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彼女の本質
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しおりを挟むパパから帰宅を告げる旨のメールが入った後、翠は夕食の準備を進めながら作戦を練っていた。
パパが紅の存在に気が付いた可能性は高いが、万が一気が付いていないという可能性もある。クローゼットが閉ざされているのも一か月という長期間の入れ替わりに紅が疲れ果て自ら扉を固く閉ざした可能性も無きにしも非ずだ。
そこでパパの様子を伺う最善策。翠にはひとつのアイデアがあった。しかしあくまで顔に出さないように。パパはその道の専門家だ。最初は顔にさえ出さなければ、挙動を怪しまれなければ突破できる。翠は何もかもを忘れいつも通り振舞う為に必死に脳内でシュミレーションを繰り返した。大丈夫だと自分に言い聞かせた。紅の為に、翠は頑張らなくてはいけなかった。
玄関のロックが解除される音が聞こえパパの帰宅を知らせた。ここからが勝負だった。いつも通りに、至って普通に通常通り。翠は夕食を並べ終え、席に着いた。
「おかえりなさい」
パパの姿が見えて開口一番、翠は『いつものように』パパを出迎える。テレビはグルメロケ番組を映し出している。いつも通りの、翠とパパの夕食風景だ。
「あぁ」
パパもいつも通りだ。翠を怪しんでいる様はない。翠の心臓はバクバクと音を立てていたがそれを悟られないよう、テレビに顔を向け表情を見られないよう誤魔化す。少しして、パパが席に着いたのでテレビを消した。
「いただきます」
これまでに何もおかしい事はなかった。食事を口に運ぶも、作戦の事が頭をちらつき美味しい筈の料理の味がよくわからない。早く、言わなければ。用意した最善策の言葉。
「そ、そういえばね」
声が震えそうになる。でもここで怪しい挙動を見せてはだめだった。紅の為に、翠はパパを試さなくてはいけない。
「今日、同じクラスの前田くんにお礼を言われたんだ」
言った。言い切った。最善策。
事件の事をパパが知っていれば更に詳しい事がわかるかもしれない。紅の事を知ってしまった可能性。反対に紅の事に気が付いていない可能性。どちらかを探るにはこの話題しかないと翠は思った。これは賭けだった。
「何かしたのか?」
パパは事件の事を知らないのだろうか、と翠は考えたがまだ油断は出来なかった。
「前にいじめにあっていたのをぼくが助けたんだ」
それは嘘ではない。実際に紅が助けた。普段の翠ならばクラスメイトを助けるという行動はしない。その点についてもパパがどういった反応をするのか翠は予想がつかなかった。しかし紅の為に、立ち向かわなくてはならない。
「それはあいつに聞いたのか?」
翠の思考は真っ白に染まり、そして停止した。
パパは間違いなく『あいつ』と言った。咄嗟に浮かんだのは紅の顔。自分によく似た、大切な存在。それは間違いなく紅の事を指しているのだろう。パパは無口で無表情な上に不愛想だが他人の事を『あいつ』等と呼んだりはしない。
「あいつが目を覚ましたのは知っている」
パパは間違いなく紅の事を話している。そうだとわかっているのに翠は人形のように固まってしまい声を発する事も、動くこともできない。手に持っているスプーンを手放す事さえもできない。石化したように動く事ができない。
「昔のように攻撃的な所は変わっていないようだな。いじめは良くないが、あいつのことだ。それを口実に暴力を振るいたかっただけだろう」
「そんなこと、ない……!」
自分でも驚く程大きな声が出た。パパは紅を侮辱した。紅が暴力を振るいたかった? そんな筈はない。翠の知る紅は時々自身の考えに縛られ攻撃的になる事はあってもいつも正しい行いをしていた。他人の痛みにも敏感で優しい女の子だ。意味もなく人を殴るような事はない。何度も翠を助けてくれた。言葉では言い表せない、いつも翠の一番近くで翠を助け、支えてくれた存在。
紅は大切な存在だ。それ以上でも、以下でもない。
紅は誰よりも大切な存在。
「パパは何がわかるの!? 紅は、いつだって……!」
紅の良いところを、紅が自分にしてくれた事を。声を大にして言いたかった。だというのに、肝心の言葉は喉に閊えて出てこない。胸を押さえて必死に言葉を吐き出そうとする。上手くいかない。涙が目の端に浮かぶ。どうして、どうして大好きで大切な存在の紅を、侮辱されて何も言う事が出来ないのか!
「翠はあいつの何を知っている?」
その言葉に。ぐちゃぐちゃに取り乱していた翠は顔をあげた。
視界に映ったもの。それは今まで見た中で一番人間らしい表情をしたパパだった。パパがこんなにも人間味のある、それでいて悦に入った顔を翠は知らない。
「それは……」
「お友達か? もう一人の自分か? 悪いが、あいつはそんなんじゃない。あいつから聞いたんだろう? パパが、昔あいつを閉じ込めた事」
もう食事をする手は完全に止まっていた。ぎゅっと目を瞑って涙が流れないよう抵抗する。けれど目の前にいるパパがとてつもなく恐怖だった。立ち向かう筈が、立ち向かう事すら困難で、知り得る限りの紅の良いところを並べて突きつけてやりたかった。だというのに翠の口は言葉を紡ぎはしない。
「話しておくべきだったな。あいつが、どういうものか」
「……………て、よ」
掠れたような、ひどい声だった。
「やめ、てよ…………べには、そんなんじゃない…………ちがう、やめて、ものなんて、いわない、で」
絞り出した言葉。紅を守ろうと、庇おうと必死だった。涙を見せまいと堪えていたというのに翠の目からは大粒の涙が零れ出た。
ぼろぼろと涙が重力に沿って零れ落ちる。翠は服の袖でその涙を拭ったがそれでも止まらない。思うように、いかなかった。紅を守ると決めた自分が、自分で決めたことだというのに一切紅を守ることのできないこの状況を。共に生きていく為に頑張ると決めたのに、頑張れていない自分が悔しくて腹立たしかった。
「今週の土曜日に休みを取るからきちんと説明する。今日はもう部屋に戻りなさい。翠、悪かった」
翠の様子を見守っていたパパは立ち上がり、静かに涙を零す翠の頭に手を置いた。その手は大きく、そしてあたたかな父親の手だった。紅を侮辱した相手だというのに、その手は確かに父親のものだったのだ。
翠は頷いた。パパの顔を見ないまま、俯いたまま自室へと戻る。涙はそれでも止まらない。紅を悪く言われて悔しかった。きちんと反論できない自分が憎かった。紅を守る事のできない弱い自分が嫌いになった。
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