かぶようだった。

 家に帰りテレビをつけた。最近話題の芸能人を呼んでトークをする番組――翠の中では土曜日の定番だった。冷やし中華をすすりながらぼぅっとその番組を眺める。トークの最中、ゲストの若手お笑い芸人がボケてスタジオがドっと笑いに包まれていたが、翠はあまり笑う気になれなかった。
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