パパには言わない

田中潮太

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平穏なひととき

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 窓の外に海が見えてきた。奇麗なブルーはきらきらと瞬き波は寄せては引いてを繰り返す。岩場にはカモメがたくさん止まっているのが見える。空の青さとおなじあおいろ。

「すごい……」

 幼い頃と変わらない海がそこにはあった。

「海は初めて?」
「ううん、保育園の頃に一度だけ行ったことがあるけどそれきり」
「祐二さんと?」
「幼馴染の家族が連れて行ってくれたんだ」

 人生で二度目の海。まだ季節は早かったがそれでもこれほど海の近くに来ることが出来た事が翠は嬉しかった。

「足をつけるくらいなら出来ると思うんだけど、ちょっと待ってね、車止めちゃう」

 葛が車の速度を落とし前方を確認する。そこにはコンクリートのだだっ広いの駐車場と恐らく潰れているであろうペンションの建物があった。

「ここ入っていいの?」
「大丈夫。本当に入れないときはロープ張ってあるから」

 真正面、防波堤に続く階段の前に葛は車を止めた。

「靴下は脱いでいった方が良いかも」

 そう言われ翠は靴下を脱いで斜めがけのかばんの中にしまった。素足でスニーカーを履くのは妙な気分で気持ちが悪かったが海に入ってしまえば素足なのだからと気にしない事にする。サンダルの季節にはまだ早いのだ。

「それじゃあ行こう」

 車のドアを開ける。先程まで感じていた甘い匂いはもうそこにはなく、代わりに潮の香りが鼻孔をくすぐった。翠はすっかり忘れていた。海というのは潮の香りがするという事を。それは心地の良い香りだったが、葛の香水の香りが翠の中にこびりつき残ったままだった。

 階段を上り防波堤の上へ。その下はもう砂浜だった。砂浜へ降りるためにコンクリートブロックや土で作られた階段もどきを降りてさらさらとした砂の上に着地する。映画や本で見る砂浜というのは決まって綺麗なものであるがここの砂浜は木の枝や貝殻、ゴミなどが落ちていてあまり綺麗ではないどころか素足で歩けば怪我をしそうだ。

「ちょっと寒いけど誰もいないし貸し切りだね」
「うん」

 潮風というものはべたべたと纏わりつくのだと翠は今日初めてそう感じた。以前に来たときは幼かったこともありただ楽しく遊んだ記憶しかなかった。
 べたつく潮風は不快ではなく新鮮だったが他に人がいないのは頷けてしまう上にやっぱり少し肌寒い。

「よし、じゃあ足つけに行こう。絶対冷たいよ」

 葛が悪戯に笑う。その様子は三十代の女性に似つかわしくなかったが葛の容姿が若く見えることもあり翠はそれ程違和感を感じなかった。
 お互い靴を脱いで、脱いだ靴は水に濡れないよう離れたところに置いた。細かい貝殻の欠片や木の枝を踏んで怪我しないよう足元を見ながら進む。波が押し寄せる範囲へ足を踏み入れると濡れて冷たくなった砂が足の裏にじっとりと絡みついた。

「来た来た来た!」
「わ、あっ」

 波が寄せてきたタイミングで葛は乾いた砂の方へ逃げていく。対して翠はそのままその場へ立ち止まった。するとひんやりと冷たいブルーが翠の足を覆い隠す。翠の足は数センチ程その場に埋まり、ズブズブと足が砂の中に沈んでいく感覚は奇妙だった。

「翠ちゃん冷たくないの!」

 後ろから葛が少し大きな声で問いかける。

「つめたい、けど平気!」

 足を取られている為に振り返るとバランスを崩し転びそうになったがすんでのところで持ちこたえる。
 足をつけたり波から逃げてみたり、はたまた拾った木の枝で砂浜に絵を描いてみたりと遊んでいた。翠にしては珍しくはしゃいでみたが少し無理をしていた。それは葛がこうして連れてきてくれたのだから楽しまなくてはという気持ちがあったように思う。

 しばらくして。葛と翠は防波堤に並んで座りじっと海を眺めていた。

「久しぶりにはしゃいだなぁ」

 葛も翠に付き合って楽しんでいた。互いに、この状況を楽しむ努力をしていた。

「ぼくも楽しかった。ちょっと寒いけどね」

 代り映えのしない日常から抜け出し、いつもとは違う場所で過ごすことに翠は満足もしていた。最近は紅と生きていく事で頭がいっぱいになっていたが良いリフレッシュになったのだろう。
翠は未だ葛のことがよくわからない。歩み寄りたい気持ちは持ち合わせているが、葛には謎が多い。まさに今の状況そのもののように、それらを全て放り出して上辺だけ仲良くやる事は簡単だろう。翠にその発想はない。全てを知って仲良くなるか、気まずいまま流されるかの二極だった。そして後者の場合は翠にとって負担が大きい。今日も結果として海に来ることが出来たのは良かったが断れないから来たと言えばその通りで、翠はどうにももどかしかった。

「葛さん、海が好きなの?」
「まぁね。たまに来る程度だけど……」

 どこか心ここにあらずな葛の横顔を見て翠は疑問に思った。
葛もやっぱり無理をしているのではないか。自分に合わせてはしゃいでいたのではないか。それは自分と仲良くなるために、こうして休日まで使ったのではないか。
 そう考えてしまえば今この状況は居心地が悪く何故葛がそこまでするのかと思ってしまう。もちろんこれは翠の勝手な想像だったがそう感じさせる表情や雰囲気が葛には度々存在する。

「知ってる? 死んだ後に遺灰を海にまくことがあるって」
「イハイ?」
「あぁ、亡くなった後に火葬場で遺体を焼いたらその一部が灰になって、それを海にまく事があるの」
「そういうのってお墓に入れるんじゃないの?」
「普通はね。でも遺灰の一部を海にまいたりするの。死ぬ前に『遺灰を海にまいてほしい』って本人が親族にお願いしたりして」

 葛は淡々と言葉を続ける。翠も、ただ葛が語る言葉に耳を傾けていた。

「不思議だよね。海にまいてほしいなんてお願い」
「葛さん」
「うん?」
「もしかして、誰か……友達とか親戚の人とかの遺灰を海にまいたの?」

 翠が尋ねると葛はずっと海に向けていた視線を翠に戻し、以前のような距離を感じさせる笑みを浮かべてこう言った。

「うん。あたしは会った事がない人だしあたしがまいたわけじゃないけど。でもずっと思入れがあるんだ」

 会った事がないのに思入れがある人。
 想像は真意に追いつかなかった。


 その後数か月は滞りなく過ぎて行った。
 翠は休日は図書館へ通い、一通りの本の内容で役立ちそうな箇所を抜粋しノートにまとめる。それらを見ながら紅と相談という事を繰り返した。毎週のように図書館へ通うとパパに勘繰られるかもしれないという紅の助言で一週間置き、二週間置きにするなど図書館へ行くのは不定期にし、また貸出カードを作り関係のない小説を借りるなどして紅の存在を疑われないよう過剰なまでに注意を払った。

 そうして夏休みが終わる頃、図書館にあるめぼしい本は一通りチェックを終えた。医学に関する本から実話を元にした小説まで。そもそも解離性同一性障害に特化した本は数が少なく、小説は脚色が多く参考になる部分は少ない。そして何より、人格との共存を取り扱った本は一冊も見当たらなかった。

「大丈夫よ。わたしは消えたりしないから」

 焦る翠に紅はそう言葉をかけた。しかし本を読めば読むほど、ある日突然紅が消えてしまう可能性がある事に翠は不安になっていった。

「でも、ぼくがきみを見つけた時みたいに突然消えちゃったりしたら」
「わたしは八年間ずっと閉じ込められていても消えなかった。だから大丈夫よ」
「……うん」

 紅がいくら翠を安心させようと声をかけても翠の中にある不安は消えなかった。この状況に『絶対』は存在しないと理解してしまった。クローゼットの向こうに紅を見つけたあの日から紅は翠にとって心の支えになっていた。いつもひとりで寂しい思いをしていた翠の大切な友人であり姉妹。それが例え自分と体を共有する存在だとしても、共有する存在だからこそ不安で怖かったのだ。
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