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邂逅
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紅は以前よりもずっと焦りを感じていた。今は最低週に一度の交代を提案し、その通りにしているが本音を言えば交代の日数を増やしたかった。このまま膠着状態が続けば紅は自分を取り戻す事ができない。
苛立ちを感じていた。自分を取り戻したいとただそれだけを願っているのにどうしてこうも上手くいかないのか。長期戦に持ち込むと決めたのは自分だが、どこかのタイミングですっかり翠が消えてしまわないかと考える。
爪を噛もうとし、やめる。上靴に履き替えようとして、上手く踵が靴に収まらず苛立ちを感じた。朝からどうにも調子が悪かった。全身からびりびりと質の悪い電気が流れだしているかのように殺気立っていた。
このままではいけない。今までが悠長に構えすぎていた。途端にそう思うようになったのは葛が翠との仲を深めているからだ。敵が増えたのだ。こちらも何か対策を練らなくてはならない。
(あぁ、もう!)
どうすれば良いのか。ノイズが流れて止まらないまま教室へ向かう為に階段を上る。随分と足が、体が重く感じた。
二階から三階へ続く踊り場に差し掛かった時、二階の廊下から何やら教師が生徒に注意しているのか怒っているのか、ともかくキンキンと耳に響く声が聞こえてきた。紅は自分こそ誰かこの感情をぶちまけたくて堪らなかった。教師だからといって何故朝から生徒を怒鳴る事が出来るのかと見当違いの怒りさえ覚える。
そこで説教が終わったのかばたばたと一人分の足音が近づいてくる。
紅の脳内に、ふと自分の気持ちをすっきりさせる為の画期的なアイデアが浮かんだ。
それを実行すれば自分は無敵になれる、そんなアイデアが。
階段の影に隠れ、足音がこちらへ近づいてくるのを待つ。職員室は一階にある。この足音が怒声を放っていた教師のものであるならば下へ降りていくだろう。
予想通り、足音が階段を下っていく音を聞いた途端紅は影から飛び出し階段を駆け下りた。踊り場を曲がって教師の背中を捕えた途端、思い切りその背中を突き飛ばした。生きている人の背中。自分はすぐに方向を翻し上の階へと逃げた。万が一にも見られてはいけないと察し、教室のある四階を通り越して屋上へ続く階段へと逃げる。当然屋上に鍵はかかっているが、屋上に続くドアの前で、階段を駆け上がった為に乱れた呼吸を整えた。
随分とすっきりした気分だった。
手に残る他人の肉の感覚など気にならない。
簡単なストレス発散。
自分の手で誰かに危害を加える事が出来る。自分が無力ではないという証明なのだ。自分は生きていて、これは自分の体で、自分の意思がある。
これは生まれ持った性だ。罪悪感など感じる訳がなかった。
教師が階段から突き落とされたと全校に知れ渡っている事を翠に話さないわけにもいかず、その日に起きた出来事として翠に報告をした。その際、あまりの惨い出来事に心を痛め意識が遠のいたと大げさに嘘をついた。今までに数回、自身の衝動性や攻撃性が抑えられず翠に不審がられているのだからこれを機に良心を見せておこうという魂胆があった。
案の定、翠は騙された上に紅がそれとなく発した『予期しない出来事に耐性がない』という発言に加えごり押しで『何かしらの負荷がかかった時に突然入れ替わってしまうかもしれない。もしそれがパパや葛さんの前だったら……』とまで発言した事に反応を見せた。この状態が続けば危険な目に合うかもしれないと示唆すると驚くほど簡単に『交代の日数を増やす』事を提案してきた。紅は内心ほくそ笑んだ。そして翠の単純さをまたも嘲笑った。
翠は思っているよりもずっと単純で、簡単に動かせる。自分だけの人生を取り戻す日もそう遠くはないだろう、と。
何が起きても翠はあっさりと紅に騙された。例えば弱っていた野良猫にとどめを刺した時。制服のブラウスの袖が血で汚れてしまった。どこにも怪我はないとなれば月経の血で汚れてしまったと言えば大抵の人は良くない事を聞いてしまったと深くは聞かない。周囲に袖の汚れを指摘されると紅は月経の血がついたと説明し、その事は翠に報告しなかった。
しかし翌日、クラスメイトが翠にその後大丈夫かと心配の言葉をかけ翠は紅に問いかけた。初潮もまだだというのにどこでブラウスを汚したのか? と。
こういった場面で嘘をつくのは紅の得意分野だ。死んでいた野良猫を見て心を痛め安全な場所に『運んだ』事にし、翠に黙っていた理由も翠を気遣った上での事にする。
翠を騙すには造作なかった。嘘をつく事も人を騙す罪悪感もないのだから。それに翠は完全に紅を信頼していた。頼りになる、唯一無二の存在であると本気で思い込んでいる。心の壁はとっくに薄くなっていた。紅の意思で人格を交代し体を取り返す事も簡単に成せるように思えた。
紅は試した。翠の意思が関係なく、人格の交代が出来るのかどうか。
結果は明らかだった。
ついに紅は自分の体を自分の意思で取り戻すことが出来た!
これも今までいかに心の境目を曖昧にするか長い時間をかけて信用させた積み重ねの賜物だった。翠から紅への境目は曖昧だとしても、紅から翠への境目はこれ以上ない程にはっきりとしている。
完全勝利。しかし紅はまだ油断が出来なかった。翠の意思でこちらを乗っ取れないにしても強いショックが起きれば無意識に入れ替わる可能性はある。内側に翠はまだ存在するのだ。
ゆるやかに翠を殺していく。内側に潜む翠を、殺害する。
次なる目標に向けて、紅は一歩を踏み出した。
苛立ちを感じていた。自分を取り戻したいとただそれだけを願っているのにどうしてこうも上手くいかないのか。長期戦に持ち込むと決めたのは自分だが、どこかのタイミングですっかり翠が消えてしまわないかと考える。
爪を噛もうとし、やめる。上靴に履き替えようとして、上手く踵が靴に収まらず苛立ちを感じた。朝からどうにも調子が悪かった。全身からびりびりと質の悪い電気が流れだしているかのように殺気立っていた。
このままではいけない。今までが悠長に構えすぎていた。途端にそう思うようになったのは葛が翠との仲を深めているからだ。敵が増えたのだ。こちらも何か対策を練らなくてはならない。
(あぁ、もう!)
どうすれば良いのか。ノイズが流れて止まらないまま教室へ向かう為に階段を上る。随分と足が、体が重く感じた。
二階から三階へ続く踊り場に差し掛かった時、二階の廊下から何やら教師が生徒に注意しているのか怒っているのか、ともかくキンキンと耳に響く声が聞こえてきた。紅は自分こそ誰かこの感情をぶちまけたくて堪らなかった。教師だからといって何故朝から生徒を怒鳴る事が出来るのかと見当違いの怒りさえ覚える。
そこで説教が終わったのかばたばたと一人分の足音が近づいてくる。
紅の脳内に、ふと自分の気持ちをすっきりさせる為の画期的なアイデアが浮かんだ。
それを実行すれば自分は無敵になれる、そんなアイデアが。
階段の影に隠れ、足音がこちらへ近づいてくるのを待つ。職員室は一階にある。この足音が怒声を放っていた教師のものであるならば下へ降りていくだろう。
予想通り、足音が階段を下っていく音を聞いた途端紅は影から飛び出し階段を駆け下りた。踊り場を曲がって教師の背中を捕えた途端、思い切りその背中を突き飛ばした。生きている人の背中。自分はすぐに方向を翻し上の階へと逃げた。万が一にも見られてはいけないと察し、教室のある四階を通り越して屋上へ続く階段へと逃げる。当然屋上に鍵はかかっているが、屋上に続くドアの前で、階段を駆け上がった為に乱れた呼吸を整えた。
随分とすっきりした気分だった。
手に残る他人の肉の感覚など気にならない。
簡単なストレス発散。
自分の手で誰かに危害を加える事が出来る。自分が無力ではないという証明なのだ。自分は生きていて、これは自分の体で、自分の意思がある。
これは生まれ持った性だ。罪悪感など感じる訳がなかった。
教師が階段から突き落とされたと全校に知れ渡っている事を翠に話さないわけにもいかず、その日に起きた出来事として翠に報告をした。その際、あまりの惨い出来事に心を痛め意識が遠のいたと大げさに嘘をついた。今までに数回、自身の衝動性や攻撃性が抑えられず翠に不審がられているのだからこれを機に良心を見せておこうという魂胆があった。
案の定、翠は騙された上に紅がそれとなく発した『予期しない出来事に耐性がない』という発言に加えごり押しで『何かしらの負荷がかかった時に突然入れ替わってしまうかもしれない。もしそれがパパや葛さんの前だったら……』とまで発言した事に反応を見せた。この状態が続けば危険な目に合うかもしれないと示唆すると驚くほど簡単に『交代の日数を増やす』事を提案してきた。紅は内心ほくそ笑んだ。そして翠の単純さをまたも嘲笑った。
翠は思っているよりもずっと単純で、簡単に動かせる。自分だけの人生を取り戻す日もそう遠くはないだろう、と。
何が起きても翠はあっさりと紅に騙された。例えば弱っていた野良猫にとどめを刺した時。制服のブラウスの袖が血で汚れてしまった。どこにも怪我はないとなれば月経の血で汚れてしまったと言えば大抵の人は良くない事を聞いてしまったと深くは聞かない。周囲に袖の汚れを指摘されると紅は月経の血がついたと説明し、その事は翠に報告しなかった。
しかし翌日、クラスメイトが翠にその後大丈夫かと心配の言葉をかけ翠は紅に問いかけた。初潮もまだだというのにどこでブラウスを汚したのか? と。
こういった場面で嘘をつくのは紅の得意分野だ。死んでいた野良猫を見て心を痛め安全な場所に『運んだ』事にし、翠に黙っていた理由も翠を気遣った上での事にする。
翠を騙すには造作なかった。嘘をつく事も人を騙す罪悪感もないのだから。それに翠は完全に紅を信頼していた。頼りになる、唯一無二の存在であると本気で思い込んでいる。心の壁はとっくに薄くなっていた。紅の意思で人格を交代し体を取り返す事も簡単に成せるように思えた。
紅は試した。翠の意思が関係なく、人格の交代が出来るのかどうか。
結果は明らかだった。
ついに紅は自分の体を自分の意思で取り戻すことが出来た!
これも今までいかに心の境目を曖昧にするか長い時間をかけて信用させた積み重ねの賜物だった。翠から紅への境目は曖昧だとしても、紅から翠への境目はこれ以上ない程にはっきりとしている。
完全勝利。しかし紅はまだ油断が出来なかった。翠の意思でこちらを乗っ取れないにしても強いショックが起きれば無意識に入れ替わる可能性はある。内側に翠はまだ存在するのだ。
ゆるやかに翠を殺していく。内側に潜む翠を、殺害する。
次なる目標に向けて、紅は一歩を踏み出した。
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