パパには言わない

田中潮太

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邂逅

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「もうすっかり秋だよね。カーデないと寒すぎる!」

 そういって葉月はネイビーのカーディガンの中に手を引っ込める。紅は小学校の卒業式の際に買ってもらったブランドもののベージュのカーディガンを着ている。校則でカーディガンの色に決まりはないが、ピンクやベージュが女子の間では人気なようでその色のカーディガンを身に着けるのが一種のステータスでもあった。

「行き帰りとかすごい寒いよね。これからもっと寒くなるのかと思うと憂鬱だなぁ」
「本当にね! 兄ちゃんに送迎してもらおうかな……」
「いいんじゃない? 頼ってみたら?」
「本当に無理な日だけお願いしよっかな」

 友人と何気ない会話をする中学一年生の秋のこと。
 紅は自分を取り戻すことができた幸せを噛みしめていた。これからどう生きていこうか。ひとまずの幸せ。今までは学校に登校する度に翠の演技をしていたがもうその必要はない。しかし突然人が変わったようになってしまうのも逆に自分の立場を悪くしてしまう。最悪、いじめの対象になってもおかしくはない。
 そこで紅は徐々に翠の演技を止めていくことにした。

「おはよ~」
「葉月。おはよう」

 特に入学時から仲良くしている葉月相手にいきなり性格が変わったように接するのと何かあったのかと勘繰られてしまう。それに紅はどちらかといえば葉月を評価していた。女子特有のネチネチとした面倒くさい面がない、さっぱりとした性格。かといって空気が読めないわけではなく、誰とでも仲良くなれる。このまま葉月との関係を続けておくのは今後の学校生活においても重要なものになると紅は考えていた。
のも楽しかった。今までは交代の頻度もそれ程多くないが為に友人といっても紅からすればそれ程親交は深くなく、あくまで翠の友達と接している気分だった。
 しかしこれからは違う。自分自身の友達が出来る。本当の意味での友人を作ることができるのだ。


 目下の一番の課題は家政婦の葛とどう接するかだった。葛は恐らく自分の存在を知っている。葛は翠にとても好意的だ。自分が正体を明かして父親のように嫌悪される事も予想できた。しかし今後において隠し続ける事は不可能だろう。それならば早急に正体を明かすべきだ。

 紅はそう決めた。葛にはひとまず正体を明かし様子を見る。今までの翠に対する態度を見るに嫌悪はされても酷な事を言う性格ではない――そんなように見えた。
 少しだけ緊張していた。エレベーターで上へ昇りながら。
 普段通りであれば帰宅すれば葛が翠を待っている。しかし今はもう翠ではない。話の切り出し方も重要だった。カードキーで玄関のドアを開ける。重いドアを引く。玄関にあるスニーカーは葛のもの。

「た、だいま」

 いつも翠がするように。

「おかえり」

 リビングの方から声が飛んできた。紅はその場で息を吐き、吸った。相手の出方が予想できないのは不安だったが行くしかなかった。
 リビングに足を踏み入れると葛はイスに座り何かをノートに書きこんでいた。

「あの」

 紅は緊張で顔が強張るのを感じる。

「ん? どうしたの?」
「はじめまして」

 自分の思ってもいない言葉を突然投げかけられると人は固まる。紅はその間をじっと見ていた。葛がどう、こちらに触れてくるのかを。

「みどり?」
「わたしはみどりじゃ……」

 そう言おうとして口をつぐんだ。葛は今まで、翠の事を絶対『ちゃん』付けして呼んでいた。呼び捨てにした事はただの一度もない。

「本当の、翠でしょ? それなら初めましてじゃないよ。昔に何度も会ってる」

 葛は紅を本当の翠だと認識した。そして昔に会った事があるとも。それは紅の予想外だった。

「そう……だけど」

 紅の方が言葉に詰まる。

「懐かしい、久しぶり。とりあえず着替えてきたら?」

 言われるがままに紅は頷き、自室へ入り着替えを取り出す。その間ずっと考えていた。先程の葛は自分を嫌悪している訳でも敵意を向けている訳でもない。かといって、好意的という訳でもない。相手も自分の様子を伺っている。
葛は自分の存在を快く思っていない筈だ。しかし不快感を露にしているようには見えない。翠の味方だとは思っていたが自分の敵のようにも感じられなかった。

「座って」

 葛の正面のイスを勧められ座る。未だ緊張が残っていた。

「いいよそんな緊張しなくて。あたしは翠の事を知ってるから」
「わたしの事、嫌ってる?」
「まさか」
「翠にはわたしを避けてたって」
「翠を? 違う。あたしが避けていたのは翠ちゃんの方」

 翠を避けていた。害のない翠を避ける必要性があるとは到底思えなかった。

「なぜ?」
「裏の人格である筈の翠ちゃんがあなたを差し置いて何年も、自分が主人格であるかのように振舞っていたから」

 簡潔に理由を述べて、葛は一言付け足した。

「あたしにもかつてあと二人、人格がいたの。今はもう、いないけど」

 同じ障害を抱えていた。そして自分の味方であるかのように振舞っている。しかし以前翠に友好的に接していた態度を見ると本当かも怪しかった。八方美人。どちらにも良い顔をしているようにも見える。
 紅は慎重だった。自分の全ては明かさない。まずは相手がどれだけ自分の事を知っているか探ろうとした。しかし、それは無意味な事だとすぐに発覚する。

「翠は私の通う大学に何度も来ていたから治療の経過も知ってる。祐二さんが翠ちゃんの方を本当の娘だと盲信し始めたのも」
「わたし、前にパパと会ったよ」
「えっ、いつ?」
「小学生のとき。ママを殺したのはわたしだって言われた」
「そっか、祐二さんからしてみれば……うーん、でも」

 紅は疑問を感じる。
 文字通り母親を殺害したわけではないが、母親を追い詰める一端は担っていたのだと紅は感じていた。しかしそれも紅の生まれ持った質のせいで、紅が意図的に母親を死に追いやった訳ではない。
 本音を言えば母親を死に追いやった事に罪悪感も何も、紅は感じていない。

「祐二さんは翠を悪者にするかもしれないけど、でもあたしは翠の味方だし、良かったらなんでも相談して」
「なんでそこまで? だって、あなたはただうちで働いてる家政婦ってだけでしょ?」

 紅は疑い深い。翠のように言われたことをなんでも無条件に信じることはしない。そして翠にも良い顔をしていた事を紅は知っているのだ。

「……さっきも言ったようにあたしも解離性同一性障害を患っていたの」
「だから、気持ちがわかるってこと?」
「それもあるけど、それだけじゃない。あたしは元々精神医学の勉強をしていて、そこで出会ったのが翠だった。あたしが以前患っていた病気と同じだからって紹介されて。あたしはあなたを救いたかった。でも、それどころか……」

 本来の人格である紅は閉じ込められ、もうひとつの人格である翠が表に出た。そして母親は紅の残酷な攻撃性や衝動性を自分の責任だと感じ心を病み自死の道を選んだ。
 それは傍から見れば悲劇だった。

「わかった。ありがとう」

 紅は好意的な笑顔で返した。悲劇のヒロインだと思われても構わなかった。
 同情される気はさらさらない。しかし頼りになる大人がいるというのは紅の気持ちとしても余裕を生む。あくまで駒のひとつとして。紅は葛の好意を受け取る事に決めた。
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