パパには言わない

田中潮太

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平穏なひととき

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 あの日。紅を見つけた日。自身の内側に別の人間がいる事に気が付いた。それは自分ひとりが家にいる時、周りに他の人間がいない環境で翠は紅と会話することが出来た。紅の存在に気が付いてすぐの頃はあまり長時間対話することは難しかった。しかし次第に長時間の会話はおろか人格を入れ替え行動できるまでになった。

 翠は本を読んでいくにつれて多重人格――解離性同一性障害の主な原因は精神的ストレスであるという知識を得た。その文章に翠は違和感を覚えた。この本の記述に偏りがあるのかと他の本も読み込んだがどの本も解離性同一性障害の原因は大きな精神的ストレスである事が多いと記されている。

(精神的なストレス……というか)

 本によれば人格同士の会話ができることは稀で、発症しても記憶のないうちに人格が交代する事も多いのだという。
翠と紅には当てはまらない。ふたりは最初から会話ができ、そして今は自らのタイミングで人格の交代を行えている。

 翠はある日突然、内面に存在した紅に気が付いた。突然生まれた人格などではなく紅はずっとそこにいた。紅曰く三歳の頃にパパに、精神科医であるパパに内面へ閉じ込められたというのだ。そうなれば、もし紅という人格が現れたのだとしたら三歳以前、ほんの幼い時だ。覚えている筈がない。

(赤ちゃんの時に何かあったのかな……)

 そう解釈しようにも、確かめようがない。もしあるとすればママが亡くなった事に関係しているのだろうかと翠は考えたがママの事は知る術がない為わからない。

 そしてもう一つ、本を読んでいて気になった点があった。

 それは解離性同一性障害の治療の方法だ。どの本を見ても大抵は時間と共に症状が落ち着く場合や薬物療法、カウンセリング。或いはそれらを経て人格の『統合』を目指すのだそうだ。
 しかし精神的な病気の専門医である筈のパパが何故紅を『閉じ込める』という方法に至ったのかがわからなかった。どの本を見てもその様な治療の記載はない。

(それに……ぼくは紅を消したいわけじゃない……)

 翠が求めている事、それは『人格と共存した例』だった。今でこそ週に一度の入れ替わりを行う事で紅が外の世界との繋がりを持つことができているがそれもあくまで『翠として』だ。紅が紅として外の世界に関わる方法。翠はそれを求めている。

 結局その日は数冊の本の内容を熟読したが翠の欲しい情報はほぼ手に入らなかった。帰りの電車でも頭を悩ませたが今日の収穫は新たな疑問ばかりを産んだ。図書館でいくつかの本を照らし合わせながら紅と対話が出来れば良いと思い挑戦したがそれも不可能だった。どうしても些細な刺激や他人の気配に邪魔されてしまう。疑問に思った事をノートにまとめ帰宅しその内容を紅に相談する。方法はそれしか無いようだった。
 紅と話す為に少しだけ早く帰宅した翠はトートバッグの中身を机の上に放り出し早速自身の内側にいる紅へ声をかけた。

「ただいま」
「おかえり。図書館はどうだった?」
「それが……」

 翠はいくつかの気になった点をノートを見ながら紅に打ち明けた。

「そうね……わたしもわたしが生まれた時の記憶はないから……」
「そうだよね。でもいくつかの本を読んでみたら大抵は精神的なストレスがきっかけらしいんだけどぼくはさっぱり覚えて無くて」

 幼い頃の出来事をほとんど記憶していない翠には全く心当たりがない。

「パパがわたしを『閉じ込めた』理由なんだけど……」
「何か思い当たることがある?」
「これはわたしの予想でしかないけれど、きっと翠が幼かったからじゃないかしら?」
「どういう事?」
「ほら、小さな子供が病気になったら大人より重体になりやすいって言うじゃない? それと同じで翠がまだ小さかったからきちんとした治療が出来なくて無理矢理にでも閉じ込めるしかなかったんじゃないかしら」

 紅の考えは一理あると翠は思った。今日図書館で得た治療の方法は言われてみれば幼い子供に施すようなものではない。薬物療法もカウンセリングも三歳頃の年齢の子どもには難しいだろう。

「そう、なのかも」
「だからわたしは恐れているのよ。もしも今の歳でわたしの存在がパパに知られたら……今度は閉じ込められるだけでは済まない」

 仮に紅の考えが正しいとすれば十中八九翠はパパによって『治療』され紅は消えてしまうのではないか。それは絶対に避けなければいけない。
 パパに紅の存在を気づかれてはいけない、隠し通して共存する道を目指す。紅と生きる為の目標は翠の中で定まりつつあった。

「あ、そうだ。もう一つ気になることがあって」
「なに?」
「実際にあった患者の例を紹介している本があって。その中にあったのが人格はそれぞれ顔が違うって例。ぼくと紅は同じ顔をしてるから気になったんだ」

 人格同士で会話ができた例も翠は見つけていた。そしてその中で、内側に存在する多数の人格同士が様々な年齢や見た目をしていて互いにそれらを認識していたと、そう記されていた。
 翠と紅は出会った時から変わらず顔も背丈も瓜二つだ。翠が美容室で髪を切って帰れば意識下で対面する紅の髪も短くなっている。話し方や性格はそれぞれ違うものだが容姿だけはいつも鏡に向き合っているかのようにそっくりだった。

「それは……わたしにもよくわからないわ」
「ずっと不思議だったんだ。もしかしたらぼくたちはひとつの体を共有する双子なのかもって想像したりして」

 翠のその発言に紅は手で口元を覆いながらクスリと笑った。

「いいわね、ひとつの体を共有する双子って。わたしと翠がそっくりなのも納得できるしちゃんと別の人間って感じがする」

 自身のなんて事のない想像を予想外にも紅に気に入ってもらえた事に翠はなんだか照れくさくなったが、紅は続ける。

「そうしたら翠が姉でわたしが妹?」
「えぇ、紅の方が大人っぽいし紅がお姉ちゃんじゃない?」
「そう? それならわたしが姉で翠が妹。良いじゃない、すてきね」

 ひとつの体を共有する友人。そして姉妹。人格。翠と紅の奇妙な関係性を表す言葉はいくつでも存在した。そしてどの言葉を選び取っても翠にとって紅はもう既にかけがえのない存在だった。だからこそ、この先も紅と生きていく方法を模索している。必ず答えはあって自分は紅とずっと生きていくと翠は信じて疑わなかった。
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