パパには言わない

田中潮太

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平穏なひととき

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 その日は紅が学校へ行き、帰宅した翠はいつものように今日の出来事や授業内容を尋ねた。しかしどうにも紅の様子がおかしく、翠は何かあったのかと紅に聞く。

「今日、一時間目が始まる前に全校集会があったの」
「夏休み明けにやったばっかりなのに?」

 紅は真っ青な顔で頷いた。

「それが、畠山先生、と言ったかしら。二年生の授業を主に受け持っている若い女性の先生なのだけれど」

 翠は畠山という教師を知らなかった。翠が知らなければ紅がよく知らないのも当然だ。

「朝、階段から突き落とされたらしいの……」
「どういうこと?」

 翠の通う学校は決して荒れている中学校ではない。どちらかといえば公立中学校の中でも全体的な偏差値が高く市内でもレベルの高い部類に入る学校だ。教師を階段から突き落とすような生徒がいるとは思えない。

「落ちた直後は意識があったそうで、誰かに背中を押されたって」

 仮に誰かが畠山という教師を嫌っていたとしても階段から突き落とすというのはやりすぎであるし立派な犯罪だ。紅から話を聞く翠も心が痛かった。

「畠山先生って、女子バレー部の顧問の先生みたいで。クラスの女子バレー部の子達が言っていたけどとても良い先生で誰かに恨まれるような先生じゃないんですって」
「クラスのほとんどはその先生を知らないけれど……でもやっぱり騒然としていたわ」
「そんなじひどいこと、誰がやったんだろう。はやく犯人が見つかると良いけど」
「わたしも驚いちゃって。実はその時に一瞬意識が遠くへ引かれる感じ……人格が入れ替わるときのあの感じがしたの」
「え、大丈夫だったの!?」

 教師が階段から突き落とされたという出来事ももちろんショックだった。しかし何より紅にそういった影響があった事に衝撃を受けた。紅に何かが起きてしまうことが一番恐ろしい事なのだから。

「えぇ。一瞬の事だったしすぐに元に戻ったわ。やっぱりまだ予期しない出来事への耐性がわたしにはないみたい」

 ストレス耐性。それは翠と紅に大きく関わる事だ。

「わたしと翠は意識して交代するようにしているけれど、何かしらの負荷がかかった時に突然入れ替わってしまうかもしれない。もしそれがパパや葛さんの前だったら……」

 紅の言うようにもしもパパや葛によって大きなストレスが突然与えられた際に突然入れ替わってしまう事があるかもしれない。その際に紅が咄嗟に翠を装う事は困難だ。

「どうしよう……あ、そうだ。そしたら週に一度じゃなくて入れ替わる日を増やす? そうしたら少しは慣れることができるんじゃない?」

 咄嗟に思いついた良いアイデアだった。翠にはもう入れ替わる事で自分が周囲から取り残されてしまうというような不安は残されていない。もっと早くにこの提案をすべきであったと翠はまたも反省した。

「でもそうしたら翠が……」
「いいよ、ぼくのことは。勉強も今だって問題ないし、友達もちゃんといる。それよりも紅はもっと外の世界と関わりを持った方がこれからの事を考えると良いんじゃないかなって」

たった週に一度ではなく入れ替わりの頻度を増やせばそれだけ外の世界に対する耐性ができる。それは今後二人で生きていく為にも必要な事だ。

「本当にいいの?」
「いいよ。遠慮しないで。ぼくたちは一心同体なんだから」

 翠はとびきりの笑顔で紅に手を差し出した。

「ありがとう。翠」

 紅は微笑んで翠の手を握り返した。しかしそれはあくまで意識下での事で、当然あたたかいだとかつめたいだとか、触覚による相手の情報はない。イメージだけの握手をふたりは交わした。それでも互いの手はしっかりと握られているように感じた。

 そして二人は不定期に入れ替わりを行う事になった。週に二度だったり三度だったり。家で入れ替わり、帰宅してまた入れ替わる。途中で入れ替わることが出来ないのは困難だったが周囲から疑われない為にもこれは正解だった。学校だけではなくパパのいない土曜日、日曜日にも入れ替わりを行うようになった。これにより紅は図書館やスーパーなどパパに許可されている外出先にも足を伸ばすことができるようになった。

 今まで以上に外との関わりを持ち、何より土日の外出は翠のフリをしなくて済む。紅が紅として外へ出る事ができるようになった。翠から見ても紅が生き生きとしているのがよくわかった。紅がこれ程までに喜ぶのならばもっと早くこうしていれば良かったと何度も思った。

「今日は楽しかったわ。スーパーへお昼ご飯を買いにいったのだけど、お弁当を袋にしまっていたら隣にいたおばあさんが福引券をくれたの。それでくじを引きに行ったらクレープ無料券があたって、初めて食べたわ。美味しかった」

 最寄りのスーパーにはテナントでクレープ屋が入っている。友達同士や家族で来ている客がほとんどでありそんな中ひとりで食べるのは居たたまれない気持ちになり翠は滅多に食べる事がない。学校の知り合いにでも見られたら、と思うと中々勇気がでなかった。

「何のクレープを食べたの?」
「いちごとバナナのクレープ。一番人気ってメニューに書いてあったから」
「ぼくも今度食べてみようかな、あまり食べた事ないんだ」

 一緒に行く事はできないが、こうして言葉を交わす事で共有することができる。翠と紅の関係は良好だった。紅葉が綺麗に色づいてきただとか、寒くなってきただとかそんな些細な事でさえふたりは共有して可笑しく笑っていた。
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